僕とアリスと白ウサギ
第一章:僕のための序章
さて。今の僕の心境といえば、一秒でも早くこの場から逃げ出したい気持ちに駆られていた。
目の前で、うつむき加減にこちらを見つめてくるのは同級生の女生徒。名前は確か……三船とかいったっけ。
か細い声を振り絞って、彼女は必死に僕に何かを伝えようとしていた。
「ね、ねえ。美ヶ原……クン」
「うん?」
——ようやく聞き取れたのは、僕自身の名前。優しい声色で相槌を打って、僕は彼女の顔を覗き込んだ。
一見、真っ赤になってぶるぶる震えている彼女をフォローするヤサ男に見えるが、僕の心は、酷く動揺していた。
『この場から逃げ出したい』
脳内の大半はこの言葉で埋め尽くされていた。
何故かって、この微妙な空気が苦手だから。いたたまれない空気……僕が視線を合わせようとすると、サッと顔をそらされてしまう。これではちゃんとしたコミュニケーションがはかれないでしょうが!
「三船……さん。あの。僕に何の用かな?」
「わっ、その……」
不意を突かれた彼女は途端顔を蒸気させると、唇を震わせ始めた。
「つきっ……ツキつきツキツキつきっき…………メンっ!」
そして。
それは、突然の出来事だった。
三船が先程とはうって変わって、それは大きな声を上げた。
静かな廊下にビリビリと彼女の声が響き渡る。そうして次に起こったあっという間の出来事は、僕にとって酷くタイミングの悪いものであった。
「メンっ!」の部分で、今までうつむいていた三船が勢い良く顔を上げた。そのため、その時丁度タイミング良く彼女の顔を覗き込んでいた僕は、見事顎の下に三船の頭突きを食らう羽目になったのである。
まさかこんな廊下の片隅で、剣道部のごとく"突き"を食らわされ、"面"を取られるとは思ってもいなかった。
ふ、不意打ちとは……やりおる……
「ごっ、ゴメン、美ヶ原クンっ……! ゴメン、ごめんねっ……!」
どうやら先ほどの「メンっ!」という言葉は、「ゴメンっ!」と言っていたらしい。
頭突きを食らって軽く意識が飛んでいた僕は半分真っ白になってる頭を横にぶんぶんと振って「大丈夫だよ」と答えた。
心配そうな三船の顔が僕を覗き込んでいる。
そうだな、
帰り道に脳神経外科医に寄ろう。
「あっ、あのっ……それでね、…………ひ、『姫』クン」
しばらくして、震える声で彼女が口にしたのは、僕の小さい頃からのあだ名であった。
誰が言い出したのかは知らない。僕の本名は、美ヶ原 兼人。
『姫』という文字はかすってすらいない。
昔あだ名に関して不思議に思った僕がその由来をクラスメイトに尋ねてみたところ、「見た目だろ」と一言いなされた。
確かに小さい頃から中性的な顔立ちであった僕は、よく女の子に間違われた。
しかし高校二年生にもなって『姫』というあだ名は、やはり赤面ものである。
「ほ、放課後に呼び出してゴメンね。私……姫クンに伝えたいことがあって……」
三船が頬を赤らめて声を振り絞る。
同時に、僕は目を見開いて息を詰まらせていた。
顔面から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
こんな時にっ……。かっ……勘弁してくれよっ……。
「あのねっ。私、こ、高校一年の時から姫くんのこと……」
本当に勘弁してくれ……。
何で……
……何でこんなところにいるんだ、
『コゴウ先輩』!
「うっ……うわああああっ!」
「あれっ。ひ、姫クン……私、まだ何も伝え切れて無い……!」
彼女の声を背中で受けながら、僕は廊下を猛ダッシュしていた。
『廊下を走ってはいけません』という壁紙が目の前に飛び込んできたが、そんなものを立派に守れるほどの余裕などなかった。
とにかく必死に廊下を走る。顎下に受けた痛みなど、とうに忘れ去っていた。
◆
三船に連れて来られた家庭科準備室前の廊下は放課後ということもあり、いつも以上に静かであった。そこに僕の靴音がバタバタとやかましく鳴り響く。
——勘弁してくれ勘弁してくれ勘弁してくれっ!
