テラー・オブ・アレス

ほっちぃ

第1話 旅立ち

誰かが言った。この世界は1000の運命から成り立つと。その1000の運命は、大きくまとめると4の要素と5の柱からなる。要素の『在・傾・信・狂』と、柱の『心・音・色・物・外』だ。要素は柱の上に立つ存在だが、どちらが欠けてもこの世界は構築されることはありえなかった。柱が世界の基礎を創り、要素がそれらをまとめあげた……と。

「どうだ? ボウズ。面白かったか」サロンエプロンをオシャレに着こなしたスキンヘッドが言う。「うーん……おっちゃんとこの話は難しくてよくわかんねえや」見るからに高級な装飾を身につけた美少年アレス・ケラーが、氷で薄まった柑橘ジュースが入ったグラスを回し、カウンターテーブルにつけた顎をカタカタさせて言った。「そうかボウズにはまだこんな話は早かったか。あと、そろそろおっちゃんじゃなくてマスターと呼べよ、ボウズ」「じゃあおっちゃんも、ボウズじゃなくてちゃんと名前で呼んでくれよ」「あーそうだなまた今度な、ボウズ」「出た、おっちゃんの十八番」ただの常連客と、ただの喫茶店マスターの会話。

だが、それは表面上の話だ。

「ここにおられましたか、アレス王子! まったく、坊ちゃんのその自由奔放な性格には、王様もお困りなのですぞ」「ゲッ……ケム爺……」苦い顔の先には、のしのしと歩み寄る小太りの老人、ケムナー・ワドルドゥフ。この街では何ひとつ情報を持たぬホームレスもが知る人物で、王宮に仕える第1級執事だ。
「やあ、ケムナーさん」マスターが、バーの開店に向けて、吊り下げたグラスを手に取り磨きながら挨拶をした。「さ、今日もお迎えが来たぜ、“坊ちゃん”」アレスの顔をわざわざ覗き込んで言った。彼は少し息を吸ったあと、大きく吐き出した。「チッ……しゃあねえ、今日は帰るよ」アレスがそう言うと、手を止めて訊ねる。「あれ、今日はやけに素直なんだな。頭でも打ったか」言うと思ったとばかりに眉を上げ、ため息混じりに返す。「んなわけねえ。おっちゃんの意味不明な話を聞かされたから、ちょっとそんな気分になったんだよ」「なんならもう1回聞いてくか」「けっこうです遠慮します。むしろこちらがご遠慮願うくらいだ」言葉のトゲをあらわにして断る。二人の間に透明の電撃がバチバチ流れた。
「坊ちゃん……そろそろ」待ちきれなかったケムナーが割って入る。「ああ、わかってるって」アレスはマスターを軽く睨み、フン! と顔を歪ませた。ケムナーは申し訳なさそうに会釈をし、アレスを連れて店を後にした。
「どうせまたすぐ逃げ出して来るくせに」扉がゆっくり閉まったのを見届けながらぼそっと呟き、タバコを咥えてバーの開店準備を再開した。


道中、普段より大人しく王宮へと向かうアレスに、好奇心からたまらずに聞き出した。「坊ちゃん。失礼ですが、今日はまたどうして素直に帰ってくださるのですか」綺麗なマリンブルーをしたアレスの後ろ髪を見つめながら訊ねる。彼は内心、1度は自分もこれほどの地位と美形に産まれたかったなどと考えた。「んー」足を止めずに斜め上を見る。スズメが左から右へ飛び去るのを視線で追う。スズメが建物の向こうへ消えたあと、こう答えた。「あの店のおっちゃんから、1000の運命ってタイトルの変な話を教えてもらったんだけど、王宮にある本にそんな感じの話がなかったかなと思って」あったような気がするんだけど、と付け加えて言った。すると、アレスは彼の足音が止まったことに気付き振り向くと、今まで聞く機会がなかったほどゆったりと、かつハッキリした口調で告げた。「アレス坊ちゃん、今から私のすぐ後を追って来てくだされ。必ず、ですぞ」
ケムナーは数秒ほど透き通るような青い目を見つめた。目を閉じ、顔をキリッとさせると、王宮とは別の方向へ向けて、ゆっくり歩き出した。


アレスが彼の後を追うと、見慣れた道を離れ、アレスがよく行くパン屋の横を通り、たまに寄る肉屋を通り、馴染みのある店からはどんどんと遠ざかり進む。本当に目的地はこの道で正解なのかと問うことを許されぬように、ケムナーはすらすらと先導していく。
とうとう街の外まで出た。アレスにとっては完全に未知の場所まで来たが、2人はそれでも歩みを止めなかった。「坊ちゃん。鹿と呼ばれておるのが、あの動物ですぞ。鹿を剥ぐと、街の服屋に毛皮として売れるようになるのです。坊ちゃんがたまに行く肉屋にも、あの動物を切り落とした身が並んでおりますぞ」と、こうしてときどきケムナーが豆知識を教えてくれることが、未知の場所を進み続けるアレスにとって、唯一の楽しみだった。鹿以外にも、木がどんな場所にどんな目的で使われるかとか、石をどのようにすれば王宮の壁や武器として使えるようにできるかとか、1回で覚えきれる自信がなくなるほどにエピソードが出てきた。だが――

「さあ、坊ちゃん。こちらへ」

――それもここで終わることとなる――


――彼は、静かに、速やかに踏み出した。腰を落とし、影と影の間に足を。伸ばした上体から腕をまっすぐ突き出し、遠くへ飛ばすようにして背中を確実に押す。「えっ」鈍い音が響くと、アレスは驚き固まったまま、森の中へと消え落ちた。

「坊ちゃん……許してくだされ」
王子に仕える執事の、と表すよりも、この世に生をうけてから約16年もの間、早くに祖父を亡くした1人の子どもの祖父代わりとして、と表すのが適切なのだろう。一筋の水光は、頬へと伝わる前に土に吸収された。

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