虚空を歩む者

島地 雷夢

敗北

 空は暗い雲で覆われ、氷のように冷たい雨が降りしきる。 遮蔽物が存在せず、雨水がそのまま地面へと打ちつけられる開けた場所に突如歪みが出現し、中から黒い上着を羽織った少年が出て来てその場で崩れ落ちた。少年――ユレンが歪みから出るのと同時に歪みは音を立てて壊れて行った。『はぁ、はぁ、おい、ユレン、死ぬんじゃねぇぞ』 息も絶え絶えなバルックがユレンの状態を確認する。 ユレンは完全に意識を失っており、肋骨や腕の骨が折れ、身体の至る所から血を流している。 特にひどいのが腹部だ。運よく骨は避けられているが、背中へ向けて拳大の穴がぽっかりと開いてしまっている。 臓器の一部が消失し、とめどなく血が流れて行き雨水と合わさって地面に紅い水溜りを形成していく。『ああ、くそっ、どうすりゃ、いいんだ』 傷口を塞ごうにもあまりにも大きく、例え縛ったとしても傷口から流れ出る血を止める事は出来ない。 それでも、バルックはなるべく傷口から血が出ないようにと上着の状態できつく彼の体を覆う。 刻一刻とユレンの下に死神が近付いてくる。 ユレンの傍から離れられないバルックはその場から離れて助けを呼ぶ事も出来ない。 そして、共に旅をしていた古の勇者ルァーオはもういない。 今はユレンの体内に仕舞われている剣に、彼女は宿っていない。 彼女は剣が力を完全に取り戻した際、実体化する術を手に入れた。 その力を持って――一人で支配者と戦い、ユレンとバルックを逃がしたのだ。
――こいつの足止めは僕に任せといて。バルックはユレンを連れて逃げてよ。そして、こいつを倒せるようになってくれると嬉しいな。……波乱万丈な旅だったけど、一緒にいて楽しかったって、ユレンに伝えといてね――
 それはまさに死を覚悟した者の言葉だった。 剣から完全に分離し、実体化したルァーオは支配者へと躍りかかって行った。 かつて支配者との戦いに勝ったとは言え、それは剣と弓、そして共に戦った神の力に愛されし者がいたからだ。 時間稼ぎを買って出たルァーオは全盛期の力の半分も出せず、更に剣も携えていない。弓を操る神の力に愛されし者も傍らにいない。 そのような状態で打ち倒す事なぞ不可能。故に、ルァーオは時間を稼ぐ為だけに残ったのだ。 ルァーオが支配者と一人で戦い、意識を彼女に向けさせている間にバルックは歪みを作り出し、まだ意識を保っていたユレンはそこから別の場所へと移動。それを何度か繰り返して支配者の眼の届かぬ場所へとやってきた。 ルァーオの決死の覚悟により、逃げおおせる事に成功したが、まだ危機は去っていない。このままでは出血多量でユレンが死んでしまう。ショック死しなかっただけでも運はいいが、命の灯火は今正に消え失せようとしている。『くそっ、魔法が使えりゃ傷を塞ぐ事は出来るが、オレは魔法が使えねぇ』 バルックはこの世界の住人ではない。故に、この世界を彩りし神々の力の一端を扱う術を持たない。 バルックにユレンを直す手立てはない。出来るのは少しでも流れ出て行く生命の雫の量を減らす事だけ。『誰か、誰かいねぇか! こいつを助けてくれ!』 この場から離れられないのならと、バルックは声を張り上げて助けを求める。 しかし、辺りには人の気配はなく、そしてバルックの声は雨音によって掻き消されて遠くへは響かない。『誰か! 誰かっ! くそっ‼』 何度も何度も叫び、それでも成果は上がらない。いくら助けを呼んだとしても無駄だと悟り、バルックは悪態を吐く。 このままでは、折角ルァーオが命を賭して逃がしてくれた意味が無くなってしまう。 自分に出来る事は虚ろの者に対抗出来る力を与える事と、歪みを作り出す事、それに歪みが出来ないように封印を施す補佐をする事。