きみのその手はやさしい手

芦屋めがね

第14話

 ──殺意を刃として形作り、相手に向けて放つ。

 言葉にしてみると『殺刃』の説明はそれだけで事足りる。トリックはない。暗器のような戦闘技術でもない。陳腐な表現ではあったが説明そのものに誇張を一切含んでもいない。文字通り、瞳子は無から刃を作り出し、俺に向けて放ったのだ。

 当真瞳子の瞳は言葉で意思を伝えるようにその視線だけで意思をこれ以上なく明確に伝える──殺意を。その視線殺意が使用者の象徴による最もわかりやすい形を持ち、視覚化された刃、それが『殺刃』だ。

 それは技という言葉では説明のつかない超能力・魔法と言われる領域。永き時に渡り時宮の地で集い、住まい、伝え、そして存在してきた“異能”。

 当真家は代々、その瞳になんらかの異能が発現する家系。生まれながらにして、異能の瞳を得た当真家の人間は名付けの際に目を意味する字を与えられ、同時に当真家を率いる立場が約束される。現代では直系の血筋ですらほとんどが異能を持たない中、本家の嫡子である当真瞳子が若くして当主候補の一人として将来を嘱望される立場にあるのも決して、不思議なことではない。

 見ると、瞳子の周りであぶり出しのように数十本もの刀が浮き出てくる。浮き出てきた刀が瞳子の狂気に呼応するように怪しくきらめく。ふと、観客席に目を向けると怒号が飛び交うほどの混乱だったはずなのに今は水を打ったように静まり返っている。

 俺や真田さんの場合はまだ誤魔化しようもあった。だが、瞳子の“それ”は見間違いかなにかで済ませられはしない。我先に逃げ出そうと暴動が起きてもおかしくないはずだが、その気配がないのは安易に逃走するリスクを判断する理性が働いたのか、それとも単に恐怖で竦み動けないのか。

「……」

 瞳子が俺を射殺さんとばかりに睨みつけてくる。それと同時に、瞳子の周りで浮いていた数十本の禍々しいほどに研ぎ澄まされた刃がこちらに向けられる──あちらさんの準備が完了したようだ。

 あんな状態の瞳子を相手に馴れない刀を持っていてもむしろ邪魔だ。そう判断した俺は『紅化粧』を丁重に地面へと置き、瞳子が拾えるようにその場から離れる。意図を察した瞳子は無言で『紅化粧』を手に取り、こちら側から刀が隠れるように半身に構える。当真流剣術が型の一つ、『月影』。

「……これでいい」

 第三者から見れば、俺の行動は敵に武器をただで返したバカにしか映らないだろう。だが、あの状態の瞳子が刀を持っても戦力は大して変わらない。危険であることには違いないが、それでも、瞳子の大切なものを蔑ろにしたくなかった。

 甘いのかもしれないが、これで俺は精神衛生的に引っかかりなく瞳子に挑める。お互い準備も覚悟も整った。そろそろ──

「──はじめますか」

 俺のその一言が合図のように瞳子の周りに漂っていた『殺刃』がこちらへと殺到する。瞳子の『殺刃』は自分の殺意を瞳(視──いや、"死"線か)を通じて相手に伝えることに特化した異能。そのが生み出した架空の刃は悪意や害意に弱い人の心と体をあっさりと切り裂くことができる。

 人は他者の何気ない一言でも傷ついてしまうほど、か弱く、デリケートな心を持つ。そんな存在である人間が視覚化させられるほどの殺意を喰らえばどうなるかなど、言わずもがなである。

