武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 決別Ⅶ

 ラビット――いや、グレゴリーを前にして、ウッドはどう攻勢に出ればいいか考えあぐねていた。
 隙はあるのかないのか分からない。普段学校で見るグレゴリーとしか見られなかった。けれど、こういう掴めない相手は生涯を通して散々立ち会っている。父、ナイ、ファーガス。最近では、戦ってこそないがアルノとかいう執事も加わった
「何だ、お前なら笑いながら飛び掛かってくるもんだと思ってたぞ、ウッド」
「未知の相手には油断しないと決めたばかりでな」
「そうか。なら、こっちから行かせてもらう」
 グレゴリーはゆったりとファイティングポーズをとって、前に出した左拳から覗き見るようにウッドを睨んだ。これまで戦闘続きの人生だったから、ウッドはこれがボクシングの構えであること、そしてボクシングにおける前手は盾の役割を果たすことを知っていた。
 だからこそ、何かがおかしいと気付くのだ。あれは、盾を構え敵のカウンターを狙う者の視線ではない。もっと鋭い、銃の狙いを付けている目――
 咄嗟に避けた。避けても爆ぜた。
 グレゴリーが行ったのは、一見すれば素早いジャブでしかなかった。だがウッドはすかさず右に避け、それでも間に合わず左肩から腕先のすべてを失った。
 ウッドの左腕はミンチと呼ぶのも躊躇うほどに、あっけなく爆発四散した。空中に飛び散った肉片が、小さな水音を立てて背後の地面に墜落する。あまりに静かな光景だった。軽口も叩けなかった。
 蛆の絡まり合うような音と共に、ウッドの腕は再生を始める。音がその場に再び戻ってきてやっと、ウッドは現実感を伴って自らの腕とグレゴリーの間で視線を右往左往させる。
「今のを避けるんだな。しかも、再生が始まってる。面倒だが……そちらに関しては『能力』じゃないのが救いだな。ミヤの話じゃあ、『不死の能力』だったなら瞬きの時間で完治してるはずだ。そこは『人の営み』だな」
「は、は? おい、ラビット。何だ今のは。お前今、何を」
「しかし、これでは何度こうやって遠くから“殴っても”再生してしまいそうだ。仕方ない。直接、丹精込めて“殴れば”、ウッドも復活しないだろう」
 奴が一歩踏み出すのに反応して、反射的に指を鳴らした。大量の魔法がグレゴリーに集中砲火を喰らわせる。だが、大ぶりの拳がそのすべてを凪いだ。まるで魔法など存在しなかったかのように、また辺りは静かになった。
 ウッドは指を鳴らしたまま固まっていた。また一歩近づくのを見て、慌ててカバラ演算を最高速で走らせる。まずは攻撃を当てない事には始まらない。アナグラム集めも兼ねて、次はウルフマンを模した分身をいくつか生み出して襲わせる。
「前から思っていたが、ウッド、お前は趣味が悪い」
 また拳の大振り。ウルフマンの分身は全て弾けて死んだ。こんなに弱かったか、とウルフマンを疑う。そんなことはない。奴は高速でウッドに近づき、最後に一撃入れたはずだ。
 なら、と思う。ハウンド捕獲の際にオマケで付いてきたマジックウェポン。その仕組みはすでに把握しているから、この場でも複製が可能だ。ウッドはその場にカバラでの魔改造を行ったガトリング型のマジックウェポンを設置して、グレゴリーめがけて発射させる。
「先ほどの一斉射撃は満遍なく一度の攻撃だったのがいけなかった。ならば連続すればいくらお前とて対応が間に合うまい!」
 起動させる。マジックウェポンと実弾を混ぜ込んだ、恐らく最も防ぎにくい集中砲火。それに加え、ウッドはハウンドをリスペクトして自分を苦しめた水素爆発を画策する。
 マジックウェポンに混ぜられた、水魔法の弾丸と、それを追い越して蒸発させる雷魔法の弾丸。それらはグレゴリーに直撃しないまま水素と酸素に分解されて、とどめのファイアバレットで大爆発だ。