何で家庭科準備室内の窓ガラスに『コゴウ先輩』が、べっとり張り付くようにしてこちらを見ているんだ……?!
「はあっ、はあっ、はあっ……」
息が切れるほど幾らか走って、僕は白い砂利の敷き詰められた中庭で立ち止まった。
膝を折って、肩で息をする。
ここまで来れば、いくら"ヤツ"でも追って来れまい……。
「見~つ~け~た~わ~よ~」
刹那、背筋に一筋の冷たい閃光が駆け抜けた。
「後ろかっ……!」
慌てて振り返ると、その後頭部を全力でぶん殴られた。
「っ痛てぇ!」
「前だっての、バーカ」
涙を浮かべて振り返ると、そこに『ヤツ』がいた。
艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばし、制服の下にはふくよかな身体のラインが透けて見える。薄いピンクのグロスを塗り、涼しげな目元は見た人全員を虜するであろう魅力を秘めていた。
外見は大人びた女性そのものである女子生徒——古郷 春香であるが、しかし、僕はその仮面の下の真実を知っている。
「また僕のストーキングですかっ! コゴウ先輩!」 
「はんっ。ストーキングって、自意識過剰なんじゃな~い~?」
ふんっと鼻で笑って、コゴウ先輩は頭を振った。さらりと音を立てて肩から黒髪が落ちてゆく。
「じっ……自意識過剰って、どういうことですか」
「聞くまでもないじゃないの。私は、別にアンタをストーキングしてる訳じゃないの。アンタのことが憎いから、アンタの跡をつけて何かしらアンタを貶めるための材料を探してるだけよ」
「それを世間一般ではストーキングと言うんです!」
コゴウ先輩が小さく口を尖がらしたが僕はそれを、見て見ぬ振りしてやった。
コゴウ先輩がこうして僕に何かしら接触を図ってくるようになったのは、今からちょうど一年前のことだったと思う。
彼女と僕の出会いは、はっきり言ってチョー最悪であった。
◆
「アンタが『姫』ね」
「な、なんなんだよ、アンタ……」
「アンタのような分際が私よりも人気があるだなんて。ハッ、女神様が聞いて呆れるわね」
初対面でいきなりあだ名と共に暴言を吐かれた訳だが、僕は突然の出来事にただただ呆気あっけに取られていた。
放課後の通学路で背後から女性に声をかけられたと思えば、この状況である。
振り返ってみると僕と同じ学校の制服に身を包み、その容姿は雑誌に載っているモデルに引けを取らない整った顔立ちの女子生徒が立っていた。
しかし、そのような見た目とは裏腹に強烈な暴言を吐かれ……と、同時に僕が投げつけられたのは、制服の緑色のリボンであった。
僕の学校は、学年別にカラーが存在する。今年は一年生が赤色で、二年生が紺色、そして三年生が緑色である。
ということは、この女子生徒は僕よりも一年先輩ということだ。
「ちょっと待って下さいってば。先輩が……あの、僕に何の用なんです」
「私を知らないの? さっすが『姫様』よね」
「ごめん……なさい。僕、流行には疎くて」
「謝るんじゃ無いわよっ!」
「……あ、あの…………ゴメンナサイ」
「だから、謝らないでって言ってるでしょーがっ!」
見た目からして落ち着いた雰囲気だとは思ったのだが、どうやら内面は酷く荒んでいるらしい。初対面の僕(どうやら向こうは知っているみたいだが)に対して、喜怒哀楽の怒の感情しか表していない。
「とにかくっ……! 私はアンタをライバルとは認めたく無いんだけどね……負けないんだからねっ!」
僕はこの女子生徒が果たして何に対して対抗意識を燃やしているのか、さっぱりであった。
美しい外見でみっともない捨て台詞を吐き、そのまま駆けていく先輩の姿は、真っ赤な夕陽に溶け込むように霞んでいったのだった。
◆
そんな衝撃的な出会いをした先輩が、現在進行形で僕の目の前で仁王立ちしている。
中庭なので滅多に他の生徒は通らないが、校舎に囲われる形で存在する中庭は、廊下の窓から覗き込んだら確実に見える場所であった。はたから見ればこの状況は果たしてどのように映るのだろう。
「だから先輩、もう僕に付きまとうのはやめてください。それにこんな場所で二人っきりって……確実に変な噂が立ちますって」
