ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

 『邂逅』の森は素晴らしい場所だ。
 二度と会えない者にも会え、上手く使えば人生を変える事も出来る。だが幾らなんでも、この森は不法投棄を認めすぎだと思う。
 記憶、声、影、涙、絆、種族。恐らくは他にも何かあるだろう。ウルグナの知った事ではないが、ここには、この場所にはきっと色々なモノが捨てられている。大事なものであれ、どうでもいいものであれ、それだけは確かなはずだ。
 しかし、制限が無さすぎる。
 まさかデュークが、『素性』そのものを捨てているとは。所謂、発想の勝利という奴であり、本来ならこちら側は、負けを認めざるを得なかった。この石が無ければ、最終手段―――森を消し去るという行為に及んでいただろう。森を消したくは無いため、本当の本当に最終手段だったが、そうならなくて何よりだ。
―――『素性』とは何か。
 奴隷商人ならば、その時の記憶。殺人鬼ならその時の記憶。素性とは要するに、裏の顔のようなものだ。
 そして今回、デュークはそれを捨てた。だからこそ、どんな場面、事情においても、自分のしている事を、誰にも気づかれない。当然だ。自分の事に一番詳しい自分が忘れているのに、どうして他人である相手がそれを分かると言うのか。
 つまる所、デュークは奴隷商人という事を忘れたまま、奴隷商人の仕事をやっているという訳だ。これだけでは何が何やらさっぱり分からないが、ここで魔力喰の石の出番だ。これは魔力を少量喰らう事でその魔術を分析するというもの。
「―――つまり、ですね。デュークさんは素性を捨てる寸前、自分に魔術を掛けたんですよ。えーと、この魔術は、『冥塗ヘイズオウス』という魔術ですね」
 聞いた事も無い魔術名に、二人が揃って首を傾げた。「『冥塗ヘイズオウス』?」
「この魔術は自分の記憶を肉体に刻印し、その記憶が失われても魔力の供給さえ続けば、その行動を繰り返す、というモノですね」
 その言葉の後に、ふむ、とフィネアが言葉を漏らした。
「それ程の魔術を、騎士団わたしたちが知らない筈はないのだが……」
 騎士団は自国の安全の為、危険魔術と判断された魔術(どんな基準で決めているかは知らないが、ウルグナに言わせれば殆どの攻撃魔術は危険である)が記載されている魔導書を、回収している。それはウルグナが騎士だった時代から変わっていない。だからこそ、ウルグナも気づけなかった。危険な魔術は、全て把握していたため、こんな事はありえないと思っていた。
 しかし魔力の量、色。全てが既存の魔術と合致しない。フルシュガイドは最強の都市、流通する魔導書も世界一だ。むしろ流通していない魔導書を見つける方が難しい程度には。
 考えたくもない可能性だが、人間はまさか、神を真似ようとでもいうのか。
「私もこんな魔術は見た事がありません。まあとりあえずは人造魔術とでも呼ぶべきなのでしょう」
「人間が、魔術を造るだと? 馬鹿げてる」
「ありえない話ではないですよ、かつて最強の種族と呼ばれた魔人に立ち向かったのですから」
 皮肉気に、ウルグナが薄ら笑いを浮かべた。
「私はそんな話を聞いた事がないが」
 人造魔術。それはよく言えば、手作り、悪く言えば神の御業を模倣しただけの贋物だ。神造魔術である『悪闢』とは比較対象にすらならない、ゴミだ。
 だが、一応は模倣物。それ自体の性能は、既存の魔術をも上回る。
 ウルグナ達になじみ深い従来の魔術は精霊が作ったらしいが、それを考えると、どうやら人間は精霊を超えたらしい。
 流石、『最強の種族』だ。
「私も存じ上げませんが、しかし実際にここに存在しているんです。魔術を造るなんて、砂上の楼閣に過ぎないものだと思ってましたが、その実岩上の楼閣だったという訳ですね」
「な、何を言ってるんだ?」
「昔の言葉ですよ。決して異邦の地の言葉とかそういう訳では」
 フィネアが困惑気味に尋ねるのも、無理はなかった。これは幻の国、ジバルに伝わる言い回しだ。ジバルの位置を知る者など、この世に十人といない上、四人はウルグナの下にいるので、残りの枠は精々三人か五人か。或いはゼロかもしれないが、とにかくフィネアが知る筈のない言葉だった。