 『目は口ほどにものを言う』なんて言うけれど、自分の殺意を視覚化させて伝えられるなんて無茶苦茶だ。物騒だが、これもある意味テレパシーと呼べるかもしれない。

 当然ながら下手な近代兵器よりも命中率は高く(その"死"線から外れない限り、いつかは確実に命中する)、数も御覧の通り俺を包囲してなお、余りある。

「うおっ……と」

 四方八方に飛んできた『殺刃』を死に物狂いでかわしていく。この広い講堂の中を縦横無尽に動く『殺刃』を止めるには大元の瞳子に喰らいつくしか手はない。しかし、

「……させない」

 瞳子もその数少ない選択肢を潰すべく『殺刃』を飛ばし、こちらの接近を許さない。

「だぁ! 危ねぇ!」

 間髪入れずに迫ってくる刃に思わずたじろぐ。くそ! こんな調子ではいくら近づこうとしても『殺刃』で動きを制限され、いつかはなぶり殺しの憂き目にあってしまう。

 そうこうしているうちにも次々と『殺刃』が飛んでくる。能力の性質上、中・遠距離は瞳子に絶対有利だ。そんな状況を打開するには今の俺の手持ちで一瞬でもいいから俺から狙いを逸らさないといけない。
 俺は牽制とばかりに『銭型兵器』(十円×十枚=百円分)で瞳子に向けて撃ち込んでいく。

「……無駄よ」

 牽制に放った『銭型兵器』(十円×十枚=百円分)が『殺刃』によってことごとく真っ二つにされていく。『殺刃』は瞳子の殺意の象徴――架空の刃だ。
 当たり前だが、こちらからの物理的な干渉を受けない。しかし、理不尽な話だがあちら側からは一方的に有機物・無機物に拘らず干渉することはできるのだ。ここまでくれば、もはや呪いだな。……だが!

「それはどうかな!」

 『銭型兵器』(十円×十枚=百円分)はあくまで牽制。ただ、『殺刃』の狙いをある程度でも逸らせればいい。その間に瞳子へと接近していく。瞳子もこっちの考えを読んだのか、『殺刃』の照準を俺に戻す。俺に近い位置にあった『殺刃』が何本か向かってくる。……これをかわすとその隙に瞳子に態勢を立て直される。真っ向から襲い来る殺意に向き直ると気を引き締め、『優しい手』を発動させる。

「はっ」

 構えた『優しい手』を向かってくる『殺刃』へと打ち込む。『殺刃』はこちら側の物理的な干渉を受けない架空の刃、普通のガードでは防御できない。しかし、瞳子の殺意に負けない心の強さを持って立ち向かえばある程度、ダメージを軽減することはできる。

 つまり、瞳子の"斬る"というイメージとこっちの"斬られていない"というイメージとの精神戦となる。特に『優しい手』は俺にとって、全てを守るという意思の象徴だ。『殺刃』の“斬る”というイメージを完全に"殺す"事ができる。

 『優しい手』に触れた『殺刃』がガラスの砕けるような音を立てて霧散していく。このまま瞳子に近づき、接近戦に持ち込んでしまえば勝機はある!

「……たしかに『優しい手』は触れたものをことごとく無力化させる最強の盾。私がいかに殺意をこめてもその手を斬り崩すことはできない──

 瞬間、悪寒が走る。悪寒の元は──地面?

「──その両手を塞いでしまえば問題はないのよ。優之助」

 遅れて目線を下に向けると『殺刃』が床から出現している。しつこいが『殺刃』は架空の刃。物理的な干渉を受けない。『殺刃』を床下に作り出し、待ち伏せさせていた? つまり、ここまでの流れは全部──

「──このための布石か!」

 駄目だ! 『優しい手』で割り込ませる余裕はない。まして『殺刃』をかわすことなど。

「っ!」

 冷たいものが腹を通るような感触、全身を駆け巡る悪寒と明確な殺意で磨かれた死の結晶。これら全てを振り払わなければ最悪、本当に死ぬ。だから、心から叫ぶ。斬られて──

「──ねぇよ!」

 相手のイメージを気力で振り払う。瞬間に上げた気勢が間に合い、被害は風邪の時に感じる悪寒程度(のようなもの)で済んだ。……危ないところだった。しかし、その隙に瞳子に態勢を立て直された。しかも、

