偏食な子犬拾いました
エピローグ
窓の外から見える木々や花々の鮮やかな色が目に優しく映る。
これが現実なのか夢なのか分からなくなるが、隣にいる大樹の声と気配が『これは現実なんだ』と認識させてくれる。
「聞いてるのか真尋。今日のお客様は正午に来店予定。人数は三名。アレルギーも嫌いなものもなし」
「聞いてるよ。で、今日の野菜は何?」
「キャベツ、大根、じゃがいも人参。あとはそこら辺に生えてる草」
「草とか言わないでくれよ。丹精込めて作ったハーブなんだから」
椅子にかけてあったエプロンを大樹の頭にボフっと被せ、俺は厨房へと向かう。
ハーブは俺が実験的に育てていたものを、そのまま規模を広げて畑にしたものだ。
野菜は大樹が家の裏庭で作っているものと、契約している農家から届けて貰っているもの。
そのハーブや野菜たちを使って、俺と大樹はここで一日一組限定のレストランを開いている。
レストランを開業して早や六年。何でこんな場所で営業しているのか未だに分からない。
そう、気付いたらここにいた。というか、目が覚めたらこの家、見知らぬカントリー調の部屋のベッドの上にいたのだ。
お茶会のあと、俺とポチを捨てて大樹はどこかへ行ってしまうのでは、と不安を抱えて眠りについたまでは憶えている。
目が覚めたら、それから数ヵ月の時が過ぎていた。
目が覚めて最初に見たのは大樹の泣きそうな笑顔。
大樹がどこかへ行ってしまわなかったことに安堵したと同時に、どうして大樹はそんな表情をしているのだろうと不思議に感じた。
数ヵ月もの間眠っていたと聞かされて強引に納得させられたものの、ここにいる理由が分からない。
尋ねるが答えはいつも曖昧な笑顔で誤魔化されていた。
唯一聞けたのはマンションは引き払ったという事と、ポチはどこかへ行ってしまったという事。
大樹が頑なに話さないのには俺を慮ってのこともあるだろうが、それ以上に話せない何らかの理由があってのことだろうと、これ以上問いただすのは止めてしまった。
「それにしても平和だなぁ」
料理教室をやっていた頃のようにマダムに追い回されることもなく、慌ただしいスケジュールに振り回されることもない。
こうやって来客がなければ夢の中にいるのだと本気で思ってしまいそうだ。
「平和なのはいいが、メニューは決まったか?」
「そうだなぁ……」
ロールキャベツでもと思ったが、冷蔵庫を覗いたらひき肉がなかった。ソーセージやベーコンといった加工肉はいくつか存在している。さっきお裾分けで貰った魚もあった。
「ポトフかな。白身魚のソテーとバジル入りのパン、焦がしベーコン入りのポテトサラダ。デザートにはキャロットソースのブラマンジェ」
「デザートは余計に作っておいてくれ」
「余分に? 最初から多めに作る予定ではいたからいいけど?」
たまに『このデザートおかわりしたいわ』という声があるので余分に作るようにはしている。
大樹からあらたまって要望されるなんて珍しい。
「じゃ、始めるか」
大樹はそう言って、率先してシンクに並ぶ野菜たちを洗い始める。
俺は洗い終わった先から野菜の皮を剥き、切っていく。
ポトフ用の野菜は全てひと口大よりも大きめにカット。ポテトサラダ用のはそれより小さめ、人参は賽の目に切る。
ブラマンジェのソースに使う人参は薄めの輪切りにして砂糖水を入れた鍋に放り込む。
ポトフの野菜はひと煮立ちしたところでコンソメと塩と白ワイン投入、そのままトロ火でじっくり煮込む。
それぞれ煮込んでいる間にパン生地を作成してしまう。
一次発酵まではホームベーカリーの力を借りる。手抜きっぽく思われるが、これだと時間をかけずに上手く捏ねられるので愛用している。
若干うるさいホームベーカリーの機械音をBGMにブラマンジェを作っていく。
コーンスターチと牛乳、砂糖、生クリームを鍋に入れ、とろ火に掛けてひたすら混ぜる。
手を止めてしまうとダマになるので、素早くまんべんなく混ぜていく。
粘度がついてもっちりとしたら火を止めバニラエッセンスを少々、容器に移す。粗熱が取れたら冷蔵庫へお引越し。
「人参煮えたぞ」
「ありがと。ミキサーにかけてもらっていい?」
最近は遠慮なく大樹の手を借りる。
大樹もすっかり手伝いに慣れた様子で、ブラマンジェのソース用に煮た人参をミキサーに移し、何も聞かずにリンゴジュースを加えてスイッチを入れた。
「よく分かったね」
「そりゃ何回か作るの手伝わされたからな」
ちょっと自慢気に口の端を上げると、ミキサーにかけた人参を裏ごしし始める。
「今度デザート作ってやるよ」
「大樹が? 何が出来上がるのかちょっと怖いな」
怖いなんて言ってはみたが、本心はとっても楽しみだ。
多少不格好で不味くても、きっと美味しく感じるだろうな。
こんな調子で準備はサクサク進み、あとは来客を待つばかりとなった。
「今日はいい日になりそうだな」
「? そう? いつも穏やかでいい日だよ」
いつになく機嫌のいい大樹。こんな事を言うのは珍しかった。
「ご馳走様、とても美味しかったわ。また利用させていただくわね」
「ありがとうございます。お待ちしております」
予約していたご婦人方がにこやかに挨拶して帰っていく姿を、厨房の小窓からそっと見送る。
大樹に『真尋は絶対出てくるな』と強く釘をさされているので、ちゃんとご挨拶したいところなのだが我慢している。
