武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(5)

 ローレルと、向かい合っていた。じっと彼女の挙動に視線を這わせる。彼女も自分に対して同一の行動をとっており、はたから見れば非常に奇怪な光景だろう。
 総一郎、ローレル。両者の表情は真剣だ。しばらくして、どちらともなく言う。
『おばあちゃんがお菓子を持ってきてくれる』
「二人とも、そろそろ休憩にしないかい? ……何で笑ってるんだい。おばあちゃんにも教えておくれな」
「ううん。何だか全部予想通りになるのがおかしくってさ」
「ええ。本当、面白いですね。カバラって」
 少年少女は、うつむいて互いにくすくすと笑っていた。だが、それを微笑ましいの一言で済ませてはいけない。彼らは今、最高五ケタの四則計算を経て、この予言を打ち立てたのである。
 元々は、二人で相手の挙動を予言するというゲームだった。ヘレンばあさんに提案されてからしばらくはローレルの一人勝ちだったが、それで諦めてしまう総一郎ではない。以前唖然とさせられた計算力を、彼なりに試行錯誤して身につけて行っているのだ。
 現在では、六ケタ同士までなら磐石。七桁から二十ケタまでは、増えるだけ手間取る程度である。二十一桁目からは頭が追い付かずペンを走らせる。もっとも、十五桁からはそうしたほうが早かった。
 縦と横に並べた線をイメージすると比較的簡単になるため、あとはもう慣れの問題だ。そういう、わかりやすい方法がネットに載っていたのである。
 今はまだローレルのほうがはるかに上だが、いずれ追い付いて見せると意気込んでいる。彼女も反骨心旺盛と聞くが、総一郎もなかなかのものだった。
 カバラの計算は、何を基準にしてものを数えるか、そして、どのように計算するか。具体的にはこれだけで成り立っている。もちろん知りたい物体や、もしくは人間の未来を知るためには、それに関連する情報が必要だ。多ければ多いほど予測が正確になるのは、言うまでもないだろう。
 アナグラムの読み方は、一つ一つヘレンばあさんから教わった。そもそも、アナグラムというのは物事に付随する数字である。たとえば、ある人間の次の言葉が知りたいのなら、その人物の口、そして目に注目すれば、おのずとアナグラムが読み取れるのだと。
 目は口ほどにものを言うという言葉は、偉大であったという事らしい。
 カバラを教わり始めてから、一週間が過ぎていた。ニューイヤーも近い。
 総一郎たちはお菓子を食べ終え、まったりとしていた。あのゲームは非常に神経を使う。休みを入れないと間に合わないのだ。
「それで、どうだい。練習の塩梅は」
「調子は上々です。ソーも計算が速くなってきていますし」
「上から目線が癪だなぁ……。いつか見返してあげるから待ってなよ」
「あらあら、仲のいいこと」
 ヘレンさんがくすくすと笑うと、釣られるように二人も笑った。この家にもだいぶ慣れてきた節がある。
 シルヴェスター家では、静かでこっそりとした笑いがよく起きる。総一郎のかつての居場所であったフォーブス家では、よく馬鹿笑いが起こっていた。あれはあれでよかったが、こちらは落ち着いていて、居心地がいいのである。
「じゃあそろそろ、発展編に入りましょうかね」
「発展編?」
 総一郎がおうむ返しにすると、ヘレンばあさんは「えぇ」と頷いた。
「未来が見えるようになったら、何をどうすれば未来を変えられるかもわかってくる。それが発展編さ」
「未来を、創るという事でしょうか」
「ああ、そうだよローレル。お前は相変わらず聡い子だねぇ」
 よしよしと老婆は孫の頭と顎を同時に撫でる。それに気持ち良さそうにする様は、まるで猫だ。ローレルが祖父母に猫かわいがりされていることに気付いたのも、最近である。
 ……あとで自分もやってみようかと考える総一郎。
「つまり、……こういう事?」
 総一郎はおもむろにローレルの前に手を出して、柏手を打った。驚いた少女は後ろに飛びのき、背後の棚に背中をぶつける。するとその棚の上に乗っていた小さな小瓶が倒れ、コロコロと転がって棚から落ちた。そこに丁度現れたおじいさんの足に着弾する。