「『殺刃』のダメージをそこまで軽減することができるなんて、たいした精神力ね。けれど……」

 いつのまにか、俺の周りに『殺刃』が取り囲む。さながら海のど真ん中で鮫に囲まれたようなシチュエーションだ。

「この状況……『優しい手』で防御を固めても、これだけの数の『殺刃』に囲まれてはいつまでも防ぎきることは不可能でしょう? ……どうする? 優之助ぇ~」

 優雅さと狂気が溶けたような声で瞳子が挑発する。絶対の優位からか嫌な笑みを浮かべる瞳子。だが、まだ打てる"手"はある! 狂気と殺意が入り乱れる中、指先に意識を集中させる。
「?」

 再び感じる空気の震えに怪訝そうな瞳子。

「……『制空圏』を展開し直した? でも、それになんの意味があるの? 『殺刃』は実体をもたない刃。『制空圏』では捉えきれないはずよ」

「……試してみるか?」

「……お望みどおりに」

 そのやりとりを引き金に、俺の周りを囲んでいた『殺刃』が前後上下左右、さらには緩急をつけて俺へと向かってくる。

 殺意で形作られた刃は瞳子の意思に応じ、その動きは不規則で数は視界に収まるだけでも十本以上。しかも物理的な制限がないため、互いの動きを阻害することなくこちらを追い詰めていく。しかし──

「(──切り抜けられる!)」

 逃げ場がなくなる前に『優しい手』で『殺刃』を迎撃する。数ある分だけ操作が困難なのか、たしかに太刀筋は不規則で一見、複雑そうだが、まるで素人が振り回しているように洗練されていない。迎え撃つのも、予測も可能だ。

 それでも、やはり数は力だ。あえて対処されるため『殺刃』を突っ込ませながら、こちらの不意を付こうといくつかの『殺刃』を死角へと移動させている。こちらは視界の外な上、目の前の『殺刃』への防御に忙しい。

 さっきも言ったが、いくら『優しい手』が触れただけで防げるといってもこれだけの数をいつまでも捌き続けるのは不可能。……ならば、かわすしかない。

「──まさか、『殺刃』の位置を『制空圏』で感知できるなんてね」

 呆れ気味に言う瞳子の目の前で殺陣やアクション映画のスタントのごとく全方向から飛んでくる『殺刃』をかわしていく。その台本通りに進行していく様は、全ての『殺刃』の動きを把握しているからできる芸当。つまり、『制空圏』が『殺刃』にも効果がある証拠でもある。

「『制空圏』を使えないおまえが知らなかったとしても無理はないさ。相手の視線や存在感っていうのはただの空気よりも“重い”んだ。だから、人は目で見えなくとも他者の気配を感じることができるし、相手の雰囲気の変化も感じ取ることができる。いくら実体を持たないといっても殺意のかたまりである『殺刃』は周りの空気より重いんだよ」

「『優しい手』は手に備わった超触覚を通じて周囲万物にシンクロすることができる能力。他者とは別の視点から実体をもたない『殺刃』を感知するのも不可能ではないということか……」

 絶対の状況下での攻撃を防がれたにもかかわらず、瞳子に焦りは見受けられない。『制空圏』を使用すれば『殺刃』を掻い潜り、瞳子の元へと近づくのはそう難しいわけではないと理解しているはずなのに。

「……で?」

「え?」

「それで? 『殺刃』をかわしながら近づいてその後は? 私を飛鳥のように行動不能にしただけで私の刃が──殺意が止まると思っているの?」

「それは……」

 瞳子の言う通りだ。たしかに、瞳子はその程度では止まらないだろう。だが、それ以上に瞳子は言外に殺すつもりでこいと言っているように聞こえる。

「──空手の正拳突きは、ね」

 唐突に格闘技の講釈を始める瞳子。脈絡がない……ことには違いないが、瞳子にとって、それは意味があるのだろう。語りを続ける瞳子を特に止めることなく、耳を傾ける。

「空手の正拳突きは、命中させる部分のさらに奥を打ち抜くつもりで放つ。……空手に限らず、あらゆる武術、あらゆる技には"見えているもの"の先を目標に存在している。それに対して、あなたの『影縫う手』は触れただけで絶大な効果を発揮するとても強力な能力。でも、その強力さ故に相手の表面をなぞるだけに終わってしまう。それでは相手の芯に届かない。それでは──」

