武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

5話 三匹の猟犬ⅩⅤ

 ウルフマンは、今日も今日とて転がっていた。
「……あー。暇だー」
 ぼやきながら狼の頭はコロコロコロコロ地面を転がっていた。随分と長い間頭だけで過ごしていれば、動かし方にも慣れが出てくるというもの。口を開いたり閉じたりしながら絨毯の上を移動する。
 ついさっき十八時間睡眠をして、目はぱっちりと冴えていた。だから不意に思いついて、今日こそと思い、ウルフマンは階段のふもとまでやってくる。
 二階と一階への、上り下りに挑戦するつもりだった。上るのも大概難しいだろうが、下りるのはもっと危険だ。勢いに任せて転がると、ガツンガツンと階段を跳ねる羽目になる。頭だけでそうなるのは危険だ。ただでさえ弱点なのだから。
「……うし、うぉらっ!」
 地面を舐めることなど今更欠片も厭わず、ウルフマンは階段の一段目に上顎を乗っけて思い切り口を閉じた。ぐん、と視界が上昇し、顎に負担がかかる感覚を覚える。次いで、頭頂に軽い痛み。周囲を伺う限り、一段目は成功だ。
「ん……、むぐ、あ、ヤバいこれ。体勢がッ、これっ、落ち……ッ」
 二段目に挑戦すべく、最初のように首で地面に立とうと試行錯誤していると、一段目の細い足場から、ころりとウルフマンは転げ落ちた。「むぐぅ……」と自らの不覚に狼男(頭部)は唸るばかり。
「ここで諦めちゃァ……、男が廃るってもんだよなァ!?」
 無駄に熱いスピリットを発揮して、ウルフマンは再挑戦。要は暇だったのである。
 それから五時間かけて「一段目上り」と「落ちないままで体勢直し」をマスターしたウルフマン。夕食の時間だとアーリに回収され、遠ざかる階段に「明日は見てろォォォォォオオオオ!」と咆哮を上げた。夕飯は大好きなビーフシチューだった。
 翌日、再び階段を目の前にウルフマンは立って(?)いた。高らかに続く道。望みが見えてきたからこそ、越えられないほどに頂上を遠く感じてしまう。
「いいや……、おれはやるぜ。やってやる!」
 誰かが言った。山を登る理由。それは、そこに山があるからなのだと。
 再び上顎を一段目に乗せ、上昇。ここで脳天から落ちるので、横に倒れて上顎と下顎をずらし合わせて二段目に噛みつき、顎の力で首の根っこ立ちする。
「ふ、ふふふ、ははははは! 一段目はクリアした! あと二十一回同じことをすれば、二階すらもおれの領域!」
 ウルフマンは有頂天だった。早くも世界の全てを手に入れたような気分だった。
 最初と同じ要領で、えっちらおっちら、一段一段上っていく。そして、二十一段上り終えた。ウルフマンは、感涙に目を潤ませた。
「あと一段……ッ、あと一段で……ッ、長かった、ありがとう、全てにありがとう!」
 ウルフマンは嬉しすぎて悟りを開きかけていた。最後の階段の絨毯の味は、今までとは比べ物にならないくらい甘美だった。
 だから涎が多めに出た。
 故に滑った。
「んぇ?」
 遠ざかっていく最終段、喪失感と浮遊感が、同時にウルフマンに襲い掛かった。嘘だ、と手を伸ばそうにも、今のウルフマンに手はない。
 男は、吠える。
「嘘だぁあぁぁあああああああ!」
 ウルフマンは階段から転げ落ちた。がこんがこんと階段の足場や角を跳ねた。連続する痛みに数秒気絶した。痛すぎてその日は心が折れた。
 三日目。ウルフマンは悟りを開いた僧のような瞳で階段を見上げていた。ウッドが通りかかったので、「おい」と声をかける。
「……何だ」
「おれの前にあるものが何か、分かるか?」
 ウッドは視線で階段を撫ぜる。カバラでいくつか計算したが、何の変哲もないただの階段だと分かった。
「……階段だろう」
「いいや、違うさ……」
 ふっ、とウルフマンは笑みを零して言った。
「これは、おれの魂のソウル・ロードなんだ」
「――そうか」
 ウッドは素っ気なく答えた。すたすたと階段を上って、自室に籠ってしまう。
「……五体満足な奴には、分かんねぇだろうさ」
 ウルフマンは一抹の寂しさに儚く笑った。とてもハードボイルドだった。
 そこから、ウルフマンの苦難の道が始まった。一段上って体勢直し、一段上って体勢直し。それだけの事だが、途中途中でミスをした。昨日はアドレナリンがドバドバ出ていたため最後の最後まで失敗しなかったが、今回はそう上手く行かないらしい。
