偏食な子犬拾いました

伊吹咲夜

咲さんの思い出の味②

  先輩はしばらく洗面所で胃を押さえ苦しそうにえづいていた。
 俺の問いに答えることも出来ず、何も入っていない筈の胃から必死に吐き続けるだけだった。

 これと同じような現場を、高校に入ってから入り浸るようになった学年がひとつ上の女の家で目撃している。
 最初は知識もなかったから言われるまま信じていた。

『ちょっと胃の調子が悪くて……』

 薬を持ってきてやったり、病院へ行くように勧めてみたりしたが『大丈夫』で全て済まされていた。
 それが不調ではなく『病気』だと分かったのは、数人で集まって食事をして帰ってきた後のことだ。
 俺を家の前に待たせたまま彼女はなかなか戻ってこない。
 おかしいと思い勝手に家に入ってみると、彼女はトイレで必死に吐いていた。
 もう胃に何も入っていないと思われるのに、何度も何度も吐き続けていた。

 落ち着いた頃に聞くと、店では吐きたいのを我慢していたと言った。
 周りの女の子に比べて少しふっくらしているから痩せようと思って、食べ過ぎた時に吐くようにしていたら、そのうち食べたら吐かないと気が済まなくなり、やがて受け付けなくなってしまったそうだ。
 食べ物を口にすると、それが何であろうが吐かずにはいられない。

『摂食障害』。いわゆる拒食症だ。

 彼女のように食べる=太るといった脅迫概念からの摂食障害は、本人が食べる事は悪い事でない、健康的に太ることは良い事だと理解していないと治りにくく、自宅での治療は難しいと後々知った。
 治るまで会うのは止めよう、と彼女から距離を置いて暫くして、共通の友人から彼女が入院させられたと聞いて、それほどまで酷かったのかと驚愕したのを憶えている。

 先輩の場合、彼女のように『太るのが怖い』といった要因からではないが、明らかに何らかの精神的要因が関係しているのは窺える。 
 誰の助けも求めることが出来ないままこうなってしまったのは、家庭が問題なのか?
 家族が先輩を追い詰めている?
 それとも別な要因でこうなってしまった先輩を、家族は手に負えなくなり見放した?

 あれこれと推測していると、洗面台の水音が止まった。

「先輩、大丈夫ですか? さっきの俺の質問、答えて欲しいところなんですが、咲さんがかなり心配してるんで後にします。とりあえず咲さんの前では俺の話に合わせてください。いいですね?」

 まだ少し苦しそうにしている先輩は、何も聞かずに親切にしてくれた咲さんにこれ以上の心配をかけたくないのか、俺の言葉に頷いて返事をした。

 * * * * * * * * * *

「まぁまぁ、大丈夫でしたか? やはり具合も悪かったんですか?」
「ごめんね咲さん。先輩、胃腸炎なんだって。食事も風呂も入ってなかったのは寝込んでたせい。そこに隣の部屋の取立てが間違って入ってきて、暴れて先輩に怪我させてこんなになったんだってさ」
「まぁ! それは大変! すぐお医者様をお呼びしないと! ご家族は!? 寝込んでいた間にちゃんと病院には行かれていたんですか!?」

 辻褄を合わせて咲さんを心配させずに納得させようと、とっさに『胃腸炎』で寝込んでいたことにしたが、返ってそれが咲さんの心配症に火をつけてしまったようだ。
 さて、どういう風に誤魔化すかな? と考えようとしたところで、先輩がここに来て初めて口を開いた。

「……親は、県外に単身赴任で、俺一人であのアパートに居ます。病院は、いき、ました……。寝てればよくなるって……」
「あらあら、まだ子供だっていうのに独り暮らしさせられてたのね。大変だったわね。病院の先生がおっしゃっていたなら、大丈夫ね」

 咲さんがホッと胸をなでおろして言うと、先輩は俯いてまた口を噤んでしまった。

「咲さん、今日俺と先輩、ここに泊っていっていい? 先輩の家は取立てが暴れていったせいでぐちゃぐちゃだし、先輩の容態が悪くなったりした時に俺がいた方が的確に動けると思うし」