「痛っ! あっ、ぐぁっ!」
「おじいちゃん大丈夫ですか!」
「ソウ。あなた理解が早いのねぇ……。というかこのアナグラム、私が用意してあったものだったのだけど」
「ごめん。気づくとどうしても使いたくなっちゃって……」
「分からなくもないけどねぇ」
「コラ! つまりお前らは、儂を玩具にしたってことか!」
 まったく……と言いながら、眉根を寄せた老爺は小瓶を拾い上げる。割れていないのだから、ヘレンばあさんの用意したアナグラムのすごさがわかるというものだ。
 余談だが、爺さんはカバラを知っている。だが、カバリストではないらしい。興味がないうえ、数学が昔から嫌いなのだという。
 勿体ないと思ってしまうのは、好奇心の犬だからなのか。
「とはいっても、ここまで綿密に計算するのは中々に骨だからねぇ。今日教えるのは、簡単なものだよ」
 総一郎とローレルが椅子に並んで座りなおしたのを見計らって、ヘレンばあさんは言った。爺さんは拗ねて部屋の隅っこで作成途中らしい杖の様子を見ている。飴色で、いつみても見事な出来だった。これで食っているだけはある。
「カバリストになると、普通分からないことが分かるようになる。つまりは、それだけ危険な情報を知ってしまうという事」
「……危険な情報とは、何なのですか?」
「危険な情報は、危険な情報さ。だから、今回は手早く使える護身術を教えようと思ってね」
 ローレルは意味が分からないと言いたげに首をかしげているが、総一郎は心当たりがあって目を下へ向けていた。うつむかない程度のそれである。もっとも、ヘレンさんからはバレバレなのだろうが。
「という訳で、今回はお手軽に相手を気絶、腹痛、頭痛に追い込むアナグラムを教えるよ」
「傍から聞いているとものすごく怖いのですが」
「下手すると聖神法なんかより全然強いよね、それ」
「そりゃそうさ。カバラはすべての基本。この世にある物事はすべてカバラで説明が付くんだよ? この世で一番強い技術に違いはないさ。もっとも、難解さもトップだから使い勝手はよくないけれどね」
「つまり、カバラを完全に理解し切れている人が最強ってこと?」
「平たく言えばそう感じるだろうけど……それもまた違うんだよ。物事には例外というものがあってね。カバラですら、解析すらしきれない技術もある。相当レアだけどね」
「そんな物があるのですか」
「ま、これは知らなくていい事さね。知っていても、益のあることじゃない。一つ言えることがあるとしたら、そういう人物がいたらその国からは出ていきなさいってことだね」
「国レベルなんだ!?」
「スケールが大きいですね……」
「それは置いといて、だ」
 ヘレンさんは仕切りなおす。
「まず、相手を無力化するために必要なのは、相手に与えられるアナグラム量を極端に多くするか、あるいは相手に都合の悪いアナグラムを揃えるかのどっちかだ」
「後者はわかるんだけど、アナグラム量を極端に多くってどういうこと?」
「簡単に言うと、特定の人物の脳に過度な情報を与えてショートさせるのさ」
「だんだん私の中のおばあちゃん像が崩れていきます……」
「実演するとしたらこんな感じだね」
 言いながら、ヘレンばあさんはおもむろに指を鳴らした。その時、横に座るローレルが「あれ……?」と頭を押さえながらふらふらとよろめき、総一郎のほうに倒れこんできてしまう。
 驚きながら少女の様子を注視すると、目を瞑り、おそらく気絶しているようだった。「何を起こしたの」と微妙な顔つきで尋ねると、「何でもかんでも聞くもんじゃないよ」と微笑とともに肩をすくめられてしまう。
 総一郎はそれを受けて、ふむと口に手を当てた。先ほどの会話の流れから考えれば、ローレルは情報過多のために気絶したのだと思われる。だが、今の指鳴らしがそこまで刺激的だったとは思えない。だとすると、指鳴らしが彼女にとってのみ、とてつもない情報量を持っているとしたら。
