偏食な子犬拾いました
咲さんの思い出の味①
『明日は休みだから』
耳元で囁いた大樹は、そんな前置きと共に遠慮のない攻撃を喰らわせてきた。
たっぷりじっくりと時間を掛けての愛撫……ではなく、ピンポイント愛撫による前戯からの俺の体力と精力を根こそぎ奪うようなフルコース。
それでいて大樹は『まだ俺は足りない』とさらに二回。
終わった頃にはすっかり意識も飛んで、気を失ってしまったのか、そのまま疲れて寝てしまったのか憶えていない。
そんな俺を置いてベッドを抜け出してポチとあれこれ話していたなんてことは、後で大樹から聞くまで全然知らなかった。
「待たせたな」
俺は香西を計画的に疲れさせ、眠った(多分気を失ったんだと思うが)のを確認してポチのいる寝室に入っていった。
ずいぶん待たせてしまったのもあるが、ポチはスマホで何かの動画を視ながら半分眠っていた。
俺が軽く肩を叩いて声を掛けると、思いっ切りびっくりして跳ね起きた。
「ぅわああ! って大樹さんか。すいません寝ちゃってました」
「いや、こっちも予定より長引いてな。なかなか香西が降参してくれないもので」
そう言ってポチの隣に座ると、ポチは俺をじっと見て顔を赤らめる。
「どうしたポチ?」
「いや、あの、その……。色々と色っぽいなぁ、と」
その意味を分かり兼ねてクローゼットの鏡を見ると、ああ成る程と納得した。
行為の後そのまま来たものだから、汗で濡れた髪をバックに流し、香西が興奮した時に付けたであろう引掻いた痕やキスマークやらがハッキリくっきり浮かんでいる裸の上半身、ほんのり上気した顔、探すのが面倒だったから置いてきてしまったので眼鏡なしの素顔。
これがポチには『色っぽい』と見えたらしい。
多分本心は『エロい』か『いやらしい』あたりだろうが、最近のポチはお利口さんになってきたので俺に対してあまり不躾な発言をしなくなってきた。
つまらなくなってしまったが、まだまだ弄る要素はいっぱいあるので問題はないが。
「今度ポチも色っぽくしてやろうか?」
「いえいえいえ! 遠慮させてもらいます!」
こういうムキになるところが面白くて、ついからかってしまう。
「それより話って何ですか? 香西さんがいるところではマズイんですか?」
「マズイ……。うーん、個人情報?  多分あいつ的にあんまり触れて欲しくない話?」
「それって僕が聞いたらいけない話なんじゃないですか?」
「それは俺がいいって言ってるからいいんだ。この家に居る以上は、予備知識として聞いてもらわなくてはいけないしな」
そうは言ったが、これは予備知識でも何でもない。
単なる俺のエゴ、都合でしかない。
あの日が近づいてきて、俺の心が苦しくてしかたがなくなってきている。
ポチに聞いてもらう事で、ポチがその事を心に刻む事で俺の心の負担を軽くしたかっただけだ。
俺が不幸にしたとも言えるのに、負担を軽くしたいとか言って、恋人なんて言える所為ではないのは分かっている。
これは懺悔だ。
あの頃の香西にどことなく似たポチに聞いてもらう事で、香西に許しを乞うているだけだ。
「ここだけの話として聞いてくれればいい。勿論香西にも秘密だ」
瓶のまま持ってきた甘味のない炭酸水をポチにも渡すと、ひと口飲んであの頃の思い出したくない記憶を語った。
まだ六月に入ったばかりだというのに、外気はかなり不快なものになっていた。
昨夜も雨が降っていたのだろう。
どんよりとした朝の天気が余計に湿気を感じさせるものになっていた。
ただでさえ学校に行くのが面倒なのに、さらに行く気をなくさせる。
(サボるか……)
家を出て駅に向かってはいたものの、学校へ行く気は完全に失せていた。
引き返して家に帰ると家の者や家政婦に見つかるので、勿論このまま家へは戻らない。
大抵サボる時は言い寄ってくる女のアパートか、街中をブラブラするか、着替えてカフェで時間を潰すかになる。
生憎今日は誰からも連絡が入っていない。
街中をブラブラするにもこんな湿気の中を歩く気にはなれない。
消去法でカフェで時間を潰すしかないとなったが、それにはまず着替えなくてはいけない。
でも着替える場所は探さなくてもちゃんとある。
「おはよう、咲さん」
駅から少し入ったところにある古い住宅街。
俺の家に少し前まで家政婦として勤めていた初老の女性の家がそこにあり、俺はあれこれと私物を置かせて貰っている。
「おはようございます、ぼっちゃん」