「それでアンタの株が下がれば儲けモンよ!」
「その時は先輩の株も一緒に下がると思うんですけど」
「いちいちうるさいわねえ!」
もう、無駄だと思った。
この先輩に何を言っても、会話など成立しないのだと。
僕はとにかくこの場から早く立ち去りたかった。否、そもそもの話、僕は今日学校に長居する気などさらさらなかった。
だがホームルームが終わった瞬間、何故か隣のクラスの三船という女子生徒に呼び出された僕は家庭科準備室に向かう羽目になり、何故か今、中庭でコゴウ先輩に襲われている。
(もう、早く帰って寝たい……)
胸ぐらを掴まれ揺さぶられ続けること数十分——僕はいい加減「帰宅したい」という思いに駆られていた。
そんな折であった。
突如、何の前触れも無く先輩が手を離した。掴まれていた襟元が緩まり、一気に呼吸が楽になる。
はああ、と一呼吸ついたのも束の間の出来事。皆さんご存知の通り、地球には引力というものがありまして——
僕はそのまま為す術(なすすべ)もなくその場に盛大に尻餅をついたのであった。
それにしても何事か、と、痛む頭を押さえながら辺りを見回し、ちょうど中庭に面している一階の渡り廊下に人影が横切ったのを知る。
僕の前ではやりたい放題の先輩も、やはり大衆の面前では『みんなのアイドル』なのだ。
さすがにあのコゴウ先輩も、第三者に僕に乱暴している所は見られたく無いのだろう。
コゴウ先輩を見やると、彼女は艶やかな黒髪を耳にかきあげて澄ました顔で両腕を組んでいた。これが俗に言う『猫を被った』状態というやつか。
「ああ、ごっめーん。ボール当たっちゃったよなあ~」
聞き慣れた、良く通る声に、僕は思わず「ん?」と声のした方を振り向いた。
ある程度、日に焼けた健康的な肌に、黒髪を短髪に刈り揃えた少年が渡り廊下からこちらに駆けてくる。
僕と幼稚園からの幼なじみである加賀見 陸であった。
「おーっす、ヒメ!」
悪気の無さそうな声と共に片手を挙げ、ニッカリと笑みを浮かべる。
「何が『おーっす』だよ……」
僕のつぶやきが果たして聞こえたのかは分からないが陸は僕の頭をポンポンと乱暴に叩くと、コゴウ先輩を振り返った。その顔に、みるみる笑みが溢れる。
「やっぱり! 誰かと思えばあの古郷春香センパイじゃないっすか!」
コゴウ先輩は先ほどの意地の悪い笑みと対照的に、天使のような微笑みを浮かべている。
「貴方は、美ヶ原くんのお友達?」
鈴を転がしたような声。
陸が頭をかく。
「いやぁスミマセン、うちのヒメが手を出したみたいで」
「いえ、良いのよ」
手を出されてたのは僕の方だけどな、と、心の中でつぶやく。
「それよりもキミ、はい、サッカーボール」
コゴウ先輩はそう言うと、先ほど僕の顎にクリティカルヒットしたサッカーボールを陸に手渡した。
きっと陸がいなければ、僕に「取れ」と命令していたであろう。
「あ、ありがとうございます」
陸は照れたように笑みを浮かべると、先輩のしなやかな白い手からサッカーボールを受け取った。
コゴウ先輩の洗練された一連の動作に、僕は思わず、ぐっ、と唸ってしまう。
「じゃあね、私はこれで失礼するわね」
そうして、コゴウ先輩は最後に一言、慈愛に満ちた眼差しでそう告げた。そのままくるりと踵を返して、彼女は中庭から去って行ったのであった。
◆
夕暮れに染まる帰路を、僕と陸は歩いていた。
僕と陸は家が近所のため、帰宅時間が重なった時はこうして一緒に帰ることが多い。
「陸……お前、実は結構前から僕たちのこと見てただろ」
「あ、バレてた?」
「二階の渡り廊下からさあ。……なんだよ、サッカー部は『隠れて覗く』ことも練習の一つなのか?」
「まっさかあ~」
そう言って陸はニッカリと笑った。相変わらず、悪気の無い表情である。
「今日はサッカー部はお休みっ。なんだけど、オレは自主練で残ってたんだ」
「……相変わらず熱心なんだな」
「今度の練習試合がさ、選抜メンバーに選ばれるかどうかの大事な試合でさ」
サッカーボールを胸元に抱え込み、陸は力のこもった声でそう告げる。
僕は笑みを漏らすと、陸の横顔を見やった。