 フィネアが半目でこちらを睨みつけてくるが、視線を逸らして誤魔化した―――が、ある事を思いつき、直ぐに戻した。
 ウルグナの眦が裂けんばかりに見開かれる。
「そんな事よりエリさん、フィネアさん、私は天才ですよッ」
 突然、そんな事を言いだされてもと、二人は首を傾げざるを得なかった。
「デュークさんの行動が、あの魔術に依存しているのなら、魔術を消してしまえばいいんですよ」
「……魔術を消す?」
 フィネアは頭痛でもするのか、額に手を当てた。
「……説明が高尚過ぎて、私達には理解できないみたいだ」
「仕方ないですね」とウルグナ。
「対極の属性ぶつけて、消し去ろうっていう事ですよ」
「お前は皮肉も通じないのか……いいか、考えてもみろ。火の弱点は水、光の弱点は闇。それは学校で習えるレベルの常識だが、『人』だぞ? 対極なんてある訳がない」
 今更だが、魔術には相性がある。
 火は水に、光は闇に、風は雷に。
 それぞれ対局の方向に位置する属性であり、その属性同士なら、同位魔術は打ち消す事が出来る。だが、今回はそんな単純な話ではない。
 人の対極とは如何なる属性だろうか。火? 水? 風? 雷? 無? 土? 光? 闇? 正解はどれでもない。
 というかそもそも、常識に当てはめる必要が無い。発想の勝利なのだから。
「いいえ。全ての事象、物質において対極は存在しています。火は水で、光は闇で、人は―――『神』ですよ。差し当たっては『神』造魔術とでも呼ぶ事にしますが、ともかくそういうものは実際に存在しています。ここには無いでしょうが……私の記憶が正しければ、フルシュガイドに在ったはずですよ」
 二人の視線が、フィネアに注がれると、フィネアは左手と首を激しく振って、否定する。
「いやいやいや! 私はそんなものは知らないぞ。例えあったとしても、私は星の数程もいる記録係の一人でしかないからな。むしろ私としては、そんな情報を御存じな副団長様に所在を聞きたい所だがね」
 見事な切り返しに、ウルグナは僅かに動揺した。そのせいなのかもしれない。ウルグナの口がつい滑ってしまったのは。
「私は存在を知っているだけであり、位置を知っている訳ではありませんよ。今騎士団で、位置を知っている者と言えば……団長とラハルくらいでしょうか」
 その言葉に、フィネアは怪訝な顔を浮かべた。
「お前、何時の話をしているんだ」
「え?」
 記憶を遡り、間違いに気づいた時には、既に遅かった。そうだ。ラハルが今も総括長であるとは―――限らないのだ。動揺していたので、気付かなかったが……やってしまった。
 フィネアの視線が、不審なモノを見るような視線に変わった。
「ラハルさんは死んで、今はフルージさんが教会騎士団団長だぞ? ……お前、本当に騎士団か?」
 芝居がかった動きで、ウルグナは顎に手を当て、頷く。
「……私も歳ですかね」
「バカ言え。お前はどう見てもまだ三十代だろ」
「ああ……『そうでした』ね」
 二人の視線を真摯に受け止めながら、ウルグナは今しがた知り得た事実に、驚きを隠せなかった。
 まさか、彼が死んでいたとは……さすがに予想外だった。こんな事になるのなら、大聖堂にいる間に、チロチンにでも調査頼んでおくべきだっただろう。
 しかしながら覆水盆に返らず。これでウルグナに対する信頼が少し下がってしまった。次からは、下手に記憶を参照して名前を挙げない方がいいだろう。
 一応得るモノはあったから怪我の功名とでも言うべきだろうが。
「ま、まあその話は置いといて、ともかくそれには手が出せませんか」
 フィネアはウルグナを一瞥した後、腕を組んだ。
「……当たり前だ。仮に使えたとしても、ここからフルシュガイドまで何時間、いや何日掛かると思ってる」
「まあ、それもそうですね」
 現実的な案でなかったことは分かっていたのであっさり流す。
 今までの流れをまとめよう。
 デュークは、記憶を失いながらも、裏稼業の奴隷商人を続けている。
 記憶が無い為、いくら問うても、答えが得られない。
 ここから導き出される結論は―――魔術さえ消せば、デュークは一般市民に元通り。
