武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(2)

 そこは薄暗かった。
 総一郎は薄目をあけて、まだ早い時間帯なのだろうと推察した。いつも、自分が起きる時間帯だ。のそりとベッドから起き上がり、次いで見覚えのない部屋のインテリアに目を向けて、そうか、ホテルに泊まったのだと思った。
 だが、数秒経てば目も覚める。状況を訝しみ、冷静になってから、昨日、いつ、どこで寝たのかを思い出そうとした。
「……ここは、何処だ?」
 確か、自分はあの荒れ果てた村の残骸で倒れたきりだったはずだと少年は記憶している。ホテルになど泊まっていない。そもそも、此処はホテルなのか? 総一郎は周囲を見回す。質素だが、ホテルではない。
 総一郎は、そのように仮定しながら、自分が拘束されていないことを確認した。もっとも、イギリス製の拘束などあっても屁ですらなかったが。
 カーテンを警戒しながら微かに開けると、見覚えのある景色で驚いた。街である。かつて、ブレアとここに来たことがあった。総一郎は、窓に映る全く動かない自らの表情に苛立ちを感じつつ、風魔法での索敵を行う。
 三人。自分以外に、三人の人物が居る。風魔法の索敵は詳細を知るのは難しいから、人物像は分からなかった。聖神法で掛け直したかったが、生憎と杖は袋の中だ。
 この部屋に袋が無いのは、確認済みだった。その詳しい場所については、風魔法では如何ともしがたい。
「……ここにいる人なら多分、接触しても難なく切り抜けられるはずだ」
 その上、起きだす気配がない。総一郎はそう思いながら、扉をゆっくり開ける。
 それに反応したように、一人が上体を起こした。
 思わず硬直する総一郎だ。その人物は起き上がってから何かを気にするように手を振り、飛びあがる様にベッドから離れる。
 総一郎はマズイと思い、光魔法で姿を消した。更には音魔法をかける。いつもの完全な隠密状態である。総一郎は隠伏を完成させてから、壁に張り付いて動くのを止めた。床の軋みや接触を嫌ったのだ。
 その人物――少女は総一郎の向かいのドアを開け、姿を現した。……シルヴェスターだ。だが、何故彼女がここに。
 短い髪をふり乱した少女は、総一郎が居た部屋の扉を開けた。しばし目を剥き、扉を閉める。その音はちょっとした物で、怒りが込められているのが何となく分かった。
 シルヴェスターは真顔に少し険を足したような表情になって、周囲を見回した。微小な表情の変化である。階下へと向かいながら「おばあちゃん!」と大声で何者かを呼ぶ。
「ブシガイト君が見当たりません!」
 あんな大声を出すのか、と少々驚く総一郎だ。彼女はあの四人の中でも印象が薄い。気が強いのは知っていたが、寡黙な人物だとばかり思っていた。
 総一郎は、ちょうど鏡が目に入ったから(光の操作に過ぎない為、自分から自分の姿は見えるのだ)、奇妙な具合になったとその前で眉を顰めてみる。イメージと少し違っていたから、修正した。これで完璧だ。
 彼女は、その祖母だろう人物に何かを話しているようだった。何かを言っているのは分かるが、よく聞こえない。音魔法で拡大しようと思った時に、会話は止んだ。そして二階に上がってくる。総一郎は鏡を見ながら、嫌な顔をしてみる。
 ――困ったな、逃げるのが少しずつ難しくなってきた。どうすべきかと、総一郎は口元に手を当てる。上ってくる足音は近い。
 仕方なく、隠密の魔法を解く。敵意はなさそうだし、一度話してみようと思ったのだ。丁度そこに二人が現れたので、鏡を横目に総一郎はきょとんとした顔を作って二人を出迎える。
「……えっと……、此処は何処なんでしょうか? っていうか、アレ? シルヴェスターさん?」
 怯える振りは要らないと思った。シルヴェスターは、総一郎の強さを知っている。その上で、『何でここに』という言外の声を投げかけると、彼女は先ほど僅かに伺えた険を抜いて、困ったように言葉を紡ごうとした。
 それを、彼女の祖母が止め、総一郎に語りかける。
「随分と下手な演技だねぇ。そんなので私が騙せると思ったのかい?」
 総一郎は、はじめ何と言われたのかが分からなかった。その言葉が、慈愛の微笑に満ちた表情で発せられたからだ。そしてその意味を理解した時、何故だかわからないが酷く恐ろしく思った。逃げなければ、という強迫観念に襲われた。
 シルヴェスターは、総一郎に目を向けながら息を呑んだ。鏡を見ると、表情が全くなくなっている。マズイと思ったが、老婆に目を向けると出来なくなるのだ。