傷の手当は出来ず、遠くに行く事さえも出来ない。 もし、近くに人がいれば助けを求める声は届いただろう。しかし、辺りには人気が存在しない平野だ。雨によって視界は悪くなっているが、それでも人がいない事だけは確認出来る。 そして、自体は更に悪い方へと転がっていく。『ちっ、こんな時に……っ!』 ユレンとバルックの近くに歪みが出現し、そこから虚ろの者が三体出現する。そのどれもがヒトと同程度の大きさだが、異彩を放っている事は一目瞭然だ。 銀色だった身体に赤、青、黄、緑、白のラインが引かれてる。これは魔法を使う虚ろの者に見られる紋様であり、身体を変化させる事はくなったが他の個体よりも身体能力や強度が桁違いに上昇している。 それが三体も現れたのだ。普通の状態のユレンなら倒す事は出来るが、気を失っている現状では不可能だ。 虚ろの者はユレンの姿を見付けると、近付こうとはせずに手を彼に向けて突き出す。 そこに力が収束し、魔法弾が放たれ彼の下へと向かう。『ちっ‼』 バルックは即座に上着から元の状態へと戻り、身を挺してユレンを魔法弾から守る。「がっ⁉」 魔法弾をその身に受け、バルックは吹っ飛ばされる。しかし、契約によって遠くへ離れる事が出来ない為、強制的に身体の動きが止まり、そのまま地面へと落ちる。「ぐ、あ……ぅ」 バルックの受けた魔法弾はユレンを殺すように撃たれたものだ。当然、生身で受けてはいけない程の威力を持っている。 バルックはヒトより多少は頑丈な体を有しているが、それでも殺す気で放たれた魔法弾を三つも喰らえば致命傷となる。 それでも、バルックは身体を引き摺ってユレンの下へと向かう。 そして虚ろの者達の攻撃から守るよう、彼を背後に置くようにして虚ろの者達の前に立ちふさがる。 虚ろの者達は特に意にも介さず、今度こそ仕留める為に魔法弾を放つ。 今度魔法弾を喰らえば、バルックも命の保証はない。しかし、それでもバルックは自らの意思でユレンを守る為に魔法弾への盾となる。 この世界を侵略者から救える者を凶弾から守る為に。 飛び出したバルックに魔法弾は無情にも着弾――――しなかった。 それよりも速く天から降り注いだ光によって魔法弾が掻き消されたのだ。 何事か、と虚ろの者達は顔を上空へと向ける。 その瞬間、彼等を射抜くように三本の光が差し込み、貫いて風化させた。 突然の事で、バルックは目を瞬かせた。だが次の瞬間には驚きを持って視線を上へと向けた。 そこには背中から翼を生やすダルブ族の少女が雨に濡れるにも拘らず、中空に待機していた。 純白の羽を持つ翼に、それと相反する宵闇のような髪。瞳は群青色であり、海を連想させる。歳はおよそ十代後半だろう。幼さが大分抜けた顔には表情はなく、ただただバルックとユレンを見下ろしている。 また、彼女が着込んでいるのは鎧だ。彼女の翼と髪と同じ純白と宵闇の色が散らばっており、武骨ではなく滑らかな作りとなっており、女性らしい体のラインが浮き彫りにしている。 その手には、長弓が携えられている。しかし、何処を見ても矢筒は見当たらない。矢が無いのに弓だけを携えているのはおかしな話だ。それが普通の弓ならば、だが。 バルックは、その弓を過去に見た事がある。それも、極至近距離で。 赤、青、黄、緑、白の宝玉が埋め込まれた弓はまるで空を漂う雲のような彫り物が存在し、更に空に散らばる星々を連想させるかのように煌めいている。 それは、かつて神の力に愛されし者が祈りを捧げた事により、世界より与えられた弓だった。

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