壊れてしまったこの世界で~それでも私はあなたを愛しています~
壊れてしまったこの世界で~それでも私はあなたを愛しています~
突然、この世界は壊れた。
それは自室のドアノブのネジが緩んでコロッと落ちるように、サビで急に噛み合わなくなった歯車ように、歩いていたらいきなり車に轢かれるように、それは突然やってきた。
世界は秩序に、人間は理性に守られている。それがなくなれば人間はそこいらの獣と変わらない。ルールで縛り付けて、理性で抑えて、相手の様子を伺いながら対話する。縛られた環境の中で自身の考えを磨き、やがてそれは心に成長するのだ。成長した心はその人自身を表し、ある人は賞賛され、ある人は貶される。
周りに楽しい環境があったから好きになり、目標に向けて努力を続けた結果、周りから称賛される結果を残した者がいれば、汚く辛い環境に育ち、生きるためにいやでも努力をしていたけど結果が残せず蔑まされる者がいる。
この世の中は理不尽だ。理不尽で溢れかえっている。そう思わない人もいるかもしれないけど、少なくとも私はそう思う。全ては育ってきた、生きてきた環境によって全てが決まるのだから。今まで生きてきた軌跡が私を構成するのだ。そんなの当たり前だと思うけど、これが一番理不尽なこと。
生まれる場所なんて選べるわけがない。生きていたい環境なんて選べるわけがない。少なくとも私のような子供たちは場所を選べない。育つ環境を選べない。
環境、秩序、理性が心を構築して私という人となる。
自身を抑える理性、住んできた環境、生まれた国の秩序がまったく同じ人間なんていない。いないからこそ個性が生まれるんだ。
だけど、それが突然壊れたらどうなるだろう。
今まで普通だと思っている環境が全てがなくなった。
自分を抑える理性がなくなった。
住んでいる国の秩序が崩壊した。
そうなったらいったいなにが残るんだろう。そんなの誰にも分からない。
でも、私はわかったよ。突然壊れると自分という人が崩壊するんだ。欲をむき出しにし、精神が壊れているんじゃないかと思える奇行をとる。
それが私が今いる世界。突然壊れてしまった、狂った世界。
なんでこうなったのか分からない。どうしたらいいのか分からない。
私も壊れているのかもと思ったことはあるけど、私という人間はここにいる。私自身が私であることを分かっている。だからきっと壊れていない。でも、私以外の……親も知り合いも大好きだった彼も、全て壊れた。
朝、私はお母さんの奇声で目が覚める。世界が壊れたあの日から、朝になるのお母さんは叫びだす。
いつもどおり階段を下りてリビングに入ると肉が焼ける嫌な臭いが漂ってきた。肉の焼ける匂いなんて美味しそうな感じがするけど、それは草食動物だけ。肉食動物や雑食動物は肉を食べると体の中でアンモニアなどの成分が分泌されるため、焼くと臭い。今感じるのは肉食のそれだ。
「あああぁぁぁああぁぁぁあああああ」
「お母さん。おはよう」
「あああぁぁぁぁぁああああぁああぁぁぁ」
毎日やっていて飽きないなと思いつつ、私は自分の手をフライパンで焼き続ける母さんを見ていた。
多分、自分を罰しているんだと思う。お父さんが突然出て行ってしまい、泣きたくて、泣きたくて、でも泣けないお母さんは辛そうだった。
お母さんは、お父さんが出て行った原因が自分にあると思い込んでいるとこがあった。だから自分自身を罰しているんだと思う。
私にはお母さんの行動を止められない。だって、手を焼き終わるとスッキリした顔をするんだもん。許されているというと実感でき、心が満たされていくんだ。
「お母さん、いってきます」
「……………」
私が家を出るときだけ、お母さんは私を見つめてくる。お父さんがいなくなって、辛くても女手一つで私を育ててくれたお母さんだ。きっと私を心配してくれているんだと思う。私はそんなお母さんが大好きだ。