 走りだし、老婆の横を無理にすり抜けた。階段を、足早に駆け下りていく。その途中で、「ちょいとお待ちよ」と声がした。壁を叩く音。総一郎は急に力を失って、階段の途中で座り込んだ。
「せっかちな坊やだねぇ。まずは話を聞いていきなさい。ほら、三日何も食べてないんだから、そんな状態で走れるわけがないじゃないか」
 へたり込んで半ば忘我していた少年は、呆気なく老婆に捕まった。「ほら、お立ち」と肩を貸され、すると何故か簡単に立ち上がれた。恐怖の様な焦燥も、今は消えていた。ただ、不思議なばかりだ。
 総一郎は、半ば放心した状態で居間らしき場所へ連れて行かれ、いつの間にかそこに座らされていた。目の前にはスープがある。まるで時間が飛んだような感覚に、アレ、と困惑した。
「ほら、いきなり肉なんて食べたら胃がびっくりしてしまうからね。まずは、このスープをお飲みなさいな」
 シルヴェスターと老婆に見つめられながら、総一郎は言われるがままにスープを啜った。味は、よく分からない。妙な居心地の悪さと、しかし飛び出せないだけの空腹感が、少年の中でせめぎ合っている。
「どうだい? 美味しいかい?」
「……ええ、とっても」
 総一郎はどんな表情を使っていいのか分からないまま、嘘を吐いた。シルヴェスターは少年から離れたところで顔を顰める。老婆は、からからと笑った。
「良い子だねぇ。無意識に相手を気遣う子なんて、最近少ないもんだがね。良いんだよ。坊やがまともに料理の味が分かるほど体調が良くないってことくらい、おばあちゃんにはお見通しさ」
「……」
 総一郎は、何かを言い返すことが出来ない。老婆の言う事は、総一郎でさえ自覚の無い事実が含まれていたからだ。言われてしまえば、はっきりと理解してしまう。スープではなく、食感の違う白湯を飲んでいるような感覚だった。
 老婆に目を向けると、茶目っ気に満ちたまなざしで見つめられている。「ほら、早いところ飲んでしまいなさいな」と催促され、少々急ぎ気味に呑み干した。
 それで、と総一郎は切り出す。
「何で、僕はここに居るのでしょう?」
「倒れていたんだよ。それで、あの子が坊やを見つけて負ぶってきた」
 視線の指し示す方向には、シルヴェスターが居た。総一郎は考える。感謝の言葉を投げかけるべきなのか。しかし感謝をいうには総一郎の意とは食い違っている。逆に余計なお世話を働いてくれたと罵るか? いや、それは流石にあり得ない。
 どのように言えばよいのか思い悩んでいると、少女は総一郎から視線を逸らして、ぽつりと言った。
「元気になったら、出て行ってください。私が対価として望むのは、それだけです」
 言うが早いか、少女は駆け足気味に居間から出ていった。足音を聞く限り外に出て行ってしまったようだ。すでに着替えていたし、不自然ではない。だがこんな早くに一体何処へ行こうというのか。
 老婆はそんな少女の様子を見てくすくすと笑っている。
「というわけさ。あの子と喧嘩中なのかどうかは知らないけど、元気になるまではゆっくりして御行き。回復したら親も探してあげる」
 何かを勘違いされているのは何となく分かった。だが、否定するべきでもないという感じもする。黙っていると、老婆はさらにこう続けた。
「それにしても、あの子を見ていると癒されるねぇ。何て言うか、私の若いころそっくり」
「そうなんですか?」
 総一郎、とりあえず相槌を打つ。
「ええ。意地っ張りで負けん気で、でもそんな所が今の私からしてみると愛おしくてねぇ。あの子、可愛いでしょう? 私も、今はこんなおばあちゃんだけど、昔はモテたのよ」
「それは、何となく分かります。お年を召してもご綺麗でいらっしゃる」
「あら嫌ねぇ。こんなおばあさんにおべっか使っても何も出てこないっていうのに」
 総一郎は、褒めたつもりはあまりなかった。若い頃は相当美しかったのだろうと思わせる、穏やかで、気品ある老化なのだ。
「ふぁああ。ん、何だばあさん、どうしてこんな早くに……ん。起きたのか、坊主」
「あ」
 総一郎、思わず指をさしてしまう。いつかブレアが勝手に杖を触って怒られた、あの爺様だ。そんな少年の行動に対し、彼は煙ったそうに「人の事を指差すなと親に習わんかったか、バカモン」と眠たげな声で言う。
「それより……ローレルは何処に行った」
「あの子は……、そうねぇ……どこに行ったのかね。行くべきところもないし、そろそろ戻って来るんじゃないかしら」
「ただ今帰りました……」
「ほら、ね?」
