武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

9話 あやかしの森 【下】

 目の前には、木漏れ日の掛かる石階段が延々と続いていた。
 背後からは夏の日差し。右手にはじんわりと汗の滲む手があった。ちら、と横を見てみれば、緊張した面持ちの琉歌がじっと石階段の向こうを見つめている。軽く手を引くと、こちらを向いた。声をかける。
「じゃあ、行くよ。るーちゃん」
「う、うう……。ホントに? ホントに行くの? 他の日じゃだめ?」
「いいけど、その時はるーちゃん一人だよ?」
「う、ううう……! 隕石落ちれば行かなくていい? 隕石落ちたらいいよね?」
「隕石落ちないから」
 どれだけ彼女は追い詰められているのだろう。
「ほら、行くよ」
 言って手を引っ張ると、非常に渋い顔ながら抵抗せずについてきた。そのまま、木漏れ日の階段を上っていく。
 耳を澄ますと、鳥の鳴き声が耳に入る。そして、自分の息。琉歌のものも、自分より少々荒いながら聞こえていた。総一郎は鍛えているからまだまだ余裕があったが、琉歌はきっと辛いのだろう。握る手から力が失われている。
 そんな中、ふと思い立った。琉歌とは長い付き合いではあるものの、二人きりで何かをしたという事は少ない。記憶を遡ってみれば、誘拐事件のそれに行きついてしまい、おや? と首を傾げざるを得ない程だった。ファーストキスの相手同士とは思えない。と言うのは当人二人以外にとって禁句だったりする。主に兄姉のご両人だ。
 だから、少し話をしようと思い、大体一時間歩いたところで休憩の声を掛けようとした。琉歌は無口な性質なので、総一郎はこれを機にたくさん話そうと期待していた。
 しかし、振り向くとそこに居たのは知らない天狗だった。
 総一郎、絶句である。
 だが、そんな彼の様子を見て、赤ら顔の長鼻天狗は愉快そうに、にっ、と笑った。次いでその背に生える巨大な翼により、総一郎を抱えて空高くへと舞い上がる。
 一瞬で、視界は真っ青に変わった。
 驚きやら混乱やらで、思わず大声で叫びだす総一郎に、答える様にして天狗は高笑いを上げた。呵々大笑と言った風情の天狗は、総一郎の絶叫に負けぬほどの声を張り上げ尋ねてきた。
「お前が総一郎だな! 話は聞いている、ずいぶんと優秀な奴らしいではないか! そんな貴様に問うてやろう! 儂の加護、風の魔を欲しいか!」
 パニックではあるものの、ほぼ即答を返す。「はい! 欲しいです!」
「うむ! 混乱の最中にありながら、加護を求むその貪欲さよし! されば――!」
 凄まじい速度で空を飛びまわる天狗と、抱えられる総一郎。天狗の大声がそこまで行ったときに、拘束する力が消えた。
 無論、総一郎は空中をブーメランさながらの回転で飛んで行く。
「我が加護を尋常の百人力やろう! 風を操りその命、落さずして見せよ!」
 辛うじて捉えた視界に映るのは、扇を力強く振った天狗の姿であった。次いで鋭い風の音。無数の痛みが総一郎を襲い、小さく長い、血の軌跡が空中に描かれる。
 そして笑い声が聞こえだし、次第に遠のいていくのが分かった。恐らく、何が有ろうと助けないという意思表示なのだろう。回転しすぎてすでに目が回って居たが、そうも言っていられないらしい。
「―――――――――――――――――――――――――――――!」
 半ば叫びながら、総一郎は風魔法の呪文を唱えた。
 呪文だけならば全属性の物を覚えていた。それぞれ法則性があった為、自然と覚えてしまったのだ。唱えたのは風魔法の防御呪文。飛来物から身を守るのに適している魔法と言うが、この場合は総一郎が飛来物である。
 ともあれ、効果はあったようだった。
 森の木々に突っ込み、枝によって衝撃を和らげながら、総一郎は段階的に落ちていった。最後にぼてっ、と地面に墜落するのと同時に魔法の効力が消え、起き上がりつつ地面に生える草に顔をひっかかれる。「痛い」と呟くが、この程度で済んだのならば僥倖と言うべきだろう。
「危なかった……」