 先輩の方は本当の事だが、俺は先輩からいろいろと話を聞き出したくて、嘘を言って泊めて欲しいとお願いした。

「もちろんいいですとも。私は大歓迎です。奥様に連絡は私から入れましょうか?」
「いや、俺が連絡するよ。咲さん、夕飯の買い物行くっていってたよね? 留守番してるから行ってきても大丈夫だよ」
「そうですか? お友達にお薬買ってきましょうか?」
「あとで様子みて俺が行くから」

 当然だが家に電話なんか入れはしないし、先輩の薬も買いには行かない。

 咲さんは先輩の顔をみながら、買い物に行くのを躊躇っていたが、何とか説得して買い物に出て貰った。
 すっかり家の前からいなくなったのを確認すると、俺は先輩と改めて向き直して話を始めた。

「先輩、話したくなくても話してください。ひとつひとつ聞いていきます。嘘偽りなく答えてください。黙秘は認めません」
「お前に何の権利があって……」
「権利はあります。ひとつは今、咲さんを心配させないために嘘をついて先輩を庇った。もうひとつ、取立て屋から先輩を守った。そして、俺は先輩を愛しているから、死なせたくないんです」

 じっと目を見つめて言い聞かせるように話してやる。
 最後の部分を聞いたとたん、『そんなくらいで』という顔をしていた先輩の顔が、実に間抜けな顔へと変貌した。
 いわゆる『鳩が豆鉄砲を食ったよう』なポカーンと口を開けて目をまんまるくした顔だ。

「……揶揄おちょくってる? 俺がこんなにみじめだから。どうせあそこから連れ出したのも、あの女に言われて見に来て、哀れに思ってのことなんだろう!?」

 間抜けな顔は、一瞬にして鋭い目つきの野良犬へと変貌した。
 触れればこちらがかみ殺されかねない殺気で睨みを利かせる。

「言われたからやってるわけじゃない!」

 こんな事はしたくなかった。
 こんな自分の祖父や父親がやってきたような、暴力と圧力で人を抑え込んで言う事をきかせる方法なんて。
 でも、今の先輩はこうでもしなければ俺の話も質問の回答もしてはくれない。
 こうでもして聞いてやらなければ、先輩は見えない暴力と目に見える飢えと病気で死んでしまう。

「愛してるからだって言っただろう! もう一度言う。俺の質問に答えろ」

 胸倉をつかみ押し倒して睨みつける。
 声のボリュームだけは落としているが、言葉の怒気だけは落とさず耳元で言う。

 さすがに今の体勢では俺に敵わないと理解したのか、先輩は悔しそうに横を向いて降参した。

「分かった。答えれば気が済むんだろう。話すからどいてくれ」

 押し退けようとしないのは力が出ないからだろう。
 このまま話していた方が脅しにもなるからいいのかもしれないが、退けたら話すと言ってくれたからには退けないわけにはいかない。
 それにこのままの体勢では、風呂上がりの先輩が色っぽ過ぎて理性が保てない。

 せめてキスくらいしてから退ければよかったと後悔しつつ、逃がさないため密着に近い状態で質問を開始した。

「先輩、親は?」
「母親がどっかにいる」
「どこに?」
「あの女の事なんて知らない」

 先輩はまた『あの女』と言った。
 多分母親の事なんだろうが、そんな呼ばわり方するだけに、酷い仕打ちをされていたのは確定だろう。

「で、母親はいつから居ない? 金くらい置いて出てってるんだろう?」
「もう二ヶ月は帰ってきてない。金は……、あったらこんな事にはなってないだろう?」

 苦笑する先輩を見てズキリと心が痛くなった。
 先輩が取立て屋に襲われたのも、飢えているのも金がないからって分かってた筈なのに、何で当たり前の事を聞いてしまったんだ。
  