「出てきていいぞ」
「……何で表に出ちゃいけなんだよ」
「またマダムに追っかけられて倒れたいか」
「……ゴメンナサイ」
分かれば宜しいと言わんばかりに脱いだエプロンを俺の上に被せる。
恥ずかしい話、オープン当初に色欲にまみれたマダムに言い寄られて卒倒した。
なのでそれから大樹は俺を極力表には出さず、厨房だけにいさせるようにしてくれている。
「さ、片付けて一服しようぜ」
テーブルに取り残されたコーヒーカップとデザート皿をテキパキと厨房へ運んでいく。
その足でコーヒーを淹れると、いつものように客席の窓際に二つ並べてくれた。
座ってコーヒーを飲み始めると、車のエンジン音が聞こえ店の前で停まった。
「お、時間通りだ」
「え? 来客予定あったの? レストランって一日一組でしょ?」
「客であって客でない」
不思議な回答に首を傾げているとチリリン、と小さなベルの音と共に店のドアが開いた。
「時間ぴったりだな」
「お久し振りです、大樹さん」
大樹と顔見知りらしく、挨拶を交わすと青年は勧められるまま椅子に腰かけた。
「俺、邪魔になるから部屋に帰ってるよ」
「お前の客でもあるんだからそのまま居ていいんだよ」
「え?」
自分にも関係する案件というのが分からない。
二人を交互に見るが、大樹はニヤニヤしているだけだし、青年は苦笑しているしで答えは見つからない。
「香西さん、忘れちゃいました?」
「すいません、失礼ですがどちら様でしょうか」
忘れるも何も青年に知り合いはいなかった筈だ。
が、大樹のニヤニヤ顔が今にも吹き出しそうに変わってるのが『知り合い』であることを語っている。
「大樹……」
「真尋、まだ分からないのか?」
助けを求めると、大樹が遂に堪え切れずに吹き出した。
青年の方はといえば大樹を見て呆れている。
「え? え? え?」
「真尋、平穏過ぎて遂にボケたか? こりゃ刺激のある生活にしてやらないとな」
「そうさせたのは大樹さんでしょ。まったく、僕が来るってこと、本当に話してなかったんですね」
答えを教えて貰えずモヤモヤするうえ、二人だけの会話に入れずちょっとばかり嫉妬してしまう。
「……答えを教えてくれてもいいんじゃないか、大樹」
「ポチだよ、ポチ」
「は? ポチ?」
言われて、不躾にも青年の顔をじっと見る。
すらっと鼻筋の通った面長の顔、ぱっちりとした二重。栗色に近い茶色い髪と瞳の色には見覚えがあった。
「……本当にポチなの?」
「ですよ、香西さん。お元気そうで何よりです」
ニカッと笑う青年の顔は、まだ少年だった頃のポチの笑顔そのままだった。
大樹の機嫌の良さはポチが来るからだったらしい。
「急にいなくなったって聞いてたよ。普通に元気そうにしてて安心したよ!」 
「あー、またこの人はそんな事言ってたんですか。あれこれ説明するのが面倒だったんでしょ」
「人聞きの悪い。後でまとめて話すつもりだっただけだ。ポチのくせに偉そうだな」
「ポチだから偉そうなんです」
すっかり大人になったポチは面影はあるものの、以前のような拗ねた子供のポチではなくなっていた。
どことなく大樹の雰囲気に似た、まさに『大樹の血を分けた弟』みたいな感じ。
「で、どうして急にポチがここに?」
「ま、それはゆっくりお茶でもしながら説明するよ」
そう言って大樹はポチの分のコーヒーと、ブラマンジェと朝に焼いたパンを半分に切った間にハムとクリームチーズを挟んで持ってきた。
「久し振りの香西さんの料理だ」
テーブルに置かれたブラマンジェとパンを見るとポチは嬉しそうに目を細め、『いただきます』と言ってパンを手に取った。
バジル入りのパンなんて、昔のポチなら『変な臭いの何かが入ってる』と、手にも取らなかっただろう。今は躊躇うことなく手に取り、それを口へ運んでいる。
不思議な感じはしたが、拾ってきたときからもう何年経っているんだからそう不思議でもない。
ポチだってもう大人なんだし、偏食や食べず嫌いのままでいる方がよっぽど不思議なのだし。
「んー、美味しい! 生バジルの葉を混ぜて焼いたパンは食べたことなかったけど、意外とくせはないんですね。クリームチーズでなく、チェダーチーズでも合うかも」
「俺にそこまで料理のセンスはない。冷蔵庫にあったから入れただけだ。りんごジャムと迷った」
「……それ、多分合わないです」
こんな風に食べ物の組み合わせなんてパッと言えるくらいに、いろいろ食べてきたんだと少し嬉しくも思うが、それだけ自分も齢をとったんだと軽くショックをうけてしまう。
あれ、今度いくつになる? アラサー超える?
軽食をしつつ楽しく時間を過ごしているが、本題のポチが来た理由に話題はなかなか移らない。
「ねぇ大樹、ポチが来た理由って?」
知りたかったのでモヤモヤしていた。
「何だと思う?」
「分からないから聞いてるんじゃないか。まさか世間話するために来た?」
「まさか」
「じゃあ何だよ」
「さっき真尋に『刺激のある生活』って言ったよな。そのためにポチに来て貰った」
「刺激のある生活……?」
意味が分からない。
今だって十分刺激のある生活だ。
「そう。このレストランを辞めて引っ越しするんだ」
「は!? 突然ここでレストランやり始めたのも意味不明だったけど、引っ越す意味も分からない!」
何で今?