 老爺以上に覇気のない声が玄関の方から響いてきた。彼女は数秒すると居間の方に戻ってきて、総一郎を見つけ次第微妙に顔を顰める。
 一体どれだけ嫌われているのだろうか。
 総一郎は、とりあえずこの家の全員が揃ったのを確認してから、咳ばらいをした。視線が集まり、それに合わせて頭を下げる。
「改めて、倒れていたのを助けて戴いて、ありがとうございました。僕は、ソウイチロウ・ブシガイトと申します」
 親切には礼節で返さなければならない。そんな当たり前の事をしたまでだったが、返ってきたのは納得ではなく感心だった。
「よくできた子だねぇ。よっぽど親の教育が良かったのかしら。あ、でも人の事指差してたから微妙かね」
「前々から思って居ったが、どうにも子供らしくない子供だな。しかし、礼節をわきまえているのはいい事だ。指差しの事はひとまずな。申し遅れた、儂はフィリップだ。フィリップ・シルヴェスター」
「私はヘレンだよ。ヘレン・シルヴェスター。よろしくねぇ、ソチロウ」
「よろしくお願いします。あと、僕の事は呼びにくいと思うので、適当に訳して頂けるとありがたいかと」
 頭を下げる。指差しの事大分引きずられてるなぁと思いつつも、顔に不自然でない程度の弱い笑みを浮かべた。ただし、ヘレンばあさんには看破されている感が否めない。彼女はこっそりと総一郎にだけわかる様に、目を細めて肩を竦めていた。
「……短い間になるでしょうが、よろしくお願いします」
「うん、ありがとうね。シルヴェスターさん」
「……ローラでいいですよ。あなた以外全員シルヴェスターなんだから、紛らわしいです」
「あっ、そっか。それもそうだね」
 ははは、と笑ってみる。ローラはついぞ、その場で笑う事は無かった。
 しかし、元気になるまで、と言われ、その『元気』というものが、よく分からない総一郎だ。今の自分は肉体的には問題ない。精神は……自分で判断できるような物ではない気がする。総一郎自身では、問題ないと思っているのだが。つまり今すぐ出て行けと遠まわしに言われたのか。
 何をすべきかと考えていると、不意にヘレンばあさんに言われた言葉を思い出した。三日間何も食べていない? そんな馬鹿な。
「えっと、ローラ」
「……何ですか」
 その日の昼前、ヘレンばあさんは買い物に、フィリップじいさんは店番に出ていて、居間には総一郎とローラの二人しかいなかった。極力総一郎から離れようとしているのか、遠い位置のソファの端っこで本を読みながら、ローラは嫌そうな視線を向けてくる。
 総一郎は特に何を感じる訳でもなく、軽い調子で尋ねた。
「僕って、一体何日寝てたの?」
「三日です。先ほど腕を回したりして体の調子を確かめていましたけれど、まだあなたは本調子ではないですよ。勘違いしない方がいいです。治るまでなら、ここに居ても文句は言いませんし」
 だから、早く治って下さい。と言われ、総一郎はきょとんとしたまま頷いた。どうにも掴みがたい少女である。いや、一家か。と考え直した。
 この国は、病院の敷居が高い。というのも、保険が日本よりもローミドルクラス以下に優しくないのだ。かつて揺り籠から墓場までと呼ばれたイギリスだが、文明の遅れが目立つ今は、福祉など充実させている余裕などないのだろう。
 だから、衰弱していたとはいえ病院に入れないのは、何となく分かる。彼らが総一郎に金を払う義理は無いし、そんな金があるとも思わないだろう。実際、総一郎の所持金は少ない。せいぜい安いホテルに泊まれる程度だ。
 だが、だからといって家で面倒を見るというのも、少々手厚すぎる気がしないでもない。イギリスは人情の国という訳でもなかろうに。
 そんな風に考えていると、ローラが思い出したように総一郎に告げてくる。
「あ、言い忘れていましたが、ブシガイト君の身元は嘘を吐いておきました。貴方はあの村に居た私の友人という事になっています。それと、腕の事ですが」
 総一郎は、その時息を呑んで自らの右腕を見やった。手袋と、長袖。ほっと一息を吐く。
「二人には隠しておきました。詳しい事情は、言わなくていいです。興味もないので」
「……何で君は」
「私は人間として当然の事をしているだけです。それ以上の事はしませんから、求めないでください」
 態度は、あくまで冷たい。だが、本を見つめてはいるものの、ページは会話の途中勧められたり戻ったりしている。意識自体はこっちに置いてくれているらしい。
「……ありがとう。色々と」
 その言葉に、返事は無い。そのつもりもないのだと察して、総一郎は本格的に暇をつぶす方法を探し始めた。