「もうぼっちゃんは止めてくれよ。咲さんは家政婦辞めてるんだし」
「いえいえ、こうして面倒をみさせていただいている間はそう呼ばせていただきますよ。それに、長年呼び慣れてるので今更変えろと言われても、年寄りには難しい問題ですよ」
そう言って咲さんは俺の鞄を受け取り、大事な物でも仕舞うようにそっとタンスの引き出しに鞄を入れた。
別に出したままでもいい、と以前咲さんに言ったのだが、不用心に出したままで何か無くなってからでは遅いからと言ってきかなかった。
サボるための私服も何もかも、亡くなったご主人の洋服ダンスにキチンとかけていてくれる。
「咲さんはサボりを容認してくれるんだね」
「そりゃ褒められたものではありませんが、たまに息抜きしないとぼっちゃんも大変ですからねぇ」
「咲さんは頭が柔らかくて助かるよ。一人暮らしするようになったら、俺の家政婦として来てもらいたいよ」
「それは嬉しいですねぇ。もう私なんてかなりの老婆ですから、ぼっちゃんが卒業される頃にはヨボヨボでお役に立てないかもしれないですよ」
「咲さんに限ってそんなことはないよ」
初老とはいえまだ咲さんは六十ちょっとくらいだった気がした。
俺がまだ高校一年なので、三年経っても七十までいかない。
それに咲さんは家政婦を辞めたのも、ちょっと足を悪くして広い家の中の掃除が行き届かないという理由で自主的に辞めただけだ。
家の誰かから咲さんの仕事についてクレームがあった訳ではない。
「そうそう、ぼっちゃん。この先のアパートの方へは行っちゃダメですよ。最近ガラの悪い連中が出入りしてるみたいですし、時々怒鳴り声とか物が割れる音がしてるって話ですから」
「へー、今どきそんなのがいるんだ。昔むかしの事だけだと思ってたよ」
「ぼっちゃんは興味本位で見に行きたがりますから、くれぐれも行かないでくださいよ?」
「分かったよ。いう事聞かないでここ追い出されたら、俺、行くとこ無くなっちゃうし」
そんな冗談を話しながら着替え終えた俺は、咲さんに夕方前には戻ると伝えて家を出た。
いつものようにチェーン店のカフェで、勉強をしている大学生を装い午前中いっぱい時間を潰し、午後はまた別なカフェで音楽を聴いたり本を読んだりして時間を過ごした。
夕方より少し早い時間ではあったが、カフェが混みだしたので席を占領することに躊躇いを憶えて店を出た。
咲さんの家に戻る途中、この住宅街には不釣り合いな黒塗りの車が脇を通り抜けていった。
この先にあるのは件のアパート。
行ってはいけないと釘を刺されてはいたものの、古き良き時代の遺物のような連中が実際どんなものなのか見てみたいという好奇心には勝てなかった。
『見た』ということを咲さんに言わなければバレないと、そこの住人であるかのような素振りでアパートへと向かった。
「おい! 黙ってないで居場所吐けや! 知ってるんだろうが!」
「いくら貸したと思ってるんだ! 言わなきゃ身体バラバラにして売りさばくぞコラぁ!」
一階のどこかの部屋なのだろう、道路にまで怒声が響き聞こえてくる。
あまりに昔の映画やドラマのチンピラを模写したようなセリフに思わず吹き出してしまった。
しかし、そんなベタな脅しをするような金貸しに借りるやつはどんな人間なのか、ますます興味を持ってしまった。
チンピラ風情なやつも見てみたい。
足音を忍ばせ、怒声が聞こえてくる部屋を一戸ずつ確認しながら進んでいく。
古い住宅街だけあってアパートもかなり古く、一階の部屋四戸中、住んでいるのは一番手前の部屋と怒声のする奥の部屋だけだった。
「いつまで黙ってんだよ、このクソガキ! 何とか言ったらどうなんだ!」
怒声と共にガシャーンと何かが割れる音と重い物が倒れる音がした。
それでは済まず、続けざまに何かを蹴る音や物が壊れるバキバキといったような音が聞こえてくる。
しかし、『クソガキ』とチンピラは言っているが人が悲鳴を上げたり唸ったりしている声は一切しない。
誰かを誘き寄せる罠としてそんなセリフを吐き、物を壊しているのかと疑ってしまう。
でも本当に人がいるならば、あの破壊音からして無事でいる訳がない。
別に俺は正義感が強い訳でもないし、自業自得で招いた結果ならばなおさら介入する気はない。
普段なら『お気の毒』と、そのまま踵を返すところなのだが、どうも気になって仕方がなかった。
「ちょっとオジサン達、誰に断ってこんだけめちゃくちゃにしてるの? これって不法侵入と器物破損で通報できるって知ってた?」
