きみのその手はやさしい手

芦屋めがね

第13話

 ──次に会った時にでも、答えを聞かせてもらいましょうか。

 そう言った瞳子が目の前にいるのだから、「何の用か」なんて言葉ほど間抜けなものはないだろう。俺がどうしたいのか──誰の敵に回るのか──をはっきりさせるつもりなのだ。

 ただ、そんな問いが必要かというのもあるが、そもそもこの段になって舞台に立った瞳子の意図がわからない。

 会長達の真意を聞いた限り手段に差異はあれど目的の方向性は同じ。ならば協力した方がどう考えても効率がいい。しかし、このタイミングで出てきた以上、なかよしこよしでやりましょう、などと言いにきたわけもないだろう。

 長い付き合いでそれがわかっているが、それでも瞳子がなんでこんな立ち回りをしているのか、不可解というしかない。回らない頭の使い過ぎで知恵熱すら出そうだ。

「御村君、あなたはこの学園をどうする気なの?」

 一方、そんな俺をあっさり無視して話を進める瞳子。

「むしろ、こっちが聞きたいわ。その小芝居込みで」

「……あなたはたった一人で生徒会を敵にまわし、その結果、役員を倒して生徒会長をも退かせた。これは事実上、生徒会は一人の生徒に負けたといえる。そうなるとこの学園はどうなると思う?」

 まるで数日前の寸劇を彷彿させる瞳子の言動──特に会話の方はまったく噛み合っていない。こちらの態度や内心など端からどうでもいいのか、俺の返しも無視して、脚本どおりにと一方的に捲くし立てる。流れに乗るのも癪だが俺から折れない限り、話は進みそうにないようだ。渋々ながら、瞳子演出の舞台に付き合う。

「……新しい生徒会ができて、そいつらがうまくやるのでは?」

「そうなると本当に思う?」

「どういう意味だ?」

 さっきから答えをはぐらかされてばかりで徐々に苛立ちが増してくる。こいつは結局、なにが狙いだ? 少なくとも現生徒会の味方ではない。さんざん揉めるのを諌めておいて、言葉とは裏腹にその都度揉めるのを後押ししていたのは一度や二度ではない。

 こちらのそんな疑念や不信がわからないわけではないだろうに瞳子は相変わらず真意の読めない会話を続けていく。

「今の生徒会が打倒されれば、この学園の秩序は崩壊する、と言っているのよ」

「……それは穏やかじゃないな。冗談にしても笑えない」

「生徒会の課してきた圧政は生徒たちを追い詰めて続けた。その生徒会がなくなれば、生徒たちは今まで押さえつけられたストレスを開放するでしょう。そうなるとまず間違いなく、やりたい放題のしたい放題。学園は暴動になる、と……ここまで言えば、想像はつくわね?」

 直接的な表現は避けたが、言いたいことはわかる。

「代わりの生徒会? その生徒会には暴走した生徒たちを止められる力はあるの? それができなければ、ただの絵に描いた餅。理想だけではもうどうにもならないところまできているの」

 この学園をなんとかするために手段を選んではいられないという点では、いみじくも真田さんと同じ意見のようだ。この学園は両家の利害の一致で成り立っているのだから当然か。だからこそ、瞳子の一連の行動に疑問を持つわけなのだが。

「……じゃあ、どうすればよかったんだよ?」

 あまりの不可解さに頭痛がする。嘆息しながら瞳子を眺め見て、脇に携えているものに気がつく。それは鞘も拵えも全てが白い刀──瞳子の愛刀『紅化粧べにげしょう』だ。

「──御村優之助、私もあなたに決闘を申し込みます。あなたをこの場でう倒せば、勝者はいなくなり、生徒会は存続できる。そうすることでこの一連の騒ぎを終結させます」

 超展開過ぎて、ついていけない。この三日間ずっと、何度も思い続けてきた瞳子に対する感想が頭をよぎる。

「(……だから、なにがしたいんだ? こいつ)」

 だが、ただ一つだけ、わかったことがある。一応、確認のために周りに聞き取られないように質問する。

「なぁ、もしかして最初からこうするつもりだったのか?」

「その通りよ」

 あっさりと認める瞳子。

「じゃあ初日にやった校門での寸劇まがいは?」

 ──「この学園には外の常識は通用しない。一歩踏み出すともう後戻りはできず、あらゆる苦難が待ち受けるわ。それでも踏み出すというの?」

「じゃあ、帰るぞ」

「ちょっ、まった! まった! んもう、ノリが悪いわね。せっかく悪の巣窟に立ち向かおうする勇者の歓迎っぽくしたのに」──

「いい伏線でしょう?」

 つまり魔王黒幕は自分だと? 茶番劇から外れて素を見せる瞳子が小さく舌を出す。まるでイタズラのネタばらしといった風情だが、実際はそんなかわいいものではない。

 なにせ、問題児と名指しした天乃宮姫子はむしろ問題を解決に動いている側であり、その対処──暗に排除──を目的の一つとして天乃宮家に黙って俺を派遣したのが共同経営という味方のはずの当真本家の人間である瞳子だ。