 ──想いを貫けない。瞳子の唇がそう動いたように見えた。語気は淡々としているが、明らかに俺を糾弾している。俺自身が気づいていない"なにか"が足りていないと俺を責めたてる。

「──躊躇ったわね? そうでなければ、いくら私でも、あの距離、あのタイミングでかわせるわけがない。……ねぇ、優之助、改めて聞くわ。どうして、空いた右手を使わなかったの?」

 それは返し技で放たれた『竜巻』をカウンターでさらに返した時の事。俺のジレンマをピンポイントで突いた発言。

「真田凛華の時だけじゃない。桐条の時もそう。相手を極力傷つけないように配慮していたわね。余裕のつもり? ……それとも怖いの?」

「……」

 その通りだ。正直言って、今の俺に『優しい手』を使いこなせる自信がない。相手を痺れさせる『影縫う手』や按摩程度の使い方なら問題ないが、それ以上は……どうなるかわからない。

 そんな俺の逡巡を見抜いていた瞳子から今まで感じたことのないプレッシャーを感じる。さっきまでの禍々しい剣気よりも深く静かな“ソレ”にこの俺ですら怯む。

「……そんな覚悟で、この私に、この当真瞳子にィ、……勝てるかぁぁぁ──!」

 『優しい手』が起こす空気の振動よりも響く一喝とともに四本の殺刃を纏い突進してくる瞳子。古流剣術・当真流と自らの異能『殺刃』とを組み合わせた『異能剣術・殺刃剣舞』。

 さっきまでのような安全圏で殺刃を操る戦い方とは正反対の自ら死地へと踏み込まんとする戦闘スタイル。

 一見、こっちの射程まで近づいてきた分、さっきよりも勝算が出てきたように見えるが漫然と操作された数十本の殺刃よりも当真流の太刀筋を最大限に再現された瞳子の殺意の方が厄介だ。いわば、瞳子が五人に増えて同時に斬りかかられるようなもの。

 仮にもさっきまで数十本の『殺刃』を捌いていた『優しい手』でもこの猛攻を防ぎきれるか自信がない。

 全てを防ぎきれないと判断した俺は瞳子の刀を持つ手の動きのみに意識を集中させる。精神的に斬られても地獄だが、物理的に斬られれば、即ゲームオーバーだからだ。

「ひとつ」『昇竜』の太刀筋が、俺の首を食い千切り。

「ふたつ」『竜巻』が巻き込むように右足の腿を切り刻んでいく。

「みっつ、よっつ」激しい幻痛に苛まれながらも瞳子の白刃に意識を集中させた俺は左右に分かれた二つの剣閃を見逃さない。

 右に『殺刃』、そして本命の刃が左肩へと袈裟斬りの軌道で俺の胴体を狙っている。当真流剣術、双ノ太刀・『咬竜』。本来二刀で行うこの技を『殺刃』を一刀に見立てて再現する。

「(ここだ!)」

 両手の『優しい手』で瞳子の左右の斬撃を止める。

「(……よし!)」

 本命を止めた俺に一瞬の油断。今の瞳子はそれを逃さない。

「いつつ!」間髪入れずに最後の『殺刃』を繰り出す。……狙いは俺の背後。

「──!」

 油断から生じた無防備な背中に架空の刃が通る。瞳子の"斬る"というイメージと俺の"斬られた"というイメージが合わさり、俺の脳が痛覚を通じて誤認する。

 全身が悲鳴を上げたように痛覚が駆け上がり、その"痛み"にたまらず俺は無様に転げまわる。瞳子は間髪入れずに俺の横腹に蹴りを浴びせ、衝撃で浮き上がった両手に『殺刃』を虫ピンのように刺し入れる。偶然にもその姿は瞳子に土下座をしているかのように頭を垂れていた。

