紅茶と供に福音を

海野水雲

雨音は疑問を残して

 九条幸助は世界的な大企業の家系――の非常に末端部分の人間であった。元々孤児であったのを取締役の九条宗次に運よく引き取ってもらい、分家で育つ。 つい最近まではただの学生であったが、一本の電話を境に本家で特別なカリキュラムを受けることとなる。 電話の内容は、娘の身の回りの世話をしてほしいというものだった。 勿論、断るという選択肢も用意されていた。宗次も学校での友人関係などを気にして、無理強いはしないと言ってくれたのだが、何時か何かしらの形で恩を返したいと考えていた幸助にとっては、またとないチャンスでもあったのである。 学友は恋しいが、事情を話すと快く背中を押してくれる者ばかり。今は違う学校に通っている、旧友でもある友人の姉からもメールをもらう程。 我ながらいい友人関係を築けていると幸助は思った。 無論、本家周辺の人間関係等、様々な障壁もあったが、本家当主の押しという事でどうにかねじ伏せているらしい。 ……のだが、使用人生活開始は数分で全て棒に振られることとなりそうになっていた。 衝動って怖いね。なんて言葉が脳内に木霊して、幸助は泣きたくなる。 先の質問に対して、幸助は彼女の頬を引っ叩くことで解答したのだった。「貴方みたいなケースは初めてだわ」 九条グループ本家の御令嬢、九条ジルは赤くなった左の頬をさすっていた。眉をひそめているのは初めからだが、不機嫌オーラが増したのは言うまでもない。「申し訳ありません。自分に素直なもので、つい」「つい、でボーイに叩かれたらたまらないわよ」 ボーイ。従者として未熟者呼ばわりされるのは、これでは当然の事だろう。 咄嗟にしてしまった事とはいえ、いきなりの失態で冷や汗が止まらない。 一日と持たずにこのままクビになるのではないのだろうか。いや、それだけで済むのか? 仮にも本家のお嬢様を殴ったわけだし、下手すると家族にまで迷惑が及ぶのでは……。 顔から血の気が引き、幸助はどんどん思考がネガティブな方向へと突き進む。「そうね……貴方、自分が何したか良く理解している?」「は、はい。解雇されて当然だと思います。そのくらいで済んでくれればまだましですね」 蛇に睨まれた蛙の気分である。 幸助は血の気が引きすぎたのか少し足元がふらつかせた。「まぁ、別にいいけど」 ジルは片手で髪をくしゃりと乱すと、ぼそっと呟いた。「ですよね、当然解雇……は? 今何と?」「別に問題じゃないって言っているの。それより、二人の時は敬語じゃなくていいわ」 九死に一生を得た。 現在の幸助にぴったりの言葉だろう。だが、素直に受け入れることはできなかった。普通に考えれば即解雇。これは間違いない。 何故許されたのか、訊かずにはいられなかった。「どうしてだ? そういう性癖か?」「そんなわけないでしょ。本当に解雇されたいの?」 ジルは眉を八の字にしてむすっと幸助を睨んだ。「理由は簡単。貴方の反応は決しては間違っていなかったからよ。いきなり殺しにかかっていたら話は別だけど」「正解であったとも言い難いと思うけど」「そうかしら、少なくとも私にとってはまずまずだったわよ」 ジルは外を眺めて目を合わそうとはしなかった。「じゃあ、今日からよろしく頼むわ」「え、あ、はい。よろしくお願いします」 幸助は半ば言葉につられてお辞儀をした。 幸助の大まか仕事としては、四六時中ジルに付き添い、要望に応えるとの事。しかし、詳細を見ると朝の目覚まし係、という記述に目が留まる。 幸助もジルも十七歳になる。さすがに同い年の女子の部屋に朝から突入するのは、少々、いや、大いに問題があると思われた。「お嬢様、聞きたいんだけど」「なにかしら?」「朝の目覚ましの件、これは絶対しないとだめか?」「佐奈か貴方、どちらかでいいわ」 現在いる建物は学校が近くにある別荘で、最小限の人数しか入れていない。そのため、使用人は幸助を含め二人。洗濯などの仕事もあるので、剰水佐奈というメイドがいる。 まだ顔合わせもしていないが、書類にあった写真とプロフィールを見る限り、可愛らしい女性だ。 もっとも、ジルは書類に目を通した時の印象とは少し違ったし、イメージ通りとはいかないかもしれないが……。「ちなみに過去やめていったボーイは私に手を出そうとして解雇になっている者もいるから、気をつけたほうがいいわね。……と言ってもやる人はやるのだけど」「これは試練か何かなんですかね」 この件に限ったことではない。 