運営を始めた最初の頃は予約のない日だってあった。でも今は軌道に乗って、この先半年は予約で埋まっている状況だ。
「俺は反対だ。この土地も店も気に入っている。前のように料理教室を開くのならなおさら反対だ」
「まあ最後まで話を聞け」
やや興奮ぎみの俺を制し、大樹は呆れ顔で話を続けた。
「誰も都心に出て料理教室をするなんて言ってないだろう。たった一人のマダムで卒倒するようなやつに、大勢のマダムの相手なんてさせる程俺は鬼畜でないんでね」
「……じゃあ何なのさ」
「新店舗をオープンする。場所はここよりもう少し街に近いが、ここと大差ない。上物は先日完成した」
「え!? 新店舗!? ポチと?」
大樹の言葉に耳を疑った。
新しい店舗が完成したから今だとは分かったが、わざわざ新しく店を建てる必要まではなかったのでは?
「新店舗はここより大きい。もっと多くの客を呼ぶために、敢えて新しく建てることにしたんだ」
「大きい店……」
ポチは知っていたのかと顔を見ると、申し訳なさそうに頷いた。
「前にお前が知りたがっていたポチの行方なんだが」
話しが急に変わる。
何の脈絡もなくこの話に持っていくわけじゃないだろうが、まだ見えてこない。
ハテナ、という顔をしているのだろう。大樹はコーヒーをひと口飲むと、俺の反応を楽しむように話し始めた。
「実は俺がマンションから追い出した。今はちゃんと独り暮らしをして働いてる」
「追い出した? 何で?」
「真尋が倒れて、真尋が死んだ後、ポチをどうしようかと考えた」
「勝手に殺すなよ。そこまで深刻でなかったって言ってたじゃないか」
確かに起きた時、大樹の顔は泣きそうになってたけど。
「そこで選択肢を与えた。出ていって親元に戻るか、また放浪するか。しかしポチは俺の与えた選択肢ではなく、高校を卒業して専門学校に通うと言い出した。しかも金は俺が出せと。な?」
「出せ、なんて言ってません。貸してくれとお願いしただけです。それを大樹さんが条件次第では無償にしてやると言ったんじゃないですか」
「まだ条件はクリアしてないけどな」
「実質クリアしたようなものでしょ」
追い出したと言っているが、実際は自立を促しただけなんだ。自分で何とか出来なければ親元に帰れ、と。
それをポチもちゃんと理解して、選択肢外の道を選んだということなんだ。
それが調理師であって、突然話し始めた大樹の話と今回の新店舗に繋がるというわけか。
「お粥ごときで騒いでたクソガキが、よく免許取れたと未だに感心する」
「お粥……」
大樹の口から出た『お粥』というワードが何故か心に引っ掛かった。
夢の中かと思っていた出来事が、もしかしたら違うのでは? と。
「ねえポチ、俺が倒れた時に介護とかしなかった? 俺、ポチにお粥食べさせてもらった記憶があるんだけど」
一瞬二人の動きが止まる。
が、すぐに大樹は作ったのかそうでないのか分からない笑顔で答えた。
「そんな訳ないだろう。追い出した筈のポチが介護してたなら、いつ高校に行っていたんだ? 無理があるだろう」
そう言われればそうなんだが、途切れ途切れの記憶の中で、ポチが心配そうに覗く顔があった。
そしてその中で、ポチは頑張って作ったと思われるお粥を食べさせてくれた。
白粥だったな、とまどろむと今度は鮭のほぐしたものが入った粥になっていたり、ちょっと焦げ臭い中華粥になっていたり。
全部夢だったとしたら残念なのだが、夢で良かったのかもしれないと思えている。
夢でなければ、大樹は本当に俺を捨ててどこかへ消えてしまっていたのだから。
「そうだよね、夢だよね。話は戻しちゃうんだけど、クリアの条件って何?」
「難しいことは出してない。高校・専門学校を成績優秀者として卒業。資格取得後は俺の指定した店で就職、最低五年は修行」
ポーカーフェイスで大樹は言う。安堵したように見えたのは気のせいだろう。
「結構難しいじゃん……」
「でしょ? なのに大樹さん『これでも妥協してやった』って言うんです。店もまだ五年目なのに辞めて来いとか……。勝手すぎません?」
勝手は今に始まったことではないが、相変わらず厳しい男だ。
大樹はあらゆることにリスクを望まない。
リスクがあるにしろ、それ以上の利益が見込めないならば一切の投資なんてしない。
ポチに無償の投資をしたってことは、リスク以上に利益があると見越したんだろう。
「大樹に追い出された時って未成年だったから、進学とかあれこれ手続きするのに大変だったんじゃない? 実家に戻って頭下げてきたの?」
拾ってきた家出少年ポチ。
今でも素性は分からないままで、頑なに名前も何も打ち明けなかった。
「その点は大樹さんがあれこれやってくれました」
「あれこれ……」
「ああ。ちょーっとお家事情語らせていただいて、『世間様には知られたくないんですよね?』って見つめてあげたら、二つ返事でポチくんを進呈されたよ」
「進呈……」
いや、ポチは物じゃないし、そもそも大樹のしてることって脅しって言わないか?
