ゴースト、ダンジョンで生活する。

島地 雷夢

人魚、侵入者に怯える。

「…………」 隠し部屋の池の中で、セイルはぼんやりとヒカリゴケが群生している天蓋を見るように漂っている。 トウカが一度出て行き、新たな食料を運び込んでコンロを持ち去ってから数時間が経過している。 その間セイルはずっと水底に背を向けた状態で曲がりくねる木にぶつかっても気に留めずに漂い、舞い落ちる光の粒が少しばかり体に降り積もる。「…………私は」 胸の前で祈るように手を組み、セイルは軽く目を細めて呟く。「このままでいいのでしょうか?」 それは彼女の現状から、彼女自身が耐えられなくなってきている事を意味している。 昨日、浜辺近くの岩場に上がり、それとなく潮風に当たりながら空を見上げていたら人に襲われ、額に刀傷を受けた。そのまま意識を失い、気が付けばダンジョンの道で倒れていた。 彼女もまた、ここがダンジョンだとは知らないでいる。 右も左も分からず、まして怪我を負っていたセイルを救ってくれたゴーストは、彼女に尽くしてくれている。 血が滲まないようにと包帯で圧迫し、負ぶって安全な場所へと移動し、食料を見付けては渋るそぶりを一切見せずに多めに分け、火に指を突っ込んだ際には真摯になって叱り、住んでいる海に帰れるようにと出口を探してくれている。 彼に利己的な打算がある訳でもないし、見返りを求めている訳でも無い。ただの善意で行っている事だ。 彼がそこまでする訳をセイルは今でも分からないでいる。どうして会ったばかりの自分にここまでしてくれるのか? どうして傷の手当だけをして放置をしなかったのか? このままでは彼の負担が増すばかりだ。それが、セイルの心に重くのしかかってくる。 出来る事なら、彼の役に立ちたいと思っている。 いや、本来ならば出口を求めているのはセイル自身なのだから、彼女自ら動かなければならないので役に立ちたいと言うよりも彼にこれ以上負担を掛けさせない為にも自分だけで見付けなければならないと思っている。 だが、陸上では人魚の行動に多大な制限を課してしまうので、セイル一人だけでは碌に進む事も出来ず、あっさりと罠にはまり、モンスターの攻撃を受けてしまう。そしてゴーストと同行したとしても彼の行動を制限してしまう。 何かをしてあげたいのに、何も出来ない現状。自分がしなければいけないのに、頼るしかない現状。セイルはとても歯がゆく思っている。「トウカ様……」 ぽつりと、セイルは今も出口を探しているであろうゴーストの名前を口にする。 彼の役に立ちたい。彼の負担を減らしたい。そう切望する。 どうすればいいのだろう? そう思う程にセイルの気持ちはどんどんと沈んで行ってしまう。 けど、沈んだ気持ちを彼にはもう見せまいとする。自分が落ち込めば、その分彼が励まそうとするだろう。 それもまた、彼の負担となるので、セイルは沈んだ気持ちを表層に出さないようにと深くに仕舞い込む努力をする。 また、沈んだ気持ちを見せまいとするのには、他にも理由がある。 それは、彼が二回程見せた表情に起因する。 一回目は、出会って間もなく、どう言う意図があったか分からないが彼がゴーストに見えるかどうかを尋ねた際。二回目は意識を失うようにして沈んでいった眠りから覚めた直後だ。 一回目の表情を見た際にセイルは何か失礼な事を知ってしまっただろうかと不安になったが、二回目の表情を見た際にそうではなかったと悟った。 一回目と二回目の表情は違っていたが、纏っていた雰囲気は同種のものであったと感じ取っていた。 その表情が最初何を意味しているのか分からなかったが、彼が探索に向かった際にあれこれと考え、その意味にある程度の予測をつけた。 ――――彼は堪えているのだ、と。 何に? と問われてもこれはあくまで予測の域を脱し得ないので答える事は出来ないが、それでもセイルは彼が何かを堪えていると踏んでいる。 何かに堪えながらも、セイルの為に出口を探しているトウカ。 意味は違えど、心を苦しくしているのはセイルだけではないのだ。そして、彼はそれを決してセイルに見せまいとしている。 彼がそこまでしているので、自分だけが弱音を吐く訳にはいかない、とセイルは思い、彼と同様に見せまいと決心した。「……そうですね。自然な状態で接していれば、トウカ様に余計な心配を掛けさせないで済みます」 ただ、それが演技だと見透かされれば余計な心配を掛ける事になるが、その辺りは細心の注意を払おうとセイルは自分に言い聞かせる。