ワルフラーン ~廃れし神話
カテドラル・ナイツ
この世界には、五つの大陸がある。リスド、アジェンタ、キーテン、フルシュガイド、レギ。これらの大陸には、色々な特徴があって、気候があって、人種がいた。
数年前までは。
人間との戦争に負けてからは、魔人―――人間以外の種族をそう言うのだが、彼等は大陸を追い出された。リスド以外の大陸は、人間の支配下へ置かれてしまったので、魔人達はリスド大陸に避難するほかなかった。
そのリスド大陸にある大都市、リスド大帝国と川を隔てて存在する村、リタルア村。
リタルア村は、農産物に定評のある村だ。勿論、その理由としては、豊かな土だったり、豊富な水資源だったり、その理由は、いくつかあるが、やはり特筆すべきは、大都市であるリスド大帝国との繋がりが、濃厚である事だろう。それ故に、物資も潤っていて、人口も多い。二百五十人といった所だろうか。
この平穏な村に住む少女、キリーヤは、鳥の囀り、窓から差し込む朝日と共に起き、朝食を食べ、母を手伝う。そんな日常を、起伏が無い平凡な日常を送っている。そしてそんな日常を過ごせることが、どれだけ幸せなのかという事を、この少女は知っている。
過去の痛み。それはすぐ消えるような生易しいモノではない。だが、すぐ消えるようなものではないからこそ、魔人達はこうして、平凡で退屈な毎日に文句を言うことも無く暮らしている。
忘れられる筈も無い歴史は、後世にも影響をもたらす、という事だ。現に、大半の魔人には人間と争える程の強さはないし、その気性は一転して穏やかなものになっている。
問題など無い。闘いなど望むはずもない。このまま平穏な日常が続いていくのであれば、それで―――
勿論、この数分後にそれが躙られる事など、彼女は考えてすらいないだろう。
「はあッ、はあッ、はあッ」
キリーヤは森の中を必死に走っていた。後ろからは、ぶつかり合う剣戟の音と、悲鳴。
人間達が攻め込んできたのだ。勇敢にも大人達が武器を持って応戦しているが、こちらは長い歴史の末に戦いを忘れた種族。どれ程持つかは、分からない。幸運にもキリーヤは森の中に逃げ込めたために暫くは大丈夫だろうが……自分だけが助かるつもりはない。
キリーヤは脳内に森の地図を思い浮かべながら、その方向へと走り続ける。向かうは我らが魔王の住む大聖堂。この森を抜けたさらにその後に、広大な砂漠を抜けなければ辿り着けないが、辿り着かなくてはならない。このまま自分だけが逃げても、そこには自分だけが助かるという、当たり前の結果しか残らない。
ならばたとえ、果てしなく遠い道のりだったとしても、皆が助かる道があるのなら、それを選ばないわけには行かない。
「痛ッ!」
地面から剥きだした木の根に足を引っ掛けてしまい、転ぶ。歩けない程ではないが、膝からは出血。少女の柔肌には痛々しい傷跡が出来ていた。
 普段のキリーヤなら、間違いなく泣きながら家へと戻っただろうが、残念ながら今それをすると、キリーヤは間違いなく捕まるか殺されてしまうだろう。泣きそうになりながらも立ち上がり、ゆっくりと歩いていく。
歯を食いしばり、震える足を抑えつけながら、ゆっくりと、一歩。
膝を焼かれたような痛みが走る。本能が動くなという指示を出すが―――傷痕から目を逸らしながら、また一歩。
「こっちに逃げた可能性がある。探すぞ!」
人間の声が聞こえた。五・六人程の集団が、音を隠すことも無く、凄まじい勢いで距離を縮めてくる。
身を隠せばやり過ごせるとは思わない。それはむしろ悪手だろう。しかし逃げようにもこの足では……走れない。殺意を忘れ、痛みに恐怖を覚える自分には、体から発せられる危険信号を無視する事なんてできない。
キリーヤは木の幹に背を預け、その場に座り込んだ。
どうすればいいのだろう?