お金を強請っているわけじゃないからグレーなのかもしれないが、やってることは裏取引にしか見えない。
「だ、大丈夫なの? 何かヤバそうな臭いがプンプンするんだけど」
「全然。動かれてヤバいのはあちらさんだし」
大樹がそう言うならそうなんだろうし、知らぬが仏っていうし。
「さて、これから忙しくなるぞ。こっちの店の最終予約は半年後でラストだが、新店舗オープンは半年後。運営と準備と同時進行になる」
「は!? 無理無理! そんなの一辺に出来ない!」
たった一組とはいえ、下ごしらえから何から何まで殆ど俺がやっている。そこに新店舗の什器やら何やら選んで発注するのは物理的にも無理がある。
「一人でやれって言ってないだろ。何のための俺とポチだ」
ニカッと笑う大樹はいたずらっ子のようだ。
まったく、この男、こんなキャラクターだったっけ? 可愛いんだけど。
木目調の店内には今日も様々な音が広がっている。
笑い声、楽しそうな話声、食器が奏でる心地よい陶器の音そしてそれらを邪魔しない程度に流されるBGM。
雑多に混ざり合う声と音なのに、まるで煩いとは感じない。
「香西さん! ボケっとしてないで、それ仕上げて運んで下さいよ! 次の料理がつっかえてます!」
「ボケっとしてないよ! ってかポチが運んでよ! こっちは今焼きに入ってる!」
「無理です! 鍋から手が離せません! こんなことになったのは大樹さんのせいなんですから、大樹さん運んでくださいよ!」
「俺は皿を洗っているが、何か」
泡だらけの手をこちらに振って『無理です』アピールをする大樹。
こうなったのも大樹のせいだ。
新店舗は大樹が言っていたように、受け入れる客数がまるで違った。
一日十二組。席さえ空いていれば同じ時間帯に三組も四組も予約を入れてしまう。
そんな馬鹿システムにしたのは他でもない大樹だし、馬鹿の言う通りにWEB予約プログラムを組んだのは、関係ないフリをして料理を作っているポチである。
「もー! お皿は後でいいから運んで!」
俺の文句にわざとらしく肩を竦めて手を流し、出来上がった料理をトレイに乗せる。
「真尋くんこわーい。こんなのボクの知ってる真尋くんでないー」
「棒読みで可愛い子ぶらなくていいから、さっさと運んで」
ポーカーフェイスでそんな事言われても可愛くも何ともない。
「あー、疲れたー」
「お疲れ。コーヒー淹れる」
前半の予約客が全て帰り、やっと休憩の時間を取ることが出来た。
厨房に続く小部屋の椅子にどっかりと腰を下ろした俺に、大樹はコーヒーを淹れると言って厨房に戻っていく。
コーヒーを淹れるにしては少し遅いと感じた頃、トレイを持った大樹が戻ってきた。
「誕生日おめでとう、真尋」
コーヒーを持った大樹の後ろには、小部屋に姿を見せなかったポチ。手には小振りのホールケーキを持っている。
「俺の誕生日? ホント?」
「忙し過ぎて日付も分からなくなったか。相変わらず呑気で可愛いやつだな」
チュ、っと音をたてて唇にキス。
「ちょ、ちょっと大樹! ポチのいる前でっ!?」
「今さら何言ってる。こういう関係だってのは周知の上だろ」
分かっているが何となく恥ずかしい。
思わず下を向いてモジモジしていると、大樹は不意に俺の手を取って何かを乗せた。
見ると小さなビロードの青い箱。
「これ……」
「長い間待たせた。ようやく実家の件が決着した」
開かれた箱にはシルバーのリング。
艶やかな表面に一筋、蔦のような模様が彫られている。
「結婚しよう。戸籍のことは真尋の判断にゆだねる。俺はお前の養子に入っても構わないんだ」
「大樹……」
俺の手に重ねられる大樹の左手の薬指にも同様のリングが嵌っている。
以前指輪をプレゼントして貰ったことはあったが、こうしてちゃんとプロポーズされたのは初めてだ。
ちょっと感動して泣きそうになったところに、ポチがケーキを差し出してきた。
「このケーキ、大樹さんが作ったんですよ」
テーブルに置かれたケーキはかなり不恰好なものだった。
均一に塗れていないうえにいびつなウェーブを形どるクリーム。乗せている苺も斜めになっている。
チョコペンで書かれている文字も……、である。
「味には自信がある」
「大丈夫。不味くても食べるよ」
俺のために作ってくれたから、絶対美味しいに決まっている。
砂糖と塩を間違っていても、それはきっと甘いと感じるだろうし。
「行っとくが砂糖と塩は間違ってないからな。ポチ監修だ」
わいわいがやがや、また時間は過ぎていく。
この先何年、何十年俺達の関係が続いていくのかは分からない。
でも今のこの時間が愛おしくて大切で、何よりも大好きだ。
あの時大樹に拾われなければ、偶然ポチに出会って連れてこなければこんな日々は送れていなかっただろう。
幸せが幸せを呼ぶというのは本当らしい。
大樹に会えた幸せが、心を込めて作った料理が美味しいということ、それを作ることもまた楽しいという幸せを教えてくれた。
そしてその幸せがポチと出会わせてくれ、ポチにも食べる楽しさや作る面白さを教えてくれた。
ポチが今幸せかどうかは聞いてみないと分からないが、あの笑顔を見ている限りでは幸せなんだと思う。
明日もこの幸福が皆にも訪れるようにと、俺は今日も料理を作りながら祈る。
「次の予約の客が来るぞ。四名様、うち子供一名だ」
「了解! ポチ、スープ温めておいて」