「陸。最近、調子はどうなんだよ」
「おっ、聞いてくれるかっ!?」
いきなりその場で立ち止まる。僕はびっくりして思わずコクコクと頷いた。
「兼人、聞いてくれよ! 最近オレさ、調子良くってさ!」
満面の笑みで眼前まで迫られたら、ここはひたすら相槌を打つしかない。
そうしてシュート練習だとか、練習試合がどうとか、一通りの近況報告を終えた後で、陸は急に真剣な顔つきで僕を覗き込んだ。
「それにしても兼人、オマエ……またやっちゃったな」
「何を」
「——三船 小夜子」
ドキッ。
聞き慣れた名前に僕は思わず胸を押さえる。
「放課後、呼び出されてただろ。さっき校門前ですれ違ったけど、泣いてたぞ、彼女」
ドキッ。
再度強く胸を押さえつける。
それにしても、突然話題をそっちの方向に持ってくるなんて厄介な野郎である。
「あー、まあ、色々あったんだよ」
「あーらら。モテる男は辛いねえ~」
冷やかすように言って、陸は僕をみる。
「で? 自分は三船ちゃんフッといて古郷先輩に走ったわけ?」
「誰がっ!」
自分でもビックリする位、大きな声が出た。
「あれは、向こうから絡んできたのであって……!」
「ほーお?」
「そっ……それでっ……だな、って……陸!」
「あっははは、そんなマジになんなって。分かってるよ、そのくらい」
「それなら良いけど……」
「だから、オレ、お前にボールぶつけてあの場の流れを断ち切ってやったろ?」
「……感謝してるよ」
ぼそりと呟く。
「…………けどっ、やっぱり納得いかないっ! なんでわざわざ顎に当てるんだよ!」
「面白いから、だな。ウンウン」
「お前なあ……!」
「あ、でも」
ポンッと手を打って、陸が途端に真面目な顔つきになる。
「やっぱ姫様のお顔を傷つけたら、お前のファンクラブの連中に怒られるよな。もしくは夜道で背後から刺されるかも……おお、怖ぇ」
「加賀見ぃ……オマエ……」
「悪りぃって。冗談」
先ほどから冗談に思えないのは僕だけなのか。
そんなこんなで話をしているうちに、陸の住んでいる一軒家が見えてきた。典型的な建売住宅で、陸の母親の趣味なのか、玄関先から内装に至るまでカントリーな雰囲気である。
陸は少し足早に玄関先まで駆けていくと、そのまま踵を返して僕に手を振った。
「んじゃ、ま、末長くお幸せに」
「誰とだよ!」
「じゃあな〜」
「陸のヤツ……冗談に聞こえないっての」
別れを告げ、僕はまた一人道をゆく。
今日はさすがにこれ以上、何が起こることもないと思っていた。
——否、ただ単に高を括っていただけだ。
自宅まであと少し。
——僕は、角から曲がってくる人物に気がつかなかった。
きっと、気が緩んでいたのだろう。
刹那の出来事に対応出来なかった僕はそのままその人物と鉢合わせすることになる。
その際、相手の身長が僕よりも低かったこともあり、ちょうど相手の側頭部が僕の顎にクリティカルヒットした。
二度あることは三度ある——昔の人の教え様々だよなあ、などと考えつつ、僕はその場でよろめいて両手を地面についた。
しかして——
僕と《不思議の国の住人》との出会いは、とある夏の夕暮れ時のことであった。
まさかあのような出来事に巻き込まれるだなんて、この時の僕は微塵も思ってもいなかった。
これが僕の『序章-プロローグ-』。
【第一章:僕のための序章 完】
目の前で、うつむき加減にこちらを見つめてくるのは同級生の女生徒。名前は確か……三船とかいったっけ。
か細い声を振り絞って、彼女は必死に僕に何かを伝えようとしていた。
「ね、ねえ。美ヶ原……クン」
「うん?」
——ようやく聞き取れたのは、僕自身の名前。優しい声色で相槌を打って、僕は彼女の顔を覗き込んだ。
一見、真っ赤になってぶるぶる震えている彼女をフォローするヤサ男に見えるが、僕の心は、酷く動揺していた。
『この場から逃げ出したい』
脳内の大半はこの言葉で埋め尽くされていた。
何故かって、この微妙な空気が苦手だから。いたたまれない空気……僕が視線を合わせようとすると、サッと顔をそらされてしまう。これではちゃんとしたコミュニケーションがはかれないでしょうが!