自分にできる事は、休みたいという体の欲求にひたすら抗う事だけだ。だがあまりにも遅い。後五分も経てば追いつかれるのは目に見えている。
どうすればいい。どうすればいい?
結論を出そうにも、幾つもの思考が重なり、思うように纏められない。そして纏められたところで、それが最善とは限らない。
「……ヤ」
―――声が聞こえる。愛に満ちた、穏やかな声。幾度となく聞いたことがあるような、そんな。
「キリーヤ、何処にいるのッ?」
「……え」
自然と体に力が入る。キリーヤは幹に背をこすりつけながらもどうにか立ち上がり、声の方向に視線を合わせた。
「お母……さん?」
信じられない。声が聞こえたその時からまさかと思っていたが、自分の母もこちらに逃げてきていたのだ。その顔には不安を浮かべながら、辺りを見回している。
「お母さん!」
キリーヤは一直線に駆け出した。足は怪我など忘れたかのように軽く、早い。母の元へは十秒も掛からなかった。
「……キリーヤッ!」
母もまた自分との再会に喜びの表情を浮かべている。余程キリーヤを心配していたのだろうか、その眼は涙で滲んでいる。
キリーヤは母の体に飛びつき、力の限り、抱き締めた。もう喜びで、頭がどうかなってしまいそうだった。
母親が生きている。今キリーヤが居る状況において、これ以上嬉しい事が果たしてあろうか。……いや、肉親が生きている事ほどうれしい事はあるまい。
先程の足音も何故か消えているし、後は魔王様に助けを乞う―――
―――――――――? 何だろう、この違和感は。
「お母、さん?」
「ん……なあに、キリーヤ」
顔を見上げて母を見遣る。変化はない。別に、どこもおかしくはない。ならば一体―――この違和感は何なのだ。
表情から、顔の造形、口調、身長、毛髪の長さ、黒子の位置まで寸分の狂いも無い。間違いなく彼女はキリーヤの母の筈だ。興奮を抑えて思案する。何処だ、何処だ。
『何かが違う』という囁きが、言い換えれば警告が、キリーヤの体から離れない。
「……ねえお母さん。お母さんは、お母さんだよね?」
その顔に、微笑みが生まれた。「ええ、そうよ」
「―――なら、どうして。どうしてエプロンが、違うの?」
キリーヤの家は、エプロンを一枚しか所有していない。キリーヤの母は存外めんどくさがり屋で、『エプロン何て一着あれば事足りる』とまで言う女性なのだ。言葉通り、彼女は決してエプロンを新調しようとはしなかったし、キリーヤもこの紺色のエプロン以外を見たことが無い。
そもそも着眼点が違っていた。違和感の正体は母の体ではなく、服装を見てのモノだったのだ。
母の瞳は……壊れた機械のように、揺れている。
「ぁ…ぁぁぁ…」
危険信号が全身に発せられる。後退しようとするが―――先程の怪我の影響か、キリーヤはバランスを崩し、尻餅をついてしまった。
「どうかしたの、キリー、や?」
言葉がだんだん機械的になっていく。聞きなれた声は錆がついたかのように荒くなり、その肌からは体温が失われていく。
「キリー? ヤ? どうし、タの?」
これは母ではない。母とみなしてはいけない。これは……そう。母の形をとっただけの、別の何かだ。
母の手から魔力が放出。その手に鉄の斧が生まれると同時に、ゆっくりと、こちらに歩いてきた。握られた斧は徐々に頭上に持ち上がっていく。