でも、お母さんより大好きな人が学校にいる。
学校でいつも一人ぼっちだった私を孤独からすくい上げてくれた、大好きな彼。壊れた世界だとしても、彼はいつもあそこにいる。
もう私の知っている彼じゃないことは分かっている。でも、私は彼が大好きだ。好きで好きで、心の奥底から何かが沸き上がってくるような感じがする。
一刻も早く彼に会いたい。だから私は家を出て学校を目指す。
通学路では、体育座りをした少年をサッカーボールのように蹴り転がす少女達が仲よさげに登校している姿や、とりあえず空に向かって拳銃をバンバン撃っている警官、木に抱きついて虫と一緒に樹液を舐めるサラリーマンなどが目に映る。壊れた当初は驚いたが、今では慣れてしまったので何も感じない。あれをいちいち気にしていたら彼と一緒にいる時間が減ってしまうから。
私は小走りして学校を目指す。といっても学校は家の近くにあり、十分ぐらいで到着する。
校門をくぐると、近くの茂みがガサゴソと揺れ、女子生徒が猫の死体を咥えて出てきた。私を死んだ魚の目でじっと見つめたあと、猫の腹を割いて臓物を引っ張り出して口に含む。そしてケタケタと笑うのだ。
この世界が壊れる前の彼女は学校主催のミスコンに二年連続で優勝する美少女だった。学校では周りにちやほやされていたが、学力はあまりいい方ではなかったらしい。多分、家では厳しくされていたんだと思う。そんな環境だからこそ、苦しんでいたに違いない。自分を偽り押さえつけて過ごしてきた彼女は、ある日突然、枷がなくなって解放されたのだ。
たしか好きな食べ物は臓物系とか言ってたっけ。猫を食べるのはどうかと思うけど、壊れたこの世界なら咎める人は誰もいない。だから自由にしていいんじゃないかな。だって、あんなにも楽しそうにしているんだもの。止める方が悪いかなって感じる。
「ふふ、またね」
クチャクチャと音を立てながら肉を貪る彼女に挨拶をして、私は彼の元を目指した。
彼は壊れた世界になっても、彼はいつも屋上にいる。そして空を眺めているんだ。
時折にぱーと笑うその顔が私を元気づけてくれる。だから一刻も早く彼に会いたい。
でも、会うためには学校を彷徨う女を駆除しなければならない。
彼は特別かっこよかったわけじゃない。だけど、いつも誰かに囲まれていた。相手がどんな人であっても必ず声をかけてくれる、八方美人みたいな感じもあったけど、それで救われている私みたいな人もいる。そんな人当たりのいい彼だからモテたのだ。
だからこそ壊れた世界になってからというもの、彼という蜜を狙って女どもが湧いてくる。
彼は私のものだ。誰にも渡さない。だから私は駆除をする。
近くの掃除用具入れから箒を取り出した。それからカバンを背負い、手に入れた箒をカバンに引っ掛けた。そして、掃除用具入れの横に置いてある消火器を持ち上げて、近くにいた女に一撃を加える。ブリッジ状態で走っている女のお腹をめがけて食らわした一撃が効いたようで、まるで瀕死状態の虫のようにピクピクと痙攣し始める。
そこに先ほど手に入れた箒を力いっぱい振り抜いた。消火器で殴りつけた場所に箒が折れる勢いで叩きつける。すると女が「クチャキー、キャクラハキー」と鳴き始めた。
これは危険を感じた害虫が、他の仲間にフェロモンで知らせるのと同じだ。この女の場合は、ひとりで太刀打ちできないから助けを呼んで、最終的に私を殺そうとしてくる。
ふん、本当にどうしようもないゴミどもだこと。
私は女どもを追っ払うために持ってきた殺虫剤をカバンの中から取り出した。普通の殺虫剤だと女どもにあまり効果はないが、これは古いタイプの殺虫剤であり、成分にニコチンが含まれていて人体に害を及ぼす。