驚かす目的はなかったが、ノックしたところで聞こえないだろうと勝手にドアを開けてチンピラ達の背後から声をかけてやった。
当然こんな怒声がする部屋に誰も来ないと思っていたチンピラは、飛び上がる程びっくりしていたが、ドアのところにいた俺が大人でもなく、ひ弱そうに見えるガキ(見た目より確かにガキなんだが)だったので直ぐに気を取り直して凄んできた。
「あぁん? てめぇどこのガキだ。関係ないやつは引っ込んでろ!」
「いえいえ、ここのアパートの住人なんで。あまりの怒声で近所迷惑なんですよ。あなた方、この部屋の住人に許可なく入った場合は不法侵入ですよ? あーあ、こんなに壊して」
狭い1Kの部屋は足の踏み場がないほどに、テーブルや食器棚が倒し破壊され、あちこちに食器や戸棚のガラスの破片が散らばっていた。
その食器棚の倒れた陰に、うずくまるように誰かがいた。
「どうも無許可っぽいですね。通報します」
ポケットからスマホを取り出し、電話を掛けようと画面をタッチする。
「んな事させるかよ! ガキが!」
チンピラの一人が俺めがけて拳を振り上げて突っ込んできた。
あまりにテンプレ過ぎて笑うというより呆れてしまったが、タッチする手をそのままチンピラの拳にスライドさせ、軽く捻って後ろに回してやった。
「いでででで! てめぇ何しやがる!」
「別に。不当に殴られるのは趣味じゃないんで、かわしただけですよ?」
性格に言えばかわしたというより、護身術的な事をしてやっただけなんだが。
一応攻撃系の技も使えるが、あんまり騒ぎを大きくしたくもなかったので使わなかった。
でもチンピラは所詮チンピラ。護身術なんてものだとは理解していない。
相手の力を利用して相手に返されてるなんて事を知りもしない。
案の定、二人のチンピラは同時に俺に向かって襲い掛かってきた。
「あんた達、バカ?」
こんなことで時間を取られるのも、怪我をするのも馬鹿馬鹿しい。
面倒臭さが騒ぎが大きくなるかもという心配よりも大きく締めた。
「これで懲りたらもう来ないで。懲りないなら、もっと話の分かる偉い人連れてきて。あんた達じゃまともな話聞けそうにないから」
学習しない馬鹿の腕を掴み捻りあげ、そのまま床へ投げ捨てる。
もう一人の馬鹿は鳩尾へ一発喰らわせてから、肩を掴んでちょっと脱臼させてあげておいた。
「お、お、憶えてろよ!」
どこまでも昔懐かしのドラマを再現してくれるチンピラ。
これが実は誰かが仕組んだドッキリでした、と言われたら多分信じる。
「大丈夫だったか?」
食器棚の陰でうずくまり動かないこの家の住人と思われる誰かに声を掛けた。
しかし誰かはチンピラが去ったというのに、一向に動こうとはせず生きているのかすら疑わしくさえ思えてきた。
もしかしたら怪我をしていて動けない?
そんな予感さえして俺はガラスで手を切らないように気を付けながら食器棚を動かし、動かない誰かの生存を確認した。
「あ、れ……?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまったのは、誰かが死んでいなかったからとかではなかった。
見知った顔、俺が密かに恋していた先輩だったからだ。
「センパイ? 香西先輩ですよね? ここ、先輩の家……?」
俺の問いかけに香西先輩はノロノロと顔を上げてこちらを見た。
「……誰?」
そりゃそうだ。こっちが一方的に恋い焦がれて知ってるだけで、相手が俺を知ってる確率なんて数百分の一にしか過ぎないのだから。
相手が俺と同じように、恋い焦がれて知っていれば別なのだけれども。
「ああ、すいません。こっちが一方的に知ってるだけなんで、知らないの当たり前です。同じ学校の後輩です」
「……その後輩が何の用? 用がないなら帰れ」
プイ、と香西先輩は再び食器棚の隅を向いて踞ってしまった。
好奇心でここに来ただけで、別に用がある訳でもないのは当たり前なんだが、全然接点がなく話せなかったのに降って湧いたチャンスを放っておいて帰る手はない。
「用はあります。先輩、お腹空いてません? 俺、少し先輩と話したいんで、空いてなくても一緒に来てください」
自分でも言ってる事がおかしいのは分かっている。
用事がお腹空いてるかって何なんだって。
しかも空いてなくても来てって、最初から話したいから来てくれでいいじゃんって思う。