 その日は結局、ローラに本を貸してもらって何とか暇をつぶすことに成功した。ちなみに彼女は途中で外出してしまって、碌に親交と言う物を深めるには至らなかった。
 昼食時、ヘレンばあさんが帰宅して、食事を済ませた。味は相変わらずわからなかったが、何となく食感がいいと思った。
 食事が終わって、全員がまったりしはじめた頃、総一郎はヘレンばあさんに尋ねる。
「あの、僕の荷物って何処にありますか?」
「荷物? あの、小さな袋の事?」
「はい。あの中に全部入っているので」
「まぁ、渡すのはいいけど、あれで全部なのかい? あんな小さな物の中に、いったいどれだけの物が入ってるの」
「アレは騎士学園で売られている、ミドルクラスからしたらオーバーテクノロジーの一品ですから」
「へぇ! そうなの。それは悪い事をしてしまったね、今持ってくるから、待っておいでな」
 ローラの付け足しに、総一郎は感謝の意を示すべく手を振った。ローラは反応してくれない。袋を渡され、整理の為に貸してもらっている部屋に赴いた。
 そういえば随分と袋の中について気にかけていなかったと、総一郎は袋の口を開けながらしみじみする。出て来るのは、本、本、本。合計二十三冊出てきて、我ながら呆れてしまった。旅に持って行っていい冊数じゃない。さらに探ると、木刀や杖が出て来た。
 だが、『美術教本』だけは、見つからなかった。
「……何で」
 総一郎は、固まった。ナイと共に学園を出る時、目ぼしい本は大抵処分してしまったが、『美術教本』だけはちゃんと入れておいたはずだった。しかし、それきり出していないし、もしかしたら、その途中でなくしたのか。
「……」
 呆然とした。内容はほとんど暗記状態ではあるが、今は会う事さえ難しい父から賜ったものなのだ。直接渡されたものではないにしろ、後悔は深い。
 少年は何かをする気が全く失せてしまって、ふて寝を始めた。ベッドに倒れ込み、目を瞑る。案外すぐに寝入った。
 ――そして見るのは、いつも通り踏み潰される夢だ。
 総一郎はすっかり見慣れた異形を目の前に、考えることがある。ここにしばらく居つく事になったが、本当にそれでいいのかと。
 総一郎は、自分と言う物の本質が分からなくなっている。
 だからこそ子供じみた八つ当たりで人を殺したのかもしれない。アイデンティティが確立できていれば、ナイを失っただけであんな行動を取らなかっただろう。そもそも、前世と言う物が本当に自分の物だったのかさえ、少年の中では危うくなっている。
 日本に居た頃は、まだその記憶の延長線上にあった。だから、ある種『大人』で居られた。
 今は、子供だ。虐めに会って自分の底の浅さを痛感させられた。必死に自分の『大人』を守ろうと法律的には子供の騎士候補生たちを殺さないように心掛けていたが、結局はファーガスが居なければあの場所で死んでいた。
 ドラゴンを殺すためイギリス中を回って、最初の野営地以外では子供として扱われた。それを、違和感なく受け入れた。大人の振りをすれば、時には一目置かせることが出来ても、それだけだ。それは本当の自分じゃない。
「……はは。馬鹿馬鹿しい。大人ぶって、悲しい事があったら他人に当たって、――何処にでもいるクソガキだ」
 自分の声で、起きた。上体を起こすと、頬に伝うものがあった。総一郎は、苛立って乱暴に拭う。
 窓を見れば、いつの間にか夕方になっていたらしかった。総一郎は、ナイの事を思い出してしまう。膝枕をしてくれたナイ。共にベンチに座り、寄り添ってくれたナイ。自分を起こしてくれたナイ。――彼女は、夕方が一番きれいだった。
 ノックが、四回。
 総一郎は、どうぞ、と振り向いた。そこには、夕日に照らされたナイが立っている。
「ナイ!」
 総一郎はベッドの上で身を乗り出し、大声を上げていた。彼女はそれにびくりと竦みを見せ、「な、何ですか?」と英語で返してくる。
 総一郎は、その声を聞いて頭が冷えた。逆光で、見間違えてしまったらしい。少々怖がった様子のローラに、少しの罪悪感と、落胆を抱く。
「……ごめん、寝ぼけてたみたいだ」
「そ、そうですか。夕ご飯が出来ましたので、居間に下りてきていただけますか?」
「うん。ありがとう」
 ローラは、答えを聞く少し前には、踵を返して部屋から出て行ってしまっていた。とことん、避けられている。
 総一郎は部屋を出て、鏡の前でわざとらしく困った演技をした。

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