「三船……さん。あの。僕に何の用かな?」
「わっ、その……」
不意を突かれた彼女は途端顔を蒸気させると、唇を震わせ始めた。
「つきっ……ツキつきツキツキつきっき…………メンっ!」
そして。
それは、突然の出来事だった。
三船が先程とはうって変わって、それは大きな声を上げた。
静かな廊下にビリビリと彼女の声が響き渡る。そうして次に起こったあっという間の出来事は、僕にとって酷くタイミングの悪いものであった。
「メンっ!」の部分で、今までうつむいていた三船が勢い良く顔を上げた。そのため、その時丁度タイミング良く彼女の顔を覗き込んでいた僕は、見事顎の下に三船の頭突きを食らう羽目になったのである。
まさかこんな廊下の片隅で、剣道部のごとく"突き"を食らわされ、"面"を取られるとは思ってもいなかった。
ふ、不意打ちとは……やりおる……
「ごっ、ゴメン、美ヶ原クンっ……! ゴメン、ごめんねっ……!」
どうやら先ほどの「メンっ!」という言葉は、「ゴメンっ!」と言っていたらしい。
頭突きを食らって軽く意識が飛んでいた僕は半分真っ白になってる頭を横にぶんぶんと振って「大丈夫だよ」と答えた。
心配そうな三船の顔が僕を覗き込んでいる。
そうだな、
帰り道に脳神経外科医に寄ろう。
「あっ、あのっ……それでね、…………ひ、『姫』クン」
しばらくして、震える声で彼女が口にしたのは、僕の小さい頃からのあだ名であった。
誰が言い出したのかは知らない。僕の本名は、美ヶ原 兼人。
『姫』という文字はかすってすらいない。
昔あだ名に関して不思議に思った僕がその由来をクラスメイトに尋ねてみたところ、「見た目だろ」と一言いなされた。
確かに小さい頃から中性的な顔立ちであった僕は、よく女の子に間違われた。
しかし高校二年生にもなって『姫』というあだ名は、やはり赤面ものである。
「ほ、放課後に呼び出してゴメンね。私……姫クンに伝えたいことがあって……」
三船が頬を赤らめて声を振り絞る。
同時に、僕は目を見開いて息を詰まらせていた。
顔面から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
こんな時にっ……。かっ……勘弁してくれよっ……。
「あのねっ。私、こ、高校一年の時から姫くんのこと……」
本当に勘弁してくれ……。
何で……
……何でこんなところにいるんだ、
『コゴウ先輩』!
「うっ……うわああああっ!」
「あれっ。ひ、姫クン……私、まだ何も伝え切れて無い……!」
彼女の声を背中で受けながら、僕は廊下を猛ダッシュしていた。
『廊下を走ってはいけません』という壁紙が目の前に飛び込んできたが、そんなものを立派に守れるほどの余裕などなかった。
とにかく必死に廊下を走る。顎下に受けた痛みなど、とうに忘れ去っていた。
◆
三船に連れて来られた家庭科準備室前の廊下は放課後ということもあり、いつも以上に静かであった。そこに僕の靴音がバタバタとやかましく鳴り響く。
——勘弁してくれ勘弁してくれ勘弁してくれっ!