しっかりとマスクを着用し、群がる女どもに吹き付けた。
「グギュラゲボファバワクゲウア」
奇声ををあげ、目を抑えながら廊下でのたうち回る。殺虫剤が繊細な目に直撃したようで、その刺激は目が抉れると思えるぐらい痛いらしい。私が受けたことがないので分からないが女の様子をいていると、どれだけ痛いのか感じられる。
「ギャウグキャウグキャウ」
女はあまりの激痛のせいか、自分の目に指を突っ込み、目をえぐり出した。もう見えなくなっているはずなのに、私がいる方を向いてニタァと笑った。
はは、いい気味だ。彼に群がるから悪いんだ。目も取れて、だいぶスッキリしたんじゃないかな。
さぁ、この女は放っておいて先を進みましょう。私は早く彼に会いたい。一秒でも長く一緒にいたいから。
廊下を進んで階段を目指す。彼は屋上にいるので女どもを蹴散らしながら進まなきゃいけないけど、彼の元に行くための試練だと考えれば、蹴散らすのも容易い。
私は彼のためならなんだってする。なんだってさせてあげられる。それだけ彼のことを愛しているから。
階段付近は歪な雰囲気を漂わせていた。
廊下には学園カーストの最下層である女どもが磔にされており、悲鳴と喘ぎというコーラスを奏でる。
世界が壊れる前の私なら、これを見ただけで嘔吐し、泣き崩れていたと思うけど、慣れてしまった私には心地よい音色が奏でられているように感じられる。
素晴らしい響きだ。まるで私と彼を祝福してくれているようじゃないか。
でも、この場所はそれだけじゃない。学園カーストの最上層である女が私の前に立ち塞がるのだ。
ほら、やっぱり出てきた。
私の前に現れた、血に塗れてきれいな金髪を赤く汚している、片目の飛び出た小汚いゾンビのような女だ。
他の女どもとは違い、地面に這い蹲ったような姿勢、それで走っている時と同じような速度で向かってくる為、その姿はある種のホラー映像のようだった。
あの子はたしか、壊れる前の世界の時にいつも彼の隣にいたゴミ虫みたいなやつだ。
スカートも短く、ワイシャツのボタンを少しだけ外して肌を露出させ、彼をいつも惑わそうとしている、最低最悪のクズだ。
そして、私が彼と話している時に割り込んできて邪魔をし、その後必ず私をいじめていた。
ある時はひと目のつかないところで暴行を加え、ある時は服を脱がされ、男子便所に放り投げられた。屈辱に塗れたあの瞬間を思い出すたびに、ゴミクズに殺意が湧いてきた。
この学校で一番憎い、心の濁ったゴキブリのようなこの女も、壊れた世界になって、このような惨めな姿を晒している。
ははは、なんていい気味なんだろう。
そんな姿になっても、私をいじめようとしているの?
もしかして、あなたも彼のことが好きだった?
「でも残念ね。生ゴミのような心を持っているあなたに彼が振り向くことはないわ。
しょうがないから、私が楽にしてあげましょう。
ほら、私って優しいでしょう?」
カバンから取り出した包丁をあの女に向かって振り抜いた。
「ギャァァァァアアアアァァァア」
包丁が女の肉を裂き、臓器を引きちぎり、骨を削る。
包丁をぐりぐりとねじ込ませる度に、素敵な声をあげる女の姿は、醜くて、穢らわしくて、滑稽で、そして……とても綺麗だった。
血の涙を流しながら屋上に向かって手を伸ばすこの女は、こんな状態になっても彼のことを思っているみたい。それでも彼の隣にいるのはこの私。あなたではない。
辛いでしょ、苦しいでしょ、悲しいでしょ。
私が今、楽にしてあげるから。彼のことは任せて、ゆっくり休んでちょうだい。
女から包丁を引き抜き、うつ伏せになている女を仰向けにさせ、再び包丁を刺して腹から切り裂いた。肉が削がれて骨が剥き出しになる。そして、弱々しく鼓動する心臓が露出した。
「あらあら、恥ずかしくないの?