もう自分は逃げられない。足に力は入らないし、この状態から攻撃を防ぐ術も持たない。はっきり言って、詰んでいる。
キリーヤはその辺の少女と何ら変わりない一般人。不用意にも母に近づいたその時から、自分の運命は決まっていた。
これより先の数秒。キリーヤには不可避の結末が待っているだろう。勿論その結末を受け入れる心は持ち合わせていない。
それでも―――次の人生の幸せを願う時間くらいは。
キリーヤは、目を閉じた。その後には、きっと斧が振るわれたのだろうが、キリーヤには、何も聞こえなかった。
アスリエル・クレイツは、どこにでもいる騎士とは違っていた。自分でもそう思っていたし、他人からも、そう思われていた。
禁忌魔術の一つである屍術―――人を生き返らせ、使役する術を、騎士団の中で唯一使役できるのだ。
禁忌魔術の習得など騎士団に許されるはずもない。本来ならば、彼は即刻背徳者と認定され、処刑されるのが道理。
それでも、彼が生きていられるのは、偏にその強さのおかげである。
屍術で従魔を増やし、数の暴力で制圧するその闘いから、アスリエルは『屍蒔き』や『軍団長』などと呼ばれている。今では、第三兵士長の地位も賜り、アスリエルはそれなりに充実した毎日を約束されていた。
そんなアスリエルに届いたのは、とても簡単な任務だった。内容は、魔人の女子供を拐ってくること。
果たして、これ以上簡単なものがあるだろうか。
彼は直ぐに、部下と共にリスド大陸に向かった。大臣から受け取った資料など、とっくに焼き捨てた。あまりに簡単すぎて、必要ないと感じたからだ。
着いてからはいつも通りだ。屍術を発揮し、従魔と共に村を襲い、女子供を拐う。一人逃げた子を見つけたので、追うべきと思ったが、そこでアスリエルは考え直し、足を止める。
あの女の子、とても可愛らしかった。自分の僕に、慰めものに丁度いい。本来なら、捕まえなければいけないのだろうが、もう百二十人も捕まえた。『私達には魔王様がいる』などと、ほざいている女子供は、この村の教会に収攬した。一人二人くらい欠けたところで何の問題もないだろう。
そして思い付いたのは、残酷な案。捕らえていた母親だろう女を殺し、娘を殺させるのだ。出来るだけ綺麗に。そうすることで、彼女を従魔にし、生涯において慰みものにするのだ。
それを想像しただけで、笑いが込み上げてくる。
善は急げ。母を刺し殺し、従魔化。娘の名前を聞き出した後、予定通り殺害を命じる。その命令を、遂行すべく動きだした、女の後を、アスリエルはついていった。
血の付いたエプロンは取り替えておいた。あの少女が異変に気付くことは無いだろう……
資料
偵察へ行った、一個中隊が消息不明。再び部隊を組んだものの、その部隊も例外なく消息不明に。最終連絡は、決まってリタルア村近く。これらの事から、この村の近くには、大帝国を脅かすレベルの、化け物が潜んでいると考えられる。これ以上部隊を減らす訳にはいかないので、『軍団長』であるアスリエル殿に一任する事とする。これは、———直々の指名であるので、失敗することのないよう慎重に事を運ぶべし。
大臣ウスドラ
その時は、唐突に訪れた。いや、彼女にしてみれば、訪れなかったのかもしれない。
斧が、振り下ろされない? それとも、もう振り下ろされた?