 安堵の嘆息をし、見上げれば、緑に滲む太陽の光が透けて見えた。あそこから、落ちてきた。木がクッションになるというのは良くある話だが、毎度それが通じるという訳はない。その時、自分は何をすれば助かるかと言う具合に、思考は傾く。
 ふと、父の言っていた終端速度と言うのを思い出す。終端速度と言うのは簡単に言えば、重力による加速度と空気抵抗が釣り合った状態。ようはそれ以上加速しない落下速度がいずれ至る最後の事を指している。ここのキモは、重力加速度の対である空気抵抗だ。
 ひとしきり考えたところで、総一郎は立ち上がった。どのような呪文を用いればいいのかもある程度見当がついて、我に返ったのである。周囲を見渡すとそこは平地で、足元には総一郎の腰まで至る長い草、天を覆うは小高い木々の葉であった。
「るーちゃん、大丈夫かな」
 ぽつりと漏らす。亜人たちもあの子にはそう手荒なことはしないと思いたいが、それでもあの人見知りが平穏に加護を授かっていけるとは思えない。
 とはいえ、急を要する物でもないだろうと決着をつけ、周囲を見渡した。
 ――ここは山のどの辺りなのか。最初歩いていた階段の様な物は無く、しかも平面で、山ではなく森を思わせる趣だ。木々が鬱蒼としていて、ただの森ではなく樹海と言い表す方が正しいのかもしれない。
 そんな事を思案していると、背後から物音がして、何気なく振り返ってみたりする。しかし、何もいない。
「……いや」
 気配が、ある。
 総一郎はまず自身の息を殺し、長い草の中に身を隠して、気配の方向へとひっそり進んでいった。念押しに少しの迂回を決め、息を殺しきれない三メートルの距離に入った途端、蛙よろしく飛びついていく。
 聞こえたのは、可愛らしい甲高い少女の物と思われる声。もう一つは、それに隠れて聞き逃しかけた、老爺の低い呻き声ともいうべき物である。
 追記するならば、そのどちらも総一郎の手の内に収まってしまった。
 これが純粋な子供ならばある程度の躊躇を見せるところだろうが、総一郎は生憎と純粋な天然ものとは訳が違った。亜人だろうと分かっていた為、逃げるという事はまり考慮せずに解放した。
 そこに居たのは、妖精らしき羽をはやした身長十センチ強の緑服を着た美しい少女に、尻尾に火がついたぬめりと言うものを感じさせない赤い皮膚のトカゲであった。
「ちょっと! いきなり何するのよ!」
 手のひらサイズの妖精らしき少女の抗議に、「いやー」と答える。
「さっき油断していたら、天狗様に攫われて物凄い量の風の加護――百人力とか言ってたかな、それはさすがに嘘だろうけど――を授けられていきなり空中に投げ出されちゃったものだから、ちょっと余計に警戒しちゃって。ごめんね」
「アンタ物凄いこと言ってるの自覚ある?」
「嘘だとしても、凄まじく利発な小僧である事は確かであろうよ」
 亜人にも呆れられる辺り、何なんだろうとか思う総一郎だ。 それにしても、と妖精は翅を羽ばたかせつつも隣のトカゲに言う。
「こいつ天狗とか言ってたわよね。あの十年に一人加護をあげるかあげないかの」
「おお、言って居った言って居った。なれば小僧、その百人力たる言葉、嘘でないかもしれぬぞ?」
「え? 本当に」
 うむ。と恭しく頷くトカゲ。尻尾が燃えているのが気になって、少しだけ手を近づけてみると、思った以上に熱い。
 などと油断していると、その火で手を焼かれた。
「みんな僕に何の恨みがあるのさ!」
「これこれ。そう急くのは止めなさい。これは加護だよ。高名なる火の精霊、サラマンダーの加護だ」
 涙目だった表情をきょとんとさせて、総一郎はトカゲもといサラマンダーを見た。前世でも、名前自体は知っていた。しかし、こんなに小さかっただろうか。
「いやいや何の。今加護を与えて分かったが、小僧、もしや名を総一郎とは言わないか?」
「えっ? あの有名な?」
 ある種確信を持った質問をするサラマンダーと、それに心当たりがあったのかびっくりしたような妖精。何故自分はこれほどまでに知られているのか、自覚のない総一郎は憮然としている。