自分の中身をさらけ出すなんて、羞恥心が全くないのね。ふふ、ははははははは」
「あ、あぁぁあ。あぁぁあああぁぁああ」
濁った目が血の涙によって赤く染まる。恐怖に引きつった女の心臓の鼓動はどんどん弱くなり、目の光を失うとともに鼓動は止まった。
「はは、はははは。ざまぁみろ。私に散々ひどいことをやってきて、いつもいつも邪魔ばっかりして。これが報いってやつだ。私のほうが彼を愛している。お前みたいなクソビッチは死んで当然。私が許せないのはいじめとかそんなんじゃない。いつも彼を惑わして、私から遠ざけようとしていた事だ。
これは裁きだ。彼と私の運命を翻弄した裁きなんだ。はは、ははははははは」
ふう、少し感情的になってしまったみたいだ。それもこれもこの女が悪いのだ。
これはもう女というより生ゴミみたいなものになったが、これで邪魔はいなくなった。
これで心置きなく彼のもとに行ける。大変素晴らしいことなのだ。
生ゴミから刺さりっぱなしの包丁を引き抜き、立ち上がって服を整える。
ふと横を見ると、教室のガラスに私の顔が映っていた。
その顔は何かが吹っ切れたような笑顔をしていて、彼もかわいいって言ってくれるような気がした。
「ふふ、早く彼にあって、可愛いと言ってもらいたいわ」
鼻歌を歌いながら階段をゆっくりと登っていく。
一通り女を駆除したので襲ってくるものは誰もいない。私と彼の邪魔をするものは誰もいないのだ。
これで、ゆっくりと彼を愛を語り合える。
いや、彼はもう心がない。壊れた世界になって、心を失い、無表情で空を眺める。
もう話すこともできないが、時折笑うその笑顔は、きっと心が安らかになっている時に違いない。
いつか、私を見て笑ってくれると嬉しいな。
そしたら、心が通じ合った証明になるんですもの。
階段を上りきり、壊れた鍵のついた扉を開ける。
扉の向こうはきれいな青空とゆったり流れる雲が心を安らかにしてくれるとてもきれいな場所で、地面に設置されている人口芝生がまるでどこかの公園のように感じさせてくれる。
そして、複数あるベンチの一つに彼が座っており、ぼーっと空を眺めていた。
今日も素敵な彼の隣に私は向かう。彼は私に気がついたようで、私の方を少しだけ見たが、すぐに視線を戻し空を眺め始める。
私は彼の隣に座り、そっと寄添った。
いつまでも、こんな時間が続けばいいのに。
私は彼を愛している。彼が心を失おうとも、彼の姿が変わってしまおうとも、私は彼を愛し続ける。
それが彼に救われた私の思い。
この壊れた世界で私が安らげる幸せな場所。
私はそっと目を閉じた。
今、彼はどんなことを思ってくれているのかな。
もし、こんな世界になっていなかったら、私にドキドキしてくれたかな。
私が告白したとして、彼は受け入れてくれたかな。
でも、こんな世界になってしまったので、そんな日は二度とこない。心を失い、何も感じなくなった彼。昔の彼とは二度と会えないだろう。
だったら、彼の心を私の色で染めてあげよう。私の愛おしい彼の心を私で染めて、心を取り戻してあげよう。
それが彼を愛する私の努め。彼のために私が出来ること。
だけど……もう少しこのままでいさせて。この幸せを、もっと感じていたいから。
……彼が少しだけ動いた。そして、私の肩に彼の腕の感触が感じられる。
私の思いが伝わったのかな。それだと嬉しいな。
そっと目を開けると……歪な表情とニタァとした女どもを思い出させる笑みで私を見つめる彼がいた。
***
私は彼のためにこの手紙を残します。
私の愛する彼は豹変したように襲ってきました。壊れた世界で心を失った彼が、なぜそのような行動に出たのかわかりません。
でも、なんでかな。彼が泣いているような気がしました。
狂気に染められた彼の瞳には、辛く酷い悲しみの光が宿っているように見えました。
彼に襲われたあと、私がどのような目にあったのか、ちゃんと覚えていません。