 人間は、想像する生き物である。その中でも、物や出来事に付随するものを連想という。指鳴らしにとてつもない量の連想が加わっていたとすれば、今のだって不可能じゃない。だが、気絶直前のロールのアナグラムを読み忘れた総一郎としては、確証は持てなかった。
 ままよ、と思いながら、今立てた仮定を口にすべく老婆に向き直る。そして、気付いた。
 ヘレンばあさんの口と目が、先ほどの会話はすべて嘘であったと語っている。
「……カバラを教えてくれる時だけは、本当に意地が悪くなるよね。おばあさん」
「いやいや、そんな事はないさ。坊やの推理は間違っていなかったよ? 連想による大幅なアナグラム合わせというものは存在する。……今回は違うけどね」
 ローレル、お起きな! というヘレンさんの声に、少女は目を開けた。彼女は総一郎に膝枕していた事に気が付いて「お、お世話をおかけしました……」と赤くなりながら素早く起き上がる。
「で、ローレル。今君は気絶していたわけだけれど、気絶するときどんな感覚だった?」
「え、いや、そんな身を乗り出しながら聞かれると困ってしまうのですが」
「いいから早く!」
「怖いです、ソー!」
 上半身を極度にそらしながら、少女はおびえた表情で叫ぶ。ヘレンばあさんはそれを見て笑い、隅っこの爺様もこっそり噴出していた。こちらは真剣だというのに、と憮然とする総一郎だ。
「えっと……、何と言いましょうか、いきなり目がチカチカして、力が抜けてそのまま……です」
 ローレルが語るのを聞いて、総一郎は考え込む。
 しかし、いくら考えても分からなかった。連想でない。しかし、文脈からして都合の悪いアナグラムを合わせたというのでもない。つまりは、総一郎の知識の限界である。肩をすくめて見せると、ヘレンさんは頷いてからこのように言った。
「正解はね、『魔法を使った』だよ」
「……え? 呪文を心の中で唱えたってこと?」
「いいや、さっきの指を鳴らしたのが、正真正銘、魔法の合図になったってことさ」
「……そんな事あり得るのか? いやでも、あの論を使えば納得できないわけじゃ……、でも」
 総一郎は、言いながら深く思考の淀みに身を投げ出した。今まで読み蓄えてきた知識を、その中から探し出していく。
 魔法は、当然だが、普通才能がない限り加護をもらうしか使えるようになる手段がない。イギリス人のヘレンさんに使えるわけがないのである。だが、魔法とはそもそも何なのかという領域に踏み込むと、事情は少しばかり変わってくる。
 亜人が現れたとされるマヤ歴の終わり以前には、超能力者と騒がれる人がいた。他にも、人体発火など当時の科学では説明のつかない現象が起こった。
 今日ではそれが魔法の先駆けのようなものであったという仮説が、ひっそりと存在している。また、それを呪文によって意識的に発動できるようにした亜人伝来の超技術を、われわれは『魔法』と呼称しているのではないか、と。
 余談だが、これはすべて本の受け売りだった。最近総一郎がお気に入りの新書である、『亜人社会論』の著者、サラ・ワグナー氏の著書の一つに書かれていたのだ。とはいっても、その本は売れなかったらしいが。
「つまるところ、呪文以外の方法で魔法のアナグラムを合わせたってこと?」
「そうだね。カバラとはすごいだろう? 最終的に数字さえあってしまえば何とかなっちゃうあたりが」
「反則ですよね」
「いいや、むしろ私たちほどルールに忠実な人間はいないよ」
 軽口をたたきながら二人はくすくすと笑っているが、総一郎は改めてカバラの有用性に恐れおののいていた。これは、ただの技術などではない。ヘレンさんの言うとおり、すべての根幹に位置する真理なのだと。
「……ってことは、カバラを鍛えていけば、敵の魔法阻害とか、自分だけの魔法の創作とかが出来るってことなのかな。――ヤバい、ワクワクしてきた」
 震えるほどの笑みを、少年は抑えることができない。それを見た老婆とその孫が、一瞬表情を引きつらせたのは、幸運なことに彼の目には映らなかったようだった。