一つ屋根の下に同年代の男女三人が住み、しかもうち二人は女子。男子としては平静を保てるか不安である。というか、保てないほうがある意味健全な反応なのでは? 幸助は考えたが、ジルが話し始めたため思考を一旦切った。「仮にあなたが何かしても、報告は別の理由になるから安心しなさい」「何をどう安心しろと」「私に手を出したなんて知ったら……あとが怖いわよ」 声のトーンが一つ下がって、ジルの目線が遠くなる。幸助はすぐに察した。 噂で聞いた話によれば、九条宗次は娘のジルを大層可愛がっているそうで、ジルがどれだけ嫌がっても、ガードの男女を最低一人ずつはつけておかないと気が済まないらしい。 そんな娘に手を出されたと知ったら。「……努力します」「よろしい」 ジルは容姿だけ見れば間違いなく美人の部類に入る。 華奢な彼女が無防備にベッドで寝ていたら、襲う輩も出てくるだろう。もし今の彼女が普段とかわりないなら、冷たい視線がなく、威圧的でないというだけでどこか弱みを見ているような感覚にも襲われそうだ。 普段自分の上にいるものが弱みを見せた時、ちゃんと関係を築けていなければ寝首をかこうとする者は案外少なくはないだろう。幸助の様に従者意識を長い年月をかけて叩き込まれていない者は、特に。「もう一つ傍にいる間は、読書なりすることはできるか? あとは勉強の時間とか確保したいんだが」 使用人になったとはいえ、学生の身であることに変わりはない。幸助自身勉強が好きというわけではないが、最低限必要なスキルは身に着けておきたかった。「付き添えって言われたと思うけど、屋敷内にいてくれればいいわ。何かあれば何らかの手段で伝えるから」「わかった」 幸助の部屋はジルの部屋の隣だ。因みにジルの部屋のもう片方隣室は佐奈の部屋になっている。すぐに駆けつけられるようにそうなっているようだ。 別荘ではあるが、全部で似たような部屋が他にも数部屋。これは客間だろうが、何の為にあるのか資料室や視聴覚室まで備わっている。間取りを見ても旅館に見えなくもない。「そう言えば、貴方には私と同じ学園に通ってもらう事になっているはずよね?」「ん、あぁ、そうだな。正直怖いんだが……」「相手は今までと同じ人間よ。ちょっと階級は高いと思うけれど」 大企業の末端とはいえ、ほぼ一般人と変わらない幸助からすれば、そうは簡単には思えなかった。本家のお嬢様が通う学校となれば、ちょっとどころではないだろう。 話に付いていけるかが幸助には不安だった。オペラだとか、世界経済の話だとか、表面的にわかっていても将来を担う人たちには知識で及ばないに違いない。そうして、ついていけなければ家柄に悪いレッテルが張られる。 こうなっては恩を返すどころかあだで返す羽目になる。「考えただけで気持ち悪くなってきた」「そこまで深刻に考える必要はないわ。多分ね」 ジルは呆れ気味に言う。「それに貴方は使用人だから、一緒になるのは一流のバトラーやメイドを目指す人たちよ」 初めにそう言ってくれればよかったのに。幸助は少しだけだが安心した。どうやら、そこまで不安に思うことはなかったらしい、と。 ……それはそれで、日常的にどんな事を話すのか、幸助は全く分からなかったが。「詳しい事は佐奈に訊くといいわ。私にもあっち側のことはわからないし」 学園では、玄関でクラスが二分割されていると、幸助は聞いていた。そのため学園にいる間は付き添えないが、それは問題ない。金持ちの子息ばかりの学園であるため、警備が厳重であり、そこは学警備に任せていいとのことである。 ここまで来て、幸助はカリキュラム中に叩き込まれた従者精神は、なかなか発揮できそうにないことに気が付く。本来は外でこそその真価が発揮される御付きのはずなのだが、暫くは屋敷の中で主な仕事をこなすことになりそうであった。「そういえば、佐奈にはもう会ったの?」「いや、まだだ。ここに着くまでに会わなかったからな」「あら、一応出迎えるように言っていたのだけど……」 ジルは困っているようでも、怒っている様ではなかったが、軽くため息を吐く。佐奈が何故出迎えなかったのか、察しがついたからだ。「今の時間なら普通庭にいるけど、雨だし、いるとすれば資料室だと思うわ」 遠まわしに早く会ってこいという事だろう、と、幸助はそう解釈した。 完璧な従者とは、足りない言葉を補って、主人や奉仕すべき相手に余計な手間を取らせずに動くものだ。 幸助の師の言葉である。……ただ、師は師で、余計なことまで察知しすぎて教育係にさせられたようであったが。