「……無様ね。それに嘘吐き」

 情けない姿で縫い止められた俺を見下す瞳子。俺を圧倒した激しさは引いているが、その瞳に宿る感情は未だ冷めていない。

「──『自分がハルとカナの近くにいれば、必ず不幸にしてしまう』──二年前、あなたは、そう言って二人の妹を半ば無理やりに天乃原に送り出した。二人の将来のためとかなんとも綺麗なお為ごかしでね。……わかっているのかしら? その結果がこれよ」

「……仕方がなかった。俺と違ってあいつらはもっといろいろな可能性がある。『優しい手』なんて名づけられた力を優しい事に使えない俺といるよりもここに居た方がいい。だから──」

「そんな諦念じみた言い訳しかできないなんて……ますます幻滅ね。その先にある答えを聞きたかったのに……」

 にべもない瞳子。糾弾も最後の方になると若干の憐みすら漂わせている。どうやら瞳子にとって、今の俺はそこまで堕ちた存在のようだ。

「それに、おかしいと思わなかった?」

「……なんのことだ?」

 これ以上なにがあると? ……いや、気づくべきか。全校生徒が揃ったこの場でこんな騒ぎを起こしてもなお、未だハルとカナの姿が見えないことを。

「いくら学園が広大といっても生徒会にも目をつけられているハルとカナが三日も学園にいたあなたとすれ違うどころか話題すら上がらないなんてありえないわよ。どうしてだと思う? ……留学よ。あなたが編入する一週間前から彼女達は海外にある天乃原学園と提携している学校へと移った。誰の意思でもないあの子達の意思で。これがどういう意味かわかる? ……避けられているのよ! あの子達に!」

「……」

「当然でしょ? あの子達からすれば自分達が捨てられたと感じても仕方のないことをしたのよ。……良かれと思ってしたのでしょうけど」

 俺はただ黙っていることしかできない。あんなに繋がっていると感じていた手が凍りついたように動かない。自分のものじゃないみたいだ。体も心も。それは『殺刃』で動けないのか、瞳子の言葉で動けないのか。

「……なまじ、過去が輝かしいのも考えものね。"大人になったはず"のあなたがやけにくすんで見える。──勘違いしないでね。それ自体はあなたの所為ではない。けれども、この三年間、失望させられ続けた私達は最早、我慢できないの。"もしかしたら失ったものを取り戻せるかもしれない"なんて希望に縋るのは疲れた。私があなたをこの学園に呼んだ本当の理由はね、あなたを殺してその苦痛を取り除くこと。そうすれば、私や……ハルとカナも前に進むことができる。だからお願い。そのために──」

「──死んでくれない? 優之助」

「(……マズイな)」

 自分でも驚くほどショックだったようだ。体が動かない。思考は上滑りして、なにも考えられない。瞳子がゆっくりとこちらへと近づいてくる。対して、俺は……どうすれば、いいのだろうか?

「……俺は……」

 自問は続く。いったいなんのためにここに来た? ハルとカナのために来たはずが二人に望まれず、避けられ、俺を学園に誘った瞳子の目的は俺を排除するためだったと告げられて。目的に因っていた二つの存在に拒まれた俺はどうすればいい?

 一歩、また一歩と俺と瞳子との距離が詰まっていく。殺意を纏う瞳子は正に“死”そのもの。立ち向かうなり、逃げるなりしないといけない。……そんなことはわかっている。けれど、いくら頭が状況を理解しても、目が眼前の危機を映していても心が動かない。まるでテレビの向こう側みたいだ……。

「さようなら、優之助……」

 殺意に満ちながら、その声は今から人を殺めるようには思えないほどとても穏やかだった。だが、その声とは裏腹に目の端で純白の刃がゆっくりと振り上げられるのが見える。

 狙いは土下座のままた俺の首筋。多分、傍から見れば、首をさしだしているような構図。……これで文字通りクビ斬りだな。そんなどうでもいいことが頭をよぎる。多分、俺のこの世で最後の思考。

 そして、今、その刃が幕引くように下りていった。

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