葉の擦れる音が聞こえる。膝に触れると、ズキリとした痛みを感じる。
ああ、生きている。生きているのだ。キリーヤは目を開き、母を見つめる。
「斧……」
斧はどこかへ消えていた。残ったのは、降り下ろしたであろう態勢をとっている母のみ。
一体何が起きたと―――
「なっ何者だ、貴様!」
母であった者の近くに、全身に鎧を纏った男が現れた。男の五指からは、紫色の魔力が見えている。
分かり切っていた。母がもう死んでいる事なんて、さっき気づいたではないか。だけど……どうして。胸が締め付けられるのだろうか。
男はキリーヤなど見てはいない。恐らくは、キリーヤの背後にいる人物を、見据えている。
「アルドさ……まもレと、イアれた」
鑢で鉄を削るかのような声が聞こえる。耳心地のいい声ではない。しかしもう危険を感じる必要は、ない。
ああ―――ディナント様。
「なっ何者だ、貴様!」
「アルドさ……まもレと、イアれた」
アスリエルの問いに、魔人はそう返した。アルド? マモル? 何を言っているんだ。
その魔人の特徴は一言で纏めると、大男。
この辺り、いや、おそらく五大陸を回っても、このような異様な鎧は見られないだろう。世界の果てには、ジバルという国があるらしいが、その国にある鎧に似ている。
赤色を知らない民族に、どう赤色を説明すればいいのだろうか。赤は赤としか言えない。これはそれに似ているような気がする。
額や側頭の部分に装飾が鏤められていて、特に額の左右に並んだ、一対の角状の金属の立物。こんな兜は五大陸には存在しない。今までだってあった事が無い。
一体あれは何なのだ。
腕部分に着けている籠手は、指部分が露出していて、その籠手の下に着けている布のようなものは、上腕から手の甲まで伸びている。鎧もそうだが、とにかく奇妙な格好だ。
魔人の顔が僅かに、動いた。
「おマえ、ニンゲン……か?」
賢い者は、逃げるだろう。実力が違うのだから。
しかし、アスリエルにはプライドがある。この任務は王が直々に自分を指名してくれたのだ。失敗する訳には行かない。
魔人など、いくら飾っていても、所詮はゴミ。恐るるに足らない。
そんな事を思っていたからか、アスリエルは腰に手を当て、高らかに告げる。
「ほほう、私を知らないのか。魔人。では、説明してやろう。私こそはッ、大帝国第三兵士長! アスリエル・クレイツ! お前ら魔人に、生という、慈悲を授けた、高等種族、人間だ! そして今ッ、私は対価を貰うべく、この村に来た。貴様も武装を解き、教会へ集まれ! この私と、戦いたくは、ないだろう?」
鷹揚に手を広げ、自らの強さを滔々と述べるアスリエル。そんなアスリエルの言葉を聞き、魔人は粗い声で感心した。
「ほオ……キサ、は武人という、事か」
「そういう事だ。私は強いからな、心も広い。貴様に選ばせてやろう。この女に殺されるか、それとも大人しく教会に行くか……」
数年前までは。
人間との戦争に負けてからは、魔人―――人間以外の種族をそう言うのだが、彼等は大陸を追い出された。リスド以外の大陸は、人間の支配下へ置かれてしまったので、魔人達はリスド大陸に避難するほかなかった。
そのリスド大陸にある大都市、リスド大帝国と川を隔てて存在する村、リタルア村。
リタルア村は、農産物に定評のある村だ。勿論、その理由としては、豊かな土だったり、豊富な水資源だったり、その理由は、いくつかあるが、やはり特筆すべきは、大都市であるリスド大帝国との繋がりが、濃厚である事だろう。それ故に、物資も潤っていて、人口も多い。二百五十人といった所だろうか。
この平穏な村に住む少女、キリーヤは、鳥の囀り、窓から差し込む朝日と共に起き、朝食を食べ、母を手伝う。そんな日常を、起伏が無い平凡な日常を送っている。そしてそんな日常を過ごせることが、どれだけ幸せなのかという事を、この少女は知っている。
過去の痛み。それはすぐ消えるような生易しいモノではない。だが、すぐ消えるようなものではないからこそ、魔人達はこうして、平凡で退屈な毎日に文句を言うことも無く暮らしている。
忘れられる筈も無い歴史は、後世にも影響をもたらす、という事だ。現に、大半の魔人には人間と争える程の強さはないし、その気性は一転して穏やかなものになっている。
問題など無い。闘いなど望むはずもない。このまま平穏な日常が続いていくのであれば、それで―――