「……ごめん。頭では分かってたのに」
「他に聞くことないなら、解放してくんない?」

 先輩の目は『お前もそういう風に思ってるんだな』と俺を拒絶する。
 もうこれ以上質問されたくない、と密着していた筈の身体をじりじりと距離を開け始める。

 それでも俺は質問を止める事は出来なかった。
 質問して、何が先輩をこんな状況にしているか知らなければ、先輩も俺も救われないと思ったからだ。
 こんなおかしな生活から抜け出せず死にかかっている先輩と、こんな先輩を見てしまい恋とは違う苦しみを勝手に背負ってしまった俺を救うために。

 開けられた距離をまた詰め寄り、逃げられないように先輩の手を強く握って質問を続けた。

「食べてないのは二ヶ月前から?」
「……も少しあと。最初は少し食べれてた」
「食べれてたってことは、受けつけなくなった……って事で間違いない?」

 躊躇いつつも先輩はこくん、と頷いて口をぎゅっと結んだ。
  
 予想したとおり先輩の拒食症は心因性のものだ。
 原因は十中八九『あの女』と呼ばれる母親。

「先輩、父親は?」
「もともと居ない」
「母親に連絡取れない……よな。取れてたらあんなチンピラに襲われてないもんなぁ」

 母親に何されたか聞いても大丈夫かな? と先輩の顔を見ると、さっきよりも顔色が悪く、握った手が細かく震えていた。

「先輩!?」
「かあ、さんは……連絡、しちゃ、だ……めって。そんな、悪……い子、イラナイ……」
「先輩! 先輩! おかあさんに連絡はしてないよ! 悪い子じゃないよ!」

 握られていない手で頭を抱え、何かに怯えるようにガタガタと震える先輩を抱きしめ、落ち着かせようと言葉を掛ける。
 幼い子に戻ったような先輩は俺に叩かれるとでも思ったのか、『ごめんなさい』と繰り返して頭を振り乱し始めた。
 時間的にももうすぐ咲さんが戻ってくる可能性はある。

(こんな方法しか浮かばない……!)

 頭を抱えた手を引き剥がし、強引に上を向かせる。

「!!」

 ショック療法として俺は先輩にキスをした。
 強く押し当て舌を絡めたディープキスは、錯乱した先輩の動きを止めた。
 何をされたか理解できずに止まった動きは、それがキスだと分かったとたん俺から離れようと掴まれた腕を強く引いた。
 しかし暫く何も食べていな先輩には俺を振り解くほどの力はなく、キスから逃れることは出来なかった。

 諦めたのかキスに慣れて気持ちよくなってきたのか、逃れようと込めていた力が抜け、成すがままキスをされるようになっていた。
 うっすらと目を開けて先輩の様子を伺うと、かなり悪くなった顔色にほんのり赤みがさし、嫌がっている様子はまるでなかった。

 もっと攻めたキスをしても大丈夫なんじゃないかと、掴んだ手を腰に回そうとした時、咲さんは帰ってきた。
 玄関の開く音で気付いて慌てて先輩から身を離し、隣に座っていたフリをした。

「ごめんなさいね、遅くなってしまって。お友達でも食べられるものないか考えてたら、こんな時間になっていたのね」
「おかえりなさい咲さん。ありがとうね」

 買い物袋を見ると、魚や卵・野菜などが結構な量で入っていた。

「重かったでしょう。電話で呼んでくれたら迎えにいったのに」
「そんな、ぼっちゃんに荷物持ちなんてさせたら奥様に怒られてしまいますわ」
「言わなきゃ分からないのに。律儀だね、咲さんは」

 冷蔵庫に今使わないものを仕舞うのを手伝いながら話していると、居間で平然を装っている先輩の方を見た咲さんが聞いてきた。

「お友達、本当は胃腸炎なんかじゃないんでしょう?」
「え!?」
「ぼっちゃんが隠したいのは分かりますが、年寄りの目は誤魔化せませんよ」

 冷蔵庫に仕舞い終わった咲さんは、買ってきた魚をまな板に乗せて下処理を始めた。
 手は淡々と動いているが、表情は悲しいとも怒ってるともいえない複雑そうな顔をしていた。

「テレビとかでも何回かやってましたし、実際、昔勤めていた会社にもいたんですよ。似たような方が」
「咲さん、会社務めしてたんだ」
「まだ主人と結婚する前の話ですけどね」