何で家庭科準備室内の窓ガラスに『コゴウ先輩』が、べっとり張り付くようにしてこちらを見ているんだ……?!
「はあっ、はあっ、はあっ……」
息が切れるほど幾らか走って、僕は白い砂利の敷き詰められた中庭で立ち止まった。
膝を折って、肩で息をする。
ここまで来れば、いくら"ヤツ"でも追って来れまい……。
「見~つ~け~た~わ~よ~」
刹那、背筋に一筋の冷たい閃光が駆け抜けた。
「後ろかっ……!」
慌てて振り返ると、その後頭部を全力でぶん殴られた。
「っ痛てぇ!」
「前だっての、バーカ」
涙を浮かべて振り返ると、そこに『ヤツ』がいた。
艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばし、制服の下にはふくよかな身体のラインが透けて見える。薄いピンクのグロスを塗り、涼しげな目元は見た人全員を虜するであろう魅力を秘めていた。
外見は大人びた女性そのものである女子生徒——古郷 春香であるが、しかし、僕はその仮面の下の真実を知っている。
「また僕のストーキングですかっ! コゴウ先輩!」 
「はんっ。ストーキングって、自意識過剰なんじゃな~い~?」
ふんっと鼻で笑って、コゴウ先輩は頭を振った。さらりと音を立てて肩から黒髪が落ちてゆく。
「じっ……自意識過剰って、どういうことですか」
「聞くまでもないじゃないの。私は、別にアンタをストーキングしてる訳じゃないの。アンタのことが憎いから、アンタの跡をつけて何かしらアンタを貶めるための材料を探してるだけよ」
「それを世間一般ではストーキングと言うんです!」
コゴウ先輩が小さく口を尖がらしたが僕はそれを、見て見ぬ振りしてやった。
コゴウ先輩がこうして僕に何かしら接触を図ってくるようになったのは、今からちょうど一年前のことだったと思う。
彼女と僕の出会いは、はっきり言ってチョー最悪であった。
◆
「アンタが『姫』ね」
「な、なんなんだよ、アンタ……」
「アンタのような分際が私よりも人気があるだなんて。ハッ、女神様が聞いて呆れるわね」
初対面でいきなりあだ名と共に暴言を吐かれた訳だが、僕は突然の出来事にただただ呆気あっけに取られていた。
放課後の通学路で背後から女性に声をかけられたと思えば、この状況である。
振り返ってみると僕と同じ学校の制服に身を包み、その容姿は雑誌に載っているモデルに引けを取らない整った顔立ちの女子生徒が立っていた。
しかし、そのような見た目とは裏腹に強烈な暴言を吐かれ……と、同時に僕が投げつけられたのは、制服の緑色のリボンであった。
僕の学校は、学年別にカラーが存在する。今年は一年生が赤色で、二年生が紺色、そして三年生が緑色である。
ということは、この女子生徒は僕よりも一年先輩ということだ。
「ちょっと待って下さいってば。先輩が……あの、僕に何の用なんです」
「私を知らないの? さっすが『姫様』よね」
「ごめん……なさい。僕、流行には疎くて」
「謝るんじゃ無いわよっ!」
「……あ、あの…………ゴメンナサイ」
「だから、謝らないでって言ってるでしょーがっ!」
見た目からして落ち着いた雰囲気だとは思ったのだが、どうやら内面は酷く荒んでいるらしい。初対面の僕(どうやら向こうは知っているみたいだが)に対して、喜怒哀楽の怒の感情しか表していない。
「とにかくっ……! 私はアンタをライバルとは認めたく無いんだけどね……負けないんだからねっ!」
僕はこの女子生徒が果たして何に対して対抗意識を燃やしているのか、さっぱりであった。
美しい外見でみっともない捨て台詞を吐き、そのまま駆けていく先輩の姿は、真っ赤な夕陽に溶け込むように霞んでいったのだった。
◆
そんな衝撃的な出会いをした先輩が、現在進行形で僕の目の前で仁王立ちしている。
