もしも一つだけ願いが適うなら【上】

モブタツ

  今から十年前。俺が十歳だった時。
  俺は理由を聞かされずに入院をした。入院してから一ヶ月くらい経ったある日、病室を移動させられることになり、俺は父と一緒に病室に向かっていた。
「ねえお父さん。なんで部屋移動することになったの?」
  俺は何も考えずにそう聞いた。
「病院側の事情だから、分からないんだよ。とにかく、早く新しい病室に行こう」
  父はそう答えた。今思えば、なぜ入院したのかも、なぜ病室を移動したのかも、父は俺が二十歳になった今でも教えてくれようとはしなかった気がする。
  しばらく廊下を歩くと「新しい病室」に着いた。そこの入り口には看護師が一人待っており、父親は突然歩みを止めた。
「では、よろしくお願いします」
  父は看護師にそう告げると後ろを向き、歩き出そうとした。
「お父さん…帰っちゃうの?」
「仕事があってな。このお姉さんに連れて行ってもらいなさい。」
  父はそう言い残し、帰って行った。
  看護師に連れられ、病室に入る。ベットは六つ、窓際にあるベットにだけ一人、少女がいた。他には人がいないようだ。
「まきちゃん。この子が新しくここに来た子よ。忍君って言うの。仲良くしてあげてね!」
「ちょっと待って。あと少しだから」
  その少女は真剣な眼差しで絵を描いていた。静かな病室の中に鉛筆のカリカリと音が響いている。
「…よし」
  小さくため息をつき、鉛筆をベットの横のテーブルに置く。
「忍君、だよね?」
  絵を描き終わった少女は少し微笑み、問いかけて来た。
「う、うん。よ、よろしくね」
  突然の問いかけに戸惑い、さらに先ほどの真剣な顔が怖かったためか、俺は少しおどおどとしながら答えた。
「うん!私、まき。よろしくね!」
  彼女の輝く笑顔を見て、俺は安心したのだった。
  これがまき姉ちゃんとの出会いである。
  それから俺は彼女のことを「まき姉ちゃん」と呼ぶようになった。まき姉ちゃんは絵を描くのが上手かった。
  でも、まき姉ちゃんは病室の窓から見た景色しか描かなかった。長い間入院しているため、外の景色を見ていないからだ。
  そこである日、俺はまき姉ちゃんと病院の中庭を散歩することにした。
「お姉ちゃんー!来たよー!」
  朝、まき姉ちゃんの妹が病室を訪ねて来た。名前は芽衣(めい)。八歳だそうだ。
  何日かに一度、面会のために来る芽衣とは俺も次第に仲が良くなっていった。
  俺とまき姉ちゃんは妹の芽衣と一緒に病院の中庭を散歩することになった。
「忍君は、なんでお姉ちゃんのこと『まき姉ちゃん』って呼ぶの?」
  庭を散歩していると、突然芽衣がそう尋ねて来た。
「僕の…本当のお姉ちゃんみたいだから、かな」
「ふーん」
  少し先を歩いていたまき姉ちゃんはこちらに向かって「見て!あの花綺麗!」と言いながら指を指す。
「あんなに元気なお姉ちゃん、久しぶりに見たなぁ…」
「そんなに静かだったの?」
「うん…いっつも絵を描いてるだけだったし…。でもね、その…し、忍君が来てからは…元気になったんだ!」
  いつの間にか、まき姉ちゃんは道の端にしゃがみ込み、スケッチブックと鉛筆を持って絵を描き始めていた。それを見た芽衣は、近くのベンチを指差し「座ろ?」と笑顔でさそってきた。
「お姉ちゃん、ああなると長いんだよねぇ。きっと、しばらくはあのままだよ」
  芽衣は小声で「よいしょっ」と声を漏らしながら腰をかけた。
「絵が好きなんだね。芽衣のお姉ちゃんは。」
  俺も芽衣に続き、隣に腰かけた。
「…もし自分がいなくなっても、作品が残るから」
  突然、芽衣の顔から笑顔が消える。
「…?」
「…お姉ちゃんが絵を描く理由。形として残るからなんだってさ」
  その言葉を聞き、俺は驚きを隠せずに芽衣を見る。
  芽衣の視線は、真剣な表情で黙々と絵を描いているまき姉ちゃんに向けられていた。
「…どうしてそんなこと言うの…?」
  芽衣が深呼吸をした音が俺の耳に届く。目を少し瞑り、ふぅ、と息をもう一度だけ優しく吐いた。
「…お姉ちゃんはね」
  そこまで言いかけた時、まき姉ちゃんが元気よくこちらに走って来たのだった。
「お待たせ!…なんの話ししてるの?」
「あ、お姉ちゃん。ううん。なんでもないよ。それより、もういいの?」
「うん!ちゃんと覚えたから、あとは病室で描くから大丈夫!」
「じゃあ、そろそろ戻る?僕はどっちでもいいんだけど…?」
  芽衣の言葉を最後まで聞くことはできなかったが、俺はその時、まき姉ちゃんは重い病に侵されているということを察することができた。
  そして…まき姉ちゃんが少し走っただけなのに息を異常に切らしている様を見て、体が弱っているのだと認識することもできたのだった。

  病室に戻ると、まき姉ちゃんはいつものように黙々と絵を描き始めた。
  まき姉ちゃんが絵を黙々と描いている間は、俺は一切まき姉ちゃんに話しかけない。自分と戦うように絵を描き続けるまき姉ちゃんを、俺はいつも見守るように見つめていた。
「…よし」
  小さな声で言うのが、終了の合図だ。この言葉を聞くと、俺はすぐに話しかける。楽しい話や、面白い話。病室のテレビで見た面白い番組の話や、明るい話題のニュースの話。
  俺はいつも明るい話しかしていなかった。
「まき姉ちゃん…あのさ」
  でも、今日は違った。
  芽衣の言葉が気になり、好奇心が自分自身を抑えきれなくなった時、俺は相手の気持ちなんてものは考えず、なすがままに言葉を発してしまった。
「まき姉ちゃんは、なんで入院してるの?」

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