 ではどうやって魔術を消し去るか。
 フィネアを利用できない以上、ウルグナが神造魔術を行使するしかないのだが……正体は隠しておきたい。
 導き出される結論は……
「まずは、馬車を探して、被害を食い止めましょ―――」
 ウルグナがそこまで言った時、突如部屋の扉が開かれた。音に驚き反射的に振り向くと、そこには、肩から腰に掛けて、大きな切り傷を負った兵士がいた。
 兵士は扉を開ける事で力を使い果たしたのか、おぼつかない足取りで二、三歩近づき、ウルグナの頭上に崩れ落ちた。
 邪魔っけな死体を払い、ウルグナが立ち上がる。
「どうやら、砦の中で何かが起きているようですね」
「冷静に言っている場合ですか!」
 エリが武器を取り、誰よりも早く、部屋を飛び出した。
 しかし、流石は隊長クラスの人間。死体の部下だろうと、決して雑に扱ったりはしない。
 ウルグナなら、蹴飛ばす所だが。
「私はデュークさんの所へ行ってきます。貴方はワドフさんの所へ」
「分かった」






 地獄を体現したかのようなそこの名は、リスドアード砦。突破不可能の砦とも言われていた、最硬の砦だ。破れる者など殆どいない。
 だからこそこの国は、総合力最強のフルシュガイドにも狙われる事はなく、常に平和を保ってきた。
 だが今はどうだ。至る所に、血、血、血。ある者は首を穿たれ、ある者は胴体を両断され、ある者は四肢を分解された上で、乱雑に組みなおされているなど、悪逆非道を謳う歌でも流れていれば最高に成り得る光景が広がっている。
 一言で表せば『凄惨』であり、むしろこれ程表現がぴったりなものは、見つからなかった。
 カテドラル・ナイツならばいざしらず、並の人間がこの砦に存在する歩哨の数十人を、こんなにあっさりと、惨殺出来るはずがない。これは……一体?
ウルグナがデュークの部屋に来ると、案の定、デュークの姿は無かった。代わりに置かれていたのは、彼の服、だった。
 服を手に取り、魔術を行使―――やはりか。
 服を放り投げ、部屋を出た直後に、黒い塊とぶつかった。勝手に吹き飛ばされた塊を見ると、フィネアだった。
「フィネアさん、どうでしたか」
 フィネアは剣と盾を取り出し、ウルグナに差し出した。それを手に取って、様々な角度で見てみる。「これは?」
「知ってるだろう。ワドフの剣と盾だよ……そっちは?」
 ウルグナが首を振ると、フィネアは「そうか」と言い、来た道を戻り始めた。フィネアは気づいているだろう、デュークとワドフがどこへ行き何が起きるのか。
 しかし、幾ら分かっているとしても、あそこへはウルグナ一人が行くべきであり、むしろ大人数では邪魔なだけである。
 フィネアの背中を追って数分。不意に前方の扉が開いた。エリだ。
「エリさん、何を確認しに行ったのですか?」
「……いえ。特に何も」
 何もない訳がないだろう。特にこういう場合は。
 エリの顔は暗いし、その上、エリの部屋だけは綺麗そのもの……何をどう見ても何かあったように思えるが、今は聞かないでおこう。
 エリが気づいたように顔を上げた。
「そうだ、デュークさんと、ワドフさんは?」
「どっちもいないぞ。どこに行ったかは検討がついているが……」
「そうなんですかッ? だったら早く行きましょう。ワドフさんが危ないですよ!」
「あー、うん、そうなんだが……な。あそこは何というか……」
 フィネアの表情は、良いモノではなかった。当然と言えば当然。他人の思考なので分かっているとは言い切れないが、フィネアが考えている所と、ウルグナの思う場所は合致している。それは反応から見ても明らかだ。
「『邂逅の森』ですよ」
「えッ」
 フィネアを一瞥し、表情を確認。
「何故デュークがこんな事をし出したのか、私には想像は付きますが想像でしかありません。ですが今まで分かっている事から考えて、彼は『邂逅の森』にいるでしょう。それこそ、殆ど確実に、ね」
「じゃあ、今すぐ助けに行かないと……!」
 感情が昂りっているエリの肩を掴み、ウルグナはただ、その瞳の奥を見据えた。
 エリは最初こそウルグナの目線など気にも留めず、喚きたてていたが、その目線に気づくと、自分が如何に焦っているかを自覚した。