「ですが、それだけではトウカ様の負担を減らしたとは言えませんし……」 目をつむり、うんうんと唸るセイル。自分が行動出来ない分、やはり何かをしてあげたい気持ちと言うのは浮かび上がってくる。 しかし、陸上での行動がかなり制限される自分に出来る事とは何だろうか? と思考を回転させる。 と、水上の空間からあまり間隔を開けずに音が聞こえた。硬質なもの同士を叩き合わせたかのような音の回数は四。これはトウカが探索から帰ってきた際の合図だ。 セイルは軽く頬を叩き、喝を入れて出迎える為に浮上していく。「ぷはっ」 水面から顔を出す際に扉が真後ろに来るように出てしまったので、セイルは笑顔を作りながら急いで体を反転させる。「おかえりなさいまっ」 全てを言い終える前に、笑顔が消え失せたセイルは急いで池の中へと戻っていく。 理由は簡単。隠し部屋に入ってきたのがトウカではなかったからだ。ノックの回数が四回であったので彼だと思ったのだが、そうではなかった。 セイルは水中を曲がりくねる木の幹に立て掛けていた三叉を両手で掴むと、そのまま抱え込むようにする。 セイルの顔は青くなり、体が震えている。三叉もしっかりと握っているのではなく、ただ力無く掴んでいるだけだ。 目を固くつむり、体を丸めてその場でうずくまってしまう。 彼女が見たのはトウカではなく、人間であった。昨日、岩場にいた彼女に切り掛かってきた輩と同じ種族だ。 恐怖が鎖のように巻き付いてセイルの体を支配する。 襲われた際の記憶が鮮明になって思い起こされ、それが起爆剤となって彼女の体を強張らせる。 あれはいきなりの事であったし、命の危機でもあった。殺されると脳裏に過ぎった際に、彼女の心には人間は恐ろしい生き物と擦り込まれた。三叉を手にしているのだが、これだけでは頼りなく、恐怖に打ち勝つ事は出来ないでいる。 どうしてノックの回数を知っているのか? そのような疑問を思う事も無くセイルは恐怖に打ちひしがれる。 体の震えは収まる事無く、固く閉じられた目の端からは涙が流れて水に溶け込んでいく。「トウカ様…………っ!」 今この場にいない、自分の為に出口を探してくれているゴーストの名前を口にする。頼れる者は彼しかいない。あれ程負担を掛けさせたくない、迷惑を掛けたくないと思っていてもセイルはトウカに助けを求める。 自分勝手だと分かっている。けれでも、セイルは今はこの場にいないトウカに手を差し伸べて欲しい、近くにいて欲しいと願っている。 彼の行動が打算的でも利己的でも無く、善意から来るものばかりだから、セイルはトウカが近くにいる事で罪悪感が胸中で渦巻くのと同時に、暖かな安心を覚える。 見知らぬ地で出会った悪意のないゴーストはセイルにとって唯一の拠り所となっていた。「あの~、怖がらせちゃってごめんなさい。怪し者じゃないんですけど」 上の方から声が聞こえてくる。その声に敏感に反応してセイルは一際大きく震える。恐怖が体を支配しているのでどんな言葉だったかは記憶に残らなかったが、隠し部屋から出いない事だけは確認出来た。「……まっずいな~、このままじゃまずいよ」 上から降り注いでくる声には焦りが出ている。「……………………仕方ないか~」 そんな言葉の直ぐ後に、どぼん、と何かが池の中に落とされた音が響く。 否、何かではなく、誰かだ。 誰かが池の中へと入り込んできた。その事実がセイルの恐怖をより一層煽る。 ここまで来ないで、と体を縮こませながら切に願うセイル。「あの~」 しかし、その願いは見るも無残に砕け散った。その誰かはセイルの肩に手を置く。セイルはそれを払い除ける事も出来ずにかたかたと震える事しか出来なかった。 絶体絶命、まさにその時にセイルに救いの手が差し伸べられた。「っ!」 体を震わせ、目の前の脅威に怯えているセイルの耳にはしかと届いた。 扉が四回ノックされる音を。「ちょっと早いかもしれませんけど、ただいま帰りました」 そして、訊き間違える筈も無いトウカの声を。 一瞬であった。 三叉をその場に捨てたセイルは人魚の限界を超えた速度で泳ぎ、上へと目指す。「トウカ様っ!」「えっ? セイルさんっ⁉」 文字通り池から飛び出したセイルは、その勢いのまま荷物を置いて丁度よく池の近くまで寄っていたトウカへと抱き着く。