でも恋い焦がれた人と初めて話すのって、緊張するものなんだっていうのは初めて実感した。
人前で緊張するとか、そもそも人に恋するなんて経験は先輩が最初なんだから。
さすがに香西先輩は俺を胡散臭そうに見て動こうとはしなかった。
突然家に入ってきて、チンピラ投げ飛ばして、ご飯食べに来てって言う人間なんて怪しい以外の何者でもないからな。
俺は親父や祖父の教えの『チャンスは逃すな』という家訓が嫌という程身に付いてしまっている。
ここで『はいそうですか』と帰るのは許されないと変な危機感が働き、無意識に先輩の腕を掴んで引っ張っていた。
「いいから来る!」
強引とも言える俺の行動に呆気に取られながら、先輩は俺に引っ張られながらアパートを後にさせられた。
「ぼっちゃん、その方は? まあまあ、随分汚してしまったのね。あら!? 怪我まで!」
咲さんの家に先輩を連れて行くと、咲さんは訝しがる事なく普通に先輩を迎え入れてくれた。
そしてチンピラにやられたにしては汚れ過ぎている服や顔、俺も気づかなかった怪我を見つけるや、素早く手当をして風呂場に追いやった。
「そのままでは気持ち悪いでしょう? お風呂入ってらっしゃい。他に怪我があったら仰ってくださいね」
先輩は咲さんに追いやられるまま風呂に入り、その間俺は咲さんから事情聴取をされた。
「ぼっちゃん、あの方はどうなさったのですか? 随分怪我されてましたし、着替えも入浴も長い間されてない様子でした。もしかしたら食事も……」
「咲さんの言う通り、着替えも食事もしてないと思う。実はあのアパートから救出してきたんだ」
「ぼっちゃん! あれほど近づいてはいけないと!」
「そこは謝る。でも俺が好奇心で行かなければ、彼は数日のうちに死体になって発見されてたと思うよ?」
言い訳のようだが、実際あのチンピラならそうする可能性だってあるし、チンピラがそうしなくても状況からして餓死していた可能性だって否めない。
「ぼっちゃんはあの方のお知り合いなんですか?」
「一方的な知り合いだよ。片想い」
しれっと咲さんに僕の初恋を告白したが、さすがは長年俺の面倒を看ていてくれただけあり、驚きも何もしなかった。
普通に嬉しそうにしている。
「ぼっちゃんも他人に興味を持てたんですねぇ。想いが通じるといいですね」
「咲さん、あの人男だって認識してるよね?」
「はい」
同性愛を容認しているのか? と少し悩んでいると先輩が風呂から上がってきた。
俺より少し背が高いが、俺のここに置いている私服を着替えにして貰った。
予想以上に俺の服の幅ではブカブカだった。
「ちゃんと温まった? 他に怪我はなかった?」
台所にいた咲さんは先輩が上がってきたのを確認すると、本当の祖母のようにあれこれ心配し世話を焼いた。
きちんと拭かれていない髪を持ってきた新しいタオルで拭き直し、ブカブカの服を捲っては体中の怪我を確認した。
「さあさあ座って。お腹空いたでしょう」
咲さんは先輩を居間にあるちゃぶ台の前に座らせて、自分はせかせかと台所へと戻っていく。
先輩も俺に最初見せたような抵抗や拒否するような言動もなく、咲さんの言う通りに大人しく座っていた。
「ごめんなさいね、まだ買い物に行ってなかったから、こんなものしか出せなくって」
そう言って持ってきたのは、炊き立てのご飯で作られたおむすびと味噌汁、そして咲さんが毎日丹精込めて世話をしているぬか漬けだった。
「あー! 咲さん、俺の分は!?」
「分かってますよ。ちゃんとぼっちゃんの分も用意してあります」
俺も咲さんが出してくれると分かっていて言っているが、咲さんもわざと俺が言うのを知っている。
自宅ではこんなやりとりをやってくれる相手もいなければ、この手の冗談が通じないのを咲さんは知っているから相手をしてくれている。
「足りなければまた握りますからね。いっぱいお食べなさいな」
俺の分のおにぎりと味噌汁を運んできて、咲さんはニコニコと先輩に言ってくれた。
先輩はちょっとだけ咲さんの方を見て頷くと、小さく「いただきます」と言っておむすびに口をつけた。
が……
「!!」
ひと口食べた先輩は手を口に当てて立ち上がり、洗面所へ走り込んだ。
俺と咲さんは何事かと驚いた。
咲さんは出したおむすびに何か変な物が入っていたのかと心配し、先輩の食べかけたおむすびを拾い上げて調べていたが、俺は少々思い当たる節があったので、先輩の元へと行った。
「先輩、いつから食べてないんですか? いつから、親がいないんですか?」