「クソッ、諦めて堪るかよ……ッ!」
 二十六回目の挑戦で、ウルフマンは呻いた。合計して百八段分の階段を転げ落ち、上顎の筋肉は限界に近かった。
 だが、諦めなかった。諦める訳にはいかなかった。執念がウルフマンを突き動かす。階段噛みつけ一段上がり、体勢整えまた上に。
 再び二十一段目に差し掛かったとき、ウルフマンの心は夕日に照らされる海のように凪いでいた。口の中の涎を飲み下し、上顎で二階の絨毯に食らいつく。そして昨日の自分に呆れた。絨毯が、甘い訳がないだろうが。
 最後の一段を昇るとき、ウルフマンは何も言わなかった。ただ繰り返すだけの事に、情熱が必要な訳がないと知っていたからだ。
 ぐん、と視界が上昇する。頭頂部から、ごん、と落ちる。そして転がる。
「……これが、二階の天井か……」
 言葉にしてから十秒。実感が湧き始めて、ウルフマンは泣き出した。言葉もなく、嗚咽もなく、ただやり切ったと男泣きである。
 そうやってしばらく感動していたが、十分もすれば三日間自分はおかしかったと気付き、死んだ目で転がり始めた。
 ころころ、一つ目の扉はノブが閉まっている。二つ目も同じ、三つ目、半開きだが隙間が小さすぎる。一つ一つ確認しながら転がりを続ける。
「何つーか、やっぱこの家とんでもなく広いよなぁ……」
 廊下を渡りながら、今更にそう思う。ウルフマンの家など、この家の客室二つ分で賄えてしまう。これが貧富の差というものか。と考えてしまうが、その割にはデリバリーが基本な現代でアーリ自身自分買い出しに行くなど、なかなか苦労していそうなので考えないことにした。
「もともとの話すれば、おれだって昔はいい勝負してたしな」
 モンスターズフィーストが潰れる前は、亜人マフィアのドンの一人息子である。豪勢な館に何人もの召使、父の部下たち。今となっては首だけで転がり進むマスコットだ。一体全体どうしてこうなった。
「落ちぶれたとかそういう次元の話じゃねぇ」
 恐るべきはウッドの超魔法と言った所だろうか。今もウルフマンの首に貼り付くこの魔法は結局何なのか、いまだに掴めていない。
 そこで、見つけた。
「お、ちょうどいい隙間発見だぜ」
 転がり、鼻先で隙間を押し広げる。最後にウルフマンは横倒しになり、クワッ、と口を大きく開けた。
 ギィィ……、と音を立てて、扉がゆっくり開いていく。
「生活感ある部屋だな……、ウッドの部屋か?」
 アーリの部屋は一階にあって、立ち入り禁止を言い渡されているので違うだろう。だがウッドの部屋はもっと奥だったような気がして、訝しみながらコロコロ進む。
 そこで気が付いた。この部屋にあるのは生活感ではなく、ただ汚くなりすぎないように掃除されているだけなのだと。
「……これは、もしかして」
 勘付くところがあって、周囲を転がる。すると棚の上に写真が乗っていることに気付いて、「おし」と狼男はしたり顔だ。
 ウルフマンは本がちょうど階段になっている所を探し当て、先ほどと同じ要領で上る。それから棚に向けて正面を向き、息を吐いた。
「行くぜ! 回転アタァァ―――ック!」
 世界が回転する。ゴロゴロ痛みに耐えながら転がり落ちていく。何度も鼻先を地面にぶつけながら、ウルフマンはさながらボーリングの玉のように転がった。狙う先には写真を乗せた棚。最後にぶつかり、衝撃を与えた。
「こ、こりぇ、これでどうだ……ッ!」
 カタカタ、と揺れる音がしたと思うと、目を回すウルフマンの頭上に何かが落ちて来る。角に当たって痛かったが、我慢して確認した。
 目当てのもの、写真だ。
「……割れてないよな?」
 見たところプラスチック製の額だったようで、特に傷が入っている様子はない。ほっと一息ついてから、ウルフマンはその写真をまじまじと眺めた。
「やっぱ、ハウンドとアーリの写真か……」
 かなり昔の写真のようで今より幼い二人が肩を組んで笑っている。もう一人ロバートの傍らに金髪の少女が立っているのを見つけて、ウルフマンは目を細める。
「……畜生、リッジウェイの野郎……!」
 嚙みしめるように呻きながら、写真を見つめていた。――話してもらったことがあったのだ。ハウンドがハウンドになった理由を、差別に対抗しなければならなくなった訳を。