勿論、この数分後にそれが躙られる事など、彼女は考えてすらいないだろう。
「はあッ、はあッ、はあッ」
キリーヤは森の中を必死に走っていた。後ろからは、ぶつかり合う剣戟の音と、悲鳴。
人間達が攻め込んできたのだ。勇敢にも大人達が武器を持って応戦しているが、こちらは長い歴史の末に戦いを忘れた種族。どれ程持つかは、分からない。幸運にもキリーヤは森の中に逃げ込めたために暫くは大丈夫だろうが……自分だけが助かるつもりはない。
キリーヤは脳内に森の地図を思い浮かべながら、その方向へと走り続ける。向かうは我らが魔王の住む大聖堂。この森を抜けたさらにその後に、広大な砂漠を抜けなければ辿り着けないが、辿り着かなくてはならない。このまま自分だけが逃げても、そこには自分だけが助かるという、当たり前の結果しか残らない。
ならばたとえ、果てしなく遠い道のりだったとしても、皆が助かる道があるのなら、それを選ばないわけには行かない。
「痛ッ!」
地面から剥きだした木の根に足を引っ掛けてしまい、転ぶ。歩けない程ではないが、膝からは出血。少女の柔肌には痛々しい傷跡が出来ていた。
 普段のキリーヤなら、間違いなく泣きながら家へと戻っただろうが、残念ながら今それをすると、キリーヤは間違いなく捕まるか殺されてしまうだろう。泣きそうになりながらも立ち上がり、ゆっくりと歩いていく。
歯を食いしばり、震える足を抑えつけながら、ゆっくりと、一歩。
膝を焼かれたような痛みが走る。本能が動くなという指示を出すが―――傷痕から目を逸らしながら、また一歩。
「こっちに逃げた可能性がある。探すぞ!」
人間の声が聞こえた。五・六人程の集団が、音を隠すことも無く、凄まじい勢いで距離を縮めてくる。
身を隠せばやり過ごせるとは思わない。それはむしろ悪手だろう。しかし逃げようにもこの足では……走れない。殺意を忘れ、痛みに恐怖を覚える自分には、体から発せられる危険信号を無視する事なんてできない。
キリーヤは木の幹に背を預け、その場に座り込んだ。
どうすればいいのだろう?
自分にできる事は、休みたいという体の欲求にひたすら抗う事だけだ。だがあまりにも遅い。後五分も経てば追いつかれるのは目に見えている。
どうすればいい。どうすればいい?
結論を出そうにも、幾つもの思考が重なり、思うように纏められない。そして纏められたところで、それが最善とは限らない。
「……ヤ」
―――声が聞こえる。愛に満ちた、穏やかな声。幾度となく聞いたことがあるような、そんな。
「キリーヤ、何処にいるのッ?」
「……え」
自然と体に力が入る。キリーヤは幹に背をこすりつけながらもどうにか立ち上がり、声の方向に視線を合わせた。
「お母……さん?」
信じられない。声が聞こえたその時からまさかと思っていたが、自分の母もこちらに逃げてきていたのだ。その顔には不安を浮かべながら、辺りを見回している。
「お母さん!」
キリーヤは一直線に駆け出した。足は怪我など忘れたかのように軽く、早い。母の元へは十秒も掛からなかった。
「……キリーヤッ!」
母もまた自分との再会に喜びの表情を浮かべている。余程キリーヤを心配していたのだろうか、その眼は涙で滲んでいる。
キリーヤは母の体に飛びつき、力の限り、抱き締めた。もう喜びで、頭がどうかなってしまいそうだった。
母親が生きている。今キリーヤが居る状況において、これ以上嬉しい事が果たしてあろうか。……いや、肉親が生きている事ほどうれしい事はあるまい。
先程の足音も何故か消えているし、後は魔王様に助けを乞う―――
―――――――――? 何だろう、この違和感は。
「お母、さん?」
「ん……なあに、キリーヤ」
顔を見上げて母を見遣る。変化はない。別に、どこもおかしくはない。ならば一体―――この違和感は何なのだ。
表情から、顔の造形、口調、身長、毛髪の長さ、黒子の位置まで寸分の狂いも無い。間違いなく彼女はキリーヤの母の筈だ。興奮を抑えて思案する。何処だ、何処だ。
『何かが違う』という囁きが、言い換えれば警告が、キリーヤの体から離れない。
「……ねえお母さん。お母さんは、お母さんだよね?」
その顔に、微笑みが生まれた。「ええ、そうよ」
「―――なら、どうして。どうしてエプロンが、違うの?」