耳元で囁いた大樹は、そんな前置きと共に遠慮のない攻撃を喰らわせてきた。
たっぷりじっくりと時間を掛けての愛撫……ではなく、ピンポイント愛撫による前戯からの俺の体力と精力を根こそぎ奪うようなフルコース。
それでいて大樹は『まだ俺は足りない』とさらに二回。
終わった頃にはすっかり意識も飛んで、気を失ってしまったのか、そのまま疲れて寝てしまったのか憶えていない。
そんな俺を置いてベッドを抜け出してポチとあれこれ話していたなんてことは、後で大樹から聞くまで全然知らなかった。
「待たせたな」
俺は香西を計画的に疲れさせ、眠った(多分気を失ったんだと思うが)のを確認してポチのいる寝室に入っていった。
ずいぶん待たせてしまったのもあるが、ポチはスマホで何かの動画を視ながら半分眠っていた。
俺が軽く肩を叩いて声を掛けると、思いっ切りびっくりして跳ね起きた。
「ぅわああ! って大樹さんか。すいません寝ちゃってました」
「いや、こっちも予定より長引いてな。なかなか香西が降参してくれないもので」
そう言ってポチの隣に座ると、ポチは俺をじっと見て顔を赤らめる。
「どうしたポチ?」
「いや、あの、その……。色々と色っぽいなぁ、と」
その意味を分かり兼ねてクローゼットの鏡を見ると、ああ成る程と納得した。
行為の後そのまま来たものだから、汗で濡れた髪をバックに流し、香西が興奮した時に付けたであろう引掻いた痕やキスマークやらがハッキリくっきり浮かんでいる裸の上半身、ほんのり上気した顔、探すのが面倒だったから置いてきてしまったので眼鏡なしの素顔。
これがポチには『色っぽい』と見えたらしい。
多分本心は『エロい』か『いやらしい』あたりだろうが、最近のポチはお利口さんになってきたので俺に対してあまり不躾な発言をしなくなってきた。
つまらなくなってしまったが、まだまだ弄る要素はいっぱいあるので問題はないが。
「今度ポチも色っぽくしてやろうか?」
「いえいえいえ! 遠慮させてもらいます!」
こういうムキになるところが面白くて、ついからかってしまう。
「それより話って何ですか? 香西さんがいるところではマズイんですか?」
「マズイ……。うーん、個人情報?  多分あいつ的にあんまり触れて欲しくない話?」
「それって僕が聞いたらいけない話なんじゃないですか?」
「それは俺がいいって言ってるからいいんだ。この家に居る以上は、予備知識として聞いてもらわなくてはいけないしな」
そうは言ったが、これは予備知識でも何でもない。
単なる俺のエゴ、都合でしかない。
あの日が近づいてきて、俺の心が苦しくてしかたがなくなってきている。
ポチに聞いてもらう事で、ポチがその事を心に刻む事で俺の心の負担を軽くしたかっただけだ。
俺が不幸にしたとも言えるのに、負担を軽くしたいとか言って、恋人なんて言える所為ではないのは分かっている。
これは懺悔だ。
あの頃の香西にどことなく似たポチに聞いてもらう事で、香西に許しを乞うているだけだ。
「ここだけの話として聞いてくれればいい。勿論香西にも秘密だ」
瓶のまま持ってきた甘味のない炭酸水をポチにも渡すと、ひと口飲んであの頃の思い出したくない記憶を語った。
まだ六月に入ったばかりだというのに、外気はかなり不快なものになっていた。
昨夜も雨が降っていたのだろう。
どんよりとした朝の天気が余計に湿気を感じさせるものになっていた。
ただでさえ学校に行くのが面倒なのに、さらに行く気をなくさせる。
(サボるか……)
家を出て駅に向かってはいたものの、学校へ行く気は完全に失せていた。
引き返して家に帰ると家の者や家政婦に見つかるので、勿論このまま家へは戻らない。
大抵サボる時は言い寄ってくる女のアパートか、街中をブラブラするか、着替えてカフェで時間を潰すかになる。
生憎今日は誰からも連絡が入っていない。
街中をブラブラするにもこんな湿気の中を歩く気にはなれない。
消去法でカフェで時間を潰すしかないとなったが、それにはまず着替えなくてはいけない。
でも着替える場所は探さなくてもちゃんとある。
「おはよう、咲さん」
駅から少し入ったところにある古い住宅街。
俺の家に少し前まで家政婦として勤めていた初老の女性の家がそこにあり、俺はあれこれと私物を置かせて貰っている。
「おはようございます、ぼっちゃん」
「もうぼっちゃんは止めてくれよ。咲さんは家政婦辞めてるんだし」