 姉弟の目の前で撃ち殺された少女、ライカ。雷の華、という意味があるのだと話してくれたハウンドの瞳は、酷く遠くを見つめていた。雷。それが少女の殺された理屈であり、今ハウンドの武器となるものの一つになっている。
「仲、良さそうだな……」
 ウルフマンは渋面を作る。かつて幸せであった時の写真というものは、こういう時残酷だ。ハウンドはこの写真の為に、失われた幸福にしがみ付いていなければならない。それが決して、手の内に戻ってくるはずもないのに。
 そして狼男は考えるのだ。ウッドとハウンドが戦って、どちらが勝つのかを。
 友人の、そして同僚の立場を考えれば、当然ハウンドに勝ってほしい。だがウッドは負けないだろう。負ける未来が見えない。特に、警察襲撃帰りからそのことを強く感じるようになった。
 ウッドは襲撃後、どこか寡黙になったような気がするのだ。話しかけると反応はするが、今までのように話しかけてきたり、ウルフマンをからかったりをしなくなった。
「……最近は、態度も柔らかくなってたのによ」
 イッちゃんを取り戻す。ウッドと仲良くなっていくアーリを見ていて、ウルフマンは順調だと感じていた。だが、振出しに戻ってしまったような印象が今はあった。
「はぁあ……」
 ともあれ、首だけの自分に出来ることはひどく少ない。見ているしかないのだと諦観して、何の気なしにじぃぃと写真を見つめている。
「……昔は、同じくらいの背の差だったのな」
 肩を組んでいる写真に、ウルフマンは気付くところがあった。いまさらにハウンドが気の毒になる。姉ばかりが成長して、弟が小柄では世間の目は冷たいというもの。
 今は全長二十数センチのウルフマンでも、もともとジェイコブは黒人らしい長身男である。アメリカ人の大抵は長身だから、ハウンドが混ざると小人のような印象を受けるのだ。
 世は無情……とウルフマンが目を細めていると、「おう、良くここまで登ってこれたな」とウルフマンを持ち上げる者がある。
「ん、アーリじゃん。おっす!」
「いやおっすじゃねぇよ勝手にロバートの部屋入りやがって。少しは悪びれろっての」
 ぽかりとやられて、ウルフマンは痛くもないのに顔をクシャリとする。それから彼女は写真を拾い上げ、数秒見つめて「懐かしいな」と微笑んだ。
「埃がつかないように毎日拭いてるのにな。意識しないと、何も思わないんだから寂しいっていうかさ」
「いい機会になったろ?」
「……そうだな、ありがとうウルフマン」
「アーリは優しいなぁ……、軽口叩くとウッドはおれをバスケットボールにするんだぜ? あいつはやっぱ悪魔だ」
「ふふっ、そういうなよ。優しいところもあるんだから」
「何処が!?」
 ウルフマンはギョッとして聞き返した。アーリは一つ息を吐いて、天井を見つめている。
 静かな、呟きだった。
「……調べたんだ」
「何をだよ」
「……ウッドが警察署に行って、何人死んだか」
「どうせ記録されてる所員数の半分が行方不明とかなんだろ」
「ゼロだった」
 驚いて、思わず聞き返してしまった。
「今、何て言ったんだ?」
「警察の誰も、ウッドに殺されてなかった。行く前は大量殺戮しても文句言うなみたいなこと言ってたのに、あいつ、誰も殺さなかったんだ。ヘリとか車とかは全部破壊されてたらしいけど、人命は、ただの一つも失われなかった」
「そりゃあ……」
 ウルフマンは、言葉を失う。自らを抱きかかえるアーリは、上を見ているからその表情を伺えない。だが、全身が硬直しているのは何となく分かった。
 しばしすると、緊張がゆるむ。そしてウルフマンを見下ろす彼女は、朗らかな笑みを浮かべていた。
「だから、な? ウッドはさ、意外に優しいんだよ」
「……そう、か。ま、あんだけ可愛がってりゃ、少しは言う事聞くのが普通ってか」
「そういうこと」
 にひひ、と悪戯少年っぽく笑って、アーリは部屋から出て行こうとする。そこでふと思い出したように、彼女はウルフマンに忠告した。
「あ、そうそう。一応、さっき見た写真の事はウッドには内緒な?」
「え? 何でだよ」
「そりゃ、決まってるよ」
 悪戯っぽく、アーリは笑う。
「昔はこんなチビだったってバレると、今まで築いてきたアタシのお姉さん像が崩れちゃうじゃんか」

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