 エリの表情が落ち着きを取り戻した所で、ウルグナは告げる。
「貴方は何を聞いていたんですか? 私達三人があの森に突入した所で、どうせ三人とも会えなくなるだけですよ。フィネアさんもそうですが、やめておいた方がいい。場合によっては―――全てを失いますよ」
「それはウルグナさんも同じはずですッ。どうして私達だけが駄目なんですか。ウルグナさんだって、同じ『人間』じゃないですか!」
 エリの言う事は尤もだった。フィネアも、エリも、そして『今』のウルグナも、同じ人間だ。二人が駄目ならば、ウルグナが良いという道理があっていいはずがない。
 正しい。正しいのだ。しかしその言葉は正しすぎる。その言葉が絶対的な正論故に、彼女を言葉で説得しようとはきっと誰も思わない。
 この時殆どの人間は、ここで二人の承諾を得ずして突っ込むか諦めるかするだろうが、ウルグナだけ……どちらも取らなかった。
「私も、同じ『人間』ですか。確かにそうでしょうが、しかし私と貴方達は決定的に違いますよ。だって―――」
 ウルグナは徐に右手の薬指を加え、歯を立てた。そして―――不快な破砕音と共に、指を食いちぎった。何の躊躇いもなく、一瞬で。
「な、何をしてるんですか!」
「な、にを……?」
 指からは鮮血が滴っていた。切断面には白い何かが見えており、それが骨だと分かると、胃液が戻るような強烈な不快感が、二人を襲った。
 幾らその前に異常な行動を取っていようが、戦地を見慣れた人間ですら、この反応だ。平和ボケした人間ならば、失神は確実か。
「例え指を食いちぎってでも何かを成し遂げようとする覚悟が、貴方達にはない。そんな人間が、『邂逅の森』に入ったら、どんな事がおきるか」
 口だけなら、何とでも言える。だがウルグナは、たった今ここでその『覚悟』を証明したので、誰も何も言う事が出来なかった。
 ウルグナの薬指からはまだ血が滴っている。血は何度も見たが、先程の行為の後という事もあって、不快さは従来の何倍、或いは何十倍だ。
 言いようのない震えが、エリの全身を駆け巡った。
「い……たくないんですか?」
 ウルグナが薬指を吐き出し、握りしめた。
「痛いですが……今までの痛みに比べれば大した事はありませんよ」
 ウルグナの過去には絶対に何かある。それは幾ら察しが悪くても、察せてしまうものだった。
 しかし、それが如何なるものか、知りたくは無かった。それを知ってしまえば、きっとエリは呑まれるだろうから。
 ウルグナが切断面を近づけた。
「さて……何だかんだ言ってしまいましたが、結局の所、どうしますか? 私の魔術によると、どうやら兵士は例外なく全員が既に息絶えています。もはやここは空の砦同然。そんな時に敵が来たら……」
 間違いなく突破される。
 口には出さなかったが、エリにはウルグナの言いたい事が分かっていた。砦を離れる訳には行かないのは分かっている、でも、ワドフを探さなくては。
 自分でも気づかぬうちに、エリは下唇を強く噛んでいた。皮膚が裂け、血が出た頃に、ようやくそれに気が付いた。
 ああ、自分は無力で在りたくないのだ、と。
 この砦を任され、協力を依頼され、エリの心は満たされた。ああ、誰かが頼ってくれている。自分は……自分が強くなった事は、決して無意味ではなかったのだ、と。
 しかし、今の状況はどうだ。曰く兵士は皆殺しで、ワドフとデューク、彼の消息すら不明。
 果たして、本当に無意味ではなかったのか。
「私は……!」
 無力にだけはなりたくない。
 ウルグナが平淡な声で彼女に告げる。
「貴方が何に対して感情を昂らせているか、やはり私には分かりかねますね。しかし―――少なくとも、私は貴方を頼っている」
「え」
「この砦を守るには、隊長クラスの貴方が適任なのは、言うまでもありません。それに邂逅の森に大人数で入るなど愚の骨頂。そんな事をすればそれこそ貴方は無力ですし、何より私はもう『供物くすりゆび』を作ってしまいましたから。私が行かない道理はないでしょう」
「……」
 ウルグナは砦の出口へと歩いて行った。もはや誰も付いていく事が出来ない。フィネアすらも、その存在の圧に恐れをなし、その場から動く事は出来なかった。