 当然、生徒会の真意を知らぬはずはなく、それどころか、わかっていながら俺を生徒会にぶつけるのを良しとしたと白状しているに等しい。これが意味するのは──

「──天乃宮を出し抜こうとするつもりか?」

「……さて、どうかしらね」

 さすがに言質をとられると不味いのか瞳子のそれは、はぐらかすような物言いだが、それはもはや肯定しているも同義だ。

 この学園は両家の利害の一致で成り立っていると述懐したが、逆に言えば当真家と天乃宮家は利害でしか繋がっていない関係だ。そして利害とは頻繁に姿かたちを変える水のようなもの、水面下──水だけに──では有限である取り分をだいなしにしない程度には取り合ってきたのだろう。

 俺に仔細を話さず会長、ひいては生徒会と共同歩調をとらなかった。学園にはびこる問題を解決しようとする競合相手の足を引っ張りつつ、自ら解決に導いて学園における権力政争のイニシアチブをとる──少しずつではあるが見えてきた。

 自ら魔王と明言しないものの、勇者として歓待した俺の前に立ち塞がったのだ、戯れてはいてもまったくの冗談ではなかったらしい。すなわち、侵略と支配領域の拡大。妹達の件も含め、最初に聞いた話とは随分とかけ離れたものだ。

「よくもまぁ、でたらめ三昧で動かしてくれたな。こき使われるのはいいとして──いや、よくないが、さすがに家族をダシにされるのはさすがに愉快とは言えないぞ」

「……安心なさいな。あなたでなければならなかったのは本当だから」

 小芝居も悪巧みに満ちた素もはげ落ちた平坦な声が数少ない真実を語る。単なる旧家同士の利害で終わりかというとどうやらそれだけではないらしい。たしかにそれだけならば瞳子がこの場に出てきた理由にはならない。

 いくら歴史と権威のある本家の生まれとて単なる家の小間使いでいられるほど当真瞳子はやさしくない。この件に関わるのに充分な個人的事情がなにかあるはず。それが証拠に俺へと向けられる視線には高原に来てからはおろか、この三年間一度もなかったどこか懐かしい成分が込められている──それは血生臭さすら感じさせる狂気と暴力に彩られた“殺眼”。

「──構えなさい、御村君……いいえ優之助」

 その一言に冷たいものが帯びる。刀を持った瞳子はもはや別人。もはや、これ以上の問は答無用とばかりに斬りかかって来る。

「っ!」

 瞳子が携えた白木の鞘から一気に刀が抜き放たれる。(言っちゃあ、悪いが)真田さんとは桁違いの切れ味を帯びた斬撃が俺の胴へと殺到する。真田さんは"斬る覚悟"はあっても実際に斬った経験はまだないのだろう。

 しかし、瞳子は違う。息をするように自然にできるまで、人に向けて剣を振るった回数。その違いが斬れ味に圧倒的な差を生むのだ。

 人の胴体なんて簡単に輪切りにできるであろう中段への居合いを『優しい手』でガードする。一瞬でも気を抜けば、あっという間に斬殺死体の出来上がりだ。もはや周りの目なんて気にしてはいられない。


「最後に確認したいことがある」

「この期に及んで、なにかしら?」

「……ハルとカナのことだ。生徒会に反抗しているとして退学になるかもしれないってのは、結局嘘ってことでいいんだな?」

「天乃宮姫子が生徒会長になった理由は?」

「天之宮に不利益になると判断した生徒の見極めとその放逐……だろ」

「その通り。では桐条飛鳥はどう? 彼女は天乃宮姫子に反抗的だったけど、退学にされることはなかった──つまり、そういう事よ」

 ただし、私達の手を離れてやり過ぎなければ、の話。そう釘を刺すのを忘れない瞳子。

「少なくとも、今の所は退学の心配はないんだな。……安心したよ。おまえに振り回されてばかりで癪だが、そこだけは本当に安心した」

 仮にハルとカナが"本当に"生徒会に反抗していたとしても問題ない。二人には利用価値があるから──言外にそう含みのある瞳が雄弁に語る。瞳子の意図はともかく、降りかかる火の粉は払わなければならない。出惜しみなしで潰す。