「はい! あ、来たみたいです。車が停まった」
今日もこの瞬間を嬉しく思う。
俺と大樹とポチでお客様をお迎えする瞬間を。
幸せを届ける瞬間を。
「「「いらっしゃいませ。ようこそ『子犬の家へ』」」」
これが現実なのか夢なのか分からなくなるが、隣にいる大樹の声と気配が『これは現実なんだ』と認識させてくれる。
「聞いてるのか真尋。今日のお客様は正午に来店予定。人数は三名。アレルギーも嫌いなものもなし」
「聞いてるよ。で、今日の野菜は何?」
「キャベツ、大根、じゃがいも人参。あとはそこら辺に生えてる草」
「草とか言わないでくれよ。丹精込めて作ったハーブなんだから」
椅子にかけてあったエプロンを大樹の頭にボフっと被せ、俺は厨房へと向かう。
ハーブは俺が実験的に育てていたものを、そのまま規模を広げて畑にしたものだ。
野菜は大樹が家の裏庭で作っているものと、契約している農家から届けて貰っているもの。
そのハーブや野菜たちを使って、俺と大樹はここで一日一組限定のレストランを開いている。
レストランを開業して早や六年。何でこんな場所で営業しているのか未だに分からない。
そう、気付いたらここにいた。というか、目が覚めたらこの家、見知らぬカントリー調の部屋のベッドの上にいたのだ。
お茶会のあと、俺とポチを捨てて大樹はどこかへ行ってしまうのでは、と不安を抱えて眠りについたまでは憶えている。
目が覚めたら、それから数ヵ月の時が過ぎていた。
目が覚めて最初に見たのは大樹の泣きそうな笑顔。
大樹がどこかへ行ってしまわなかったことに安堵したと同時に、どうして大樹はそんな表情をしているのだろうと不思議に感じた。
数ヵ月もの間眠っていたと聞かされて強引に納得させられたものの、ここにいる理由が分からない。
尋ねるが答えはいつも曖昧な笑顔で誤魔化されていた。
唯一聞けたのはマンションは引き払ったという事と、ポチはどこかへ行ってしまったという事。
大樹が頑なに話さないのには俺を慮ってのこともあるだろうが、それ以上に話せない何らかの理由があってのことだろうと、これ以上問いただすのは止めてしまった。
「それにしても平和だなぁ」
料理教室をやっていた頃のようにマダムに追い回されることもなく、慌ただしいスケジュールに振り回されることもない。
こうやって来客がなければ夢の中にいるのだと本気で思ってしまいそうだ。
「平和なのはいいが、メニューは決まったか?」
「そうだなぁ……」
ロールキャベツでもと思ったが、冷蔵庫を覗いたらひき肉がなかった。ソーセージやベーコンといった加工肉はいくつか存在している。さっきお裾分けで貰った魚もあった。
「ポトフかな。白身魚のソテーとバジル入りのパン、焦がしベーコン入りのポテトサラダ。デザートにはキャロットソースのブラマンジェ」
「デザートは余計に作っておいてくれ」
「余分に? 最初から多めに作る予定ではいたからいいけど?」
たまに『このデザートおかわりしたいわ』という声があるので余分に作るようにはしている。
大樹からあらたまって要望されるなんて珍しい。
「じゃ、始めるか」
大樹はそう言って、率先してシンクに並ぶ野菜たちを洗い始める。
俺は洗い終わった先から野菜の皮を剥き、切っていく。
ポトフ用の野菜は全てひと口大よりも大きめにカット。ポテトサラダ用のはそれより小さめ、人参は賽の目に切る。
ブラマンジェのソースに使う人参は薄めの輪切りにして砂糖水を入れた鍋に放り込む。
ポトフの野菜はひと煮立ちしたところでコンソメと塩と白ワイン投入、そのままトロ火でじっくり煮込む。
それぞれ煮込んでいる間にパン生地を作成してしまう。
一次発酵まではホームベーカリーの力を借りる。手抜きっぽく思われるが、これだと時間をかけずに上手く捏ねられるので愛用している。
若干うるさいホームベーカリーの機械音をBGMにブラマンジェを作っていく。
コーンスターチと牛乳、砂糖、生クリームを鍋に入れ、とろ火に掛けてひたすら混ぜる。
手を止めてしまうとダマになるので、素早くまんべんなく混ぜていく。
粘度がついてもっちりとしたら火を止めバニラエッセンスを少々、容器に移す。粗熱が取れたら冷蔵庫へお引越し。
「人参煮えたぞ」
「ありがと。ミキサーにかけてもらっていい?」
最近は遠慮なく大樹の手を借りる。
大樹もすっかり手伝いに慣れた様子で、ブラマンジェのソース用に煮た人参をミキサーに移し、何も聞かずにリンゴジュースを加えてスイッチを入れた。
「よく分かったね」
「そりゃ何回か作るの手伝わされたからな」
ちょっと自慢気に口の端を上げると、ミキサーにかけた人参を裏ごしし始める。
「今度デザート作ってやるよ」
「大樹が? 何が出来上がるのかちょっと怖いな」
怖いなんて言ってはみたが、本心はとっても楽しみだ。
多少不格好で不味くても、きっと美味しく感じるだろうな。
こんな調子で準備はサクサク進み、あとは来客を待つばかりとなった。
「今日はいい日になりそうだな」
「? そう? いつも穏やかでいい日だよ」
いつになく機嫌のいい大樹。こんな事を言うのは珍しかった。
「ご馳走様、とても美味しかったわ。また利用させていただくわね」
「ありがとうございます。お待ちしております」
予約していたご婦人方がにこやかに挨拶して帰っていく姿を、厨房の小窓からそっと見送る。
