もしも一つだけ願いが適うなら【上】

モブタツ

『〇〇病院の302号室にいます。心配かけてごめんね』
  簡潔に送られてきたメッセージを頼りに、俺は病院を目指す。
  俺の家から病院に向かう時は、商店街を抜けるのが最短ルートだ。
「よりによってあそこの病院かよ…」
  俺が入院したあの病院。父を亡くしたあの病院。まき姉ちゃんと出会い、別れたあの病院。
  そして、あの時の商店街。昔からここは変わらない。昔より店数は減ったかもしれないが、いつも父さんと行っていた八百屋さん、まき姉ちゃんとコロッケを食べた肉屋さん、プレゼント交換をした雑貨屋さん、他にも色々な、思い出が詰まった店たちは無くなっていなかった。
「はぁ…ここら辺にはあのでかい病院しかないもんな…仕方がないか…」
  ボソッと独り言をつぶやいてみる。その独り言に反応する人はいなかった。

  受付で面会手続きを済ませ、エレベーターに乗り、三階を目指す。
  病室のドアの横には名前が書いてあるが、あらかじめ部屋番号を教えてもらっていたため、名前は確認せずにドアに手をかける。
  302号室。それは俺とまき姉ちゃんが入院していた場所だ。本当に偶然である。
  そして、俺が初めてまき姉ちゃんに出会った時と同じように、彼女は…。
「あ、忍君。ごめんね…心配かけちゃって…」
  俺が初めてまき姉ちゃんに出会った時と同じように、窓際にあるベットの上で絵を描いていた。
「…いえ。気にしないでください」
「私が入院したって聞いて、どう思った?」
  少しグイグイ来るのが鼻に付くので、あえて無視することにした。
「…どうして入院を?」
「…無視しないでよ…」
  ぶりっ子のように頬を膨らませ、目をそらす。
「すみません。で、どうして入院することになったんですか?」
「ちょっと検査したら、なんか危ない数値が出ちゃったらしくてさ…。少しの間入院…かな…」
「…そうですか。退院はいつくらいに?」
「…多分、一週間後くらい」
  薮田先輩は、笑っていなかった。いつも元気に笑い、周りにまで元気を分け与えるような存在だった先輩。今は、そんな先輩は存在していない。
「あの…さ。忍君。この前は、ごめんね…」
  上着をハンガーにかけていた俺は、背中で薮田先輩の言葉を受け止める。
「…いえ。こちらこそ。ご迷惑をおかけしてすみません」
「もう…カタイよ、忍君」
  これは「仲直り」というものなのだろうか。実感がわかないが、少しだけ心がすっきりした気がする。
「あの…薮田先輩って、体のどこが悪いんですか?」
  俺の言葉を聞き、すぐに「知りたい?」と聞いて来たので、先輩を真似して「知りたいです」とすぐに答えてみせた。
「どうしても?」
「どうしてもです。焦らさないで言ってくださいよ…」
「うーん…そうだなぁ…」
  一瞬、当時のまき姉ちゃんと薮田先輩が重なって見える。
「私が退院する時に、教えてあげる」
  耳を疑った。まさか、薮田先輩がここまで彼女に似たことを言うなんて。
  でも、それだけはダメだ。
「…やめてください」
  まき姉ちゃんとした約束。確かに果たされた約束。俺が望んでいたものとは違う結果に終わってしまった、あの約束。
「今、言ってください」
  無意識に赤いブレスレットを見ていた俺を、薮田先輩は何かを察したように微笑みながら視線を送って来た。
「赤いブレスレットの子も、そうやって言ったの?」
「…一度だけ…彼女と約束をしたことがあります。『退院したら、なんの病気だったか教えてあげる』確かに…その約束は、守られました」
「それって…」
「はい。退院をしなかったから、俺に教えることはなかったんです」
  今ではもうまき姉ちゃんに何の病気だったのかを聞くことはできない。

  …亡くなったから。

「私は死なないよ?」
「死んでからじゃ遅いんですよ。気になっても聞くことはできませんし」
「分かったよもう…そんなにグイグイ来なくてもいいのに…」
  一度、先輩は窓の外に顔を向けた。
  窓から入ってきた暖かい風が先輩の髪の毛をさらさらと揺らす。このまま先輩は消えてしまうのではないだろうかとまで思わせた。
「…私ね。肺の病気だったの」
  ゆっくりと、ゆっくりと話し始めた。
「肺の…病気ですか…。あの、『だった』とは?」
「幼い頃、その病気にかかって。もう治らないって言われちゃってさ。でも、ドナーが見つかって、肺の移植手術を受けたんだ。ドナーの子は、とても健康な体の持ち主だった。すごい羨ましかったよ…」
「どっちの肺が…」
「両方だよ」
  薮田先輩の言葉に息を呑んでしまう。
  両方…。絶望的だ。
「だから、左の肺だけもらったの。ほら、その子も生きてるんだし、両方もらったら死んじゃうじゃん?」
「そう…なんですか…」
「今日は、その肺の調子を見てもらうために病院で検査を受けたんだけど…変な数値が出ちゃったらしいんだよねぇ…」
  こりゃ参った!と言わんばかりに、態とらしくおでこに手を当てて困り果てた様子を表現している。
「それで、入院したんですね」
「まあね。すぐに退院できると思うから。安心して」
  …そうか。少し大げさに考えていたのかもしれない。普通の人はそんな簡単には死なない。過去にあったあの経験が俺の「普通」をおかしくしてしまっていたのだ。
「死んだりは…しませんよね?」
  でも、一応確かめるために聞いておく。一応だ。うん。
「死なないよ」
  優しく微笑みながら答えた先輩の顔を見て、ようやく安心することができた。
「それなら…よかったです」
  俺も微笑み返した。
「すみません、今日はそろそろ行きますね。まだ家事でやらないといけないことが残っていて…。」
  父さんが亡くなってから、俺は一人で家事をしている。そのためか、自由時間が前よりも減ったような気がした。
「ま、待って!」
  荷物をまとめ、病室を出ようとした俺を、先輩の慌てた声が引き止めた。
  最初は、忘れ物でもしたのかと思った。
  振り返ると、忘れ物をしたわけではないということが分かった。そして、薮田先輩が何かを言いたそうに口をモゴモゴと動かしている様子を見て、きっと俺に伝えることがあって呼び止めたのだろうということが分かった。
「あ、あの…その…よければ…」
  聞き取りづらいほどに静かな彼女の声に、耳を傾ける。
「えとっ…その…」
  決意をしたように頷き、そして、またゆっくりと口を開いた。

「私と…付き合ってくれない?」

  窓から入る風がさっきよりも冷たく感じる。きっとそれは俺がそう感じているだけで…実際はそうではない。しっかりと暖かいはずだ。
  強めに吹いた風は先輩の髪を揺らし、俺の頬を撫でる。カーテンはバサバサと音を立て、外では木がザワザワと騒いでいた。
  病室に静寂が訪れた。1秒だろうか。それは1分にも、10分にも、1時間にも感じられてしまうような長い時間だった。


             【中】へ続く

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