 森からはどす黒い瘴気が噴いていた。魔力の塊である事は素人でも分かる辺り、その濃度が理解できる。少しでもその気にあてられれば、頭痛は確実だろう。
 ウルグナも例には漏れていないが、その程度の事など腐る程味わってきた。今更恐れる事は、許されない。
 ウルグナが森へと足を踏み入れると、直後に現実が変容した。先程まで何も居なかった空間には、多種多様な魔物が出現。牙を剥き、今にも襲い掛からんとしている。
 気づけば薬指は、消えていた。
 魔物どもは、こちらが雌で無い事に、一層腹を立てているようにも見える。性欲盛んな騎士の妄想はどうしようもない事が多いが、どうやら魔物もそうらしい。強いて違いを挙げるならば、魔物は積極的で、騎士は消極的で妄想的という事だろうか。
 しかし、そんな事はどうでもいい。この先に―――ワドフがいるのだ。もう、変な柵を気にする必要はない。
 思う存分に。
 一方的に。
 相手を蹂躙できる時間の始まりだ。
 ウルグナの足元に在る影が、立ち上がった。影は最初こそ二次元的物体だったが、やがてそれはウルグナと同じくらいの体格になるまで膨れ上がり、ウルグナの体を侵していく。暫くも経っていないがウルグナの体は影に包まれ、もはや体の輪郭すらはっきりしなくなった。
 そしてそれは起きた。
 突如影が収縮。魔物達がその事象に身構えていると―――影は人の形を成していき、それは間もなくして『ウルグナ』となった。
「私はデュークの所へ行かなくてはならない。邪魔するモノは―――全力で葬らせてもらう」
 ワドフの剣に手を当てたが、思い直して手を離す。この程度の雑魚に、武器は必要ない。
「我が身を喰らうは何処の者や?」
 ウルグナはゆっくりと、しかし確実に歩き出した。同時に獣達も、その肉を喰らわんと襲い掛かってきた。






 背中に生暖かい温度を感じ取りながら男は確かに馬車へと歩いていた。後ろで魔物の犇めきが
聞こえるが特に気にはしない。来たとしても、おそらくはエリだろう。
 少女の吐息が、男の耳を擽った。それは少女の呼吸。即ち生きている証であり、男としても嬉しい限りであった。
 魔物の音が小さくなっているような気がしたが、気のせいだろう。あの数を突破できるような人間は居ない。ましてそれが女性ならば、途中で苗床になるのがオチだ。突破は出来ない。
 馬車が見えてきた。馬車の中からは、相も変わらず魔物が出てきている。女性の叫びは、もう聞こえない。
 魔物が生まれている以上、死んではいないだろうが……だからといって、精神までが壊れない訳では無い。自らの性器や口から魔物が出る事に、もう何も感じなくなっているのだろう。果たしてそれが『生きている』と言えるかは置いといて、少なくとも死んではいない。
 もうすぐ、自分の背中で休んでいる少女も同じ末路を辿るだろう。今の少女はとても穏やかな笑みで寝ているが、一度あの馬車の中に入れば、そうはいかない。自分の体内に潜り込まれる事に不快感を覚えながら、今までと同様に、精神を犯され、只の苗床と化す。この少女とは仲が良かったが、特に悲しいとは感じなかった。今までも、そしてこれからも。
 誰も彼を止められない。止められはしないのだ。あの完璧な魔術の前では、自分は疑われようと、捕まる事は無い。そう―――この作業は、きっと生涯続く。


「見つけましたよ、デュークさん、それとワドフさん」


 男の声が聞こえた。とても冷たく、変化のない声。それでいて丁寧な態度。
「……あんたは……」
「初めましてではありませんが、私は……っと、もう分かりますよね? 奴隷商人のデュークさん」
「……そこまで気づいたのか、新米傭兵のウルグナ」
 二人は微動だにせず、淡々と応答を繰り返す。どうする、全力で馬車に向かえば、間に合うか……
「動かない方が賢明だと思いますよ。今の私なら、貴方が足を上げた直後にワドフさんを取り返せますからね」
 この言葉は嘘ではない、とデュークは確信していた。自分の死に対する評価が変わっていないのであれば、この背中に突き刺さる殺気は、まがい物ではないはず。
デュークは膝立ちになると、ゆっくりとワドフをその場に下した。あちらの目的は奪還だけではない。取り敢えずはワドフを下しておこう。