私が思い出せるのは、彼に襲われたあの屋上に、きれいな赤い花が咲いたことだけです。
もし、見知らぬあなたがこれを読んだなら、どうかお願いします。私はもう死んでしまうから。狂気に満ちた彼から、なんとか逃げきれても、このままじゃ助からないことを知っているから。
私は彼に恐怖したから逃げ出したのではありません。私は彼を愛しています。
でも、私の命は風前の灯。私の力では彼を救えない事が分かってしまったからです。
だからこれを読んでいるあなたに託したいのです。
どうか、大切な彼を私の代わりに救ってください。
そして……私の彼を惑わした元凶………
殺してください。
             藍原 鏡花
それは自室のドアノブのネジが緩んでコロッと落ちるように、サビで急に噛み合わなくなった歯車ように、歩いていたらいきなり車に轢かれるように、それは突然やってきた。
世界は秩序に、人間は理性に守られている。それがなくなれば人間はそこいらの獣と変わらない。ルールで縛り付けて、理性で抑えて、相手の様子を伺いながら対話する。縛られた環境の中で自身の考えを磨き、やがてそれは心に成長するのだ。成長した心はその人自身を表し、ある人は賞賛され、ある人は貶される。
周りに楽しい環境があったから好きになり、目標に向けて努力を続けた結果、周りから称賛される結果を残した者がいれば、汚く辛い環境に育ち、生きるためにいやでも努力をしていたけど結果が残せず蔑まされる者がいる。
この世の中は理不尽だ。理不尽で溢れかえっている。そう思わない人もいるかもしれないけど、少なくとも私はそう思う。全ては育ってきた、生きてきた環境によって全てが決まるのだから。今まで生きてきた軌跡が私を構成するのだ。そんなの当たり前だと思うけど、これが一番理不尽なこと。
生まれる場所なんて選べるわけがない。生きていたい環境なんて選べるわけがない。少なくとも私のような子供たちは場所を選べない。育つ環境を選べない。
環境、秩序、理性が心を構築して私という人となる。
自身を抑える理性、住んできた環境、生まれた国の秩序がまったく同じ人間なんていない。いないからこそ個性が生まれるんだ。
だけど、それが突然壊れたらどうなるだろう。
今まで普通だと思っている環境が全てがなくなった。
自分を抑える理性がなくなった。
住んでいる国の秩序が崩壊した。
そうなったらいったいなにが残るんだろう。そんなの誰にも分からない。
でも、私はわかったよ。突然壊れると自分という人が崩壊するんだ。欲をむき出しにし、精神が壊れているんじゃないかと思える奇行をとる。
それが私が今いる世界。突然壊れてしまった、狂った世界。
なんでこうなったのか分からない。どうしたらいいのか分からない。
私も壊れているのかもと思ったことはあるけど、私という人間はここにいる。私自身が私であることを分かっている。だからきっと壊れていない。でも、私以外の……親も知り合いも大好きだった彼も、全て壊れた。
朝、私はお母さんの奇声で目が覚める。世界が壊れたあの日から、朝になるのお母さんは叫びだす。
いつもどおり階段を下りてリビングに入ると肉が焼ける嫌な臭いが漂ってきた。肉の焼ける匂いなんて美味しそうな感じがするけど、それは草食動物だけ。肉食動物や雑食動物は肉を食べると体の中でアンモニアなどの成分が分泌されるため、焼くと臭い。今感じるのは肉食のそれだ。
「あああぁぁぁああぁぁぁあああああ」
「お母さん。おはよう」
「あああぁぁぁぁぁああああぁああぁぁぁ」
毎日やっていて飽きないなと思いつつ、私は自分の手をフライパンで焼き続ける母さんを見ていた。
多分、自分を罰しているんだと思う。お父さんが突然出て行ってしまい、泣きたくて、泣きたくて、でも泣けないお母さんは辛そうだった。
お母さんは、お父さんが出て行った原因が自分にあると思い込んでいるとこがあった。だから自分自身を罰しているんだと思う。