中庭なので滅多に他の生徒は通らないが、校舎に囲われる形で存在する中庭は、廊下の窓から覗き込んだら確実に見える場所であった。はたから見ればこの状況は果たしてどのように映るのだろう。
「だから先輩、もう僕に付きまとうのはやめてください。それにこんな場所で二人っきりって……確実に変な噂が立ちますって」
「それでアンタの株が下がれば儲けモンよ!」
「その時は先輩の株も一緒に下がると思うんですけど」
「いちいちうるさいわねえ!」
もう、無駄だと思った。
この先輩に何を言っても、会話など成立しないのだと。
僕はとにかくこの場から早く立ち去りたかった。否、そもそもの話、僕は今日学校に長居する気などさらさらなかった。
だがホームルームが終わった瞬間、何故か隣のクラスの三船という女子生徒に呼び出された僕は家庭科準備室に向かう羽目になり、何故か今、中庭でコゴウ先輩に襲われている。
(もう、早く帰って寝たい……)
胸ぐらを掴まれ揺さぶられ続けること数十分——僕はいい加減「帰宅したい」という思いに駆られていた。
そんな折であった。
突如、何の前触れも無く先輩が手を離した。掴まれていた襟元が緩まり、一気に呼吸が楽になる。
はああ、と一呼吸ついたのも束の間の出来事。皆さんご存知の通り、地球には引力というものがありまして——
僕はそのまま為す術(なすすべ)もなくその場に盛大に尻餅をついたのであった。
それにしても何事か、と、痛む頭を押さえながら辺りを見回し、ちょうど中庭に面している一階の渡り廊下に人影が横切ったのを知る。
僕の前ではやりたい放題の先輩も、やはり大衆の面前では『みんなのアイドル』なのだ。
さすがにあのコゴウ先輩も、第三者に僕に乱暴している所は見られたく無いのだろう。
コゴウ先輩を見やると、彼女は艶やかな黒髪を耳にかきあげて澄ました顔で両腕を組んでいた。これが俗に言う『猫を被った』状態というやつか。
「ああ、ごっめーん。ボール当たっちゃったよなあ~」
聞き慣れた、良く通る声に、僕は思わず「ん?」と声のした方を振り向いた。
ある程度、日に焼けた健康的な肌に、黒髪を短髪に刈り揃えた少年が渡り廊下からこちらに駆けてくる。
僕と幼稚園からの幼なじみである加賀見 陸であった。
「おーっす、ヒメ!」
悪気の無さそうな声と共に片手を挙げ、ニッカリと笑みを浮かべる。
「何が『おーっす』だよ……」
僕のつぶやきが果たして聞こえたのかは分からないが陸は僕の頭をポンポンと乱暴に叩くと、コゴウ先輩を振り返った。その顔に、みるみる笑みが溢れる。
「やっぱり! 誰かと思えばあの古郷春香センパイじゃないっすか!」
コゴウ先輩は先ほどの意地の悪い笑みと対照的に、天使のような微笑みを浮かべている。
「貴方は、美ヶ原くんのお友達?」
鈴を転がしたような声。
陸が頭をかく。
「いやぁスミマセン、うちのヒメが手を出したみたいで」
「いえ、良いのよ」
手を出されてたのは僕の方だけどな、と、心の中でつぶやく。
「それよりもキミ、はい、サッカーボール」
コゴウ先輩はそう言うと、先ほど僕の顎にクリティカルヒットしたサッカーボールを陸に手渡した。
きっと陸がいなければ、僕に「取れ」と命令していたであろう。
「あ、ありがとうございます」
陸は照れたように笑みを浮かべると、先輩のしなやかな白い手からサッカーボールを受け取った。
コゴウ先輩の洗練された一連の動作に、僕は思わず、ぐっ、と唸ってしまう。
「じゃあね、私はこれで失礼するわね」
そうして、コゴウ先輩は最後に一言、慈愛に満ちた眼差しでそう告げた。そのままくるりと踵を返して、彼女は中庭から去って行ったのであった。
◆
夕暮れに染まる帰路を、僕と陸は歩いていた。
僕と陸は家が近所のため、帰宅時間が重なった時はこうして一緒に帰ることが多い。
「陸……お前、実は結構前から僕たちのこと見てただろ」
「あ、バレてた?」
「二階の渡り廊下からさあ。……なんだよ、サッカー部は『隠れて覗く』ことも練習の一つなのか?」