大樹に『真尋は絶対出てくるな』と強く釘をさされているので、ちゃんとご挨拶したいところなのだが我慢している。
「出てきていいぞ」
「……何で表に出ちゃいけなんだよ」
「またマダムに追っかけられて倒れたいか」
「……ゴメンナサイ」
分かれば宜しいと言わんばかりに脱いだエプロンを俺の上に被せる。
恥ずかしい話、オープン当初に色欲にまみれたマダムに言い寄られて卒倒した。
なのでそれから大樹は俺を極力表には出さず、厨房だけにいさせるようにしてくれている。
「さ、片付けて一服しようぜ」
テーブルに取り残されたコーヒーカップとデザート皿をテキパキと厨房へ運んでいく。
その足でコーヒーを淹れると、いつものように客席の窓際に二つ並べてくれた。
座ってコーヒーを飲み始めると、車のエンジン音が聞こえ店の前で停まった。
「お、時間通りだ」
「え? 来客予定あったの? レストランって一日一組でしょ?」
「客であって客でない」
不思議な回答に首を傾げているとチリリン、と小さなベルの音と共に店のドアが開いた。
「時間ぴったりだな」
「お久し振りです、大樹さん」
大樹と顔見知りらしく、挨拶を交わすと青年は勧められるまま椅子に腰かけた。
「俺、邪魔になるから部屋に帰ってるよ」
「お前の客でもあるんだからそのまま居ていいんだよ」
「え?」
自分にも関係する案件というのが分からない。
二人を交互に見るが、大樹はニヤニヤしているだけだし、青年は苦笑しているしで答えは見つからない。
「香西さん、忘れちゃいました?」
「すいません、失礼ですがどちら様でしょうか」
忘れるも何も青年に知り合いはいなかった筈だ。
が、大樹のニヤニヤ顔が今にも吹き出しそうに変わってるのが『知り合い』であることを語っている。
「大樹……」
「真尋、まだ分からないのか?」
助けを求めると、大樹が遂に堪え切れずに吹き出した。
青年の方はといえば大樹を見て呆れている。
「え? え? え?」
「真尋、平穏過ぎて遂にボケたか? こりゃ刺激のある生活にしてやらないとな」
「そうさせたのは大樹さんでしょ。まったく、僕が来るってこと、本当に話してなかったんですね」
答えを教えて貰えずモヤモヤするうえ、二人だけの会話に入れずちょっとばかり嫉妬してしまう。
「……答えを教えてくれてもいいんじゃないか、大樹」
「ポチだよ、ポチ」
「は? ポチ?」
言われて、不躾にも青年の顔をじっと見る。
すらっと鼻筋の通った面長の顔、ぱっちりとした二重。栗色に近い茶色い髪と瞳の色には見覚えがあった。
「……本当にポチなの?」
「ですよ、香西さん。お元気そうで何よりです」
ニカッと笑う青年の顔は、まだ少年だった頃のポチの笑顔そのままだった。
大樹の機嫌の良さはポチが来るからだったらしい。
「急にいなくなったって聞いてたよ。普通に元気そうにしてて安心したよ!」 
「あー、またこの人はそんな事言ってたんですか。あれこれ説明するのが面倒だったんでしょ」
「人聞きの悪い。後でまとめて話すつもりだっただけだ。ポチのくせに偉そうだな」
「ポチだから偉そうなんです」
すっかり大人になったポチは面影はあるものの、以前のような拗ねた子供のポチではなくなっていた。
どことなく大樹の雰囲気に似た、まさに『大樹の血を分けた弟』みたいな感じ。
「で、どうして急にポチがここに?」
「ま、それはゆっくりお茶でもしながら説明するよ」
そう言って大樹はポチの分のコーヒーと、ブラマンジェと朝に焼いたパンを半分に切った間にハムとクリームチーズを挟んで持ってきた。
「久し振りの香西さんの料理だ」
テーブルに置かれたブラマンジェとパンを見るとポチは嬉しそうに目を細め、『いただきます』と言ってパンを手に取った。
バジル入りのパンなんて、昔のポチなら『変な臭いの何かが入ってる』と、手にも取らなかっただろう。今は躊躇うことなく手に取り、それを口へ運んでいる。
不思議な感じはしたが、拾ってきたときからもう何年経っているんだからそう不思議でもない。
ポチだってもう大人なんだし、偏食や食べず嫌いのままでいる方がよっぽど不思議なのだし。
「んー、美味しい! 生バジルの葉を混ぜて焼いたパンは食べたことなかったけど、意外とくせはないんですね。クリームチーズでなく、チェダーチーズでも合うかも」
「俺にそこまで料理のセンスはない。冷蔵庫にあったから入れただけだ。りんごジャムと迷った」
「……それ、多分合わないです」
こんな風に食べ物の組み合わせなんてパッと言えるくらいに、いろいろ食べてきたんだと少し嬉しくも思うが、それだけ自分も齢をとったんだと軽くショックをうけてしまう。
あれ、今度いくつになる? アラサー超える?
軽食をしつつ楽しく時間を過ごしているが、本題のポチが来た理由に話題はなかなか移らない。
「ねぇ大樹、ポチが来た理由って?」
知りたかったのでモヤモヤしていた。
「何だと思う?」
「分からないから聞いてるんじゃないか。まさか世間話するために来た?」
「まさか」
「じゃあ何だよ」
「さっき真尋に『刺激のある生活』って言ったよな。そのためにポチに来て貰った」
「刺激のある生活……?」
意味が分からない。
今だって十分刺激のある生活だ。
「そう。このレストランを辞めて引っ越しするんだ」
「は!? 突然ここでレストランやり始めたのも意味不明だったけど、引っ越す意味も分からない!」
何で今?