「いえいえ、こうして面倒をみさせていただいている間はそう呼ばせていただきますよ。それに、長年呼び慣れてるので今更変えろと言われても、年寄りには難しい問題ですよ」
そう言って咲さんは俺の鞄を受け取り、大事な物でも仕舞うようにそっとタンスの引き出しに鞄を入れた。
別に出したままでもいい、と以前咲さんに言ったのだが、不用心に出したままで何か無くなってからでは遅いからと言ってきかなかった。
サボるための私服も何もかも、亡くなったご主人の洋服ダンスにキチンとかけていてくれる。
「咲さんはサボりを容認してくれるんだね」
「そりゃ褒められたものではありませんが、たまに息抜きしないとぼっちゃんも大変ですからねぇ」
「咲さんは頭が柔らかくて助かるよ。一人暮らしするようになったら、俺の家政婦として来てもらいたいよ」
「それは嬉しいですねぇ。もう私なんてかなりの老婆ですから、ぼっちゃんが卒業される頃にはヨボヨボでお役に立てないかもしれないですよ」
「咲さんに限ってそんなことはないよ」
初老とはいえまだ咲さんは六十ちょっとくらいだった気がした。
俺がまだ高校一年なので、三年経っても七十までいかない。
それに咲さんは家政婦を辞めたのも、ちょっと足を悪くして広い家の中の掃除が行き届かないという理由で自主的に辞めただけだ。
家の誰かから咲さんの仕事についてクレームがあった訳ではない。
「そうそう、ぼっちゃん。この先のアパートの方へは行っちゃダメですよ。最近ガラの悪い連中が出入りしてるみたいですし、時々怒鳴り声とか物が割れる音がしてるって話ですから」
「へー、今どきそんなのがいるんだ。昔むかしの事だけだと思ってたよ」
「ぼっちゃんは興味本位で見に行きたがりますから、くれぐれも行かないでくださいよ?」
「分かったよ。いう事聞かないでここ追い出されたら、俺、行くとこ無くなっちゃうし」
そんな冗談を話しながら着替え終えた俺は、咲さんに夕方前には戻ると伝えて家を出た。
いつものようにチェーン店のカフェで、勉強をしている大学生を装い午前中いっぱい時間を潰し、午後はまた別なカフェで音楽を聴いたり本を読んだりして時間を過ごした。
夕方より少し早い時間ではあったが、カフェが混みだしたので席を占領することに躊躇いを憶えて店を出た。
咲さんの家に戻る途中、この住宅街には不釣り合いな黒塗りの車が脇を通り抜けていった。
この先にあるのは件のアパート。
行ってはいけないと釘を刺されてはいたものの、古き良き時代の遺物のような連中が実際どんなものなのか見てみたいという好奇心には勝てなかった。
『見た』ということを咲さんに言わなければバレないと、そこの住人であるかのような素振りでアパートへと向かった。
「おい! 黙ってないで居場所吐けや! 知ってるんだろうが!」
「いくら貸したと思ってるんだ! 言わなきゃ身体バラバラにして売りさばくぞコラぁ!」
一階のどこかの部屋なのだろう、道路にまで怒声が響き聞こえてくる。
あまりに昔の映画やドラマのチンピラを模写したようなセリフに思わず吹き出してしまった。
しかし、そんなベタな脅しをするような金貸しに借りるやつはどんな人間なのか、ますます興味を持ってしまった。
チンピラ風情なやつも見てみたい。
足音を忍ばせ、怒声が聞こえてくる部屋を一戸ずつ確認しながら進んでいく。
古い住宅街だけあってアパートもかなり古く、一階の部屋四戸中、住んでいるのは一番手前の部屋と怒声のする奥の部屋だけだった。
「いつまで黙ってんだよ、このクソガキ! 何とか言ったらどうなんだ!」
怒声と共にガシャーンと何かが割れる音と重い物が倒れる音がした。
それでは済まず、続けざまに何かを蹴る音や物が壊れるバキバキといったような音が聞こえてくる。
しかし、『クソガキ』とチンピラは言っているが人が悲鳴を上げたり唸ったりしている声は一切しない。
誰かを誘き寄せる罠としてそんなセリフを吐き、物を壊しているのかと疑ってしまう。
でも本当に人がいるならば、あの破壊音からして無事でいる訳がない。
別に俺は正義感が強い訳でもないし、自業自得で招いた結果ならばなおさら介入する気はない。
普段なら『お気の毒』と、そのまま踵を返すところなのだが、どうも気になって仕方がなかった。
「ちょっとオジサン達、誰に断ってこんだけめちゃくちゃにしてるの? これって不法侵入と器物破損で通報できるって知ってた?」