 ガトリングガンは僅かに空回りした後、激しい破裂音を立てながら大量の銃弾を吐き出した。マズルフラッシュで前が見えないほどになる。三十秒ほどのそれが続いて、最後に溜まりに溜まった水素にファイアバレットが着火した。
 ウッドはすかさず防御壁を張る。直撃でなくとも致命傷を喰らうような威力だ。事実土魔法で築いた壁はその爆発の一撃で脆くも崩れ去ったほど。「片付ける手間が省けたな」とウッドはようやく冗談を一つ口にした。
「さて、少し焦ったが避けた様子もない。ウサギの皮を脱いだお前は、どんな黒焦げ死体を晒しているのかな? ラビッ」
 黒煙が大きくのけられる。中から現れたのは、頬に煤一つ付けずにいたグレゴリーだ。彼はウッドを見て侮るように鼻を鳴らし、軽いシャドーボクシングでガトリングを鉄くずに変える。
「ト……」
「ウッド、お前ふざけてんのか。ウルフマンに、ハウンドの真似をして、オレに効くとでも? ――奴らが何をしても『人の営み』だろうが。オレ達『化け物』と一緒にするんじゃねぇ」
 なら、なら。ウッドは先日多少苦しめられた、シスターズの影縫いをぶっつけ本番に行使した。一度アナグラムを解いて反撃したのが幸いしたか、一度で成功した手ごたえを得る。ウッドとて動けなかったほどの強制力を持つ種族魔法だ。グレゴリーがどれほど強かろうと、苦戦しない訳が――
「今、何かしたな。オレの行動を制限しようとしたのか? だが生憎と、そいつはオレに最も相性がいい」
 獰猛な笑みが、奴の顔に広がった。またグレゴリーは一歩進む。ウッドは次の手が思い浮かばず、無意識に一歩下がる。体温が急激に奪われるような感覚を抱く。
「ウッド、もう十分だろ。余計な抵抗するな。そうすれば、すぐに楽にしてやる」
 逃げるしか、なかった。
 あらゆる手段を講じて、ウッドに出せる最高速度でその場を離脱した。何も考えられなかった。魔法で無茶苦茶に飛びながら、歯の根がカチカチと噛みあわない。理解が及んでいなかった。ただただ必死だった。
 痛い、と思う。再生能力によって完治した、グレゴリーに砕かれた左腕。しかしウッドは、そこに鈍痛を抱えていた。矛盾している。自分は本来、痛覚など持ち合わせていないというのに。
「追いついたぞ」
 瞠目して振り返る。ビルのはるか上空。雲の上だというのに、飛行機雲のような軌跡を尾に引いたグレゴリーが迫っていた。対抗策。魔法はダメだ。カバラも追いつかない。他の手段は思いつかなかった。
 咄嗟に放ったのは『闇』魔法だった。何もかもを飲み込む球体。小型のブラックホール。NCRさえ容易に退けた最後の切り札。それがグレゴリーの拳にぶつかる。そうだこれがあるじゃないか、と見てから思い出した。
「それを破れたものなどいない、ラビット改めグレゴリーとか言ったな。お前はもう終わ」
 激突。強い衝撃にウッドは空中での魔法制御を失って吹っ飛んだ。慌てて体勢を整えると、先ほどの位置に拳を突き出したグレゴリーの、浮かんでいる姿が見える。
 『闇』魔法は、ない。
「り、だ……?」
「……チッ、なるほど。いや、そうじゃねぇ。確か――そうだ、こうすればいい。改めてみれば、ここは飛行機すら飛べない上空。生まれて初めて、やりたいようにやれる状況じゃねぇか」
 思案顔から、気づき、そして獰猛な笑顔に至る。グレゴリーの足は目視できないほど素早く伸ばされ、一見物理法則を無視したかのように一回転を果たした。ウッドにはその動きが、空気を踏みつけ、空中で体勢を立て直したもののように見えた。
 それから奴は、この化け物は、落下しながら大きく腕を振りかぶった。ウッドの下へと落ちていきつつも、筋肉の肥大を伴いながら、鋭くウッドに狙いを定めている。
「子供のころから、夢だったんだ。大振りだから当たらねぇと思うが、お前の心は折れるだろうよ、ウッド。だから、まぁ、ついでに消し飛んでくれれば楽では、……あるッ」
