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ささみ紗々

#1 君は女神かそれとも魔女か

 普段休みの日は用事もなく外に出ることなんてないのに、今日はふらりと目的もなく外を歩いている。
 もうすっかり冬の香りを滲ませた冷たい風が僕の頬を刺す。上を向いて息を吐くと、白いもやは、沈むことなく空に消えていった。

 人気のない川沿いの道、歩いているのは僕一人、今更色づいた木々の下で、時折吹く風に体を縮ませる姿はきっと情けなかったことだろう。

 このまま進めば老人ホームの向こうに駅が見える。行くあても特にないし、待合室の中でコーンスープでも飲もうか、と足を進める。家に帰る気は起こらない。


 人だかりができていた。
 駅の前の噴水はこんな寒い日でも休まず水を回し続けているが、その噴水を中心に、多くの人が足を止めていた。
 何があるのだろうと思う暇もなく、僕は圧倒された。──中心から聞こえてくる「声」に。

 それは天使のような声だった。天使という言葉で形容するのがもったいないほど、美しく澄んだ声。ピンと張り詰めた冷たい空気の膜をゆっくりと剥がして、心に染み込んでくるような歌。
 姿の見えない声に、けれど僕は惹かれていた。

 どれくらいそこにいただろうか。きっと駅の中にいた方が暖かかっただろうし、自販機のコーンスープを飲みながらでも歌は聞こえてきただろう。けれど僕はもうそこから動けなくて、寒い中、白い息も気にせずに、ただひたすらにその歌を聴き続けていた。


「ありがとう、あの……」

「あっ」

 気づくと、周りには人はほとんどいなくなっていた。寒い。ぼけっとしていたみたいだ。
 声をかけてきた女性は僕の顔を心配そうに覗き込む。
 僕が顔を上げると、なぜか少し驚いたように、その女性は目を見開いた。しかしすぐにその表情は元に戻る。

「すみません! えっと」

「そんなに……」

「え?」

「そんなに良かった? 私の歌」

「え」

「涙……」

 目を拭う。乾燥した手の皮膚をしっとりと涙が濡らす。ほんとだ、泣いてる。こんなにも無意識的に涙が出ることってあるだろうか。

 僕は恥ずかしくなって顔を逸らした。
 さっきまで彼女の歌は、声は、空間を震わせ、多くの人を魅了していた。こんな田舎で人も集まらないのに、それでもその瞬間は多くの人が足を止めていた。
 僕も紛うことなきそのうちの一人で、そんな相手が今、自分一人に声をかけている。

「あんな歌……初めて聞きました」

「褒め言葉として受け取っていいんだよね」

「もちろん!」

「ありがとう」

 あまり抑揚のない声。歌っている時とは違う、少し低めの声。

 どうしたらいいかわからなくて、僕らは三秒くらいそこでフリーズしていた。

「じゃあ……」

 また、どこかで会えるといいですね。そんな言葉を言って立ち去ろうとして、喉を震わせた瞬間、彼女が僕の言葉を遮った。

「あなた、ここの人?」

 真っ赤なコートに身を包み、レザーのギターケースを抱えた彼女。明らかにこんな田舎には似合わない風貌で、彼女はそんな言葉を僕に掛けた。

「そうですけど……」

「じゃあ、案内して。私、引越してきたばかりでわからないの」

「は?」

 見ず知らずの人に、しかも男に、そんなことを頼むやつがあるか。警戒心がないのか、それとも……

「別に、あなたに惚れたとかじゃない」

 なんで読んだ。読心術? え、怖い。

「顔に書いてある。自意識過剰」

「なっ!」

 なんでそんなこと、出会ったばかりの人に言われなきゃならんのだ……。

 無愛想な顔。こんな人が、あの歌を歌っていたのか? 幻?

 確かに顔立ちは綺麗だ。冬に似合う真っ白な肌に、血色のいい薄い唇。僕はどこを見てるんだ。切れ長の目に高い鼻、肩にかかる長さの黒髪はツヤツヤで、まさに完璧。
 声は天使のようだったが、姿は天使というより女神、かな……。

「ねぇ早く」

 女神、ね。魔女でも良さそう。

「僕でいいなら。どうせ暇だし」

 心の中で毒づきつつも、やはりこんな綺麗な人にお願いされては断れない。僕もやっぱり男ってことか。

「君、名前は?」

「普通聞く前にそっちが名乗るでしょ」

「……舜。 浦田 舜うらた しゅん

「……私は池水 うみ」

「うみちゃんね、よろしく」

「よろしく」

 名乗った後、また彼女は目を大きく開いた。僕が顔を上げた時に見せた表情。何も無かったように目を逸らして名前を言った彼女に、それほど追求もできるはずがなく。

 僕は若干引き攣りそうになる口の端を抑えながら、じゃあ行こうかと身を翻した。
 さっさと帰るべきだったか。

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