「そりゃ加護をほとんど手に入れて無い様な子供が物理魔術使って飛び回ってるなんて話を聞いたら、誰だって噂にするでしょう?」
 妖精の言葉で自覚して、強張った笑みで視線を逸らす。すると妖精は、わくわくした面持ちで尋ねてきた。
「ねぇねぇ、それで、天狗ちゃんになんて言ったの? あいつの事だから黙って加護を授ける訳はないと思うのだけれど!」
「え? ああ、何かいきなり攫われたのはもう言ったよね。それで飛び回りながら加護が欲しいかって言われて、欲しいって答えたらくれたけど放り出されちゃった。……って、それだけなんだけど。ん? いやちょっと待って、今天狗様にちゃん付けした?」
「ずいぶんな肝っ玉だな、総一郎。確かに天狗が加護を惜しげもなく渡した理由が分かるわい」
「普通空中に攫われたら降ろしてくらいしか言えないわよねぇ」
「……で、その肝っ玉にしか加護を与えない天狗様をちゃん付けできる君は何なの?」
 二度尋ねると、妖精の少女は不敵な笑みを作って視線を鋭くした。火の精霊に目を向けると、彼は請け負うのを示すように頷く。
「こやつはな、風の精霊シルフィードだ。あやかしの格としては天狗に似たり寄ったりともいえるな」
「そうなの?」
「まぁね。あたしの場合は追い出されてここに来たんじゃなくて、分身を作って潜り込ませたって形だし。だから世界中のどこにでも居るわよ」
 アンタもそうよね。とシルフィードはサラマンダーに尋ねた。肯定を返す火トカゲである。
「じゃあ、あたしだけあげないのも何だから、ほらっ」
 風の妖精による巨大な鎌鼬が、総一郎を襲った。大きな傷に似た血が流れ、激痛が走る。だが、一瞬だ。血が滴り、拭えば同じように痛みも消えた。
「痛くない加護って無いの……?」
「そこはまぁ、我慢だの」
「我慢あるのみよ、総一郎」
 からからと笑う二人の亜人が、少々恨めしい心持ちになった。


 加護を授かる時は、大抵この二種類だった。
 突発的に襲われ、加護を授かり放り出されたのち、その扱い方を見られる(ある程度使えなければ死ぬ)。逆に総一郎から行動し、雑談中に冗談交じりで授けられる。どの相手も今まで貰った加護の事を言うと大盤振る舞いしてくれたが、その真偽は分かった物ではない。
「あとはマヨヒガの四つと、水、氷、音に時間だったかな……」
 まだ八つもある。とぼやきながら、足元の草を踏み分け総一郎は歩いていた。日も少しずつ落ちていき、木の多い森の中は、村のそれに比べて一層暗い。
 これまでに手に入れた加護は上記の八つ以外。その中でも総一郎が気に入ったのは、木と精神の二つだった。というのも、その二つは今まで未開拓であった生物魔術に置いて、根幹をなす程に重要な位置を占めているのである。
 木の加護は、古木の精霊を名乗るドライアドと言う美女から授かった。彼女は総一郎の事を前々から直接知っていて、物心つく前は良く抱かせてもらっていたと語った。
 確かに見覚えがある人だと雑談していた所、「好きな人は居るの?」とか、「大きくなっても女の子にモテなかったら、私の所に来ない?」だのと妙な方向に向かっていったので、加護を貰い次第早々に引き揚げたのだ。
 木の加護は曰く、生物魔術を使うに当たって欠かすことは出来ないのだという。加護の大半は有機物を前提としていないため、唯一の例外である木属性だけが、生物魔術に携われると。
 逆に精神魔法は、生物魔術の高等系。知的生命体に関する技術で、大いに役立つらしい。
 それを授けたのは、『覚り』と言う毛むくじゃらのサルであった。かつて総一郎を襲った人食いの一人である。けれど、やはりというか亜人にも良い個体悪い個体と言う物は居るという事で、少々総一郎をからかうに留めた彼は、きっといい個体なのだろうと総一郎は思っている。
 詳しく聞けば、精神魔法のとても難易度の高い物は確かに生物魔術に用いるが、精神魔法のおおよそは、もっと単純なものであるらしい。
 具体的に言えばテレパシーだの感情変化だの。と言った具合だ。勿論精神魔法のほとんどは犯罪に含まれるが、状況によってはかなり役に立つため情状酌量が効きやすいとも言っていた。こちらに関しては、あまり使う気の起こらない総一郎だ。