驚かす目的はなかったが、ノックしたところで聞こえないだろうと勝手にドアを開けてチンピラ達の背後から声をかけてやった。
当然こんな怒声がする部屋に誰も来ないと思っていたチンピラは、飛び上がる程びっくりしていたが、ドアのところにいた俺が大人でもなく、ひ弱そうに見えるガキ(見た目より確かにガキなんだが)だったので直ぐに気を取り直して凄んできた。
「あぁん? てめぇどこのガキだ。関係ないやつは引っ込んでろ!」
「いえいえ、ここのアパートの住人なんで。あまりの怒声で近所迷惑なんですよ。あなた方、この部屋の住人に許可なく入った場合は不法侵入ですよ? あーあ、こんなに壊して」
狭い1Kの部屋は足の踏み場がないほどに、テーブルや食器棚が倒し破壊され、あちこちに食器や戸棚のガラスの破片が散らばっていた。
その食器棚の倒れた陰に、うずくまるように誰かがいた。
「どうも無許可っぽいですね。通報します」
ポケットからスマホを取り出し、電話を掛けようと画面をタッチする。
「んな事させるかよ! ガキが!」
チンピラの一人が俺めがけて拳を振り上げて突っ込んできた。
あまりにテンプレ過ぎて笑うというより呆れてしまったが、タッチする手をそのままチンピラの拳にスライドさせ、軽く捻って後ろに回してやった。
「いでででで! てめぇ何しやがる!」
「別に。不当に殴られるのは趣味じゃないんで、かわしただけですよ?」
性格に言えばかわしたというより、護身術的な事をしてやっただけなんだが。
一応攻撃系の技も使えるが、あんまり騒ぎを大きくしたくもなかったので使わなかった。
でもチンピラは所詮チンピラ。護身術なんてものだとは理解していない。
相手の力を利用して相手に返されてるなんて事を知りもしない。
案の定、二人のチンピラは同時に俺に向かって襲い掛かってきた。
「あんた達、バカ?」
こんなことで時間を取られるのも、怪我をするのも馬鹿馬鹿しい。
面倒臭さが騒ぎが大きくなるかもという心配よりも大きく締めた。
「これで懲りたらもう来ないで。懲りないなら、もっと話の分かる偉い人連れてきて。あんた達じゃまともな話聞けそうにないから」
学習しない馬鹿の腕を掴み捻りあげ、そのまま床へ投げ捨てる。
もう一人の馬鹿は鳩尾へ一発喰らわせてから、肩を掴んでちょっと脱臼させてあげておいた。
「お、お、憶えてろよ!」
どこまでも昔懐かしのドラマを再現してくれるチンピラ。
これが実は誰かが仕組んだドッキリでした、と言われたら多分信じる。
「大丈夫だったか?」
食器棚の陰でうずくまり動かないこの家の住人と思われる誰かに声を掛けた。
しかし誰かはチンピラが去ったというのに、一向に動こうとはせず生きているのかすら疑わしくさえ思えてきた。
もしかしたら怪我をしていて動けない?
そんな予感さえして俺はガラスで手を切らないように気を付けながら食器棚を動かし、動かない誰かの生存を確認した。
「あ、れ……?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまったのは、誰かが死んでいなかったからとかではなかった。
見知った顔、俺が密かに恋していた先輩だったからだ。
「センパイ? 香西先輩ですよね? ここ、先輩の家……?」
俺の問いかけに香西先輩はノロノロと顔を上げてこちらを見た。
「……誰?」
そりゃそうだ。こっちが一方的に恋い焦がれて知ってるだけで、相手が俺を知ってる確率なんて数百分の一にしか過ぎないのだから。
相手が俺と同じように、恋い焦がれて知っていれば別なのだけれども。
「ああ、すいません。こっちが一方的に知ってるだけなんで、知らないの当たり前です。同じ学校の後輩です」
「……その後輩が何の用? 用がないなら帰れ」
プイ、と香西先輩は再び食器棚の隅を向いて踞ってしまった。
好奇心でここに来ただけで、別に用がある訳でもないのは当たり前なんだが、全然接点がなく話せなかったのに降って湧いたチャンスを放っておいて帰る手はない。
「用はあります。先輩、お腹空いてません? 俺、少し先輩と話したいんで、空いてなくても一緒に来てください」
自分でも言ってる事がおかしいのは分かっている。
用事がお腹空いてるかって何なんだって。
しかも空いてなくても来てって、最初から話したいから来てくれでいいじゃんって思う。
でも恋い焦がれた人と初めて話すのって、緊張するものなんだっていうのは初めて実感した。