「貴方、順応早くていいわね。どうせまた似たようなのが来ると思っていたのだけど、思ったよりは好感触。悪くないわ」「ありがとうございます、お嬢様」 気が付けば、話しているうちに不機嫌オーラは消え去っていた。しかし、どこか違和感がある。それは、初対面のため幸助が読み違えているわけではなかった。 どうにせよ、同じ屋根の下で暮らす以上、不可解な点はおのずと見えてくるだろうと、幸助は詮索することはなかった。「じゃあ、私は紅茶を淹れてくるから」「そういうことは俺がしますよ、お嬢様」 紅茶の淹れ方には自信があった。幸助が入れた紅茶は昔からウケが良かった。カリキュラム中でも最も褒められた分野でもある。 そもそも、普通こういう事を頼んでくるのが、お嬢様なのではないだろうか。幸助は内心疑問に思う。「別にいいわよ。自分で淹れるから。毒でも盛られたら困るわ」 しかし、ジルは幸助の提案を断った。 反論を許す間もなく、足早に部屋から出て行く。「……うーん」 閉まった扉を睨みながら、幸助は一人唸る。 書類に書かれていたことはどうやら嘘ではなかったらしい。 ジルは人を簡単に信頼してはくれない。 毒云々は勿論冗談だろうが、少なくとも幸助はあまりいい目でいられていないらしい。 使用人を雇っているのに全く信頼しないというのは矛盾している。だが、幸助も彼女に雇われたわけではない。彼女の父親に雇われたのだ。 だからここにいて、使用人をしている。 幸助はジルが人をちっとも信頼しない、その理由が気になった。彼女の過去に何かあったのかもしれないが、そこまでは知らない。 ジルの部屋に一人取り残された今なら、どこかに彼女の事を知る手がかりがあるかもしれない。だが、さすがに同年代の異性の部屋を漁るわけにもいかなかった。「ただでさえもう失敗してんのに……あっ」 訊きたい事がもう一つあったのを忘れていた。 何故あんな質問をしたのかという事だ。タイミングを逃すと本人には少し聞きづらい。となると暫くジルと関係を保っている人に訊かねばならない。 しかし、果たして彼女以外の口からその理由を聞いてもいいものだろうか。幸助はふと思う。何よりそれを受けて、例えば質問された側にジルが死にたがっているなんていう認識をされて、もしそうでなかった場合に困る。 結局この疑問は本人に直接訊くか、自分でその意図を探るほうが良さそうであった。
 資料室には古臭い紙の臭いが充満していた。この別荘は古い館を改装したもので、以前からあった書物はすべてここにまとめられた。ついでに本家でももう使われないだろうと思われた、かなり古い書物もだそうだ。 そのため、資料室とはいえ最新の資料は少なく、かなり古いものが多い。 資料室というよりは図書館という方が雰囲気には合っている。 初めて入るのと、天気のせいで薄暗いのとで幸助は歩幅を小さくした。明かりをつけようとも勿論考えたが、スイッチがどこにあるかわからなかった。 どことなくホラー映画の中に迷い込んだような感覚に陥る。 少なくとも、現在幸助の目の前に見える人影は部屋の明かりをつけずに、何故かランプを持参して資料を照らして読んでいて、とてもホラーな雰囲気を醸し出している。 本の内容が魔術系のオカルト本だったらばっちりだ。 すぐ傍まで近寄っても気付く気配がない。相当熱心に読んでいるらしい。 その人物はメイド服を着ている同い年くらいの少女であった。「あの」 何気なく声をかけた。「ひっ!」 瞬間、小さな悲鳴が聞こえて、直後足元をすくわれ、視界が一回転。背中に痛みが走った。幸助はすぐに起き上がろうとするが、腹部に何かが乗っているようで上手くいかない。 ランプの光の影になっていて顔は見えない。だが、目の前にいる少女こそ幸助が探していた剰水佐奈なのは確かだった。 幸助は状況を把握するのに時間を要する。 どうやら、彼女が驚いた拍子に幸助の足を思い切り蹴り飛ばしてこけさせたらしい。そうでもなければ転倒なんてしないはずである。「……も、もしかして貴方が九条幸助様ですか?」「え、えぇ、そうです」 腹部が押さえつけられているせいか、非常に息苦しい。「も、申し訳ありません! つい条件反射で!」「いいですから、早く、どいてくれ……ませんか?」「あぁ! ごめんなさい!」 意図を理解してくれたようで、すぐに腰をあげて横に捌け、手を差し伸べる。 幸助はげほげほと咳をしながら体を起こした。 ランプの光で佐奈の顔が照らされる。剰水佐奈は写真よりも可愛らしいし、愛嬌がある顔をしていた。