花弔風月

T木S夫

○望月風香→立花つぐみ

 昼頃風香さんとの同棲先へと発った兄ちゃんがとんぼ返りをして、立花家に帰ってきた。

 ガチャっと玄関の鍵の開く音がした時、あたしは二階の自分の部屋でゴロゴロと漫画雑誌を読んでいた。

 一体、パパとママどちらが帰ってきたのだろう? そう考えながらトトトと階段を下りていたけれど、答えはどちらでもなかった。

 玄関で、兄ちゃんがキャリーバックを近くに置いて、靴を脱いでいた。

 初め、あたしは、何か忘れ物をして帰ってきたのかな、と思ったが、数瞬後に、兄ちゃんが眼鏡を掛けていない事実に気付き、驚愕した。

「ああ、つぐみ。兄が帰ってきたぞ」

 兄ちゃんの薄っぺらな笑顔を見て、あたしは理解した。

 そうか。全部終わったのだ。

 外出する時はずっと掛けていた飛鳥兄さんの眼鏡を今の翼兄ちゃんは外していた。

 意味する答えは唯一つしかない。

 あたしが兄ちゃんに掛けなければいけない言葉はこれ一つに違いない。

「おかえり、翼兄ちゃん」

 兄ちゃんは肩を落として、苦笑しながら答えた。

「ああ、ただいま」

 やっと、翼兄ちゃんが帰って来た。


 立花家は両親共に共働きで、本日一月六日はお正月休みも終了し、現在立花家にはあたしと翼兄ちゃんとジュゲムしか居なかった。

 帰って来た兄ちゃんはコートを脱ぐ事もせずにリビングのソファへ座り、天井を仰いでいた。

 あたしは確認を込めて聞いた。

「……兄ちゃん。全部話したの?」

「いや、まだ話してない。ただ、全部ばれた」

「一体、何でばれたの? 確か話す予定だったの十一日だよね? 飛鳥兄さんの二十二歳の誕生日」

 翼兄ちゃんがそう簡単に決めた事を崩すとは考え難い。

「ああ、新宿駅で俺の高校時代のクラスメイトに会っちゃって――」

 兄ちゃんはあたしに何でばれたのかを話してくれた。

 なるほど、最後の最後に兄ちゃんは運が無かったようだ。

「大丈夫なの? 風香さん、前みたいに飛鳥兄さんが死んだ事を認めないんじゃない?」

 四年前、風香さんは飛鳥兄さんの死を頑なに拒否し、翼兄ちゃんを飛鳥兄さんと思い込んだ。

 また同じ事に成れば、この兄の苦労が全て水の泡となる。

「いや、今回は〝嘘〟じゃなくて〝嫌〟って言っていたから、少なくとも前回みたいには成らないと思うよ。あの様子的に事実を全部認識したはず。まあ、詳しくどうなったかは後で悠太郎さんからメールが来るけどね」

 兄ちゃんがそう言うのなら問題は無いだろう。

「なら、良いや。うん。翼兄ちゃん、お疲れ様」

「ああ、すげえ、疲れた」

 兄ちゃんは眉根を揉みながら笑った。

 本心からの言葉だろう。

 この四年間、一番兄ちゃんの事を見てきたのはあたしだし、兄ちゃんの事を最も理解しているのもあたしだ。

 高校生の時の翼兄ちゃんが何度も眠れぬ夜を明かした事も、鏡を見てそこに映る男が誰か分からず戸惑った顔をしていた事も、飛鳥兄ちゃんの遺影の前で謝っていた事も知っていた。

 自分から背負った事とは言え、ずっと肩に掛かっていた重圧からやっと抜け出せたのだ。

 今の翼兄ちゃんは支点が無くなった滑車の様なのだろう。

「これ、返さないとな」

 兄ちゃんはコートのポケットから紺色の眼鏡ケースを取り出し、それを開けた。

 中には、ずっと掛けていた飛鳥兄さんの眼鏡が入っている。

「…………」

 リビングに置かれた仏壇の前まで歩き、翼兄ちゃんはしばらくの間、手元の眼鏡を見つめていた。

 この眼鏡は仮面だ。立花翼が立花飛鳥を演じる為の欠かせない道具だった。

 一度だけ、あたしは翼兄ちゃん用に新しい眼鏡を買ったらどうか、と提案した事がある。いつまでも飛鳥兄さんの眼鏡を使っているのはどうかと思ったからだ。

 翼兄ちゃんは、『いや、俺はこの眼鏡が良い』と短く、ただはっきりとした口調で拒否した。

 あの時あたしは理解した。あの眼鏡は翼兄ちゃんの謝罪なのだと。自分が飛鳥兄さんを演じている事を謝るための道具だったのだと。

 誰かに謝りながら、翼兄ちゃんは飛鳥兄さんを演じ続けたに違いない。


 謝罪と道化の証である眼鏡を翼兄ちゃんはゆっくりと飛鳥兄さんの遺影の前に置いた。

 そして、眼鏡を一撫でして、眼を細めながら長く息を吐いた。

 あたしはその背に何も言わず、こんな四年間の始まりを思い出していた。

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