 後日、総一郎は今の机に向かったひたすら計算をしていた。ローレルが背後から近づいてくるのは知っていたが、今は無視しておく。
 そこに、後頭部の下に小さな衝撃が走った。おそらく、デコピンをしたのだろう。気にするまでもない。
 だが、次の瞬間総一郎の遠近感覚が崩壊した。あ、と思う頃にはもう遅い。少年は机に突っ伏し、気絶してしまう。

「ソー、起きてください」
「ん、うぅん……」
 頭がぐらぐらする感覚とともに、背後から揺らされ覚醒した。「ローレル」とその名を呼ぶ。
「……ちぇ、アナグラムが全部ふさがれてる」
「ふふん。ソーがやられたらやり返す性分なのは知っています。対策をしないわけがないでしょう」
「仕方ないから頭痛にしちゃえ」
 言うが早いか、少年は少女の額を指で三度叩いて、少女の抵抗に合わせて頬をつついてから鼻を引っ張った。解放すると彼女はうめき声とともに頭を押さえてうずくまる。
「ごめ……んなさい。お願いですから、助けっ、……ぅぅぅ」
「鳩尾のあたりを強く押せば治るよ。僕は押さないけど」
 報復は済んだので、放置して計算を再開させる。数秒すると足元からのうめき声もなくなり、代わりに荒い呼吸音が現れた。
「酷、……くはないですか……。私は少し気絶させただけなのに……」
「少し気絶っていうのが価値観おかしいからね。じゃれ合いにしても程度というものがあるから」
「はい……」
 叱られて意気消沈してしまうローレル。彼女は気が強い反面、自責も激しい。こちらが許さないと表には出さないが悩み続けるのである。なぜ表に出ないのに分かったのかと言えば、数秘術の成果だ。つくづく生きづらい性格をしているな、と他人事ながら思ってしまう。
「まぁ、それはこれから気を付ければいいとして、ローレル、手伝ってくれる?」
「はい? いいですけど、何をでしょう」
「アナグラム計算。今魔法の解析をしてるんだけどさ、途中から五十桁に跳ね上がっちゃって大変なんだよ」
「五十ですか……、相当ですね」
 まさか魔法がこんなに難しいとは思わなかった、と言って笑いかけると、彼女も相好を崩してくれた。そこに偽りの数はない。嘘かそうでないかを知るだけなら、小学生でもできる。
「分かりました、手伝います」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 言いながら、空いているメモ紙にローマ字表記の呪文を綴っていく。そして、発動魔法指定の節、物理魔術の節、皮きりの節の区切りにそれぞれ線で区切り、軽い説明をした。
「分かりました。……で、何でこんなことを?」
「え? 単なる興味本位だけど……。ほら、仕組みが分かると、より効果的な使い方みたいなのが理解できるじゃない? 発展性、っていうか。具体的には呪文に新しく一文字付け足すだけで二倍の威力が出る、みたいなのが発見されたら、それこそノーベル賞並みの大発見だからね」
「そうですか。……何でしょうか。ちょっとした教授になった気分です」
「どっちかというと助教授だね。頼りにしてるよ」
「はい!」
 一中学生の挑める命題では、普通ないのだろう。だが総一郎の学力は、今や余裕で難関大に首席合格がかなうレベルには達していたし、カバラという力強い味方がいる。というかヘレンさんがやっていたこと自体がすでにノーベル賞に届くものなのだ。そう考えると、ノーベル賞が安いのか、カバラが万能すぎるのか。
 時間は昼過ぎ、そのまま数時間、二人は計算をし続けた。夕食を終え、二人黙々と続ける。ちょくちょく計算結果を突き合わせて話し合ったりもしたから、退屈だと思うことはなかった。
 夜の九時。二人はシャワーも浴びずに、力尽きて椅子にもたれかかっていた。それだけ頭を酷使したのである。擦り合せで計算ミスがあった時なんかは、少年少女ともに大パニックだった。何度でも言おう。時間魔法のアナグラム総合が百桁に届くのは、明らかにおかしい。
 何をやっているのだ、という話だが。
「先、シャワー浴びてきていいよ……」
「では、ありがたく……」