 ちなみに、そんな総一郎は今、少々の焦りを感じていた。
 予定では、一日二日駆けて山に通い、多くの亜人たちから加護を貰うつもりではあったものの、山で野宿する気は毛頭なかったのだ。しかし、日はもう落ちかけ、帰り道も分からない。
 ここが何処であるのか、聞かない訳ではなかった。しかしどの相手でも、面白げな表情で目を逸らし、加護を与えてすぐに消えてしまう。そうこうしている内にとうとう追い詰められた総一郎は、開口一番に尋ねようと心に決めた。その末、今に至っている。
 正直言うと、少し泣きたい気分だったりした。
「……頑張れ、まだ大丈夫」
 子供の体は、自制が効かない。それは好奇心に対してもだし、寂しさや怖さに対しても顕著だ。大丈夫。まだ非常食用のお菓子は尽きていない。そんな風にして言い聞かせた。
 ざわ、とどよめきが頭上で走った。暗い森の木々の上には、ある時から何かが総一郎に付いて回り、くすくすと小さな笑い声を漏らすようになっていた。初めは苛立たしく思っていた総一郎だったが、試しに魔法を放っても変わらないその様子に、自我を持たない亜人なのかもしれないと思い定めた。もっとも、そんな存在を亜種と言う前提でも人と認めてよいのかはなはだ疑問だったが。
「……だけど」
 今、その様子が変わったように感じた総一郎は、ぼんやりと上を見上げた。くすくす笑いは収まって、ざわざわと耳障りに話している。その具体的な内容は分からなかった。音魔法が使えれば、話は別なのかもしれないが。
 しばらくすると、何かが逃げていくような音がした。それが連続し、最後には何も聞こえなくなる。
 居なくなったのだ。と何となく分かった。
「……何があったんだろ」
 呟くが、帰ってくるのは静寂である。益もないと見做し、総一郎は再び歩き始めた。
 すると奇妙な事に、オーイ、と誰かが何者かを呼ぶような声が聞こえだした。少々、顔色を明るくさせて、駆けていく。
 暗闇は、総一郎の妨げにはならない。光魔法で微弱な魔力を費やせば、今では何時間も視界を明るくしていられる。オーイ、と言う声は一定の感覚で繰り返されていた。段々、近づいている実感もあった。
 だが、ある所に至って、総一郎はぴた、と足を止めた。
 何故なのかは、分からなかった。ただ、切迫したものが眼前にある。目を細め、その正体を見抜こうとした。何者かの、意思。それが自分に向いている。正体は、自然に理解できた。
 ザックの中から、念のためと持たされた、木刀を抜き放った。
 そこから一歩踏み出すことに、躊躇は無かった。踏み出し、強い足取りで歩んでいく。オーイと言う声は、先ほどの誘うような物でなく、どこか威嚇するような色を帯び始めた。気圧されている。そう思い、一度木刀を振るえば、余分な恐怖は落ちていった。しかし、全てが無くなるという事は無い。
 オーイ、と言う声は、激しさを剥きだしにしていった。油断させる呼び声でも、総一郎が惑わされず、それが不服だったのかもしれなかった。総一郎自身、何故気付けたか未だ分からない。ただ、躰が止まったのだ。
 ここだ。と思った。オーイ、と言う声が、その瞬間に消えた。ザックを脱ぎ捨て、木刀を構えた。見回して探そうとも考えたが、元々視認できる相手ではない可能性もあった。
 風に、木がざわめいている。亜人の物でない音を聞くのは、久々な気がした。涼しいと思いながら、目を閉じる。光魔法も、解除した。
 あるのはただ、鋭い静寂である。
 父との立会いを、思い出した。ここ数年、やっていない。しかし何度も反芻し素振りをしたため、その記憶は根強かった。それが、一瞬よぎった時に、思わず木刀を、振るっていた。
 何かを、捉えた感触があった。目を開くが、そこには何もない。ただ、存在していることだけが知覚できた。風魔法で手ごたえを探ると、確かに何かが横たわっていた。
 倒したと思って、気が緩んでいたのだろう。その隙を突かれ、総一郎は四方から轟音に襲われた。
 耳をふさぎ、耐える。だが、そこで悪意を感じられない事に気付いた。もしや、と思い、音魔法の呪文を唱える。周囲の音を、拾う魔法だ。