キリーヤの家は、エプロンを一枚しか所有していない。キリーヤの母は存外めんどくさがり屋で、『エプロン何て一着あれば事足りる』とまで言う女性なのだ。言葉通り、彼女は決してエプロンを新調しようとはしなかったし、キリーヤもこの紺色のエプロン以外を見たことが無い。
そもそも着眼点が違っていた。違和感の正体は母の体ではなく、服装を見てのモノだったのだ。
母の瞳は……壊れた機械のように、揺れている。
「ぁ…ぁぁぁ…」
危険信号が全身に発せられる。後退しようとするが―――先程の怪我の影響か、キリーヤはバランスを崩し、尻餅をついてしまった。
「どうかしたの、キリー、や?」
言葉がだんだん機械的になっていく。聞きなれた声は錆がついたかのように荒くなり、その肌からは体温が失われていく。
「キリー? ヤ? どうし、タの?」
これは母ではない。母とみなしてはいけない。これは……そう。母の形をとっただけの、別の何かだ。
母の手から魔力が放出。その手に鉄の斧が生まれると同時に、ゆっくりと、こちらに歩いてきた。握られた斧は徐々に頭上に持ち上がっていく。
もう自分は逃げられない。足に力は入らないし、この状態から攻撃を防ぐ術も持たない。はっきり言って、詰んでいる。
キリーヤはその辺の少女と何ら変わりない一般人。不用意にも母に近づいたその時から、自分の運命は決まっていた。
これより先の数秒。キリーヤには不可避の結末が待っているだろう。勿論その結末を受け入れる心は持ち合わせていない。
それでも―――次の人生の幸せを願う時間くらいは。
キリーヤは、目を閉じた。その後には、きっと斧が振るわれたのだろうが、キリーヤには、何も聞こえなかった。
アスリエル・クレイツは、どこにでもいる騎士とは違っていた。自分でもそう思っていたし、他人からも、そう思われていた。
禁忌魔術の一つである屍術―――人を生き返らせ、使役する術を、騎士団の中で唯一使役できるのだ。
禁忌魔術の習得など騎士団に許されるはずもない。本来ならば、彼は即刻背徳者と認定され、処刑されるのが道理。
それでも、彼が生きていられるのは、偏にその強さのおかげである。
屍術で従魔を増やし、数の暴力で制圧するその闘いから、アスリエルは『屍蒔き』や『軍団長』などと呼ばれている。今では、第三兵士長の地位も賜り、アスリエルはそれなりに充実した毎日を約束されていた。
そんなアスリエルに届いたのは、とても簡単な任務だった。内容は、魔人の女子供を拐ってくること。
果たして、これ以上簡単なものがあるだろうか。
彼は直ぐに、部下と共にリスド大陸に向かった。大臣から受け取った資料など、とっくに焼き捨てた。あまりに簡単すぎて、必要ないと感じたからだ。
着いてからはいつも通りだ。屍術を発揮し、従魔と共に村を襲い、女子供を拐う。一人逃げた子を見つけたので、追うべきと思ったが、そこでアスリエルは考え直し、足を止める。
あの女の子、とても可愛らしかった。自分の僕に、慰めものに丁度いい。本来なら、捕まえなければいけないのだろうが、もう百二十人も捕まえた。『私達には魔王様がいる』などと、ほざいている女子供は、この村の教会に収攬した。一人二人くらい欠けたところで何の問題もないだろう。
そして思い付いたのは、残酷な案。捕らえていた母親だろう女を殺し、娘を殺させるのだ。出来るだけ綺麗に。そうすることで、彼女を従魔にし、生涯において慰みものにするのだ。
それを想像しただけで、笑いが込み上げてくる。
善は急げ。母を刺し殺し、従魔化。娘の名前を聞き出した後、予定通り殺害を命じる。その命令を、遂行すべく動きだした、女の後を、アスリエルはついていった。
血の付いたエプロンは取り替えておいた。あの少女が異変に気付くことは無いだろう……
資料
偵察へ行った、一個中隊が消息不明。再び部隊を組んだものの、その部隊も例外なく消息不明に。最終連絡は、決まってリタルア村近く。これらの事から、この村の近くには、大帝国を脅かすレベルの、化け物が潜んでいると考えられる。これ以上部隊を減らす訳にはいかないので、『軍団長』であるアスリエル殿に一任する事とする。これは、———直々の指名であるので、失敗することのないよう慎重に事を運ぶべし。
大臣ウスドラ
その時は、唐突に訪れた。いや、彼女にしてみれば、訪れなかったのかもしれない。
斧が、振り下ろされない? それとも、もう振り下ろされた?
