臆病な私の大きな勇気

日向 葵

臆病な私の大きな勇気

〈木曜日 夜〉

 私は夕方の出来事が忘れられなかった。
 親友の咲良が、静かに泣くその姿。何が面白いのか、笑いあうクラスの皆。
 そして、恐怖からその場に逃げ出した私は最低だ。
 でも、あの光景が脳裏に浮かぶたびに、強烈な不安が心の奥底から湧いてくる。
 だから、行かないとダメだと思い、咲良の家まできた。
 でも、今更どの面を下げて会えばいいのだろうか。
 私はいじめの事実を知りながら、ずっと逃げてきた。怖くて、震えるだけの私。小学生の時までは親友だったのに、私が咲良を裏切った。
 でも、今日の出来事は、あまりにも酷い。
 スカートを捲って、頭の上あたりで紐を結んで何もできない状態にして、小柄な男子が咲良の下着を脱がしたのだ。
 そんなことをされたら、普通ならどう思うだろう。
 私なら、死にたいと思う。いや、思うだけじゃないかもしれない。
 そんな酷いことをされた、咲良の様子が心配だけど、会うのも怖い。
 でも、咲良が死んでしまうと思うともっと怖い。
 だから、私はインターホンを押した。

「はい、どちら様……って春香ちゃん。お久しぶりね」

「はい、咲良のお母さん。お久しぶりです。ちょっと咲良に会いに来たんですけど、大丈夫ですか?」

「ええ、いいわよ。上がってちょうだい」

 ガチャリと鍵を開く音がした。そして、扉の先には咲良のお母さんが笑顔で迎えてくれる。
 その顔が、私の心を強く締め付ける。いじめている事実を知っていながら、何もしてこなかった。恨まれても仕方がない。だけど、知らないとしても、笑って迎えてくれるその顔が、今の私にはたまらなく辛い。

「咲良! 春香ちゃんが来たわよ!」

 咲良のお母さんが二階に向かって叫ぶ。けど、咲良の反応は何もない。
 咲良のお母さんは「あら、気が付いていないのかしら」と言ったあと、私を家に上げてくれた。
 そして、咲良の部屋の前に行き、ノックをする。

「咲良、寝てるの?」

 いくらノックをしても返事がなかった。
 私は、不安にかられ、扉を開いてしまった。

「きゃあぁぁぁぁああぁぁあ、咲良、咲良!」

 そこに映った光景、最悪の出来事。
 咲良はロープで首を吊っていた。

 私はその場で崩れ落ちるように座った。頬を伝う感触は、涙だろう。
 もっと、もっと早く、勇気をもって助けてあげればよかったのに。そう思うと、もっと苦しくなった。
 私はなんて最低な人間なんだろう。

 いくら後悔しても、なってしまった事実は変わらない。
 私は、臆病で、泣き虫で、逃げることしかしなかった最低な人間だ。
 酷い光景を見るまで、この一歩が踏み出せなかった。だから、こんな事態になってしまったんだ。
 クラスの群れという化け物に怯えず、勇気をもって助けてあげればこんなことにはならなかったのに。
 脳裏に浮かぶのは、咲良と楽しかった日々と、いじめられているのを見て見ぬ振りをしていた日々。咲良のお母さんも、なんで、どうして、と泣いている。そして、どうにか下ろせないかと試行錯誤していた。

「……ごひゅ」

「……え」

 今の音は何。咲良から聞こえた? だとすると、もしかして、まだ助けられる可能性がある!

「咲良のお母さん。私が咲良を支えています。だから、ハサミか何かを持ってきてください。お願いします、早く」

 私は、咲良の部屋に倒れていた椅子を起こして、咲良の足元に持っていく。
 若干、口がつり上がっている感覚があるから、たぶん笑っているのかもしれない。
 小さな音だったけど、助けられる可能性が見つかったんだ。だったら全力でやるしかない。こんなところで、咲良と離れてしまうなんて、絶対に嫌だ!

「どうして、どうして笑っているのよ!」

 咲良のお母さんは、私がおかしくなったように見えたんだと思う。私以上に気が動転して、音に気がつかなかったんだ。

「音が、音が聞こえたんです。まだ助けられる可能性があるかも知れないんです。だから、早く!」

「え、わ、分かったわ」

 咲良のお母さんは、急ぎ足で一階に降りていった。
 私は、その間に、咲良を椅子に乗せて、身体が倒れないように支える。椅子のお陰で、体が倒れない限り、これ以上締まることはない。
 だけど、固く結ばれたロープは簡単には解けなかった。

「持ってきたわ」

「私が支えているので、ロープをお願いします」

 無事にロープを切って、咲良を床に寝かす。胸元に耳を当てると、ドクン、ドクンと心臓の鼓動が聞こえた。
 よかった、まだ生きている。
 私は、安堵のため息を吐くと、その場に座って泣き出した。

