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からっぽの金魚鉢で息をする

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なんでそんな顔をする?



笑うな。
泣くな。

どんな顔も見たくない。

なんでそんなことも出来ないの。

一回言ったんだから、二度と
同じこと言わせないでよ。

出来ないなんて嘘つきだ。

労いの言葉なんて全然掛けたくない。




目の前から消えてなくなれ。

代わりはいくらでもいる。





もやもやと霧が掛かるほど天気が悪い
5月を乗り切ったのに、今日の合宿も
何も変わらず私の罵声が飛ぶ。




私がこの脚本を書いたのは、
ベストセラーの印税が落ち着いてきた頃。
悟が立ち上げた劇団でメガホンを取らせてもらうことになったのは、一年も前のことだ。



女優としての仕事が
入れば入るほど自分の見せ方や
人に求められていることが何なのか
手に取るように分かり、脚本家としてではなく、演じることが天職だと思うようになった。



その蒸し暑い仕事と仕事の合間を縫ってまでこの脚本を書き上げたのは、悟のため。
それだけだ。


私には可能性があるんじゃない。


自信があるだけじゃない。


結果しか見えない。それだけだ。


無駄だと思っていることを
実行することがどれだけの命の時間を
犠牲にするだろう。


結果にならないことが
どれだけの金額を奪っていくだろう。



時間と金だけは、誰を責めても
戻ってこない。



自分で守り抜くしかない。



そこに、愛は要らない。





水原が、膝から崩れ落ち、
声を挙げるのは今日、35回目を迎える。


泣くことをイメージで作りあげている
暇があるなら、涙を用意しとけ。と
散々怒鳴り散らした。


そんな顔は、誰も見たくない。


お前の顔は、要らない。


女優じゃない水原高菜は死んでしまえ。



期待してる人間にほど愛を注ぎ、
伸びてほしいからこそ厳しく躾けることを
誰が正しいと言ったのだろう。




目的なんてない。

特に、彼女には、何も感じない。

何も感じないからこそ腹が立つ。


私は誰の可能性も信じては居なかったが
水原高菜と出会い、
人間への憤りをこれほどまでになく感じていた。



水原が相手となると
私の言葉は宙を浮いて、まるで
チューインガムを舌で丸めて飲み込むように一気に無くなる。


彼女は、表情を変えない。


そこに何も無かったかのように、
1つ、またひとつと
同じことを繰り返す。



全く同じ表情で同じことをやってのける奴など、いるものか。




しかし私の憤りも沸点まで達すれば、冷却へ向かい、稽古はひと休みする。


1人ひとりと話すような無駄な時間を
私は一切作らなかった。

倉庫裏の階段に腰掛け、
私は、劇団員たちの、妙な一体感のような、生温かい空気を体から全て吐き出すように、タバコの煙を吐いた。





遊びが仕事。


と、昔、父が幼い私へ話した。



稼ぎの少ない仕事だったこともあり
父とはすぐに離れ離れになったが、
その言葉が私の境界線になる時は多々あった。




遊びは仕事になる。

でも、仕事は遊びじゃない。


そう思うたびに、この世の中に正解なんて
存在しないと思わされる。



それから1週間が経った。



私の嫌いな火曜日。


稽古に参加する日。

悟に会える日。

水原を変えるために自分を奮い立たせなきゃならない日。



出来事は突然起こり
頭は容易に真っ白になった。



悟が、稽古場へ足を運ぶ途中の高速で、
逆走してきた対向車とぶつかったという
知らせは、私を錯乱させようと暴れた。



劇団員の青ざめた顔、女の泣き声、
1つひとつが私の中をただ通り過ぎていく。



稽古時間が終わる間際までその時まで誰も
稽古のことなど口にしなかった。


誰もかもが空(くう)を見つめ、何かを祈るような時間が過ぎた。


"ハジメは、苦しかったんじゃない。


1人で居たかったわけでもない。


そうでしょう?"


振り絞るような地の底から這い上がる声が悲しみの悔しさの苦しさの喧騒を
破った。

私が
ハジメ役の悟を想って書いた水原の
台詞の1つだった。



やめてくれ。だまれ!


頭が動き出す。


指を動かす。

人差し指、親指、体の隅々に私の神経が感覚が血液が戻っていくのを感じながら、
咄嗟に台本を手に取り、力いっぱい、
声の本人へ投げた。


そうするつもりだった。


ハジメの
台詞が悟の声で上から舞い降りてきたことに身震いし、
私の全ての力は、再び抜け、台本を掴むことすら出来ていなかった。


自分の中で何度も何度も繰り返されたその場面を思い返しているだけだと思った。


違った。


しっかり、この耳で、悟の声を感じる。




しかし、
舞台の真ん中に居るのは、
足をどっしりと開き、拳を握りしめ
下を向く水原だけだった。





彼女から悟を感じた。

彼女の演技の全てから。
いや、水原高菜じゃない。


もう、女優じゃない水原高菜など
そこには居なかった。


悟の分まで一人でハジメを演じきった
水原に
他の劇団員も加わっていった。


全員が私の心の中にあった台詞を
体現し、命を吹き込ませていた。


ハジメの相手役を高菜に任せたのは
私自身だ。


1年も前からその女優に命を吹き込みたくてたまらなかったのも私自身だった。

育てたい。

生まれ変わらせたい。


そうしていま出来上がったものは、
今までと同じものなど1つもなかった。

きっと今までも同じ表情など同じ台詞など一つもなかった。

私は自分の変化にも気付けないほど
彼らのことを彼女のことを分からなかった。

彼女は、私を越えていた。



私の頬には、
水よりも蒼い深い藍色の涙が溢れていた。




悟は、頭蓋骨を激しく骨折していたが
不幸中の幸い、あと数分遅れていたら
頭蓋内出血の量から、命を失くしていたかもしれないということだった。


春が来た。


育った芽は遠く遠くへ飛んでいき、
初めてみたよりもずっと蒼い空へ輝いている。

















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