 寂しそうな笑顔を浮かべたのは亡くなったご主人を思い出したからなんだろうか。
 そんな話をしながらでも手を止めずに魚を鍋に移し、調味料を入れていく。
 もう咲さんにとっては料理は身に染みた行動の一つなんだろう。昔話を思い出しながらでも迷うことなく作業を進めている。

「今でいうとパワハラって言うんですかね? 当時は女が仕事ができるのなんて生意気でしかなかったんですよね」

 咲さんの同僚はかなり有能だったらしいが、上司がそれを気に入らなかったためにいじめられていたそうだ。
 ミスのなすり付け、仕事の押し付け、身に覚えのないことでの中傷誹謗。
 いくら上司に止めて欲しいと訴えたところで、聞き入れてもらえるわけはない。

 結果として同僚は病んでしまった。
 食事の時間まで上司に邪魔されて嫌がらせを受けていたせいで、食事をする度に上司の罵りが聞こえてきて怖くなったと言っていたそうだ。

「何度も会社を辞めて田舎の両親の元に戻りなさいって言っても、彼女にはその言葉すら届いていなかったのよね」

 咲さんが悪いわけではないのに、『私がもっと助けになれれば』と悔し気に呟いた。

「それでその方は今……」
「亡くなったわ。随分前に」
「それって……」
「ええ……」

 最後までは言わなかったが、多分自死してしまったのだろう。
 今のようにそういった病院が当たり前であった時代でもないし、法律で保護されていた訳でもない。
 彼女に残された、最終手段だったのだろう。

「彼女が食事を食べようとするたびに苦しんでいるのを何度も見てきたわ。だから、お友達が心が苦しくてそういう状態になってしまったのが分かったんですよ」

 同僚と重なって見えるのか、咲さんの先輩を見る目はとても悲し気だ。

「私ではお友達の助けになれるのはこれくらいですけどね」

 そういう咲さんの手元には、いつの間にか出来上がっていた食事が盛り付けられていた。
 温かい湯気を立ち昇らせる味噌汁や、煮魚、そして彩の鮮やかなお浸しはまさに『温かい家庭』を現わしているようだった。

 二人分しかない食事に疑問を思っていると、小さな土鍋が現れた。

「普通の食事だとまだ消化出来ないですし、これだったら食べられるかと思いましてね」

 土鍋の蓋を取って覗くと、中にはクリーム色のお粥がいい匂いをさせて沸々と表面を躍らせていた。

「あ! 卵粥! 俺も食べたい!」
「少し多く作ってありますから、お友達に『分けて下さい』ってお願いしてみたらいかがですか? さぁ、運ぶの手伝っていただけますか? お友達も待っていらっしゃいますよ」

 悲しい思いでをしまい込み、いつもと変わらない笑顔で咲さんは配膳を頼んできた。

 咲さんは俺にも先輩にも変わりなく親切にしてくれる。
 それは同僚をパワハラのあげく摂食障害を患わせて亡くしてしまった思いや、子供をなすことが出来ないままにご主人を亡くしてしまった事があったからなんだろうか。
 俺だったら、家族のためにはそんなに出来ないし、そこまで優しくしたいと思える人間なんていない。

 いるとしたら咲さんと、先輩くらいだろう。

 咲さんの思いの込められた食事は、母親の幻影に怯えていた先輩の表情を和らげてくれた。
 温かい食事の匂いと湯気と、そして温かい咲さんの笑顔が、ほんの少し先輩を安心させてくれていた。

「せーんぱいっ! お粥、俺にも半分下さい!」
「ぼっちゃん! 半分も持っていったら、お友達の食べる分なくなるでしょう!」
「だってすごく美味そうなんだもう。いや、美味いの知ってるし」

 二人でわーわーしているのを見て、先輩も少し笑った。
 これだけなのに何かすごく嬉しくなる。

 お母さんがいて、兄さんがいて、みんな笑って食卓に着いて……。
 これが本当の家族だったら、なんて妄想を抱いてしまう俺もきっと病んでるんだろう。

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