「ごめんね。ごめんね咲良。私が臆病なばかりに。本当にごめんなさい」

 咲良に抱きつくように、泣いている私を、困惑しながらも、生きていることに安堵した、咲良のお母さん。

「私、病院に連絡するから、もう少し、様子を見ていてちょうだい」

「は、はぃ……」

 私は、咲良の手を握って、ずっと泣いていた。

 病院に搬送されるとき、私は一緒についていった。どうしても、どうしても咲良が心配だったから。
 生きていることはわかっているけど、まだ目を覚まさない。それが不安だった。もう目が覚めないかもしれないと思うと怖かった。
 震えている私のもとに、咲良のお母さんがやってくる。

「咲良は、咲良は大丈夫なんですか」

「ええ、精密な検査をもっとする必要はあるけど、命に別状はないだろうって」

「そ、そうですか」

 よかった。咲良は助かったんだ。今日、咲良のもとに来てよかった。もう二度と会えなくなるとこだった。

「ねえ、春香ちゃん。学校の事、教えてくれないかしら?」

 咲良のお母さんは、優しく言ってくれた。でも、本当はどう思っているんだろう。
 私が来て、娘が自殺しようとしていたら、誰だって、私を疑うだろう。
 だから、正直に話すのも怖い。私が話して、クラスという群れの化け物から外れてしまい、私が襲われるかもしれないということを思うともっと怖い。
 だけど、今言わないと、私は私が許せなくなる。咲良が死のうと思うまで、何もできなかった私が嫌いだ。だけど、親友だった子が、死を選ぶまで追い詰められている姿を見て、まだ動けないとしたら、それこそ本当の愚か者だ。
 だから、私は咲良のお母さんに全てを話した。
 どれぐらい話したのか、分からない。
 咲良のお母さんは、怒らず、全てを聞いてくれた。
 そして、「ありがとう」と言った。
 私は訳がわ有らなかった。なんで、お礼を言われるの。私は、ずっと何もしてこなかったんだよ。
 そう思っていると、咲良のお母さんが、一通の手紙を渡してくれた。
 そこには咲良の字で『遺書』と書かれていた。

『先立つ私をお許しください。
 私は、現状が辛く、苦しい。もう耐えられそうにないと思ったので、自殺をしようと思いました。
 私はクラスの皆さんにいじめを受けています。私が何をして、どうしてこうなったのかわかりません。皆さんは私に対して何か思うところがあるようで、日々いじめはエスカレートしていきました。
 あるときは、虫をロッカーにばらまかれたり、トイレで水をかけられたり、暴力を振るわれたり、様々なことをされました。
 でも、そんな中でも頑張ろうと思えたのは、親友の春香がいたからです。春香は、臆病で泣き虫なところもあるけど、とっても優しい女の子です。私がいじめられて、いつも辛そうにしていました。皆の前で助ける勇気はなかったかもしれませんが、皆にバレないように、私を助けようとしてくれたことを、知っています。朝、いつも遅刻しているのは、汚された、私の机を掃除してから、屋上で時間を潰しているからですよね。だから、私は頑張ろうと思っていました。
 でも、もう限界です。いじめも辛いけど、私のせいで辛い思いをし続ける、春香を見るのも辛いのです。
 だから、春香。私のことを忘れて、幸せに生きてください。私はあなたにたくさん助けられてきました。けど、私のほうが先に限界に来てしまったようです。だから、もう私で苦しまないでください。
 お父さん、お母さん。このような親不孝な私でごめんなさい。
 今まで育ててくれてありがとう』

 涙で少し滲んだその手紙を読んで、私は声をあげて泣いた。
 咲良は私のしていることを知っていた。それが咲良の支えになっていたんだ。それが少し嬉しくて、もう忘れてくれという文章に怒りが沸いてきた。
 ずっと助けられずにいた私に言う資格がないかもしれないけど、それでも、もう忘れてくれとはあんまりだ。忘れられるわけがない。いじめられる前は、いつも一緒で、本当の家族のように仲が良かった咲良の事を、忘れられるはずがないんだ。
 もう咲良にあんな目にあわせたくない。私がどうにかしなきゃいけないんだ。私の心の中に、火が付いたような気がした。
 やっと、やっと私は決意できた。
 ずっと逃げていた。後ろで震えていた。そんな自分と別れる時がきた。
 親友が、死のうとするほど追い詰められることを知って、もう黙ってはいられない。

「ごめんなさい。咲良のお母さん」

「いいのよ。ずっと咲良のことを想っていてくれて嬉しいわ。いじめを実際に見て、助けてあげて欲しかったけど、そんなこと無理して言えないわ。もし、自分がいじめられたらって思うと怖いものね。本当は大人が早く気がついて、助けてあげなきゃいけなかったのに。
 春香ちゃんが陰ながら支えてくれたから、そして、様子を見に来てくれたから、咲良は助かったのよ」

「でも、まだ全てが終わっていません。私、やります。あんな咲良の姿を見て、黙っていられません」

「そう……」

 咲良のお母さんが私を包み込む。命の鼓動。暖かな体温。そして、肩のあたりで、湿ったような感触がする。
 咲良のお母さんも泣いていた。娘が自殺しようとするまで追い詰められていたことを知って。
 私も、大きく泣いている。そして、もう二度と逃げないと決めたんだ。

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