「それで」
 デュークは初めて振り返り、ウルグナの顔を見た。
「何の用だ?」
「馬車の破壊と、ワドフさんの奪還はそうですが……少し気になる事があるんですよ。フィネアさんやエリさんには嘘を吐いてきたので、安心してください」
「嘘?」
「ええ。貴方が平気で居られる理由。私はずっと気になっていました。今から話すのは、私の推測ですが―――聞いてもらえますよね」
 ウルグナの表情は珍しく変わった。それも目を細め、唇を綻ばせる程度だが。






「まず、貴方が捕まらない理由でも話しましょうか。私は当初、貴方が『邂逅』を利用して『素性』を捨て、何らかの方法で仕事を行っていたからだと思っていましたが、厳密には違う。正確には素性そのものではなく、自分の犯した行為の記憶だけを捨てていたんです。貴方はその行為を何度も行う大罪人。何度も『邂逅の森』に足を運んでは女性を浚い、馬車で苗床化。森から出る際に、その時の記憶を捨て、表世界へ戻っていく。これを繰り返しさえすれば結果的に、『自分が奴隷商人の仕事をしている時』が捨てられる。つまり『素性』が消えているように見える訳です。纏めると―――貴方は、自らの行為の残虐性と記憶だけを忘れ、のうのうと表世界を生きている……ここまでは合ってますかね?」
 想像した事はないだろうか。もし人を殺したら、なんて。
 当然それは妄想の域を出ないので、怖がる事はない。だが、そういう人間に限って、本物を見た時に全身が戦慄き、失禁する。それと同じような事だ。
 自分の仕事こそ覚えてるが、内容のみが記憶にない。ならば、感情など出るはずはない。後は適当に芝居を打っておけば、まるで記憶そのものを忘れているように見える。そういう事なのだ。
 デュークの顔が険しくなった。
「いつから気づいてた?」
「怪しいのは、出会いの時からですよ。私と貴方は偶然にも死体を挟んで出会ってしまった。それもかなり惨い死体をね。しかしながら貴方はそれに驚きもせず、あろう事か死体隠蔽を手伝ってきた。おかしいですよね? 貴方が記憶そのものを失っていて、何らかの方法で無意識の内に仕事を行っているだけの、操り人形だとするならば、当然感性は一般市民と同様のはずです。……死体を見て何とも思わない一般市民なんて、いると思いますか?」
 あの時か。あれは好意のつもりだったのだが……とんだ失敗ミスだ。
「さて、次に何らかの方法とやらですが―――貴方、奴隷ですよね?」
 デュークの表情は驚愕に染まっている。見抜かれたことに驚きを隠せていないようだ。
「誰が主人かなんて話は今は置いといて、貴方は奴隷に違いない。その証拠に、貴方に掛かっている魔術、『冥塗ヘイズオウス』は隷属の人造魔術ですし、貴方の服の内側には奴隷の印章。何かに隷属している事は明らかです。そう考えれば、貴方がそれを忘れていても、主人が命令すれば貴方は仕事を実行できる。どうでしょう? 私、貴方が本心で女性を浚っているようには、とても見えないので、この考えには自信がありますが」
 それはどういう事か、と尋ねようとしたが、ウルグナの視線がワドフに移っている事に気づき、デュークもワドフを見た。そして理解した。何故、そう思ったのかを。
「生まれた魔物は種付けの機能を持つ。何も馬車に放り込む必要はありません。でも貴方は、執拗に馬車に入れようとしている。それがどういう事を意味するのか、貴方自身が一番よく分かっている筈です」
 自分の真意。『邂逅の森』で何度も捨てるうちに、デュークは己が分からなくなっていた。自分は何を思っていて、何を考え、何のためにこんな事をするのか。しかし、少しだけ思い出してきた。
 あの時も、あの時も、あの時も。そして今も。
 自分の手から女性が救われる事を願い続けてきた。自分は抵抗出来ない故に、彼女達を助ける事が出来ない。だから、誰かに来てほしかった。
 それでも誰も来なかった。皆、女性たちを捜そうとはしなかったのだ。神隠しやら天罰やらと宣うばかりで、皆、死を恐れた。
 自分の無力さがとても恥ずかしかった。出来る事なら逃げてくれと叫びたかった。だが、出来なかった。主人の命令故に。自分の為に。