運営を始めた最初の頃は予約のない日だってあった。でも今は軌道に乗って、この先半年は予約で埋まっている状況だ。
「俺は反対だ。この土地も店も気に入っている。前のように料理教室を開くのならなおさら反対だ」
「まあ最後まで話を聞け」
やや興奮ぎみの俺を制し、大樹は呆れ顔で話を続けた。
「誰も都心に出て料理教室をするなんて言ってないだろう。たった一人のマダムで卒倒するようなやつに、大勢のマダムの相手なんてさせる程俺は鬼畜でないんでね」
「……じゃあ何なのさ」
「新店舗をオープンする。場所はここよりもう少し街に近いが、ここと大差ない。上物は先日完成した」
「え!? 新店舗!? ポチと?」
大樹の言葉に耳を疑った。
新しい店舗が完成したから今だとは分かったが、わざわざ新しく店を建てる必要まではなかったのでは?
「新店舗はここより大きい。もっと多くの客を呼ぶために、敢えて新しく建てることにしたんだ」
「大きい店……」
ポチは知っていたのかと顔を見ると、申し訳なさそうに頷いた。
「前にお前が知りたがっていたポチの行方なんだが」
話しが急に変わる。
何の脈絡もなくこの話に持っていくわけじゃないだろうが、まだ見えてこない。
ハテナ、という顔をしているのだろう。大樹はコーヒーをひと口飲むと、俺の反応を楽しむように話し始めた。
「実は俺がマンションから追い出した。今はちゃんと独り暮らしをして働いてる」
「追い出した? 何で?」
「真尋が倒れて、真尋が死んだ後、ポチをどうしようかと考えた」
「勝手に殺すなよ。そこまで深刻でなかったって言ってたじゃないか」
確かに起きた時、大樹の顔は泣きそうになってたけど。
「そこで選択肢を与えた。出ていって親元に戻るか、また放浪するか。しかしポチは俺の与えた選択肢ではなく、高校を卒業して専門学校に通うと言い出した。しかも金は俺が出せと。な?」
「出せ、なんて言ってません。貸してくれとお願いしただけです。それを大樹さんが条件次第では無償にしてやると言ったんじゃないですか」
「まだ条件はクリアしてないけどな」
「実質クリアしたようなものでしょ」
追い出したと言っているが、実際は自立を促しただけなんだ。自分で何とか出来なければ親元に帰れ、と。
それをポチもちゃんと理解して、選択肢外の道を選んだということなんだ。
それが調理師であって、突然話し始めた大樹の話と今回の新店舗に繋がるというわけか。
「お粥ごときで騒いでたクソガキが、よく免許取れたと未だに感心する」
「お粥……」
大樹の口から出た『お粥』というワードが何故か心に引っ掛かった。
夢の中かと思っていた出来事が、もしかしたら違うのでは? と。
「ねえポチ、俺が倒れた時に介護とかしなかった? 俺、ポチにお粥食べさせてもらった記憶があるんだけど」
一瞬二人の動きが止まる。
が、すぐに大樹は作ったのかそうでないのか分からない笑顔で答えた。
「そんな訳ないだろう。追い出した筈のポチが介護してたなら、いつ高校に行っていたんだ? 無理があるだろう」
そう言われればそうなんだが、途切れ途切れの記憶の中で、ポチが心配そうに覗く顔があった。
そしてその中で、ポチは頑張って作ったと思われるお粥を食べさせてくれた。
白粥だったな、とまどろむと今度は鮭のほぐしたものが入った粥になっていたり、ちょっと焦げ臭い中華粥になっていたり。
全部夢だったとしたら残念なのだが、夢で良かったのかもしれないと思えている。
夢でなければ、大樹は本当に俺を捨ててどこかへ消えてしまっていたのだから。
「そうだよね、夢だよね。話は戻しちゃうんだけど、クリアの条件って何?」
「難しいことは出してない。高校・専門学校を成績優秀者として卒業。資格取得後は俺の指定した店で就職、最低五年は修行」
ポーカーフェイスで大樹は言う。安堵したように見えたのは気のせいだろう。
「結構難しいじゃん……」
「でしょ? なのに大樹さん『これでも妥協してやった』って言うんです。店もまだ五年目なのに辞めて来いとか……。勝手すぎません?」
勝手は今に始まったことではないが、相変わらず厳しい男だ。
大樹はあらゆることにリスクを望まない。
リスクがあるにしろ、それ以上の利益が見込めないならば一切の投資なんてしない。
ポチに無償の投資をしたってことは、リスク以上に利益があると見越したんだろう。
「大樹に追い出された時って未成年だったから、進学とかあれこれ手続きするのに大変だったんじゃない? 実家に戻って頭下げてきたの?」
拾ってきた家出少年ポチ。
今でも素性は分からないままで、頑なに名前も何も打ち明けなかった。
「その点は大樹さんがあれこれやってくれました」
「あれこれ……」
「ああ。ちょーっとお家事情語らせていただいて、『世間様には知られたくないんですよね?』って見つめてあげたら、二つ返事でポチくんを進呈されたよ」
「進呈……」
いや、ポチは物じゃないし、そもそも大樹のしてることって脅しって言わないか?