 気力のない言葉を交わし、立ち上がるローレルに手を振った。総一郎は椅子にもたれていた上体を正し、今のところ分かった事実を文字で軽く羅列していく。
「結構新事実あったよね」
 やって良かったと呟きつつ、手を動かした。魔法の基本構造。呪文の一語一語に込められた意味。
 魔法は、習い初めにはイメージが大切だという風に教えられた。今では発動できることを確信しているからイメージするまでもないのだが、実は魔法は、『存在を確信していないと使えない』という特性がある。
 その理由はまだ数字の擦り合せが足りず分かっていない。だが、必ず呪文に組み込まれる制約の文字列四種の中の一つだという事は判明していた。残り三つは、まず加護数とこめられた意識的な魔力(と呼称するよりほかの無い物)を参照して威力が定まるという事。二つ目に手のひらに発生するという事。残る一つは、いまだ判明していない。
 総一郎は、手のひらに発生するのには理由があったのだと面白がった。この部分の呪文を実験しつつ調節すれば、これから非常に役に立つはずだ。具体的には、空中浮遊式の見直しである。物理魔術も風魔法もすべて手のひらから発動していたが、これが足になればもっと自由度が高まるかもしれない。
 そういえば、空間魔法と呼称しているあの謎の魔法を解析するのを忘れていた。もしかすれば、あれを参考にすれば簡単に実験がうまくいくかも、と少年は自らの発見に頬が緩んでしまう。
「上がりましたよ。次どうぞ」
「うん、ありがとう」
 パジャマに着替え、肩口までの金髪をタオルでワシャワシャとやるローレル。白い肌が湯気に紅潮していて、湿った髪が妙に色っぽい。
 少女の美貌には気づいていた少年だが、改めてはっとさせられた。総一郎は立ち上がり、こっそり首を振りながらシャワールームに赴く。
 翌日、揺り動かされる感覚に、うめきながら目を開けた。「起きてください、朝ですよ」とローレルの声。寝ぼけながら了解し、上体を起こす。
 だが、そうして目を擦っている内に違和感を覚えた。家では誰よりも早くに起きる総一郎である。それがこんな、寝坊助のような扱いを受けるわけがない。
 と、ナイが居た頃のことをすっかり遠くヘブン投げて、総一郎は欠伸をしながら「今何時?」と聞く。
「三時です」
「分かった、お休み」
「駄目です、起きてください」
「違うよ、三時ってあれだから。夜だから。朝っていうのは空が白み始めてからのことを言うの。というか寝ぼけてて気づかなかったけど今全然暗いよね? 僕こんな色合いの町、旅行前の早起きした朝くらいでしか見ないよ?」
「朝じゃないですか」
「そうだね、君にとっては朝だ。けど僕にとっては違う。だから寝る」
「ダーメーでーすー!」
 まるで子供のような口調のローレル。もしかしたら、学校から離れてかつ、総一郎と意外に仲良くなってしまって気が緩んでいるのかもしれない。という事は、これが彼女の素か。
 そう考えるとちょっと貴重なように思えてくるから不思議だ。試しに、なぜと問うてみる。
「だって、魔法の解析がまだ終わっていないじゃないですか!」
 身振り付きで意気込む少女。それは総一郎を、まるで鏡を見ているような気分にさせる。
「……ローレルってさ、こういう、新たな知識の開拓的な作業って好きなの?」
「はい。昨日私も初めて知りました」
「なるほど」
 好奇心の犬がここにもう一匹。
 総一郎は少し顔を洗ってくるといって、少女を押しのけて洗面台に立った。鏡を見ると、表情らしきものが見える。不意に気になって、手袋を外した。『歪み』は、少しずつだが退きつつある。
「……」
 少年は、再び手袋をはめた。内心の喜びは、まだ表に出さない。ただ、あらゆる意味で健康に過ごしていれば、治るものなのだと思った。それは、少年にとって非常な救いだった。
 総一郎は顔を洗い、一通り済ませてから、居間へ下りて行った。当然ながらカーテンが窓の外を覆い隠していて、その端からは滲み出るような闇が覗える。
 ローレルは、そこに居なかった。台所に、気配がある。そちらへ歩いて行って「何してるの?」と問えば、「朝ごはんを少々」と手短に返される。