私にはお母さんの行動を止められない。だって、手を焼き終わるとスッキリした顔をするんだもん。許されているというと実感でき、心が満たされていくんだ。
「お母さん、いってきます」
「……………」
私が家を出るときだけ、お母さんは私を見つめてくる。お父さんがいなくなって、辛くても女手一つで私を育ててくれたお母さんだ。きっと私を心配してくれているんだと思う。私はそんなお母さんが大好きだ。
でも、お母さんより大好きな人が学校にいる。
学校でいつも一人ぼっちだった私を孤独からすくい上げてくれた、大好きな彼。壊れた世界だとしても、彼はいつもあそこにいる。
もう私の知っている彼じゃないことは分かっている。でも、私は彼が大好きだ。好きで好きで、心の奥底から何かが沸き上がってくるような感じがする。
一刻も早く彼に会いたい。だから私は家を出て学校を目指す。
通学路では、体育座りをした少年をサッカーボールのように蹴り転がす少女達が仲よさげに登校している姿や、とりあえず空に向かって拳銃をバンバン撃っている警官、木に抱きついて虫と一緒に樹液を舐めるサラリーマンなどが目に映る。壊れた当初は驚いたが、今では慣れてしまったので何も感じない。あれをいちいち気にしていたら彼と一緒にいる時間が減ってしまうから。
私は小走りして学校を目指す。といっても学校は家の近くにあり、十分ぐらいで到着する。
校門をくぐると、近くの茂みがガサゴソと揺れ、女子生徒が猫の死体を咥えて出てきた。私を死んだ魚の目でじっと見つめたあと、猫の腹を割いて臓物を引っ張り出して口に含む。そしてケタケタと笑うのだ。
この世界が壊れる前の彼女は学校主催のミスコンに二年連続で優勝する美少女だった。学校では周りにちやほやされていたが、学力はあまりいい方ではなかったらしい。多分、家では厳しくされていたんだと思う。そんな環境だからこそ、苦しんでいたに違いない。自分を偽り押さえつけて過ごしてきた彼女は、ある日突然、枷がなくなって解放されたのだ。
たしか好きな食べ物は臓物系とか言ってたっけ。猫を食べるのはどうかと思うけど、壊れたこの世界なら咎める人は誰もいない。だから自由にしていいんじゃないかな。だって、あんなにも楽しそうにしているんだもの。止める方が悪いかなって感じる。
「ふふ、またね」
クチャクチャと音を立てながら肉を貪る彼女に挨拶をして、私は彼の元を目指した。
彼は壊れた世界になっても、彼はいつも屋上にいる。そして空を眺めているんだ。
時折にぱーと笑うその顔が私を元気づけてくれる。だから一刻も早く彼に会いたい。
でも、会うためには学校を彷徨う女を駆除しなければならない。
彼は特別かっこよかったわけじゃない。だけど、いつも誰かに囲まれていた。相手がどんな人であっても必ず声をかけてくれる、八方美人みたいな感じもあったけど、それで救われている私みたいな人もいる。そんな人当たりのいい彼だからモテたのだ。
だからこそ壊れた世界になってからというもの、彼という蜜を狙って女どもが湧いてくる。
彼は私のものだ。誰にも渡さない。だから私は駆除をする。
近くの掃除用具入れから箒を取り出した。それからカバンを背負い、手に入れた箒をカバンに引っ掛けた。そして、掃除用具入れの横に置いてある消火器を持ち上げて、近くにいた女に一撃を加える。ブリッジ状態で走っている女のお腹をめがけて食らわした一撃が効いたようで、まるで瀕死状態の虫のようにピクピクと痙攣し始める。
そこに先ほど手に入れた箒を力いっぱい振り抜いた。消火器で殴りつけた場所に箒が折れる勢いで叩きつける。すると女が「クチャキー、キャクラハキー」と鳴き始めた。
これは危険を感じた害虫が、他の仲間にフェロモンで知らせるのと同じだ。この女の場合は、ひとりで太刀打ちできないから助けを呼んで、最終的に私を殺そうとしてくる。
ふん、本当にどうしようもないゴミどもだこと。