『これでうまい事尋ねられずに加護を渡せたな』
『ああ、しかし、カヨーオヤシ。お前木刀で切られていたが、大丈夫だったのか? 確か総一郎が持っていたのは桃の木刀だろう。奴は太刀筋もいい。下手をすると致命傷だ』
『そうだな。ばあさんに言って治してもらおう。実の所、非常に痛むんだ。しかし、噂に聞いていたが、恐ろしい小僧だな。白羽ちゃんも中々に破天荒だったが』
「そこまでして道を教えたくないのか!」
 総一郎、絶叫である。
 それが聞こえたのか、やばいやばいと慌てた様子で逃げていくカヨーオヤシほか数人。少し面白かったため追おうとも思わなかったが、ここまで来ると何かの意志があると思えてならない。
 ともあれ、音魔法取得である。
「また振り出しだぁ……」
 疲れた声音で項垂れつつ歩く。今度に至っては、上からの笑い声も聞こえなくなった。音魔法の取得によるものなのだろうか。その場合は、聞かれたらまずい事があるという事になる。
 やはり、意図があるのだろう。その事が、自然と腑に落ちた。とはいえ、分かる訳もない。どうでもいいから家に帰してください。切実に願う。
 何かにぶつかり、千切れる感触を得た。我に返り足元を見ると、テープの断片が落ちている。
 見れば、前方一帯が、そのテープに囲まれているようだった。一体何だこれはと拾ってみると、何やら書かれている。
「えーと? ……『一度でいいから見てみたい、女房がへそくり隠すとこ』……え、何これ見たことある」
 どうでもいいが笑点はいまだにやっているのだろうか。
 そんな訳の分からないことが書かれたテープを見て、盛大に眉を顰める総一郎である。こういうのは立ち入り禁止と書くのが相場なのではないか。悪戯にしてもセンスが無さすぎる。そんな風に考え、首を振りながら嘆息した。書かれている内容はこの一つでなく、テープが伸びる限りに延々と、バリエーション豊かに続いている。
「一体何が目的だったんだろ」とぼやきながら、何となしにテープをひっくり返した。するとそこにははっきりと禁止と言う文字が躍っていて、おや、と思い読み直す。
「『これより先スナーク狩猟区。危険につき立ち入り禁止』……」
 背筋に、怖気が走った。
 バッと顔を上げ、空を見る。空は暗い。もう夜と言っても過言ではないだろう。手先の震えを押さえながら、破ってしまったテープの先を見た。光魔法で明るくすると、ちらちらと遠くの方に何かが見えた。
 総一郎は怯えと共に思う。――その白い外観に、四角いシルエット。もしやあれは、着替えをするための『更衣車』と言う奴なのではないだろうか――
 その時、その四角いシルエットが、微かに動いた。
 総一郎は回れ右からの全力疾走を行った。脇目も振らずにただ必死に足を前に出し、腕を振る。顔が引きつっているのは承知していた。視界が恐怖に滲むのも知っていた。ただ、それでも総一郎は走り続けた。わき腹が痛くても、呼吸が苦しくても。
 五分近く走っていただろうか。とうとう力尽きた総一郎は、突然の脱力と共に地面に身を投げ出した。土が顔を汚し、肌が露出した部分を草がひっかいていく。恐怖からは逃れられたものの、転んだ拍子に目に入った満天の夜空に、小学生の総一郎は泣かざるを得なかった。
 状況は冗談の様な物だったが、その真っ只中に居る彼にとってはただ事では済まされないのである。
 そんな時、おや、と言う声が聞こえて、すすり泣きながらも顔を上げた。視界に映るは優しげな老婆の姿である。
「どうしたのかね、坊や、こんな所で寝転んで。もしかして帰れなくなったのかい? それなら、家にお出でなさいな。すでに先客がいるけれど、坊や一人くらいならなんとかなるさね」
 言った老婆は、総一郎を軽々と背負い、気遣う様にして歩いて行った。耳元で「ありがとう、おばあさん」と辛うじて呟いたが、頭の中では山姥が出てくる昔話を思い浮かべていたのは、ここだけの秘密である。

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