「(……まぁ、さっき真田さん相手に使ってしまったわけだし、どの道遅いけどな)」

 そんな事を考えながら空いた手でカウンターを狙う。いくら瞳子が強くても『優しい手』なら一撃で行動不能にすることも可能だ。

 しかし、そこは瞳子、わかっている。自分の攻撃が止められた時点で早々に距離を取っていた。

「……ちっ!」

 当たり前だが、あっちは刀、こっちは素手、リーチでは明らかに分が悪い。いくら当真流剣術が接近戦でも強いとはいえ、こちらと同じ土俵に上がらずとも、あっちは問題なく手の届かない距離から攻撃できる。あっさりこっちの射程外へと移動した瞳子が名乗りを上げる。

「古流剣術・当真流皆伝、当真瞳子──推して参る」

 武家の末裔である瞳子は必然的に家に伝わる武術を修めることが習わしとなっている。瞳子の家に伝わるのは先の決闘で真田さんも使っていた古流剣術・当真流。

 しかし、白刃を抜き放った瞳子はいつもの明け透けで人を食ったような言動(これは俺がいつもやりこめられているからそう感じるんだろうけど)がなりを潜め、陰気で不吉な剣気を纏い別人のようになる。その状態の瞳子を知る高校時代の連中からは便宜上、"刀"子モードと呼ばれるほどの変貌ぶりだ。

 名乗りもそこそこに(剣を志すものとしては非常識な話だが)手に持ったままの鞘を邪魔とばかりに投げ捨て、改めて刀を構える。

 構える様は、同じ当真流の使い手であるはずの真田さんが正眼に構えたのとは異なり、体は半身、刀を下段に構えている。他の流派ではあまり見られない特異な構えだが、あれこそが当真流剣術の本来の構えだ。

 古流剣術・当真流は刀を下段に構え、腰に沿うように持つか、切っ先を相手の斜め下に突き出すように持つのを基本的な構えとしている。得物を低く構えるのは、構えに伴う保持の負担を最小限にしつつ、体捌きを妨げさせないというのがその理由。言うなれば、当真流は"剣で斬る技術"よりも"剣を持つ動き"そのものに重きを置いた技術体系である。

 また、剣術としては一見、非常識に思える鞘を捨てる行動も動きにくさを極力なくす一環としてだ。剣豪、宮本武蔵は巌流島の決闘で佐々木小次郎に「鞘を捨てるのは、刀を戻す気が無い=決闘に勝って刀を戻す気がない」的なことを言ったそうだが、瞳子は「相手を斬ってからゆっくり鞘を拾えば済む話でしょ」とのたまった。

 まぁ、武蔵も相手を挑発するために言ったのかもしれないが、偉大な剣聖の名言をそこまでないがしろにするのはどうなのだと思う。……以上、どうでもいい話終わり。

「──『流水りゅうすい』」

 ゾッとするような冷気の一言。しかし、それとは対照的にまるで舞を思わせるような華麗で見るものの心を打つ身のこなし。古流剣術・当真流の型『流水』。"刀"子の十八番だ。

 同じ古流武術でも、相手に挙動を悟らせない動きが特徴だった飛鳥の『飛燕脚』とは正反対。そんな魅せる動きの中に擬態された太刀筋が体に届く前に『優しい手』を割り込ませる。

 いかなる攻撃でも止められる『優しい手』だからこそ、間に合うタイミング。『優しい手』でなければ、刃が俺の腹部を抉られていた。

 真田さんの時と同じように、刀の切っ先は手のひらを傷一つつけられず、その前で止まる。しかし、今度の相手はお互いを知り尽くした当真瞳子。刺さらないのを逆に利用し、反動をつけて後退する。同時に、その勢いを次の動きへと繋げていく。

「──『不知火しらぬい』」

 今度は低く、速く、燃え広がる炎のように相手へ肉薄する当真流・一本指歩法『不知火』。優雅といってもいい『流水』から一転して荒々しく斬りかってくる。

 当真流剣士としての"刀"子は『流水』、『不知火』を始めとした緩急自在の動きで相手を幻惑し、一瞬の隙をつく戦い方を得意とする。そうこうしている間にも"刀"子の攻撃は続く。