 総一郎は待ち時間に放心しているのも何だから、と考えて空間魔法、そして聖神法の祝詞を紙に綴り始めた。昨日思いついた空間魔法は当然、聖神法も手の先以外から出る異能であるとして、参考になると思ったのだ。
 空間魔法の解析が終わったところで、ローレルが朝食を持ってきた。目玉焼きを中心とした、伝統的な献立である。この年でここまでできていれば大したものだと思いながら、頂きますの礼をして食らいついた。
 朝食後、あらかじめ書いておいたメモ紙を渡した。それを見て、少女は瞳に疑問符を浮かべる。魔法ではないのか問われ、理由を説明した。
「魔法って手のひらからしか出ないんですか?」
「うん」
「そうですか……不便ですね」
「まぁね。だから、聖神法を参考に違う場所からも出せないか、検証してみようってこと」
 なるほど! と目を大きく見開いて、ローレルはぽんと手をたたいた。ところで、と聞く。
「その仕草って日本特有だと思ってたんだけど、イギリスでもそういうジャスチャーってあるの?」
「え? ……そういえば私とおばあちゃん以外に、誰かがやったのを見た事がないです。どうなんでしょうね」
 ローレルは、軽い感じに首をかしげる。あまり興味が湧かないのか、「では、取り掛かりましょうか」と笑みと共にメモに向かい合った。総一郎も、それに続く。
 聖神法の解析は、あまり面白いものではなかった。魔法はきっちりと区切りがあって分かりやすいのに対し、聖神法は、カバラを通してですら数字が混ざり合っている。最初の『神よ』の一節でさえ、何を意味するのか分からないほどだ。
 やはり魔法の解析に戻ろうかと考えていると、ローレルが「あれ?」と言った。
「……どうしたの?」
 集中力が切れ、視界が広がる感覚を抱く。いつの間にか日が昇ったのか、カーテンから光が漏れ出ていた。総一郎は答えを待ちながら、立ち上がって日を遮るものを取り払う。
「……いえ、私の計算違いだと思います。多分」
「そう? でも、一応見せてよ」
「はい。……これです」
 渡されたメモ紙の数字を見つめ、総一郎は少女の困惑の意味に気付いた。少年に縁の深いとある光魔法と、合計数がほとんど同じなのである。確かに、これは奇妙だ。眉を顰めながら、彼女の名を呼ぶ。
「これ、何の聖神法?」
「『セイント・ライトボール』です」
「そう……。ふむ」
 考え始める。この聖神法は、簡単に言えば総一郎が幼い時によく使った光球のようなものである。そして、同じアナグラムの魔法も、光の球を打ち出す。
「……。ローレル、この魔法のアナグラムと、この魔法のアナグラムの合計数を、足してみてくれる? あと、この聖神法も」
「は、はい。――この祝詞、癒しの雫の物ですよね。あまり使わないので確証は持てないのですが、水滴の垂れた場所が治癒する聖神法。……魔法はどんなものなのですか?」
「水魔法と、木魔法」
「木魔法? ……分かりました」
 総一郎は、ローレルが計算に取り掛かるのを見てから、自分でも複数の聖神法の解析に着手し始めた。そして、昨晩解いた魔法のアナグラムと擦り合わせていく。数字が完全に一致するものはなかった。だが、誤差が百を超えるものもなかった。
 総一郎は確信に近い予感に突き動かされ、祝詞の一文字一文字を分解し始めた。初めは、うまくいかなかった。だが、総一郎が聖神法を使えるようになったきっかけを想起すると、面白いように当て嵌まる様になった。
「解き終わりました」
 ローレルは、こわばった表情で計算式を渡してきた。総一郎は受け取り、しばし見つめ、そして確信した。
「……そういえばさ、さっき属性だけ教えたけど、この魔法の具体的な効果を教えてなかったね」
「……はい」
 不安げ声。だが、その目つきは気丈だ。総一郎はどのような顔をすればよいのかわからないまま、伝える。
「水魔法は、飲み水に使えるきれいな水を作り出す魔法だ。唱えて、水筒に手を突き出すんだよ。それで飲み水を確保できる。対して、木魔法は少し特殊だ。木っていうのは唯一魔法で直接発生させられる生物だから、そこから派生して生き物を作ったり怪我を治療することができる。僕が教えたのは、木の生命力を粉にして、怪我の再生力を高める魔法」
