呪印が二人を別つまで(仮)
4.最上級の琥珀酒
グラスに入ったガラスのように美しい透明な球体を、ゆっくりと琥珀色が包んでいく。やがて球体を半分程包み込むと、その光景を見つめていた切れ長の目の美しい女性がグラスを持ち上げ、コロコロとその艶やかな指先でグラスの琥珀色に軽く流れをつけて口元へと運ぶ。
「ふぅ……」
物憂げな表情に、ため息。
近くでその光景を見ていた誰もが、女性の仕草に見惚れていた。
声を掛けたくても掛けられない。
それは女性の美しさ故か、はたまた女性が纏う金属鎧が故か。
その両方だったのかもしれない。
喧騒漂う酒場のはずが、女性の周りだけが高潔かつ静寂かつ妖艶な空気に包まれていた。
その女性――ミリアは酒場の宙空を見つめながら、琥珀色の酒をじっくりと味わっていた。
「たまにはこういう贅沢もしないとな……」
ミリアの飲んでいる琥珀色の酒はそのまま琥珀酒と呼ばれており、酒場の酒の中でも単価は高い。製造方法が麦酒や葡萄酒などとは異なり、製造工程も増え、その内容も難しいらしく、単価は麦酒や葡萄酒の数倍にも及ぶ。その単価の高さは味にも紐付いており、まろやかな風味は酒飲み達の憧れでもあった。手軽に飲めるものでもないため、量を飲みたい者達からすればそんなに惹かれるものでもないが、それでも琥珀酒はその見た目の美しさもあってコアなファンが多い。ミリアもそのファンの一人である。
琥珀酒を飲めるのは、懐に余裕がある時だけだ。
今、ミリアがこの酒を飲めているのも、依頼を達成したばかりだからというのもある。
一人物思いに耽りながら美酒を嗜むミリアの至福のひと時。
それは誰にも邪魔されたくない大事な時間。
だからこそ、ロックとは別行動なのだ。依頼達成後は互いにたまにこうして別行動を取る。しかし、互いに言及はしない。
どうせロックは連れ込み宿にでも行っているのだろう。
それなら自分は存分に琥珀酒を味わおうというわけだ。
昔は距離が離れれば呪印による激痛に悩まされていたが、今では呪印の起動理由が何となくわかっている。
ロックと本心から離れようとしなければ痛みは発生しないのだ。
あの気に喰わない男から距離を少しでも取ろうとしていた頃、それなりの距離を離れたにも関わらず痛みが発生しなかったため、本気で別の街に向かおうと思った刹那、頭に激痛が走った。
この呪印は心に反応しているのだと、そう感じた瞬間だった。
「ふっ……そんな昔のことでもあるまいに、懐かしいものだ」
そして今では、心から離れるつもりも特にない。
共に過ごした幾許かの時の中で、あの軽薄な男が、それなりにまともであることを知ってしまったからかもしれない。
「まぁ気に喰わない時が多いのは間違いないから、離れられるものなら離れたくはあるがな」
などと口にしながら、ミリアはロックのヘラヘラした顔を思い浮かべて苦笑いする。
「おやおや、噂の美しい女剣士様が本当に酒場におひとりでいらっしゃるとは」
美酒に酔いしれながら目覚め以降の記憶を振り返っていたミリアの至福の時に、不意に横やりが入る。
視線を向ければ上品で高級そうな衣服を纏った男がいた。男の傍には護衛だろうか、武具を身につけた男が控えている。酒場の娘達はその上品な衣服を纏った男を見てキャッキャと黄色い声を上げていた。
有名な男なのだろうか。
確かに娘達が好みそうな顔立ちであり、身なりの割に若さも目立つ。
しかし、だからと言ってミリアのこの瞬間の何が変わるわけでもない。
至福の時を取り戻すために、こういう声を掛けてくる手合いはスッパリと拒絶するに限る。
「依頼ならギルドへ行ってくれ」
「ご一緒しても?」
「今はオフなんだ」
「まぁまぁ、そんなこと言わず」
上品な身なりのため、言葉は抑えめにしてあるが態度は明確な拒絶を意思表示したつもりだった。
しかしどうやら通じていないらしい。
それとも自分自身に自信があるのか、余裕を携えた笑みで遠慮なく近付いてくる。
そこに店主が駆け寄って来るとヘコヘコと頭を下げてはゴマをすり始めた。
「領主様! このような店にご来店いただきありがとうございます」
なるほど。この若さで領主か。
そしてこの顔立ち。娘達が色めき立つわけだ。
「最上級の琥珀酒を一杯いただけるかな?」
「もちろんです! ささっ、どうぞこちらへ」
そう言うと店主はミリアが腰掛けているカウンター席の隣へ領主を案内する。
思わず『何を勝手に隣へ案内してるんだ』と言いそうになるのを堪え、ミリアは仏頂面で領主を睨む。
「そんな警戒しないでください。取って食おうなどと思っておりません。先程のため息と独り言。寂しげな表情。貴女のその心の傷、私が癒して差し上げたいのです」
「は?」
急に何を言い出すんだコイツは。
寂しげな表情? 心の傷?