葉の擦れる音が聞こえる。膝に触れると、ズキリとした痛みを感じる。
ああ、生きている。生きているのだ。キリーヤは目を開き、母を見つめる。
「斧……」
斧はどこかへ消えていた。残ったのは、降り下ろしたであろう態勢をとっている母のみ。
一体何が起きたと―――
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母であった者の近くに、全身に鎧を纏った男が現れた。男の五指からは、紫色の魔力が見えている。
分かり切っていた。母がもう死んでいる事なんて、さっき気づいたではないか。だけど……どうして。胸が締め付けられるのだろうか。
男はキリーヤなど見てはいない。恐らくは、キリーヤの背後にいる人物を、見据えている。
「アルドさ……まもレと、イアれた」
鑢で鉄を削るかのような声が聞こえる。耳心地のいい声ではない。しかしもう危険を感じる必要は、ない。
ああ―――ディナント様。
「なっ何者だ、貴様!」
「アルドさ……まもレと、イアれた」
アスリエルの問いに、魔人はそう返した。アルド? マモル? 何を言っているんだ。
その魔人の特徴は一言で纏めると、大男。
この辺り、いや、おそらく五大陸を回っても、このような異様な鎧は見られないだろう。世界の果てには、ジバルという国があるらしいが、その国にある鎧に似ている。
赤色を知らない民族に、どう赤色を説明すればいいのだろうか。赤は赤としか言えない。これはそれに似ているような気がする。
額や側頭の部分に装飾が鏤められていて、特に額の左右に並んだ、一対の角状の金属の立物。こんな兜は五大陸には存在しない。今までだってあった事が無い。
一体あれは何なのだ。
腕部分に着けている籠手は、指部分が露出していて、その籠手の下に着けている布のようなものは、上腕から手の甲まで伸びている。鎧もそうだが、とにかく奇妙な格好だ。
魔人の顔が僅かに、動いた。
「おマえ、ニンゲン……か?」
賢い者は、逃げるだろう。実力が違うのだから。
しかし、アスリエルにはプライドがある。この任務は王が直々に自分を指名してくれたのだ。失敗する訳には行かない。
魔人など、いくら飾っていても、所詮はゴミ。恐るるに足らない。
そんな事を思っていたからか、アスリエルは腰に手を当て、高らかに告げる。
「ほほう、私を知らないのか。魔人。では、説明してやろう。私こそはッ、大帝国第三兵士長! アスリエル・クレイツ! お前ら魔人に、生という、慈悲を授けた、高等種族、人間だ! そして今ッ、私は対価を貰うべく、この村に来た。貴様も武装を解き、教会へ集まれ! この私と、戦いたくは、ないだろう?」
鷹揚に手を広げ、自らの強さを滔々と述べるアスリエル。そんなアスリエルの言葉を聞き、魔人は粗い声で感心した。
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1.3万
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2.2万
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1.2万
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4.7万
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1万
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2.3万
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9,626
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1.6万
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9,533
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