お金を強請っているわけじゃないからグレーなのかもしれないが、やってることは裏取引にしか見えない。
「だ、大丈夫なの? 何かヤバそうな臭いがプンプンするんだけど」
「全然。動かれてヤバいのはあちらさんだし」
大樹がそう言うならそうなんだろうし、知らぬが仏っていうし。
「さて、これから忙しくなるぞ。こっちの店の最終予約は半年後でラストだが、新店舗オープンは半年後。運営と準備と同時進行になる」
「は!? 無理無理! そんなの一辺に出来ない!」
たった一組とはいえ、下ごしらえから何から何まで殆ど俺がやっている。そこに新店舗の什器やら何やら選んで発注するのは物理的にも無理がある。
「一人でやれって言ってないだろ。何のための俺とポチだ」
ニカッと笑う大樹はいたずらっ子のようだ。
まったく、この男、こんなキャラクターだったっけ? 可愛いんだけど。
木目調の店内には今日も様々な音が広がっている。
笑い声、楽しそうな話声、食器が奏でる心地よい陶器の音そしてそれらを邪魔しない程度に流されるBGM。
雑多に混ざり合う声と音なのに、まるで煩いとは感じない。
「香西さん! ボケっとしてないで、それ仕上げて運んで下さいよ! 次の料理がつっかえてます!」
「ボケっとしてないよ! ってかポチが運んでよ! こっちは今焼きに入ってる!」
「無理です! 鍋から手が離せません! こんなことになったのは大樹さんのせいなんですから、大樹さん運んでくださいよ!」
「俺は皿を洗っているが、何か」
泡だらけの手をこちらに振って『無理です』アピールをする大樹。
こうなったのも大樹のせいだ。
新店舗は大樹が言っていたように、受け入れる客数がまるで違った。
一日十二組。席さえ空いていれば同じ時間帯に三組も四組も予約を入れてしまう。
そんな馬鹿システムにしたのは他でもない大樹だし、馬鹿の言う通りにWEB予約プログラムを組んだのは、関係ないフリをして料理を作っているポチである。
「もー! お皿は後でいいから運んで!」
俺の文句にわざとらしく肩を竦めて手を流し、出来上がった料理をトレイに乗せる。
「真尋くんこわーい。こんなのボクの知ってる真尋くんでないー」
「棒読みで可愛い子ぶらなくていいから、さっさと運んで」
ポーカーフェイスでそんな事言われても可愛くも何ともない。
「あー、疲れたー」
「お疲れ。コーヒー淹れる」
前半の予約客が全て帰り、やっと休憩の時間を取ることが出来た。
厨房に続く小部屋の椅子にどっかりと腰を下ろした俺に、大樹はコーヒーを淹れると言って厨房に戻っていく。
コーヒーを淹れるにしては少し遅いと感じた頃、トレイを持った大樹が戻ってきた。
「誕生日おめでとう、真尋」
コーヒーを持った大樹の後ろには、小部屋に姿を見せなかったポチ。手には小振りのホールケーキを持っている。
「俺の誕生日? ホント?」
「忙し過ぎて日付も分からなくなったか。相変わらず呑気で可愛いやつだな」
チュ、っと音をたてて唇にキス。
「ちょ、ちょっと大樹! ポチのいる前でっ!?」
「今さら何言ってる。こういう関係だってのは周知の上だろ」
分かっているが何となく恥ずかしい。
思わず下を向いてモジモジしていると、大樹は不意に俺の手を取って何かを乗せた。
見ると小さなビロードの青い箱。
「これ……」
「長い間待たせた。ようやく実家の件が決着した」
開かれた箱にはシルバーのリング。
艶やかな表面に一筋、蔦のような模様が彫られている。
「結婚しよう。戸籍のことは真尋の判断にゆだねる。俺はお前の養子に入っても構わないんだ」
「大樹……」
俺の手に重ねられる大樹の左手の薬指にも同様のリングが嵌っている。
以前指輪をプレゼントして貰ったことはあったが、こうしてちゃんとプロポーズされたのは初めてだ。
ちょっと感動して泣きそうになったところに、ポチがケーキを差し出してきた。
「このケーキ、大樹さんが作ったんですよ」
テーブルに置かれたケーキはかなり不恰好なものだった。
均一に塗れていないうえにいびつなウェーブを形どるクリーム。乗せている苺も斜めになっている。
チョコペンで書かれている文字も……、である。
「味には自信がある」
「大丈夫。不味くても食べるよ」
俺のために作ってくれたから、絶対美味しいに決まっている。
砂糖と塩を間違っていても、それはきっと甘いと感じるだろうし。
「行っとくが砂糖と塩は間違ってないからな。ポチ監修だ」
わいわいがやがや、また時間は過ぎていく。
この先何年、何十年俺達の関係が続いていくのかは分からない。
でも今のこの時間が愛おしくて大切で、何よりも大好きだ。
あの時大樹に拾われなければ、偶然ポチに出会って連れてこなければこんな日々は送れていなかっただろう。
幸せが幸せを呼ぶというのは本当らしい。
大樹に会えた幸せが、心を込めて作った料理が美味しいということ、それを作ることもまた楽しいという幸せを教えてくれた。
そしてその幸せがポチと出会わせてくれ、ポチにも食べる楽しさや作る面白さを教えてくれた。
ポチが今幸せかどうかは聞いてみないと分からないが、あの笑顔を見ている限りでは幸せなんだと思う。
明日もこの幸福が皆にも訪れるようにと、俺は今日も料理を作りながら祈る。
「次の予約の客が来るぞ。四名様、うち子供一名だ」
「了解! ポチ、スープ温めておいて」
「はい! あ、来たみたいです。車が停まった」
今日もこの瞬間を嬉しく思う。
俺と大樹とポチでお客様をお迎えする瞬間を。
幸せを届ける瞬間を。
「「「いらっしゃいませ。ようこそ『子犬の家へ』」」」
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