「貴方は彼女達を助けたかった。そうでしょう。そうでなければ、貴方が馬車に向かう意味がない。だって、本当に貴方がその気なら、その辺の魔物にでも、差し出しておけば済む話ですから。勿論それをされていたら、如何に私といえど、間に合う事はなかったでしょうが……あなたの御蔭ですよ」
 ウルグナの表情は変化が無い。しかし、その言葉からは、確かに感謝が伝わった。
「……エリさんと関係のある人物が、貴方の主人ですか?」
「……何故そう思う?」
「エリさんの部屋だけは妙に綺麗でした。他は血まみれにも拘らずにね。そしてその部屋から出てきたエリさんは、暗い表情と言うか、不安げな表情と言うか、そんな顔をしていたのでね。そういえばエリさんが砦を出た後、砦の中にいたのはフィネアさんと、貴方だけだそうですね。フィネアさんは貴方を捕らえる為に来ているから、犯人からは除外できる。そうなるとデュークさん……貴方しかいないんですよ」
―――これは本当に推測のレベルだろうか。とてもそうは思えない。まるで未来を見たかのような、詳細な推測だ。
「ですが、分からない事が一つあります―――どうして、貴方はそいつに従っているのですか? あの砦の歩哨全員を惨殺出来るあなたなら、『冥塗』に反抗など訳無い筈です」
 ここまでばれているなら、話そうが話すまいが、同じだろう。デュークは感情を荒ぶらせ、乱暴にしゃべり始めた。
「……確かに、『冥塗』程度なら、確実に破れるさッ。だが―――家族が掛かっているんだッ」
「それはつまり……」
「俺がこの仕事をやれば、家族に金が入る。だがやらなきゃ、家族全員が奴隷になっちまうんだよ!」
「家族にその事は?」
「―――へっ。あんた、人殺しをやっているとして、それを家族に伝えるか?」
 首を振るウルグナ。
 予想はしていたが、そういう事か。リスドにしろ、フルシュガイドにしろ、貧しい者は必ず奴隷にされる。男性なら働き手に、女性は―――慰みモノだろう。陳腐な理由だが、これ以上ない理由だった。
「そして、俺が死んでも家族は同じ結末を辿る……正体がばれても……辿る。だから―――続けるしかねえんだよッ!」
 気づけばデュークは剣を取り出し、ウルグナに向けていた。
「だけど俺には無理だった。仕事のたびに浚う女性が可哀想だった。どうしても。何年やっても。家族の為と考えこんでも、仕事と割り切れなかった! だからこんな手段を取るしか……記憶を捨てるしか、俺の精神が保たれる方法は無かったんだよ……そうすれば、今まで俺のしてきた事が妄想になって、全然悲しくなんかないからなァ!」
 成程。記憶を捨てていたのは、指示ではなく自分を保つためだったのか。
 デュークがウルグナの首を狙って薙いだが、それはいわゆる残像で、ウルグナは刃の届かぬぎりぎりの位置に移動していた。
「強くても無意味だった! 知識があろうと無意味だった! 逆らっても! 泣いても無意味だった! 大切な者がいる限り、あのクソッタレの『フォーミュルゼン』には! 従うしかねえんだよォ!」
 デュークの刃はとても真っ直ぐで、その全ての軌道は、一撃必殺になりかねない程鋭かったが、『今』のウルグナにはまるで止まっているように見えた。
 刃をギリギリで回避し、ウルグナが言う。
「成程、貴方の理由はよくわかりました」
 デュークの一撃が、ウルグナを断ち切る直前、刃は止まっていた。視線をゆっくり落とすと、ウルグナは両の掌を合わせて、しのぎを挟んで止めていたのだ。
 デュークの表情が畏怖に染まるよりも早く、ウルグナの前蹴りがデュークの顎を捉えた。脳が揺さぶられた影響か、デュークは後ろへ二、三歩たたらを踏み、そのまま尻餅をついた。
 ウルグナが拳を構えた。
「しかしまだ弱い。貴方が真に家族の為を想うのなら―――ここで私を斃してみせろ」
「言われなくてもッ! 殺ってやるよオオオオオォォォォォオオオオッ!」
 デュークは立ち上がると同時に、魔力を解放した。
 この男には、本気でなくては―――勝てない。

















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