私は女どもを追っ払うために持ってきた殺虫剤をカバンの中から取り出した。普通の殺虫剤だと女どもにあまり効果はないが、これは古いタイプの殺虫剤であり、成分にニコチンが含まれていて人体に害を及ぼす。
しっかりとマスクを着用し、群がる女どもに吹き付けた。
「グギュラゲボファバワクゲウア」
奇声ををあげ、目を抑えながら廊下でのたうち回る。殺虫剤が繊細な目に直撃したようで、その刺激は目が抉れると思えるぐらい痛いらしい。私が受けたことがないので分からないが女の様子をいていると、どれだけ痛いのか感じられる。
「ギャウグキャウグキャウ」
女はあまりの激痛のせいか、自分の目に指を突っ込み、目をえぐり出した。もう見えなくなっているはずなのに、私がいる方を向いてニタァと笑った。
はは、いい気味だ。彼に群がるから悪いんだ。目も取れて、だいぶスッキリしたんじゃないかな。
さぁ、この女は放っておいて先を進みましょう。私は早く彼に会いたい。一秒でも長く一緒にいたいから。
廊下を進んで階段を目指す。彼は屋上にいるので女どもを蹴散らしながら進まなきゃいけないけど、彼の元に行くための試練だと考えれば、蹴散らすのも容易い。
私は彼のためならなんだってする。なんだってさせてあげられる。それだけ彼のことを愛しているから。
階段付近は歪な雰囲気を漂わせていた。
廊下には学園カーストの最下層である女どもが磔にされており、悲鳴と喘ぎというコーラスを奏でる。
世界が壊れる前の私なら、これを見ただけで嘔吐し、泣き崩れていたと思うけど、慣れてしまった私には心地よい音色が奏でられているように感じられる。
素晴らしい響きだ。まるで私と彼を祝福してくれているようじゃないか。
でも、この場所はそれだけじゃない。学園カーストの最上層である女が私の前に立ち塞がるのだ。
ほら、やっぱり出てきた。
私の前に現れた、血に塗れてきれいな金髪を赤く汚している、片目の飛び出た小汚いゾンビのような女だ。
他の女どもとは違い、地面に這い蹲ったような姿勢、それで走っている時と同じような速度で向かってくる為、その姿はある種のホラー映像のようだった。
あの子はたしか、壊れる前の世界の時にいつも彼の隣にいたゴミ虫みたいなやつだ。
スカートも短く、ワイシャツのボタンを少しだけ外して肌を露出させ、彼をいつも惑わそうとしている、最低最悪のクズだ。
そして、私が彼と話している時に割り込んできて邪魔をし、その後必ず私をいじめていた。
ある時はひと目のつかないところで暴行を加え、ある時は服を脱がされ、男子便所に放り投げられた。屈辱に塗れたあの瞬間を思い出すたびに、ゴミクズに殺意が湧いてきた。
この学校で一番憎い、心の濁ったゴキブリのようなこの女も、壊れた世界になって、このような惨めな姿を晒している。
ははは、なんていい気味なんだろう。
そんな姿になっても、私をいじめようとしているの?
もしかして、あなたも彼のことが好きだった?
「でも残念ね。生ゴミのような心を持っているあなたに彼が振り向くことはないわ。
しょうがないから、私が楽にしてあげましょう。
ほら、私って優しいでしょう?」
カバンから取り出した包丁をあの女に向かって振り抜いた。
「ギャァァァァアアアアァァァア」
包丁が女の肉を裂き、臓器を引きちぎり、骨を削る。
包丁をぐりぐりとねじ込ませる度に、素敵な声をあげる女の姿は、醜くて、穢らわしくて、滑稽で、そして……とても綺麗だった。
血の涙を流しながら屋上に向かって手を伸ばすこの女は、こんな状態になっても彼のことを思っているみたい。それでも彼の隣にいるのはこの私。あなたではない。
辛いでしょ、苦しいでしょ、悲しいでしょ。
私が今、楽にしてあげるから。彼のことは任せて、ゆっくり休んでちょうだい。
女から包丁を引き抜き、うつ伏せになている女を仰向けにさせ、再び包丁を刺して腹から切り裂いた。肉が削がれて骨が剥き出しになる。そして、弱々しく鼓動する心臓が露出した。
「あらあら、恥ずかしくないの?
