それは秋の風のように
苦悩
私が目覚めたのは夜遅くなってからだった。重い体に鞭打ってベッドを降りて部屋を出た。
「おや、起きられましたか」
出た先はリビングのようで、ソファに座っていた榊原さんがこちらに来て私の額に手を当てた。
「熱は下がったようですね」
「…ありがとうございました。私は、ホテルに戻ります」
そう言うと、榊原さんが声のトーンを落として言った。
「僕があなたをこのまま帰すと思いますか?」
さすがに帰してはもらえないか。
「事情を話してもらいますよ。上司として」
「………」
「下手な言い訳はしない方がいいですよ」
本当は榊原さんは何もかも知っているのではないだろうか。
「こちらへどうぞ」
私をソファに座らせると、榊原さんも私の斜め前に座った。
(何から話せばいいか…)
その時だった。
ーーーピリリリリ…
榊原さんの携帯電話が鳴った。
「失礼します」
榊原さんが電話に出ると、内心ホッとする。通用するか分からないが、それらしい言い訳は考えた。
「…失礼しました。それで、その怪我の原因は何ですか?」
「これは…狙撃、されました」
「誰に」
「…分かりません」
「どこで?」
「正確な場所は…繁華街付近だとは思うのですが。警視庁を出て、レッド・バタフライの情報を聞けそうな繁華街にタクシーに乗って近くまで行きました。それから、暴力沙汰があって仲裁に入って…それから、路地に入った所で…」
「そうですか」
榊原さんはひと息ついて言った。
「…その痣は仲裁に入った時に?」
「そうです…」
「そうですか。OK、次は説教です」
「…え?」
「今後は単独行動禁止です。それから、一人で暴力沙汰の仲裁に入らない、一人で路地に入らない。いいですか?」
「…はい…」
彼女は力なく俯いた。
「僕は上司として君の命を預かっています。僕のいないところで絶対に無茶しないでください。かすり傷だったから良いものの、重傷だったらどうするんです?」
「返す言葉もありません…」
俯いた彼女の頭に手を置く。
「ですが、危険な目にあわせてしまったのは仕事を任せた僕のせいです。申し訳ありませんでした」
「い、いえ。そんな…」
「まぁ、情報はゆっくりで良いです。この案件は未解決。現状、未解決は最優先事項ではありませんからね」
「では私はこれからどうしたら…」
「そうですね、日中はフルールに」
「私も働くんですか?」
「いえ、丁度良い機会ですから、僕に会いに来た、という事でフルールに来てください」
「…?」
彼女は分からない、というように首をかしげる。
「えっと、捜査は…」
「フルールでも情報は得られますし、仕事もできますよ」
しばらくは様子見だ。レッド・バタフライの事も彼女の事も。
「さて、仕事の話はまた明日にしましょう。シャワー、よければ使ってください。あと、着替えも…僕のしかありませんが…」
「ありがとうございます…」
少しからかってみた。
「お手伝いしましょうか?」
「だ、だだ大丈夫です!」
顔を真っ赤にして過剰に反応する様は新鮮で胸の中がザワザワした。
彼女がシャワーを終えたら紅茶を出そうと準備していると。
ーーーガタッ!
『嫌っ!!』
「!」
悲鳴が聞こえ浴室に向かう。
ーーーガチャ!
「!?」
バスタオル姿の彼女が浴室から飛び出して来た。
「…っ!」
彼女は僕を見ると迷わず抱きついて来た。
「どうした!?」
受け止めながら浴室の方を見る。
「む…」
「む?」
彼女が浴室を後ろ手に指差した。
「虫が…」
「………虫?」
「と、とと取ってくださいっ」
震えながらしがみつく彼女に言った。
「分かりました。見に行きますから離れて…」
しかし、更にしがみついてくる。どうしたものかとその場からのぞいて見ると。
ーーーブーン…
虫がこちらに飛んできた。すると、彼女も音が聞こえたのか小さな悲鳴を漏らした。
「カナブンですね。大丈夫ですよ」
と言っても聞こえていないようだ。動ける状態ではないので、とりあえず近くにとまったカナブンを手で振り払ってみるとリビングの方に飛んで行った。
「もう向こうに行きましたから大丈夫ですよ。もういません」
(泣いている、のか…?)