 グレゴリーの腕を覆っていた服が弾け飛んだ。ウッドは空中浮遊を続けながらも、呆気にとられて僅かに硬直した。筋肥大による服が弾け飛ぶのもそうだが、それ以上に筋肉が赤熱する様など初めて見たためである。
 それから我に返って、何をすべきかを考え始めた。カバラで周囲の危険度を空間識別的に割り出してみると、グレゴリーから下の空中および街中は安全だと結果が出て、逆に奴から上空は計測が追い付かなかった。
「この人生、最初で最後の必殺技だ。これですら本気じゃねぇってのが歯がゆいところだが、聞いてくれ」
 瞬間、全身が総毛立つ感覚に襲われ、ウッドは自らの右足を切り落とし、それを魔法によって下へと射出する。ギリギリのところで右足はグレゴリーより下に投げ出され、同時、“それ”は起こった。


「名付けて、『ビッグ・ウェーブ』」
 恐らくそれは、グレゴリーの手による、上空一帯に向けた薙ぎ払いにすぎなかったのだろう。


 “それ”は瞬間的な白色化現象だった。グレゴリーが拳を振るった場所から上の空が、もっと言うならその領域内の酸素を有した大気が、膨大な運動エネルギーより起こされた摩擦によって炎上、温度上昇の果てにコンマ一秒、白く染まった。
 耳をつんざくような音は、少し遅れてやってきた。失われた空気が上空一帯に流れ込み、右足から自己再生を始めていたウッドは突風によって舞い上げられる。いや、この表現は正しくない。普通の人間ならば皮膚をズタズタに裂かれるような強風によって、突き上げられた、というのが正しかろう。次いでバックドラフトが起こり、火種のない爆発によってウッドは下界へと弾き出される。
 複数にわたる衝撃で空中回転させられながらも、木面の怪人はやっと人の形を取り戻した。滅茶苦茶にされた三半規管をカバラで代用し、何とか立て直しながら地上へと急ぐ。
 言葉はなかった。軽口にとどまらず、何かをいう事が出来なかった。歯を食いしばってその場からの退避に努め、アーカムのメインストリートに着地する。足元でガラスが割れた。奇妙に思って周りを見渡して、気づいた。
 眠らない街アーカムが、眠っている。
 先ほどの突風は下界にも大きく影響を及ぼしたらしく、道は割れたガラスまみれ、街灯は全滅し周囲一帯が真っ暗で、民間人は人っ子一人歩いていなかった。
 動揺を隠すように、ウッドはグレゴリーが何をしているのか確認するために空を見上げ――少し戸惑って、周囲を見渡し直して、すぐに空を見返して、……壊れたように笑い出す。
「ふ、ひ、はは、へは、はひ、は、ははははは」
 顔の筋肉が不随意に痙攣を繰り返すのが分かった。理解するのに数秒かかって、理解したことに納得するのに大きな時間を要し、それからやっと、乾いた笑い声を意味ある言葉に変えることができた。
「は、ほ、星の、星の光が、消えている。先ほどの突風で、アーカムの電灯は、ビルの明かりも、照明の類も全て壊れたのに、月もないこの夜空が、こんなにも、こんなにも暗く俺の目に映っている!」
 めちゃくちゃだ、とウッドは四肢を弛緩させた。短時間白夜を呼び、街明かりに輝くアーカムを昏倒せしめ、挙句の果てに星を薙いだとでもいうのか。まるで神話だ。首を激しく振って、他はともかく最後のはあり得ないと震える全身を押さえつける。
 だが呆然としていられる時間がないのも分かっていた。ウッドは適当なビルに侵入する。直後大きな墜落音が聞こえ、グレゴリーだと直観した。
「落ち着けウッド。大丈夫だ。冷静に考えろ。恒星のすべてをかき消すなんて不可能だ。そんなことをすれば、反動で地球が消し飛ぶ。良くて太陽系からの脱出だ。少なくとも俺がこんな風に、悠長に隠れようと動き回れるはずがない」
 言い聞かせる。ビルの内部を走り回って、非常階段を落ちるように移動した。カバラでグレゴリーの行動を確認する。奴はすでに一階に降りて、ウッドは待ち構えているらしい。