 『不知火』の動きのまま、俺の周りを駆け巡る。その動きは野生の獣が獲物を狙うようにこちらの隙を伺っている。下手に守ればこちらが危ない。

 そう判断し、攻めに転じようとすると、今度は『流水』の動きへとシフトする。まるでこちらを誘うように──実際にカウンターを狙っているはず──舞う"刀"子にこちらの攻めようとする気が殺がれる。と、その瞬間──

「──っは!」

 呼気と共に弾丸のような速度で一直線に俺の眼前まで近づいてくる。そのまま下段に構えた刀が急激な角度から吸い込まれるように首筋へと斬り上がる──当真流『一ノ太刀・昇竜』。

 普通、下段から振り上げた刀が腕の力だけで相手を斬れるはずがない。それを可能にするのが『流水』や『不知火』といった当真流独特の体捌き。全身の筋力を体術によって斬る力に変換し、刀に伝える。正に全身全霊の一刀だ。

 そんな天へと昇るような太刀筋が首筋へと到達する前に再び『優しい手』が立ち塞がる。攻める"刀"子も守る俺も一歩も引かず、自然と『優しい手』と『紅化粧』による奇妙な剣戟が起こる。

「「──っ!」」

 『優しい手』の特性ゆえに、両者の得物がかち合っても無音。お互いの吐息のみが講堂内を埋め尽くす。一合、二合と斬り結ぶにつれ、一刀の"刀"子に対し、双手である俺の防御が上回っていく。だが、いざ攻勢に回ろうとすると──

「『流水』」

 舞うような動きでタイミングを外され、攻め手が途切れる。……あまり美味くない流れだ。こうなると、リーチに余裕のある"刀"子の方が有利となり、俺は常に先手を許すことになる。仮にそれを防いで、反撃に転じたとしても、また取り逃がす、といった不本意な図式が頭の中で出来上がる。

「(畜生、相変わらずやり難いな!)」

 手数や、それに伴う速度はともかく、動きの多彩さで一歩も二歩も上手の"刀"子を捉えきれない。まるでここ数日の瞳子との遣り取りみたいだ。散々はぐらかされ、結論はおろか、まともな説明すら先送りで決着がつかない。

 ……どうやら、ストレスが自分で思ったよりも相当溜まっていたようだ。ジリ貧気味な今の戦況も相まって、瞳子への不満が我慢の限界を超えているのに気づく。

「……いい加減、色々とはっきりしてもらうぞ。瞳子!」

 踏み込まなければならない。

  ──もっと瞳子の間合いの内側へ

  ──その本心へ

  ──その奥へと
 
  ──おまえの真ん中を抉じ開けてやる!
  
 カウンターをもらいにいく覚悟で"刀"子の胴へと前蹴りを放つ。

 胴は人体の中心、一番攻撃が当たりやすい部位だ。対する"刀"子はその前蹴りを服の上からでもわかるくびれた腰でいなし、捻ることで回避する。捻りを入れた勢いは止まることなく全身を回転させ、突き出した俺の脚を巻き込みながら、独楽のごとく迫る。真田さんの時と同じような触れ合うほどの超至近距離。

 通常ならば、小回りの利く素手が有利、しかし古流剣術・当真流はこの間合いでも苦にせず相手を斬れる。

  その名は、当真流剣術、二ノ太刀──

「──『竜巻』」

 相手の懐に入り込み、その内側から小柄である特徴を利用し、自らを支点に巻き込むように相手を斬る『二ノ太刀・竜巻』。

『紅化粧』を逆手に持ち替え、お返しとばかりに胴を薙ぎにかかる"刀"子。もし、真田さんがこの技を習得していれば、俺は接近戦に持ち込みにくくなり、さらに苦戦していただろう。だが、しかし──

「──そう、くるだろうよ!」

 刀の軌道の先には、予め伏せておいた『優しい手』。カウンターが来るのをわかっているなら、相手がどう返すのか、その選択肢を狭めればいい。"刀"子の返し手の中でも『竜巻』は突く攻撃を返すのに特化した技。

 その内容は突きを受け流し、そのまま相手を斬る。その二つの条件から、攻撃が外れた場合、ボディを狙われやすい前蹴りをあえて選んだのだ。『優しい手』の防御能力を信じているからこそできる自らの体を餌にしたおとり作戦。そして、その利点はカウンターを破るためだけではない。