「……そんなの、そんなのおかしいです。だって、それでは」
「そうだよ、おかしいんだ。でも、カバラを信じるなら、僕たちはこの結果だって信じなければならない」
 少年は、今まで自分たちが積み上げてきた計算式を一瞥してから、少女の目を見つめる。
「聖神法は、魔法だ。それも、覚えやすさを配慮せず、威力だって大幅に制限された、血統主義の粗悪な魔法だ」
 総一郎の計算式では、魔法になくて聖神法にある特殊な点は、まず貴族階級であるかどうかだった。名前に含まれる貴族階級の称号が、聖神法の発動の可否を決定するのだ。
 次に、加護も才能も、一切参照しない画一的な威力。手からではなく、スコットランドなら杖や鈍器の先端から発動されること。イングランド、アイルランドクラスのそれはまだ計算していないが、きっと似たようなものだろう。そして、それらのアナグラムをめちゃくちゃに並べて、もっともらしい祝詞を作り上げたのだ。
 何故、と総一郎は考え込む。画一性のある部分や、武器の先から発動されることは長所になりえないわけではない。だが、貴族に限る必要はどこにもないし、アナグラムだけ合えばいいと、こんな無理やりなセリフを作り上げる意味が分からない。
 もっとも重要な点は、それをカバリストの何者かが作り上げたという事だ。聖神法の歴史は、亜人登場から数年後。魔法が全世界に広まり始めてからすぐに、聖神法が神から授けられた――とされている。
「何でだ? 何で、こんな事をした? 魔法でいいじゃないか。何で、こんな面倒な真似を……」
 いや。問題は、そこではないのだ。――カバリストが貴族にかかわっている。それも、聖神法を作るなどという根幹に。貴族の中に混ざっている可能性だって、決して否めない。
 総一郎は、背筋の寒くなる感覚を抱く。今まで自分を襲った数多くの理不尽。証拠のない謎。あんなもの、誰にもできることではなかった。だが、唯一例外がいる。この世の理を、数学によって確定的に割り出し、操作する者どもが。
 少年は項垂れ、頭を抱えた。カバラは、とても秘匿性の高い技術だ。ずぶの素人が勘を頼りに謎を解くことなど、叶う話ではなかったのだ。
 しかし、今は違う。
「……ローレル。学校が始まるのは、いつ?」
「春からです。……どうするつもりですか」
「この世の理不尽を、一手に握る奴らの正体が分かった。一応、僕って学校の席が残っているよね?」
「わ、分かりませんが、ドラゴン討伐を終えた卒業生たちは春から学園に戻ってくると聞いています。ソーはまだ義務教育課程なので、戻れるかと」
「じゃあ、戻ろう。確証はないけれど、多分、何かが掴めるはずだ」
 低い声で、総一郎は呟いた。そこに込められた感情はどす黒く、総一郎自身でさえ理解は仕切れない。
 ローレルが、おびえたような表情で見ていることに気付いて、総一郎は「ごめん」と椅子を立った。部屋に戻る途中でヘレンさんに遭遇し、「おや、どうしたんだい」と聞かれる。
「あ、いや、朝早くに起きすぎちゃって、眠くなっちゃったんだ。これから少しだけ寝なおそうと思って」
「そうかい。朝ごはんは?」
「食べたよ。ローレルが作ってくれたんだ」
「そうかい。それじゃあ、美味しかったろう」
「……うん。とっても」
「そうかい、そうかい」
 嘘のアナグラムを消すのは、難しいことじゃない。発言する一瞬だけ、本気で自分に信じ込ませればいいのだ。そのための所作も、決まっている。味覚と触覚がいまだ回復し切れていなかったのも、そうすれば隠し通せる。
 そのため、ヘレンばあさんは総一郎に何か疑問を抱いた様子はなかった。そのまま、通り過ぎていく。
「これであの子も、将来安泰だ」
 そんなおどけた、和やかな老婆の声が、総一郎の胸を痛ませた。

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