もしも一つだけ願いが適うなら【上】

モブタツ

  一日の授業が終わり、放課後になった。いつもの教室に向かい、昨日描いていた絵の続きを描き始める。
「お!忍君、もう始めてる!」
ガラガラとドアの音を立てながら、薮田先輩が入って来た。
「先輩は凄いですよね…何も見ずに絵を描けるんだから」
「昔から目で一度見たものは記憶できるんだ。まぁ、覚えられるのは景色だけだけどね。あはは…」
「そういえば、先輩は何描いてるんですか?」
「…秘密」
「ひみつ?」
「なんでもいいでしょ?そのうち気が向いたら話すよ」
「…?」
  なんだか素っ気ない返事だ。そしてどこか違和感がある。
「お父さんの意識、戻った?」
  薮田先輩は唐突に話題を切り込んで来た。
  今、俺の父は病に倒れ、病院で寝たきり状態になってしまっている。最近になり、突然意識を失うようになり、五日ほど前に意識を失ったきり目を覚まさなくなってしまったのだ。
「まだです。今日、この後お見舞いに行くんですよ。もしかしたら目を覚ますかもしれませんし」
「私も行っていい?」
「別に構いませんが…どうして先輩が?」
「忍君のお父さんには、結構お世話になってるからね」
  何のことを言っているのかは分からなかったが、断る理由もないので一緒に行くことになった。

  俺にとっての父さんは偉大な存在である。俺が幼い時に離婚し、男手一つで俺を育てた。俺が泣いて帰ってきた時はそっと頭を撫で、叱る時は厳しく叱り、楽しい時は一緒に笑った。父さんはきっと頑張りすぎたのだ。病気になった理由はなんとなく分かっていた。

  病院に着き、俺と薮田先輩は廊下をゆっくりと歩く。
  ふと、赤いブレスレットを見つめる。病院は嫌いだ。ここに来ると昔の出来事を思い出してしまうからだ。
「そのブレスレットって、誰かにもらったもの?」
  俺がブレスレットを見つめていることに気が付き、薮田先輩が不思議そうに尋ねて来た。
「はい。昔入院した時に、同じ病室だった子にもらったんです」
「そうなんだ…その子はどうなったの?」
「…分かりません。多分亡くなったと思います」
「そう…」
  何かを察したように、薮田先輩は俯いたのだった。
  俺は彼女が俺の目の前から消えたあの日から時間が止まっているように感じる。十年が経った今でも、あの長い夏の日は終わっていないのだ。
「さ。早く行きましょ。意識、戻ってるかもしれませんし」
  俺は話を切り替えるように早歩きで進む。
「ま、待ってよ忍君」
  それを追いかけるように薮田先輩も早歩きで進み始めた。
  病室に着くと、そこには未だに昏睡状態にある父の姿があった。そして、医師から最悪の言葉を聞いてしまったのだ。
『あなたのお父さんは…もう長くは保たないでしょう』
  それはあまりにも突然すぎる言葉だった。長くは保たない、いつもそばで支えてくれた父が、今亡くなろうとしている。
「忍君…大丈夫…?」
  薮田先輩が俺の肩に手を添える。
  あぁ。またこれだ。
  あの時と変わらない。
  俺は何もできない。何もしてあげられない。
  自分の無力さに怒りを覚え、自分を否定する。そうやって俺は今の俺が出来上がった。
「大丈夫です。こういう経験は初めてではないので」
  肩に乗っていた薮田先輩の手をゆっくりと自分の体から離す。「ありがとうございます」と俺が言いかけたところで、薮田先輩は
「忍君。自分を責めちゃダメだからね」
と、心を読まれたように言われてしまった。

  そして、翌日、父は息を引き取ったのだった。

  サークルで活動している俺の元に病院からの連絡が入ったのだ。
  あまりにも唐突な死であったため、最初は俺自身も理解することができなかった。
  なぜか薮田先輩もショックを受け、俺が病院に向かった時、隣には薮田先輩がいた。
「忍君…」
  涙を流す薮田先輩。俺はその姿を見て不思議な気持ちで心がいっぱいになってしまった。
「薮田先輩は…どうして泣いているんですか…?」
「…人が亡くなるのは悲しいことなんだよ。私も…大切な人と別れた時はとても悲しい気持ちになった」
  俺はその言葉を聞いて返す言葉が思いつかなかった。
  そして、俺には先輩が昔のあの子のように見えてしまったのだ。

  薮田先輩を病室に残し、俺は病院の屋上に出た。
  ふと、飾りがたくさんついている笹が目に入る。七夕の飾りだ。
「今日は七月六日…明日が七夕か…」
一人でそんなことを呟いてしまった。
手首に着けてある赤いブレスレットを見る。
「まき姉ちゃん…」
  自然に涙が溢れる。足に力が入らなくなり、その場に崩れてしまった。
「まき姉ちゃんなら…なんて声をかけてくれたかな…。あぁ…なんで父さんは…よりによって今日死んだんだよ…」
  気がつけば空は暗くなり、雲ひとつないまっさらな世界が作られていた。そこにはキラキラと星々が美しく輝き、夏の大三角形を作り出していた。
「忍君」
  後ろからの声にハッとなる。薮田先輩の声だ。振り向くとそこには、泣いたせいで目が少し腫れてしまった薮田先輩が立っていた。右手には封筒が握られている。
「薮田先輩…?」
「大切な話があるの。落ち着いて聞いて。」
  俺と先輩の間に、夜なのに暖かい風が吹く。そうだ。あの日も。あの夏の日も、俺はこの澄み切った夜空の下で。
  たった一人取り残されたんだ。

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