虚空を歩む者

島地 雷夢

正体


「目が覚めたか」 ふと、横から女性の声が聞こえユレンはそちらに目を向ける。 そこには純白の翼を携えるダルブ族の女性が座っていた。「……えっと、あなたは?」「シン」 ユレンの問いかけに、女性――シンは淡々と答える。「シンさん、ですか。僕は」「ユレン」 ユレンが自分の名を口にするよりも早く、シンは彼の名を口にした。「え?」「そいつがお前の名を言った」 シンはユレンから少し離れた場所を指差す。 ユレンが現在いる場所は建物の中ではなく、朽ちた遺跡の残骸が残る殺風景な場所だ。そこに何故か置かれているベッドにユレンは横になり、そしてシンの指差した方にはクッションの敷かれた椅子の上にバルックが鎮座しており、包帯で巻かれた痛々しい姿で目を閉じ身動ぎをしていない。「バルック!」「触れるな」 ユレンは急いでベッドから抜け出すと、バルックの方へと向かう。しかし、バルックに触れるよりも早く、シンがユレンの肩を掴んで静止させる。その際に、ユレンの腹部に鈍い痛みが走り、苦悶の表情を浮かべる羽目になる。「そいつは暫く安静だ。お前と違って、魔法による治癒が効かないからな。お前も腹の穴が塞がって少ししか経っていない。だからあまり動くな」「あ……ありがとうございます。僕とバルックを助けてくれて」「気にするな。死なれたら困るから手当てしただけだ。虚空を歩む者」 シンの言葉にどうして虚空を行ける事を知っているのかとユレンは彼女をやや訝しむも、恐らくは自分が虚空から出て来る瞬間か、それともまだ意識のあったバルックから訊いたのだろうと独りでに納得する。「お前がいなければ、虚空に潜む者共に対抗し難くなる。だから助けた。それだけだ」「……はい」 シンはユレンをベッドまで導き、横たわらせる。 その後、バルックが鎮座している椅子の近くに置かれたテーブルの上に置かれた革の水筒をユレンへと投げ渡す。「暫くはそれを飲め。胃腸が弱まっていても無理なく栄養を取る事が出来る」「すみません」「気にするな」 ユレンは礼を述べると、水筒の中身を口へと入れて行く。ほのかに甘く、それでいてじんわりとした辛味が口内へと広がっていく。 この辛味によって体は芯から温まって行き、甘味によって全身に活力が行き渡っていく。 水筒の中身を半分程飲んだユレンへと急に眠気が襲い掛かってくる。傷は塞がってもまだ本調子ではなく、体力も回復し切っていない。 故に、彼の身体は少しでも早く万全の状態になろうと意識を刈り取りに来ている。 ユレンは眠気に勝てず、そのまま眼を閉じる。数秒もしないうちに健やかな寝息が聞こえ始める。 彼が眠ったのを確かめ、シンは彼が手から離した水筒を回収し、テーブルの上に置いて少し離れた場所へと移動する。 遺跡の残骸である瓦礫の上へと腰掛け、シンは眼下の光景を眺める。 そこに広がるのは、雲河。辺り一面に雲が流れ、更にその下には大陸や海が垣間見える。 彼等がいまいる場所は大地でもなく、山の頂でもない。空に浮かぶ小島の一角だ。 かつて、ルァーオが生きた時代に彼女が支配者に一度破れた際、虚ろの者達の魔の手から逃れる為に先人が開発した人工の浮遊島へとヒトビトは避難した。 そのうちの一つが、現在も墜落する事も無く空に浮かび、そこにユレン、バルック、そしてシンがいる。 虚ろの者達は遥か上空に道を架け歪みを生み出す事は出来ないので、世界の中で一番安全と言えるだろう。 シンは何となしに雲河を眺める。 そして、後ろを振り返る事も無く彼女は背後へとやって来た者に対して声を投げ掛ける。「……寝ていろ」「いやいや、流石に充分寝たからよ。目が冴えちまってんだ」 シンの後ろには先程まで気を失ていたバルックがいた。 バルックは傷が痛むのも顧みずに、わざわざシンのいる場所へと跳ねて来た。「だとしても、動かずにじっとしていろ。傷の治りが遅くなる」「おぅ。だが、その前に礼を言わせてくれ。あいつを助けてくれてあんがとな」 ユレンの傷を魔法によって塞いでくれ、尚且つ虚ろの者に見付からない浮遊島へと連れて来た事に対して、バルックはシンに感謝の言葉を述べる。 シンは特に気にした風もなく、軽く首を振ると背後を向いてバルックへと目を向ける。「気にするな。黒の神」「っ」 バルックは息をのみ、眼を見開くも直ぐに何事も無いかのように表情を取り繕う。「……何の事だ?」「とぼけても無駄だ。私はお前が神の一人だとしっかりと感じ取る事が出来る」「…………その弓に選ばれたって事は、つまりはそう言う事か」 バルックは僅かに目を細め、シンを見据える。 弓は、かつて神に愛されし者の祈りに答え、彼女の手に収まった。その弓は支配者を打ち倒した後、忽然と姿を消したのだ。 弓は神の力に愛されし者にしか使えなかったとされる。かつて古の勇者ルァーオが試しに弦を引いてはみたものの光の矢は形成されず、ただ弓が鳴るだけだった。他の者が試しても光の矢は生み出されず、神の力に愛されし者が弦を引いた時のみ、光の矢がつがえられ、放たれた。 故に、この弓に選ばれ光の矢を放つ事が出来るシンは神の力に愛されし者と同等の力を有している事になる。 神の力の波長をきちんと感じ取り、それを最大限に生かす事が出来る体質。故に、赤、青、黄、緑、白の五色以外の神の力に対しても波長を感じ取る事が出来る。力自体は隠してはいるものの、世界に溶け込んでいる力よりも濃密な神の力の波長を発するバルックが黒の神である事をシンは看破したのだ。「そうだよ。オレは黒の神だ。……まぁ、訳あって力も満足に扱えない状態だがな」「それは虚空に潜む者に力を奪われたからか?」「…………あぁ、そうだよ。一人で挑んで負けて、力の大半を奪われちまったんだよ」 バルックは観念したかのように体を横に振る。「だが、どうして俺が黒の神だと分かった? 神の力は持っちゃいるが、それがどの色を司っているかなんて分かんねぇだろ? あ、見た目で判断したのか?」「見た目ではない。この弓が教えてくれた」 そう言うとシンは目の前に手を翳す。すると光が収束し、弓が出現する。「この弓が、お前の中に眠る力は黒のものだと告げた」「……あぁ、その弓は同朋の力がこれでもかって籠められてるからな。少しくらい、あいつらの残留思念ってのも入ってるか」「して、一つ訊くが、お前があれと契約し力を貸しているのは己の力を取り戻す為か?」「……それもあるが、オレはこの世界が気に入ってんだ。この世界をどうにかしようとするあいつらが気に入らねぇんだよ」「そうして一人で挑んで、力を奪われたと」「そうだよ。オレ一人じゃ、あの灰の神――お前等には支配者って言えば分かるか? あいつには勝てなかった」「だから、虚空に入れる者を探して契約をした、と」「あぁ」 肯定したバルックに、シンはやや目を細めて更に問いかける。「そうして契約し、虚空を自由に行き来出来るようになった者の精神が酷く歪になり不安定な状態を維持されると知った上でか?」「……は?」 シンの言葉にバルックは耳を疑った。

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