そんなものに全く覚えはない。
「これは失礼。唐突すぎましたね。まずはこの出会いに乾杯です」
店主が出してきた琥珀酒を受け取ると、無理矢理ミリアのグラスに軽くぶつけて乾杯の形式を取る。
その不躾な態度に流石のミリアも苛立ちを隠せない。
グラスを一気に呷り、硬貨をテーブルの上に置くとミリアは席を立った。
「美味かったぞ、店主」
「まぁ待ってください。女剣士様。店主、彼女にも最上級の琥珀酒を」
「?!」
最上級……その言葉に、ミリアの心が揺れ動く。
「どうぞ席に。少しだけ、お話させてください」
「……少しだけ、な」
「ありがとうございます」
琥珀酒の魅力には勝てなかった。しかし、即座にミリアは後悔する。
最上級の琥珀酒は全く美味くなかった。それは酒の質が悪かったとか、味が悪かったとか、そういう問題ではない。
最初の一口を口にしようとした瞬間から、領主の言葉が水を得た魚のように弾けて止まなかったのだ。
領主の自己紹介から始まり、自慢、自賛の嵐。誰もに慕われ、街中の女性の憧れの的である自分とこうして酒を飲めていることは幸せなことだと宣い、誇りに思えと恩着せがましく語り始める。
最初に感じた上品さなどカケラもない。
しかし、周りの娘達は恍惚の表情で領主を見つめ、そして羨ましそうにミリアを睨む。
娘達はみな狂っているのではないかと心底心配になるくらいだ。
領主の話をただの雑音にしか感じなくなったところで、ミリアは目の前の最上級の琥珀酒に集中する。
こんな拷問を受けているのだ。
その報酬くらい、しっかり受けておきたい。
「その美しさ、私の傍にあって然るべきです。不自由な想いはさせません。貴女は私の屋敷にいるべき人です。貴女の恋に破れたその傷も、私の屋敷で暮らせば癒えるというものです」
しかし、琥珀酒に口をつけようとしたその時、領主から発せられたその言葉をミリアは聴き流すことが出来なかった。
「ふっ……なるほど」
どうやらこの領主とやらは酷く勘違いしている。
いや、思い込みと言った方がいいのだろう。
領主にとって都合のいいように、ミリアの中身が定められているのだ。
あまりの不快さに、逆に笑みがこぼれる。
ミリアが漸く反応を示したからか、領主も思わず笑みをこぼす。ミリアの反応が、領主の望むそれとは全く異なることなど理解していない。理解しようともしていないのだろう。
「貴様は、琥珀酒の味を認めて琥珀酒を飲んでいるのではないのだな。高いから、美しいから、ただ一方的に貴様の思い込みで貴様の嗜好を押し付けているだけ。更に言うならば、私は恋に破れてなどいない」
「な、何を……おっしゃっているのです?」
「領主よ、貴様の申し出を断っている」
「なっ?!」
周囲の観客達がざわめき出す。娘達は安堵と嫉妬と憤怒が混ざり合ったような何とも言えない表情でミリアを睨んでいた。
「私は高いから、美しいから、琥珀酒が好きなのではない。美味いから好きなのだよ。琥珀酒の中身に、私は惚れているのだ。私の中身を知ろうともしない貴様には何の魅力も感じぬ。娘達よ、お前達も考え直せ。こんな節穴の男に見初められたところで、何も誇らしいことなどないぞ」
「貴様っ!! 下手に出てやっていたというのに、私を愚弄するかっ!!」
意気揚々と話していた領主も、ミリアの誰が見ても明らかな拒絶の姿勢に、顔を赤くして叫んだ。
「貴様のことなど、初めから興味もないと示していたのだがな。口説けると思った傷心の女が思い通りにいかないとなれば激昂するとは、案の定、器も小さいのだな」
「くっ……!! き……貴様ぁぁぁ……一度ならず二度までも領主の私を侮辱するかっ! もうよい! ひっ捕らえよ!」
その声を契機に傍で控えていた護衛が戦闘態勢となりミリアへと近づき始める。
こんな公共の場で領主を侮辱した罪という大義名分があるからだろうか、全く周囲を意に介さず真っ直ぐにミリアへ殺気を向けていた。
「なるほど、領主だけあって護衛はそれなりだな」
「お前も言いなりになっておけば楽な暮らしが出来たものを。愚かな女め」
「私の幸せは私が決めるさ」
いくつもの死線を潜り抜けてきたのだろう。小手先の殺気ではなく、本物を感じる。その所作から、元は冒険者だったのだろう。
ミリアが剣に手をかけようとしたその時、酒場の扉が蹴り開かれた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! みんなのイケメン、ロック様さんじょ〜うっ!」
突如現れた銀髪のバカに、酒場は一気に静まり返る。
ロックの顔を見たミリアも、あまりのバカっぷりに呆けて開いた口が塞がらない。
しかし、瞬時に切り替える。
「ロック……酔ってるのか?」
「な〜に言ってるのミリアちゃ〜ん。俺が酔うのはこれからだよ。一人だけ美味そうな酒飲んじゃってさ〜ズルいねぇ〜」