「今必要なのは考える時間だ。ふ、ふは……ダメだ。……、……、ッ…………考えろ」
 空元気さえ出てこない。強がった笑い声すら、声が震えてあげられない。
 知恵を巡らせる。まずグレゴリーに有効打を与える方法から吟味する必要がある。生中な攻撃では拳一振りで終わりだ。なら背後から狙うか。注意をかいくぐって。
「検証なしではリスクが高すぎる」
 とするなら、さらにアナグラムを集めるべきだ。光、音魔法でいつものように隠密状態になり、重力魔法で極力己の存在感を失わせる。
 次いでまた人気のない階に出て、トイレの出窓から飛び降りた。
 低いビルの上に着地する。それから、奴の様子をうかがう。あの美丈夫は人通りのめっきり少なくなった大通りの中心で、じっとビルの入り口を見つめていた。ならば、とウッドは挑発することに決める。
 分身を作る。グレゴリーの見つめるビルの入り口から、思わせぶりな言葉とともに出てくるように指示を出す。権限は魔法と危機察知のカバラ。出来るだけ長く生き延びろ、と付け加え送り出した。この機会に、より多くのアナグラムが欲しかった。
 本物同然におしゃべりする分身がビルの入り口から出てきたのは、それから二十秒としないことだった。
「いやぁ、思ったよりやるじゃないか! 驚かされたというものだ。だが要領は分かった。これからもう少し本気で」
 分身が爆ぜた。ビルの上から覗き見るウッドは、ただただ絶句する。今度は腕を動かしたのも見えなかった。突如として分身が爆ぜたようにしか思えなかった。
 グレゴリーの小さな声を、音魔法が集音する。
「……弱すぎるな。というとこれは偽物か。観察されているということ――だとすれば」
 アナグラムが荒れた。それで十分だった。見つからない可能性に賭ける気にはなれない。危険すぎた。
 破壊音。背後を見ると、先ほどまで立っていた足場が瓦礫と化している。グレゴリーの姿は見えない。またあの不可視の一撃か。拳圧、なのだろう。しかしあの攻撃方法は、今まで遭遇したものとは全く違う。
 収集したアナグラムから分かるのは、魔法ではなく物理現象に基づいてあの不可視の一撃が見舞われていることだけだ。もう、笑うしかない。あれが物理現象だと?
「魔法なら、手はあった。油断や気絶で魔法は作動しなくなる。つまり奇襲が利く。だが、これは物理現象だ。奇襲さえ意味をなさない」
 仮面の下で唇をかむ。おかしい。こんな事があっていいはずがない。こんな理屈がまかり通るなら、グレゴリーはアーカムどころか世界最強を名乗っても何ら問題はないということになる。何せ、どんな相手も敵わないのだから。
「……これが、奴の言う『化け物』という事なのか?」
 だというなら、ウッドは何故グレゴリーに『化け物』扱いされたのか分からない。同じ『化け物』になら、せめて同格として通ずる攻撃手段がないと始まらない。
「お、落ち着け。落ち着くんだ、ウッド。理不尽だなどと思うな。お前こそが理不尽な存在だろう。手はある。あるはずなんだ。ラビットは手心を加えてなおアーカム最強とされ、その上で俺を叩き潰すために本気を出している。……ここに、根拠がないはずがない」
 考える。またカバラに頼ろうとする。そこでグレゴリーが姿を現して、思考はまた散り散りになった。後ずさる。
「……ここに、いるな。何処だウッド!」
 そうだ、と思う。魔法で隠密を掛けているから、今自分は奴に見えないのだ。ならば試しに奇襲を、と急いた考えを諫める。そういった行動に対応されないなら、そもそもこの場に奴は乗り込んできていないだろう。
 依然としてグレゴリーは周囲を見回していて、ウッドは焦れるのにも耐えながら息をひそめていた。奴を見つめながら、脳裏で自分の持ちうる攻撃手段を一つずつカバラで判断に掛ける。――すでに打ち破られた手段はダメだ。とするなら種族魔法含める魔法攻撃も、マジックウェポンも効果がない。