自分の中身をさらけ出すなんて、羞恥心が全くないのね。ふふ、ははははははは」
「あ、あぁぁあ。あぁぁあああぁぁああ」
濁った目が血の涙によって赤く染まる。恐怖に引きつった女の心臓の鼓動はどんどん弱くなり、目の光を失うとともに鼓動は止まった。
「はは、はははは。ざまぁみろ。私に散々ひどいことをやってきて、いつもいつも邪魔ばっかりして。これが報いってやつだ。私のほうが彼を愛している。お前みたいなクソビッチは死んで当然。私が許せないのはいじめとかそんなんじゃない。いつも彼を惑わして、私から遠ざけようとしていた事だ。
これは裁きだ。彼と私の運命を翻弄した裁きなんだ。はは、ははははははは」
ふう、少し感情的になってしまったみたいだ。それもこれもこの女が悪いのだ。
これはもう女というより生ゴミみたいなものになったが、これで邪魔はいなくなった。
これで心置きなく彼のもとに行ける。大変素晴らしいことなのだ。
生ゴミから刺さりっぱなしの包丁を引き抜き、立ち上がって服を整える。
ふと横を見ると、教室のガラスに私の顔が映っていた。
その顔は何かが吹っ切れたような笑顔をしていて、彼もかわいいって言ってくれるような気がした。
「ふふ、早く彼にあって、可愛いと言ってもらいたいわ」
鼻歌を歌いながら階段をゆっくりと登っていく。
一通り女を駆除したので襲ってくるものは誰もいない。私と彼の邪魔をするものは誰もいないのだ。
これで、ゆっくりと彼を愛を語り合える。
いや、彼はもう心がない。壊れた世界になって、心を失い、無表情で空を眺める。
もう話すこともできないが、時折笑うその笑顔は、きっと心が安らかになっている時に違いない。
いつか、私を見て笑ってくれると嬉しいな。
そしたら、心が通じ合った証明になるんですもの。
階段を上りきり、壊れた鍵のついた扉を開ける。
扉の向こうはきれいな青空とゆったり流れる雲が心を安らかにしてくれるとてもきれいな場所で、地面に設置されている人口芝生がまるでどこかの公園のように感じさせてくれる。
そして、複数あるベンチの一つに彼が座っており、ぼーっと空を眺めていた。
今日も素敵な彼の隣に私は向かう。彼は私に気がついたようで、私の方を少しだけ見たが、すぐに視線を戻し空を眺め始める。
私は彼の隣に座り、そっと寄添った。
いつまでも、こんな時間が続けばいいのに。
私は彼を愛している。彼が心を失おうとも、彼の姿が変わってしまおうとも、私は彼を愛し続ける。
それが彼に救われた私の思い。
この壊れた世界で私が安らげる幸せな場所。
私はそっと目を閉じた。
今、彼はどんなことを思ってくれているのかな。
もし、こんな世界になっていなかったら、私にドキドキしてくれたかな。
私が告白したとして、彼は受け入れてくれたかな。
でも、こんな世界になってしまったので、そんな日は二度とこない。心を失い、何も感じなくなった彼。昔の彼とは二度と会えないだろう。
だったら、彼の心を私の色で染めてあげよう。私の愛おしい彼の心を私で染めて、心を取り戻してあげよう。
それが彼を愛する私の努め。彼のために私が出来ること。
だけど……もう少しこのままでいさせて。この幸せを、もっと感じていたいから。
……彼が少しだけ動いた。そして、私の肩に彼の腕の感触が感じられる。
私の思いが伝わったのかな。それだと嬉しいな。
そっと目を開けると……歪な表情とニタァとした女どもを思い出させる笑みで私を見つめる彼がいた。
***
私は彼のためにこの手紙を残します。
私の愛する彼は豹変したように襲ってきました。壊れた世界で心を失った彼が、なぜそのような行動に出たのかわかりません。
でも、なんでかな。彼が泣いているような気がしました。
狂気に染められた彼の瞳には、辛く酷い悲しみの光が宿っているように見えました。
彼に襲われたあと、私がどのような目にあったのか、ちゃんと覚えていません。
私が思い出せるのは、彼に襲われたあの屋上に、きれいな赤い花が咲いたことだけです。
もし、見知らぬあなたがこれを読んだなら、どうかお願いします。私はもう死んでしまうから。狂気に満ちた彼から、なんとか逃げきれても、このままじゃ助からないことを知っているから。
私は彼に恐怖したから逃げ出したのではありません。私は彼を愛しています。
でも、私の命は風前の灯。私の力では彼を救えない事が分かってしまったからです。
だからこれを読んでいるあなたに託したいのです。
どうか、大切な彼を私の代わりに救ってください。
そして……私の彼を惑わした元凶………
殺してください。
             藍原 鏡花
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