いつものヘラヘラした顔でミリアの隣に来ると、ミリアの最上級の琥珀酒が入ったグラスを手に取る。
「あっ! バカッ! それは私の――っ!!」
空になったグラスをタンッとカウンターに置くと、ロックは目を丸くした。
「――プハッー!! 何だこの美味い酒っ!!」
飲み干した。
飲み干しやがった。
普段、琥珀酒なんて飲んだこともないだろう奴が。
琥珀酒の質の良し悪しなどわからないだろう奴が。
よりにもよって最上級の琥珀酒を飲み干しやがった。
「ロック……お前っ……」
愕然とロックを見つめるミリアを前に、ロックは真顔で声をかける。
「ミリアちゃん、傷心なの?」
「は? お前まで何を――」
「何かさっきそんなこと言ってただろ?」
「それはそこの金持ちの勘違いだよ」
ロックの登場、琥珀酒を飲み干された衝撃、そして領主の勘違いを思い出して額に手を置き項垂れる。
「なるほど、その銀髪のおバカさんが貴女の恋人なのですね。おバカさんに罪はありませんが、恋人に罪を償ってもらいましょうか……男の方からヤッてしまえ」
「へいへい」
「こいつが恋人なわけが――」
ないだろうと言おうとした刹那、護衛の男が突如膝から崩れ落ちるように倒れた。
何事かと護衛の顔を見ると、口から泡を吹いて気を失っている。
「なっ?! 何がっ?!」
指示を飛ばした護衛が目の前で崩れ落ちればパニックにもなるというものだ。
そんな狼狽える領主にゆっくりと近づいていくのはロックだ。
動じていない様子から、領主の護衛の意識を奪ったのはロックなのだろう。
「きっ……貴様っ!! 私はこの街の領主だぞっ!! 手を上げればどうなるかわかっておるのかっ!! 今ならっ! 今ならその女を差し出せば許してやる!!」
まだ言っている。
ろくでもない男に気に入られてしまったものだ。
「「はぁ……」」
溜息が重なる。
呆れて溢れたミリアの溜息に重なったのは、ロックの溜息だ。
「ミリアがテメェみたいな自己中に靡くと思うのか?」
さっきまでの戯けた表情のロックはどこへやら。
声のトーンも、怒気を孕んでいるように低く唸りを上げているようだった。
「私は領主だっ! この街の全ては私のものになる義務がある!!」
領主の叫びと同時、ロックはミリアの腕を掴むと強引に引き寄せる。
勢い余って抱き寄せられる形になる。
「っ! 何をするロック――」
ロックの顔を見上げると、その瞳には間違いなく確固たる意志が燃えているのが見て取れた。
――ほぉ。真面目なロックじゃないか。
そう思った刹那、ロックの瞳の炎が、弾ける。
「いいかテメェらよく聞け! こいつは俺の女だ! この街の領主だろうが、国王だろうが、英雄だろうが何だろうが関係ねぇ! こいつが欲しけりゃ俺を殺すことだな! だがその代わり、挑んでくるやつぁ覚悟しろ! 俺に殺される覚悟をな!」
ロックは怒気を撒き散らすと、ミリアの顎を持ち上げ、その顔を近付ける。
あまりの展開に、ミリアも付いて行けずにいると――
「え……んっ?! んんっ!!」
ロックは強引に口付けを交わす。
あろうことか、柔らか感触がミリアの口に広がる。
頭の中が真っ白になり、目の前には満足そうな顔をしたロックがいた。
「ふぅ……これでこの街でミリアちゃんも変な男に言い寄られることはないだろ?」
周りからは酔っ払い達のヒューヒューと二人を祝福しているのか冷やかしているのか定かではない声が上がっている。
何が起こったか把握すると同時、ミリアは思い切り拳を振り切った。
「こんのクソがぁっ……!!」
「ぐぁっ!!」
「ぎゃぁっ」
ミリアの右ストレートがロックの頰を貫き、ロックの身体が領主を巻き込みながら酒場の入り口へと吹っ飛んでいく。
女剣士の美しい右ストレートに吹き飛ぶ男二人を見ながら、酒場の酔っ払い達は大いに盛り上がり、そして見惚れた。
殴り飛ばした男二人の軌跡を目で追いながら、女剣士の頰は緩み、女神の如き柔らかな美しき輝きを放っていたのだ。
「いきなり殴るなんて酷いじゃねぇかミリアたん……」
「クズに言葉を話す資格はない。女性の不意をついた罪は重いぞゴミがっ」
「ゴミやらクズやらクソなんて言葉を、そんな綺麗な面して言う方が罪だぜ……イテテテテ」
「まだ殴られ足りないようだなチリめ」
「いや、もうマジで勘弁! 悪かったって!!」
罵倒しながらも絶えないその笑みは、いけ好かない男を殴り飛ばしたことによる快感、また、更なる罰を与えようとする悦びのためなのだろうと酒場の酔っ払い達は感じた。
しかし、そんな周りの考えなど知る由もなく、ミリアはただ、思うのだ。
口に広がる最上級の琥珀酒の残り香と後味は、最高に甘美なものだなと――。
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