 残る手札は、何だ。ナイの〈魔術〉か? いいや。これは種族魔法に近しい、原理の不可解な魔法群にすぎない。とすれば無意味なはずだ。目を固くつむり、思考をさらに深くする。
 やはり、突破口は奴の言動から割り出す他ないだろう。つまりは、奴に『同種の化け物』と断じられた原因こそが、唯一効果的な攻撃手段であると。
 グレゴリーが今日ウッドと遭遇するにあたって指摘できるのは、ヴァンパイアシスターズの存在だ。あの時ウッドは『闇』魔法でもって彼女らを殺そうとした。そして、それを受けてグレゴリーはウッドを『化け物』と認定した。
「……だが、奴は『闇』魔法をいとも容易く破って見せた」
 勝てる相手ではないのか。歯を食いしばる。しかしどうしたって、有効打を与える方法が思いつかない。
 じり、と出来るだけゆっくり遠ざかった。存在感を出さず、怯える小動物のように、肉食動物の姿をうかがいながら、そっと離れる。
「屈辱だ」
 ウッドは、かつてないほど執念深く敵を睨んだ。
「こんな屈辱はない。ここまでコケにされたことなど、一度だって……!」
 だが、襲い掛かることを生存本能が許さない。震えかける足で、一歩一歩踏みしめる様に距離を作る。
「覚えていろ。絶対に、絶対に殺してやる。お前だけは、絶対に……!」
 十分距離を稼いで、ウッドは反転した。殺すべき敵は、シスターズなどでは決してなかった。ラビット改め、グレゴリー。奴をあらゆる手で殺さなければならない。
 あとはもう、振り向かずに走り去るのみだった。これから、いくらでも時間が要る。奴を、グレゴリーを、殺す方法を見つけ出すま、
「見つけたぞ。遠ざかる気配で、分かった。それに覚えた。逃げられると思うな」
 ありえないはずの声を聞いて、振り向いたすぐそこにグレゴリーが迫っていた。すでに拳は振りかぶられている。至近距離。拳圧から考えて、この距離では避けても全身がバラバラになる。
 ウッドは先ほど『闇』魔法をぶつけた時に発生した衝撃を、脳裏に浮かべた。反応して黒い球が現れ、奴の拳と激突する。呑まれた。前後不覚になるほどの揺さぶりを受け、ウッドはビルの下に受け身も取れないまま落ちていく。
 また地面に叩きつけられ、ウッドは必死になって体を修復し立ち上がる。魔法を展開するだけの余裕がなく、ひとまずの時間を稼ぐために足でその場から逃げ出す。
 グレゴリーは、そんなウッドの退路を塞ぐように落ちて来た。
「待てよ。オレはまだお前を殺してないぞ」
 出鼻をくじかれ、たたらを踏んだ。呼吸が荒くなっている。全身が震えるのが分かる。
 ――殺される。そんな直感を抱く相手なんて、父以来だ。腹立たしい。こんな傲慢なガキを相手に、父を想起するなど。
 どうすればいいか考えるが、分からないままだった。後ずさる。詰められる。逃げ道は。走りだそうとした瞬間、足が爆ぜた。
「なっ、あ」
 転倒。焦りなのか、あるいは他の感情によってなのか、再生が上手くいかない。それよりもグレゴリーから目を離す方が恐ろしくて、視線を縛り付けられたようになる。
「冥途の土産に教えてやる。『化け物』同士でやり合うときは、とにかく相手の心を折りに掛かることだ。オレ達の攻撃は全て人間にとって致命傷だ。だからこそ相手の手数を減らし、逃げに徹させ、反撃の意思さえ踏みにじって、格上だと印象付けさせる必要がある」
 話ながら、グレゴリーは近寄ってきた。もはや逃げることもできなくなったウッドを警戒する素振りもない。まるで落とし物を拾いに戻るような気軽さで、奴は歩いてくる。
「止めろ、止め、止めてくれ。そんな、嘘だ。こんなところで」
「お前に殺された奴らも同じことを思ったろうな。だが、これが力量の差だ。お前は負け、そして死ぬ。ウッド」
 踏みつけにされる。いや、踏みつぶされる。グレゴリーの足はウッドと地面を貫いて拘束し、確実に当たるように拳が振りかぶられた。
