つぎはぎの仮面で愛して

椎名


「トモ!」
 来る日も来る日も、雨の日だって日向ぼっこが気持ちいい晴れの日だって、僕はトモの病室に通い続けた。
 五二五号室にはトモ以外誰もいなくて、そこはトモと僕の、二人っきりの子供の遊び場となっていた。トモは博識で、けれど外の世界を知らないから、僕は毎日一つ外で見かけた気になるものをトモに伝えていた。
「青い羽の鳥が飛んでいて、鳴き声が可笑しかった」「水辺の白い花に、昨日にはなかった蕾がついていた」「風が冷たくて、もしかしたら明日は雨なのかもしれない」……そんな、他愛ない子供の秘められた日常。
 けれど、飽きることなんてなかった。彼と出会って僕は、初めて時間には変化があることを知ったのだから。退屈という名の魔物は、すっかり姿を変えてしまっていた。

 子供の好奇心とはおそろしいものだ。そこに罪の意識はなく、ただただ純粋な欲望だけが体を突き動かしている。『無邪気』と『罪悪感』は、いつだって対極している。
 だから、『大人のいけないこと』なんて、子供にはわからない。

「みーくん、キスって、したことある?」
「きす?」

 パタパタと来客用のパイプ椅子の上、宙に浮く足を遊ばせながら、僕は初めて聞く言葉のように中身のない単語を繰り返した。

「そうだよ。キス。あのね、好きな人にはキスするんだって」

 ハラリと、黒髪が揺れる。蛍光灯の光がいやに明るく見えて、トモの盛り上がったシーツにほんのりと影を作った。

「ぼく、みーくんが好き。みーくんは?」

 目の前にお菓子を並べて、「どれが好き?」そう尋ねる小さな子供みたいな、おもちゃみたいなくるりとした瞳。
 尋ねることに疑問を持たない、大人の知らない『当たり前』が色のついた日常に紛れ込んでいく。

「おれも、トモが好きだよ」

 するりと、言葉は滑り落ちた。
『好き』に種類があるだなんて知らなかった。
 飴をくれるおばあさんはすき。いつもちょっかいかけてくるおにいさんはきらい。学校の給食はすき。月一のクラス会はきらい。
 そんな二つに分けていくだけの簡単な作業に、二重にも三重にも混ざる特別があるだなんて知らなかった。
 ━━だから、僕と彼の『好き』に、“きらい”や“くるしい”が生まれる程の感情があるだなんて、知らなかった。
 単純な一色だけの『好き』は、子供の『ひみつ』を増やしていく。

「なら、キスしてもいいよね」
「えっと、うん」

 小さな指が、僕の人差し指と中指を絡め取る。するりと重なった手のひらは、彼との唇の距離を縮め、シーツの白にしわを刻んでいく。
 睫毛が二回上下して、ふう、と熱い息が僕の上唇から顎にかけて撫でていった。ぼう、とトモの綺麗な顔を見つめながら、感じた吐息の熱さに「トモ、熱があるのかも」なんて考えていた。

「でも、どうやってやるんだろう」
「え?」

 トモの黒々とした瞳に、はっきりと僕の姿が映るほど近付いた場所で、コテリとトモは首を倒した。

「だって、このままだとはながぶつかっちゃう」
「あ、そっか」

 当たり前じゃない当たり前のことに気が付いて、手を繋いだまま暫しトモと見つめあった。

「あ、こうすればいいのかな」
「え、」

 ふにっと、柔らかなそれが下唇に当たった。下から、トモが僕の唇に吸い付いたのだ。
 いや、吸い付いただなんて大袈裟な物ではない。触れたとも言い難いくらいの、感触を残さない細やかな接触。

「なんかちがうね」
「うん、なんかちがう」

 再び、性を知らない子供二人は小首を傾げる。

「れんしゅうかな」
「うーん、よくわかんない」

 している行為は大人のソレで、しかしそこに大人の感情が伴わないつたない触れ合いは、子供の無意識の『いけないこと』を倍増させていく。
 今思い出しても、子供の好奇心とはおそろしいものなのだと痛感する。本能的な『好き』『嫌い』は知っていても、その先に付属する感情と責任を知らないのだから。知らないからこその無邪気は、確かに存在する。
 トモとの大人を知らない子供の行為は、ちょっとした実験のようで、白で切り取られた病室の外とを徐々に混ざり合わせていくのだ。

「トモ」
 それは魔法の言葉だった。トモに外の世界を伝えるたび、僕の中の『つまらない』は死んでいく。トモに知識を与えられるたび、僕の『どうして』は増幅していく。
 トモは小さな魔法使いで、トモの「もっと聞きたい」は魔法の呪文で、彼との時間の分だけ、世界は息を吹き返していった。
 僕と小さな魔法使いは、長い時間をかけてゆっくりと白の檻の中の日常を彩らせていったのだ。

 そして。

 彼と出会って半年以上が過ぎた冬の日、━━魔法は呆気なく解ける。

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