生命(いのち)の継れ

せいちゃん

親子の絆

お母さんが亡くなった時から涙を流さなくなった。それは、お母さんが心配しないようにというお母さんの話してくれた言葉の一つだったのもあって、私の泣かないというくせでもあった。いやっただ、私が素直になれなかったのもあるのかもしれない。
  それから、二年が経って、本当に月日の流れというのは、早くて、もう私の一人の子供も大きく育っていき、一人でも子育こそだてや生活が、いくら、お母さんの言葉で支えてこれても、始めは、ままならない程、つらく、子供を育てる上で、私ではと、あきらめそうになったけれども、もう私の子供は、産れてから七年は経った。今は、もう小学生となって、もう流石さすがに慣れてはきたものの、まだ、不慣ふなれな子育こそだて方法をしてしまう。
  例えば、好き嫌いな食べ物を発見してしまった時に、きびしくしつけてしまったり、ズル休みをした時に怒鳴どなってしまったりと、主婦は、それなりに大変だった。というのか…私には子供の気持ちが分っていないからなのか。とにかく今でも不慣れな子育こそだてをしてしまう。私の愛情なのか…自然と見捨てる事ができなかった。それは、お母さんも愛を与えた為の厳しさだったのかもしれない。
  そんな時、季節は、春が過ぎて夏になる境の時期、梅雨と呼ばれる季節が来た。珍しくも台風が日本を直撃するザンザン降りの日に、私の子供(健治けんじ)が家に傘を置き忘れて、登校していったその日に、私の住む地域は、暴風に見舞れて大時化おおしけとなって臨時下校をすると学校の先生からも告げられたそうで、健治は、下駄箱げたばこの所に、一人だけ取り残されていた。私は勿論、傘を持って、私は健治の傘を持ちながら、私の傘をさして学校まで走っていった。走る途中、息が続かない時もあって、でも、健治がぬれながら帰って、風邪かぜをひくのは、いけないと想い、母親の意地を見せて、学校の方へ、息が続く内に、向った。息が続かない時は、一休憩ひときゅうけいをして、それから、走った。もう、ハチャメチャになって、只、子供の為にと、健治のいる学校の門を抜けて下駄箱の方へ向った。
  しかし、そこには、健治の姿がなかった。とりあえず、服をハンカチでふきとって、学校の中へ入って行き、教室を探した。そこにも健治は、いなく、教室の戸締とじまりがしていた。次に向ったのは、先生達がいる職員室に向った。そこにも健治の姿がなかった。私は、どうしたら良いのか、わからなくなってしまいました。
  すると、担任の先生と名告なのる人が、こちらに向って来た。
  「大丈夫ですよ。健治くんなら、保健室にいます」と言った。私は、保健室という言葉に反応して
  「健治は、どうかしちゃったのですか?」と落ち着きがないように喋ってしまった。担任の先生と思われる方は、笑みを浮べて
  「違いますよ。健治くんのお母さん。健治くんは、雨宿あまやどりの為に、一時いちじしのぎで保健室でむのを待っていたんですよ。ついでにと、健治くんに、私の傘をさし出そうとしたんですが…『お母さんを待ってるんだい。』といって、ずっと待っているんですよ。」と事情を話してくれました。
  「そうだったのですか…あの子ったら」と私は、困った顔をして先生には、申し訳がつかない分でした。私を待ってくれていた健治は、私の幼い頃にそっくりだったのです。
  「お母さんを待ってたの」と、私も大雨の降る時や迷子になった時には、そう言って我慢をしていました。私の幼い頃が蘇って懐しみながら、職員室をあとにして、保健室へ向った。これが、親心、子心というものなんだねと、お母さんの想いが教えてくれた言葉の一つの意味。
  「相手を信じなさい。それがとおき人でもちかき人でも悪用されなければ、信じ通しなさい。裏切る人もいるかもしれないけども、信じ、愛を持ちなさい」とそれが、この意味とつながるなんて、今となって気が付いた。これが愛という事なんだねと心に思った。
  保健室にいて、戸を開けると、そこには、確かに担任の先生が言っていたとおりに、健治が保健室のベッドに座って足を前後にゆらゆらとさせながら、暗くなってしまいそうな窓の外を見詰めていた。
  「健治ー」と私は、健治の方へ近づいて行き、思い切りめた。
  健治は「お母さん…お母さんが来てくれると、おもっていたよ。」と言って少しくるしそうに腕をピンッと伸ばしていた。
  「ぬれては、いなかった?大丈夫だった?淋しくなかった?怖くなかった?」と私は、健治に一人にさせてしまったさみしさのあまり、色々な思いのままに言った。私だって健治ぐらいの頃にもお母さんを待っていた永い時間、淋しさや孤独さにまとわられながらも待ち続けていた。それを思い出してしまうとお母さんの愛から受け継がれる愛を私の幼い頃の様に分からなずに大人となってしまうと思ったからだった。焦燥感しょうそうかんからまれていた私の腕をす振っている健治がいた。
  「痛いよー…お母さん」と苦しがっていた。いや私の幼い頃とはとうとく、淋しがっているよりかは、喜んで痛がっていた。
  「ごっごめん。」と健治を放して、私は、 「もうおそくなるから、かえろう。」と笑顔を見せた。
  健治との帰り道に、私のスカートを引張っていた健治の方を振り向いた。
  「お母さんの約束を守ったよ。ぼくは、お母さんを困らせちゃいけないとおもって、ほけんしつでお母さんをまっていたんだよ。」と私の顔を見て、そう健治は、言った。私は、「ありがとう。信じる事を守ったんだね。健治は、お利口りこうさんだね。私が健治くらいの時とは、比べようがなかったわ。」と夜空を見上げて、私は言った。
  「くらべようって?何?」と健治がその意味を知りたがっていた。私は、健治の頭をでて言った。
  「くらべようっていうのは、私と健治とは、考える事が違って、健治の方がえらいってこと。」健治は、口をあけて「お母さんは、おりこうさんじゃないってことなの?」と言った。
  「そうねー。でも、おばあちゃんは、どう思っていたのかなー。私とこうして健治に言っているように、比べて想っていたかな?正直、お母さんには、分らないわ。でも、私は健治が好きなように、私が好きだったのかな?おばあちゃんは。」と健治と見合せてながら言った。
  「ふーん」と健治は言った。私は、健治を想っている以上に健治は、我慢強くて淋しがりやではなかった。私の考えていた幼児の時よりもやっぱり子供は、成長して、育っていくんだろうなと私は、子育こそだてする経験上で、始めて知った。子供の成長段階の素直心すなおごころを学んだのだった。でも、健治が成長していく事に、悩みの種が植え付けられていくのだった。私は、それを知るのは、まだ先の事でした。


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