 それから、グレゴリーの表情が僅かに色合いを変える。
「……心からの冥福を、祈るぜ」
 憐憫に満ちた言葉だった。これが最期に掛けられる言葉となるのか。あれだけの苦痛を経て、あれだけの好き勝手をして、その報いも復讐も、何もかもを度外視した哀れみを受けて、ウッドは死ぬ。



 そんなこと、受け入れられるはずがなかった。



 時間魔法を行使する。体内時計が急激に早められ、グレゴリーの攻撃が目にも映らないそれからプロボクサーのジャブほどの速度まで落ちる。
 だがそれで十分だった。ウッドの手はすでに地面に触れている。そこに放つのは電子分解の魔法。今出せる最大火力を注ぎ込み、もう片方の手で『闇』魔法を飛ばしまたも拳とぶつける。
 結果は上々。地面は大いに砕けて砂塵をまき散らし、三度発生した衝撃波がウッドの体を半分近く爆ぜさせながら吹き飛ばす。
 僅かの間宙を舞ったウッドがたどり着いたのは、さらに薄暗い路地裏だった。無残に地面に打ち据えられ、何度か跳ねて力尽きる。魔力――あるいは魔法親和力を限界まですり減らしたためだろうか。肉体の再生もうまくいかず、もう反撃の余地もない。
「は。おい、ハウンド。お前が苦労して生み出した魔力の無い空間を、この化け物は容易く生み出した。まったく、やってられないな。……せめて、俺をここまで追い詰めたのがお前であれば、あるいは、ウルフマンでも」
 全力を尽くした、という感覚のみがウッドには存在した。この路地が開けた先にはもうもうと砂ぼこりが立ち昇っていて、グレゴリーが咳き込みながらウッドの名を叫ぶのが聞こえる。
「はは、何だ……。砂ぼこりにむせるのなら、まだやりようはあったじゃないか……。空気に毒を混ぜるのでも、あるいは酸素そのものを奪ってしまうのでも。ああ、クソ。何で、何で今なんだ。このことが後もうちょっとでも早く知れていたら、俺は、俺は……!」
 煙の中から、影が見え始めた。この狭くて暗い裏路地からでは逆光で、誰なのか分からない。だがこの状況で、グレゴリー以外の人間が現れるわけがなかった。
 もうどうしようもない。ウッドは空しい笑いを一つ上げ、吹っ切れたように言い募る。
「ああ、いいさ、認めてやるとも。お前の勝ちだ、グレゴリー。お前の圧勝だ。いいだろうさ、好きに殺せよ。だが、最後の言葉だけはやめろ。お前になんて冥福を祈られたくない。俺の人生は、何も知らないお前に図られるほど安くないッ……!」
 グレゴリーは何ら反応せずに距離を縮める。
「おい、聞いているのかよ。これでまた同じことを言って殺すなら、化けて出てやるからな。おい、おい! 反応くらいしろ。お前は、お前、は……?」
 様子がおかしい。後三歩ほどの距離まで詰められて、ようやく気付いた。体格が、身長が、そして何よりも雰囲気が、グレゴリーのそれとかけ離れている。
 そしてそれは、奇しくも、見知ったそれだ。
「おま、いや、……あなた、は」
 仮面を外される。目の前の相手は、仮面がすんなりと取れたことに僅かな動揺を見せた。しかし結局外して、自分で付けてしまう。そこで気付いた。彼の姿かたちが、ウッドを模倣していることに。少なくとも、深く因縁のある相手以外には見破れないほどの精巧さで。
「……何で。あなたは、どうしてここで、う」
 声を遮るようにウッドの頭を撫でたのを最後に、彼はこの路地から出て行った。途端グレゴリーの怒号が聞こえて来て、再び戦闘が開始されたことを理解する。
「……」
 言葉もなかった。ウッドは俯いて震えるしかなかった。それから僅かに肉体の修復が進んだのを確認して、這うように裏路地の奥へ奥へと進んでいく。この体で疲れ切るなど、考えたこともなかった。

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