「っ……芸のない」

「それに引っ掛かってりゃ、世話ないさ」

 至近距離のまま動かない俺と"刀"子。──より正確に言えば、『紅化粧』を俺の手でガッチリと固定されて"刀"子は動くことができない。それは面と胴の違いはあるが、真田さんの時とダブる状況。当然、次に打つ一手もそれに倣う。

「『影縫う手』!」

 これで終わり。そう確信を持って放った、触れただけで相手を行動不能にする"必倒"の一撃は──

「(──これをかわすかよ!)」

 一瞬の躊躇いすらなく、かけがえのない"戦友"を手放すという判断を下した"刀"子(いや、手放したのだから瞳子か……)の数ミリ前の空間を削っただけ。

 迷いのない行動に虚を突かれて、反応が鈍る俺を尻目に瞳子は体操選手顔負けのバク転であっという間に追撃も届かない距離まで達する。

「流石、『優しい手』。当真流……いえ、当真"刀"子ではいまいち決め手に欠けるわね。そもそも、『紅化粧』を奪われたのだから、負けも同然か」

 安全圏まで離脱した瞳子に目を向けると、未だ戦闘の警戒が解けない俺とは対照的に気の抜けた調子でそう自己評価していた。今さっきまで、刀を振り回していたとは思えないほどの緊張感のなさ、独り言の内容からも瞳子に一見、戦闘続行の気がないように見える。

「ねぇ! "それ"返してくれない?」

「……負けを認めるなら、返してもいいぞ」

 そう、まだ瞳子はギブアップしていない。刀がこの手にあるのだから、絶対的に有利ではあるが、安心はできない。

 なぜなら、当真瞳子にとって、戦友『紅化粧』は気心の知れた友人にさえ滅多に触らせないほど大切なものだが、これがないと戦えないというほどには必要なものではないのだから。

 そんな内心の警戒に反して、返せ、返さないの傍から見れば滑稽な押し問答は続く。

  どれくらい時間が経っただろう。体に溜まっていた戦いの熱も冷め、周りが白け始めた頃、返せ、の声が途切れる。ルーティン気味に応えていた俺は、一瞬気づくのが遅れる。──やられた! 慌てて、瞳子のいた場所に視界を絞る。瞳子はそこに居た。一歩も動かず。ただ──
「(──笑っている……のか?)」

 まるで貴婦人がするように口元を優雅に手で覆っているが、手の隙間から笑みに歪んでいるのがかすかに見える。普段の瞳子ならともかく命のやり取りの最中にその感情の揺れ幅は明らかに危うい。現に瞳子の前に立っている俺の全身から悪寒が止まらない。

「と、瞳子……」

 恐る恐る声を掛ける。しかし、瞳子は忍び笑いのまま、応じない。代わりに重く、息苦しい、まるで深海の底に引きずりこまれたような空気が辺りを支配する。観客である生徒達も瞳子から発する空気に異様なものを感じたのか、我先にと出口へと向かおうとしている。

 だが、統率のとれていない集団が一気に行動していいことなど一つもないのは明白。案の定、避難するどころか、足の引っ張り合いから生徒同士の暴動にまで発展してしまっている。

 そんな阿鼻叫喚の光景があちこちで繰り広げられている中、生徒会の連中はどうやら出口に向かうより、巻き込まれないことを優先したようで無事だ。一応、見知った連中が無事なのは安心したが、正直、いつまでも気にしてはいられない。目の前の脅威がそれをさせてくれない。

「やっぱり、あなたといると楽しいわ、優之助。でも、そんな楽しい時間もおしまい。ここからは──」

 まるで張り詰めた風船が破裂しそうな緊張の中、瞳子の声はどこまでも穏やか。しかし、周囲の空気は反比例して、さらに冷たいものから痛いものへと変わっていく。

「──全力でいくわよ。優之助ぇ!」

 口元にあてていた手を優雅に動かし、まるでメガネを直す仕草をするように額へと押し上げる。その手の隙間から見える瞳に俺の中の警鐘が最大級に鳴り響く。ヤバイ!   まさかこんなところで使うなんて。

 自らの警鐘に従い、逃げるようにその場から離れる。紙一重のタイミングで立っていた位置に棒状のなにかが通り過ぎていく。

 瞳子が俺に向けて放ったもの。しかし、瞳子は無手。刀は今や俺の手の中だ。そもそも、瞳子は戦いの最中、鞘を投げることはあっても、愛刀を手離すことはない。ならば結論は一つ、瞳子が棒状のなにかを作り出して俺に投げつけたのだ。俺は瞳子がそれをできることを知っている。

「──『殺刃』……か。久しぶりに見たよ」

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