「どどどどどどうしました⁉」 いきなり抱き着かれたトウカは首筋にあてがわれる顎、押し付けられる胸の感触、鼻をくすぐる金髪にどぎまぎする。しかし、次の瞬間には小刻みに震えているセイルの様子が尋常ではないと気付く。「大丈夫ですよ。落ち着いて下さい」 あまりの震えにトウカはまずは落ち着かせようとセイルの後頭部と背中に壊れ物を扱うかのように優しく手を添え、はっきりとした声音で彼女の耳元で囁く。「僕……じゃ頼りないかもしれないですけど、近くにいますから」 彼の行動と言葉に、セイルの胸の内から恐怖は薄れていった。トウカが近くにいるだけで、トウカの声を聞くだけでセイルは恐怖からきたものとは別に涙が流れる。「いえ、そんな事ありません……。トウカ様は頼りになります」 自分を卑下する言動をしたトウカに、涙交じりにセイルはそれを否定する。頼りになるからこそ、セイルは今安心をしているのだから。「そ、そうですか? そう言ってもらえると、嬉しいです」 トウカはやや顔を赤らめ、首筋に顎を当てているセイルにそれを悟られないようにと軽く咳払いをする。「で、どうしたんですか?」 背中と後頭部に回していた手を肩に乗せ、真っ直ぐとセイルの顔を見ながら問う。「実は、ここに人間が入ってきました」 セイルは流した涙をあまり見られたくなかったので、直ぐに手の甲で拭きながら答える。「え? 人が?」「はい。そ、それで私は池の中に隠れていたのですが、中にまで入ってきて……」 セイルは未だ震える体で必死に池を指差す。「私、怖くて、怖くて……」「……セイルさん」 先程の記憶を掘り起こすと共に恐怖が振り返り、涙腺から透明な雫を再び流すセイルの頭をトウカは優しく撫でる。「大丈夫です。セイルさんには指一本触れさせませんから」 力強く告げたトウカはここに入ってきた見知らぬ誰かを警戒し、空いている手で置いたフライパンを握り、池の方へと視線を投げ掛ける。 すると、池の水が盛り上がり、そこからその誰かが姿を現す。それと同時にセイルは目を固くつぶってトウカの胸の中へと顔を埋め、トウカは険しい顔でフライパンを構える。「あ、あれ?」 しかし、その誰かを見たトウカはやや素っ頓狂な声を上げると構えたフライパンを下げて警戒を解く。どうして警戒を解いたのか分からずにセイルは腰に腕を回してトウカに強く抱き着く。「えっと、これってどう言う状況ですか?」「それはこっちが訊きたいんだけど」 セイルに強く抱き着かれた事で頬をやや紅潮したトウカはその誰かに状況確認を取るが、困惑している誰かににべもなく訊き返される。「そもそも、きちんと伝えてたの?」「…………あ」 その一言に、トウカは口を開けてしまった、と言った表情を作る。つまり、伝え忘れていたのだ。「ごめんなさい、伝え忘れてました」「そう」 溜息を吐き、水を滴らせ、ひたひたと足音を立てながらトウカとセイルの方へと近付く。それを肌で感じ取ったセイルは更に体を強張らせてきつくトウカを抱き締める。「あと、もう一つごめんなさいを言わせて下さい」「ん? 何が?」 頭を下げて謝るトウカに、誰かは何がごめんなさいなのか見当がつかずに軽く眉根を寄せて首を傾げる。「実は、セイルさんは人に襲われてまして、それで人に対して恐怖心が芽生えているかもしれないって伝えるのを忘れていて」「えっ?」 トウカの発言にその誰かは目を見開き、己の体をまじまじと見つめると、深い溜息を吐く。「そう、だったの。だったら、この姿で誤解させちゃったのね」 誰かは額に手を当てて天を仰いだ後、膝に手を当ててやや前屈みになりながらセイルの顔の高さまで頭を持ってくる。それだけの行動でセイルは更にトウカへと助けを求めるようにしがみ付く。「えっと、あたしはその、トウカくんに、あなたの話し相手になってくれと頼まれてやって来た、シーフェって言う風の精霊で、人間じゃないんだけど……」 あまりの怯えっぷりに誰か――もといシーフェは少々どもりながらも自分に害意は無く、ただ話をしに訪れただけである事を伝える。「…………え?」 トウカに頼まれた、と言う言葉にセイルの口からはか細い声が漏れ、それと同時にうっすらと涙を滲ませている眼を開けて胸に埋めていた顔を声の主の方へと向ける。 そこには、風の精霊である事を示す為に発生させた風の渦の中心で半分空気に溶け込んだシーフェの姿があった。

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