人前で緊張するとか、そもそも人に恋するなんて経験は先輩が最初なんだから。
さすがに香西先輩は俺を胡散臭そうに見て動こうとはしなかった。
突然家に入ってきて、チンピラ投げ飛ばして、ご飯食べに来てって言う人間なんて怪しい以外の何者でもないからな。
俺は親父や祖父の教えの『チャンスは逃すな』という家訓が嫌という程身に付いてしまっている。
ここで『はいそうですか』と帰るのは許されないと変な危機感が働き、無意識に先輩の腕を掴んで引っ張っていた。
「いいから来る!」
強引とも言える俺の行動に呆気に取られながら、先輩は俺に引っ張られながらアパートを後にさせられた。
「ぼっちゃん、その方は? まあまあ、随分汚してしまったのね。あら!? 怪我まで!」
咲さんの家に先輩を連れて行くと、咲さんは訝しがる事なく普通に先輩を迎え入れてくれた。
そしてチンピラにやられたにしては汚れ過ぎている服や顔、俺も気づかなかった怪我を見つけるや、素早く手当をして風呂場に追いやった。
「そのままでは気持ち悪いでしょう? お風呂入ってらっしゃい。他に怪我があったら仰ってくださいね」
先輩は咲さんに追いやられるまま風呂に入り、その間俺は咲さんから事情聴取をされた。
「ぼっちゃん、あの方はどうなさったのですか? 随分怪我されてましたし、着替えも入浴も長い間されてない様子でした。もしかしたら食事も……」
「咲さんの言う通り、着替えも食事もしてないと思う。実はあのアパートから救出してきたんだ」
「ぼっちゃん! あれほど近づいてはいけないと!」
「そこは謝る。でも俺が好奇心で行かなければ、彼は数日のうちに死体になって発見されてたと思うよ?」
言い訳のようだが、実際あのチンピラならそうする可能性だってあるし、チンピラがそうしなくても状況からして餓死していた可能性だって否めない。
「ぼっちゃんはあの方のお知り合いなんですか?」
「一方的な知り合いだよ。片想い」
しれっと咲さんに僕の初恋を告白したが、さすがは長年俺の面倒を看ていてくれただけあり、驚きも何もしなかった。
普通に嬉しそうにしている。
「ぼっちゃんも他人に興味を持てたんですねぇ。想いが通じるといいですね」
「咲さん、あの人男だって認識してるよね?」
「はい」
同性愛を容認しているのか? と少し悩んでいると先輩が風呂から上がってきた。
俺より少し背が高いが、俺のここに置いている私服を着替えにして貰った。
予想以上に俺の服の幅ではブカブカだった。
「ちゃんと温まった? 他に怪我はなかった?」
台所にいた咲さんは先輩が上がってきたのを確認すると、本当の祖母のようにあれこれ心配し世話を焼いた。
きちんと拭かれていない髪を持ってきた新しいタオルで拭き直し、ブカブカの服を捲っては体中の怪我を確認した。
「さあさあ座って。お腹空いたでしょう」
咲さんは先輩を居間にあるちゃぶ台の前に座らせて、自分はせかせかと台所へと戻っていく。
先輩も俺に最初見せたような抵抗や拒否するような言動もなく、咲さんの言う通りに大人しく座っていた。
「ごめんなさいね、まだ買い物に行ってなかったから、こんなものしか出せなくって」
そう言って持ってきたのは、炊き立てのご飯で作られたおむすびと味噌汁、そして咲さんが毎日丹精込めて世話をしているぬか漬けだった。
「あー! 咲さん、俺の分は!?」
「分かってますよ。ちゃんとぼっちゃんの分も用意してあります」
俺も咲さんが出してくれると分かっていて言っているが、咲さんもわざと俺が言うのを知っている。
自宅ではこんなやりとりをやってくれる相手もいなければ、この手の冗談が通じないのを咲さんは知っているから相手をしてくれている。
「足りなければまた握りますからね。いっぱいお食べなさいな」
俺の分のおにぎりと味噌汁を運んできて、咲さんはニコニコと先輩に言ってくれた。
先輩はちょっとだけ咲さんの方を見て頷くと、小さく「いただきます」と言っておむすびに口をつけた。
が……
「!!」
ひと口食べた先輩は手を口に当てて立ち上がり、洗面所へ走り込んだ。
俺と咲さんは何事かと驚いた。
咲さんは出したおむすびに何か変な物が入っていたのかと心配し、先輩の食べかけたおむすびを拾い上げて調べていたが、俺は少々思い当たる節があったので、先輩の元へと行った。
「先輩、いつから食べてないんですか? いつから、親がいないんですか?」
コメント