ジルに負けず劣らずではあるが美人というよりは可愛いタイプだ。 その顔を見て、幸助は余計に唸らずにはいられなかった。 突然だったとはいえ、足元をきれいにすくわれた。幸助自身それなりに運動はできるほうではあるし、此処に来る前にトレーニングも積んである。 とても彼女の細い脚で自分が蹴り倒されたとは考えにくい。 そうされた事実は揺るがないわけなのだが。 条件反射でそこまでできるほど、鍛錬を積んでいるという事なのだろう。さすが名門のお嬢様に仕えるメイド。と少々無理のある理由をこじつけ、幸助は自分を納得させた。「本当に申し訳ありません。初対面なのにこのような」「大丈夫です。遠くから声をかけない俺が迂闊でした」「いえ! 本当に私が良く確認しなかったせいで……すみません」 佐奈の手を借りた時、彼女の足元に黒い物体を見つける。さっきの動作の時なにか落としたのだろうか。「何か落としてますよ」 手を伸ばして掴むと、ひんやりとした硬い感触があった。なんだろうかと幸助は手元にもってくる。そして、佐奈が止めるより先に灯りにそれを入れてしまった。「あっ」 佐奈の声が漏れる。 その手に握られていたのは黒い一丁の拳銃であった。 勿論、幸助の物ではない。拳銃なんて握る事すら初めてだ。「…………」「…………」 これはおそらく佐奈の所持品である。 彼女はもしかしたら、条件反射の範疇にいれて、蹴り倒した幸助にこれで一発お見舞いしていたかもしれない。拳銃とは普段はホルダーに収められているものだ。ホルダーから拳銃を抜く場合、射撃する意志があるわけで。「ハハハ……」 それを握る左手が小刻みに震えだす。怖いとかいうレベルではなかった。「な、中はゴム弾ですから!」 そういう問題ではない。 慌てて言い訳にならない言い訳をする佐奈。 幸助は軽く放心状態でありながら、未だにカタカタとそれを震わせていた。
 屋敷の廊下は長い。 端から端まで何メートルあるのか測ってみたいな、なんて考えて幸助はぼーっと眺める。これが別荘というのだから金持ちは感覚がおかしいとも思いつつ。 隣を歩く短めの髪をした剰水佐奈はもう何年もこの屋敷に住んでいる。だから慣れているようだった。ちらりと幸助を見てはその反応に微笑んでいた。 とても可愛いらしい。 ハッキリ言って幸助のタイプの女性だった。 それも、左足に隠し持っているそれがなければだが。 幸助は話を聞いた時から不思議だった。女子二人で今まで何の問題もなく、従者を幾度も変える事が出来ていたのか。 それは佐奈が十分ボディーガードとして機能しているからだ。「ところで、資料室で何をしていたんですか?」 佐奈が足を止めたのに合わせて、幸助も足を止める。 少しの沈黙。「あー……。ちょっと趣味の資料を漁っていまして」「趣味ですか……」 火を見るよりも明らかに佐奈は動揺していた。「と、ところで!」 かなり強引に話題を変えようと慌てる目の前の少女を見ながら、幸助は泣きたくなる。 本当に、武装と強力な武術さえなければ、内心怯えなくてもいいのに。「ジル様の反応はどうでした?」「……」 変な質問をするものだから、頬を叩きました。 なんて言ったら、幸助は無事でいられる自信がなかった。「そ、そうですね。好感触とは言われました」「まぁ!」 少し驚いた後に佐奈はぱぁっと笑顔になる。 非常に眩しい笑顔だが、何か黒いものが見えなくもない。「とても珍しいパターンです。大抵の方はまぁいい、程度らしいのですが」 それは幸助が一番初めに言われた評価であった。 やはり叩いたのが効いたのだろうか。まさか本当にドM……。 頭に過ぎった考えを、幸助は一心に振り払う。「今後が楽しみですね。あ、あと今までの方は大抵一週間以内に辞めていってしまったので、取り敢えずそれ以上働けるように頑張ってくださいね」「はぁ、一週間ですか」「えぇ、一週間です」 またもにっこりとほほ笑む佐奈だが、先ほどの微笑みとはなにか根本的に違う。何度も繰り返しやっている、言うなれば営業スマイルのようなものだった。「努力します」 何はともあれ、幸助の取り敢えずの目標は一週間を乗り切る、という事になった。「辞めるというのは、問題を起こしたからですか?」 猥褻行為でクビになっているとジルは言っていたが、佐奈に目覚ましを任せるというのは誰もが考え付く事だろう。原因はそれだけではないはずだ。「それもありますけど……」 言いづらい事なのか、それともジルに止められているであるのか、佐奈は口を濁した。