「まっさかあ~」
そう言って陸はニッカリと笑った。相変わらず、悪気の無い表情である。
「今日はサッカー部はお休みっ。なんだけど、オレは自主練で残ってたんだ」
「……相変わらず熱心なんだな」
「今度の練習試合がさ、選抜メンバーに選ばれるかどうかの大事な試合でさ」
サッカーボールを胸元に抱え込み、陸は力のこもった声でそう告げる。
僕は笑みを漏らすと、陸の横顔を見やった。
「陸。最近、調子はどうなんだよ」
「おっ、聞いてくれるかっ!?」
いきなりその場で立ち止まる。僕はびっくりして思わずコクコクと頷いた。
「兼人、聞いてくれよ! 最近オレさ、調子良くってさ!」
満面の笑みで眼前まで迫られたら、ここはひたすら相槌を打つしかない。
そうしてシュート練習だとか、練習試合がどうとか、一通りの近況報告を終えた後で、陸は急に真剣な顔つきで僕を覗き込んだ。
「それにしても兼人、オマエ……またやっちゃったな」
「何を」
「——三船 小夜子」
ドキッ。
聞き慣れた名前に僕は思わず胸を押さえる。
「放課後、呼び出されてただろ。さっき校門前ですれ違ったけど、泣いてたぞ、彼女」
ドキッ。
再度強く胸を押さえつける。
それにしても、突然話題をそっちの方向に持ってくるなんて厄介な野郎である。
「あー、まあ、色々あったんだよ」
「あーらら。モテる男は辛いねえ~」
冷やかすように言って、陸は僕をみる。
「で? 自分は三船ちゃんフッといて古郷先輩に走ったわけ?」
「誰がっ!」
自分でもビックリする位、大きな声が出た。
「あれは、向こうから絡んできたのであって……!」
「ほーお?」
「そっ……それでっ……だな、って……陸!」
「あっははは、そんなマジになんなって。分かってるよ、そのくらい」
「それなら良いけど……」
「だから、オレ、お前にボールぶつけてあの場の流れを断ち切ってやったろ?」
「……感謝してるよ」
ぼそりと呟く。
「…………けどっ、やっぱり納得いかないっ! なんでわざわざ顎に当てるんだよ!」
「面白いから、だな。ウンウン」
「お前なあ……!」
「あ、でも」
ポンッと手を打って、陸が途端に真面目な顔つきになる。
「やっぱ姫様のお顔を傷つけたら、お前のファンクラブの連中に怒られるよな。もしくは夜道で背後から刺されるかも……おお、怖ぇ」
「加賀見ぃ……オマエ……」
「悪りぃって。冗談」
先ほどから冗談に思えないのは僕だけなのか。
そんなこんなで話をしているうちに、陸の住んでいる一軒家が見えてきた。典型的な建売住宅で、陸の母親の趣味なのか、玄関先から内装に至るまでカントリーな雰囲気である。
陸は少し足早に玄関先まで駆けていくと、そのまま踵を返して僕に手を振った。
「んじゃ、ま、末長くお幸せに」
「誰とだよ!」
「じゃあな〜」
「陸のヤツ……冗談に聞こえないっての」
別れを告げ、僕はまた一人道をゆく。
今日はさすがにこれ以上、何が起こることもないと思っていた。
——否、ただ単に高を括っていただけだ。
自宅まであと少し。
——僕は、角から曲がってくる人物に気がつかなかった。
きっと、気が緩んでいたのだろう。
刹那の出来事に対応出来なかった僕はそのままその人物と鉢合わせすることになる。
その際、相手の身長が僕よりも低かったこともあり、ちょうど相手の側頭部が僕の顎にクリティカルヒットした。
二度あることは三度ある——昔の人の教え様々だよなあ、などと考えつつ、僕はその場でよろめいて両手を地面についた。
しかして——
僕と《不思議の国の住人》との出会いは、とある夏の夕暮れ時のことであった。
まさかあのような出来事に巻き込まれるだなんて、この時の僕は微塵も思ってもいなかった。
これが僕の『序章-プロローグ-』。
【第一章:僕のための序章 完】
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