視線はわずかに後ろに逸れる。ジルの部屋があるほうだ。「大半は、ジル様の要望で退職して頂いているのです」 苦い顔をしていた。 静かな廊下に雨の音が嫌に響く。「それは、お嬢様がその人を気にくわないと思ったからですか?」 幸助はそれでも続けた。だが、佐奈は困った顔で話を断つ。「ごめんなさい。これ以上は私も言えません」 わからない、ではなく、言えない。佐奈が新人に言える精一杯のヒントだった。 彼女らが何を考えていても、幸助のやる事が変わるわけではない。ほとんどの人が一週間程度しか持たないのであれば、真剣に仕事に取組み、そのラインを乗り切るしかない。 もっとも、そのようなものが無くても、幸助は真剣に取り組むつもりであった。「いえ、こちらこそすみません」 無理に訊くものではないだろうと判断して、幸助は謝る。 そんな会話をしているうちに、目的地のキッチンに着いた。火を扱うからか資料室からかなり遠い。この場合は資料室が奥にありすぎるというべきか。 中は調理器具が整えられて並んでいた。何に使うのかわからないような器具はなく、そのため、数が無駄に多いわけではなかった。 幸助からすれば必要最低限にしては少し多い気もするが、なんにせよ、使い慣れた器具ばかりであるようで助かる。「九条様はお料理の経験はどれほどおありですか?」「一般的な料理なら、ファミレスでアルバイトをしていたので何とかなるかと」「それなら、料理の方をお任せしても、あまり問題はなさそうですね」「ただ、一般庶民の感覚でいいのかが……」 苦笑いで言うと、くすっと笑われてしまう。「そのような心配は必要ないですよ。素材は逸品の物を用意させていただきますので、調理方法がおかしくない限りは美味しいものが出来ます」「……そういうものですか」「はい、そういうものです」 佐奈といると幸助はなんだかむずがゆくなった。笑顔が眩しい。そして動作が可愛らしい。もしかすると一目ぼれしたのかもしれない。けれど、胸の鼓動が早くなるたびに、彼女が持っているものが頭を過ぎって夢から覚める。「本当におしいなぁ」「ん、何かおっしゃいました?」「なんでもないです」 軽くキッチンの説明を受けて、まずは物の配置を教えてもらう。一般家庭のキッチンよりも少し広いので、あまり使わないものの配置は覚えるのに時間がかかりそうだった。使わないときでも極力思い出すようにしておこうと幸助は対策を練る。 あらかたの説明が済んで、夕食作りに移る。今回、幸助は補助だ。「そう言えば、剰水さんは何時頃からここでメイドを?」 手はしっかり動かしながら、幸助は訊いた。「私の家は代々九条家に仕えていたので、私は物心ついたころからジル様の御付きでした。恐れ多いですが、ジル様には幼なじみと認識をしていただいているようです」「では、一時期は本家に?」「はい。本家でプロのメイドさんたちに囲まれて、色々勉強させていただいていました」 手際よく野菜を刻みながら、佐奈は淡々と答えていく。「九条様はどうしてここに?」 答えるだけではなく、訊きたくなったようだ。今度は佐奈が幸助に質問を始める。「俺は、あ、いや、自分は」「言いなれたほうで構いませんよ。多分お嬢様もそうおっしゃられると思います」「すみません」「俺は恩返しの趣旨でここに。やる以上は真剣に取り組むつもりですよ。仕事でもありますからね」 リズムの良い包丁の音が途端に聞こえなくなる。 佐奈の方を見てみると、曇った顔で俯いたまま止まっていた。「……」「……剰水さん?」 名前を呼ばれて、佐奈はようやく手が止まっていることに気が付く。「あ、いえ、すみません。どうぞ続けてください。……いたっ!」 眉をしかめて、包丁を置く。見てみると佐奈の指から流血していた。慌てて再開したせいか、包丁で指を切ったようだ。 幸助は先ほど教えてもらった場所から、素早く救急箱をとりだした。 幸い切り口はそこまで広くなく、絆創膏を貼っておけば治る程度のものだった。綿で血をとってから指に張ってやる。「すみません。私の方がこのような」「いえ、俺の方こそ、何かまずかったですか?」 少なくとも、幸助は何かおかしなことを言った感覚はない。だが、佐奈の態度を見る限り、明らかに何か突いてはいけないところを突いてしまっているようだった。 結局、佐奈は困り顔で笑うだけで、幸助に返事をくれなかった。

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