たかが虫一匹に尋常じゃない反応を示したことに疑問を抱く。何かトラウマがあるのだろうか。
「美咲さん」
そろそろ僕の理性も限界だ。
「美咲さん、もう大丈夫ですよ」
背中をポンポンとすると、ようやく落ち着いたのか、顔を上げた。
「っ」
一瞬、理性が吹き飛びそうになったので言ってみる。
「いつまでもそんな格好で抱きついてるなら、襲いますよ?」
「…え?」
彼女は自分の格好を見ると、途端に顔を赤くして勢いよく僕から離れた。そして少し泣きそうになりながら言った。
「あ、ああありがとうございました!!」
そして勢いよく浴室に戻って行った。
「…」
元々天然なのだろう、そういえば圭一も時々ぶっ飛んでいるところがあった。しかし。
(危なかった…)
彼女が怪我をしていなかったら、彼女があと少し僕に抱きついていたら、抑えられなかっただろう。
「…ふぅ」
リビングに戻るとカナブンをベランダから逃がした。
「…っ」
浴室に戻ってから自分のした事を思い返して、恥ずかしくなる。
(穴があったら入りたい…)
虫はダメなのだ。昔、私の見張り役だった女性が私のせいで「虫に殺された」のだ。私はその一部始終を彼女が息絶えるまで見させられた。それからというもの、虫を見ると先程のようにパニックになってしまうのだ。
(聞かれる、よね…)
そこだけは、本当の事を話しても大丈夫だろう。
(でも…)
どんな顔をして会えばいいのか悩んでいると。
ーーーコンコン
「はい!」
『もう虫はいませんから出てきても大丈夫ですよ』
「は、はい!」
私は急いで浴室を出た。
「…ありがとうございました」
榊原さんにクスクスと笑われた。
「いえ、ごちそうさまでした」
「っ!」
榊原愁という人物が分からない。真面目に話していたと思えばからかってきたり、核心をつく事を言ったり。私は彼に振り回されてばかりだ。今までこんなに一喜一憂したことは無かった。それに、彼を知りたがってる自分がいる。今まで誰にも興味を持たなかったのに。できるだけ人と距離を置こうとしてきたのに。
「…すみません、少しからかいすぎましたね」
榊原さんが急に黙った私の顔を覗き込む。
「あ、いえ」
(本当に、不思議な人だ)
「こちらへ」
榊原さんに促され椅子に座る。
「湿布を貼りましょう」
「ありがとうございます」
ヒヤッとする感覚が鈍痛のする首に気持ち良い。
「肩の方はどうですか?」
「大丈夫です。中村さんが手当てしてくださったおかげで、もうくっついてます」
結局、その夜中村さんは虫の事については聞いてこなかった。
「おや、起きられましたか」
出た先はリビングのようで、ソファに座っていた榊原さんがこちらに来て私の額に手を当てた。
「熱は下がったようですね」
「…ありがとうございました。私は、ホテルに戻ります」
そう言うと、榊原さんが声のトーンを落として言った。
「僕があなたをこのまま帰すと思いますか?」
さすがに帰してはもらえないか。
「事情を話してもらいますよ。上司として」
「………」
「下手な言い訳はしない方がいいですよ」
本当は榊原さんは何もかも知っているのではないだろうか。
「こちらへどうぞ」
私をソファに座らせると、榊原さんも私の斜め前に座った。
(何から話せばいいか…)
その時だった。
ーーーピリリリリ…
榊原さんの携帯電話が鳴った。
「失礼します」
榊原さんが電話に出ると、内心ホッとする。通用するか分からないが、それらしい言い訳は考えた。
「…失礼しました。それで、その怪我の原因は何ですか?」
「これは…狙撃、されました」
「誰に」
「…分かりません」
「どこで?」
「正確な場所は…繁華街付近だとは思うのですが。警視庁を出て、レッド・バタフライの情報を聞けそうな繁華街にタクシーに乗って近くまで行きました。それから、暴力沙汰があって仲裁に入って…それから、路地に入った所で…」
「そうですか」
榊原さんはひと息ついて言った。
「…その痣は仲裁に入った時に?」
「そうです…」
「そうですか。OK、次は説教です」
「…え?」
「今後は単独行動禁止です。それから、一人で暴力沙汰の仲裁に入らない、一人で路地に入らない。いいですか?」
「…はい…」
彼女は力なく俯いた。
「僕は上司として君の命を預かっています。僕のいないところで絶対に無茶しないでください。かすり傷だったから良いものの、重傷だったらどうするんです?」
「返す言葉もありません…」
俯いた彼女の頭に手を置く。
「ですが、危険な目にあわせてしまったのは仕事を任せた僕のせいです。申し訳ありませんでした」
「い、いえ。そんな…」
「まぁ、情報はゆっくりで良いです。この案件は未解決。現状、未解決は最優先事項ではありませんからね」
「では私はこれからどうしたら…」
「そうですね、日中はフルールに」
「私も働くんですか?」
「いえ、丁度良い機会ですから、僕に会いに来た、という事でフルールに来てください」
「…?」
彼女は分からない、というように首をかしげる。
「えっと、捜査は…」
「フルールでも情報は得られますし、仕事もできますよ」
しばらくは様子見だ。レッド・バタフライの事も彼女の事も。
「さて、仕事の話はまた明日にしましょう。シャワー、よければ使ってください。あと、着替えも…僕のしかありませんが…」
「ありがとうございます…」
少しからかってみた。
「お手伝いしましょうか?」
「だ、だだ大丈夫です!」
顔を真っ赤にして過剰に反応する様は新鮮で胸の中がザワザワした。
彼女がシャワーを終えたら紅茶を出そうと準備していると。
ーーーガタッ!
『嫌っ!!』
「!」
悲鳴が聞こえ浴室に向かう。
ーーーガチャ!
「!?」
バスタオル姿の彼女が浴室から飛び出して来た。
「…っ!」
彼女は僕を見ると迷わず抱きついて来た。
「どうした!?」
受け止めながら浴室の方を見る。
「む…」
「む?」
彼女が浴室を後ろ手に指差した。
「虫が…」
「………虫?」
「と、とと取ってくださいっ」
震えながらしがみつく彼女に言った。
「分かりました。見に行きますから離れて…」
しかし、更にしがみついてくる。どうしたものかとその場からのぞいて見ると。
ーーーブーン…
虫がこちらに飛んできた。すると、彼女も音が聞こえたのか小さな悲鳴を漏らした。
「カナブンですね。大丈夫ですよ」
と言っても聞こえていないようだ。動ける状態ではないので、とりあえず近くにとまったカナブンを手で振り払ってみるとリビングの方に飛んで行った。
「もう向こうに行きましたから大丈夫ですよ。もういません」
(泣いている、のか…?)
たかが虫一匹に尋常じゃない反応を示したことに疑問を抱く。何かトラウマがあるのだろうか。
「美咲さん」
そろそろ僕の理性も限界だ。
「美咲さん、もう大丈夫ですよ」
背中をポンポンとすると、ようやく落ち着いたのか、顔を上げた。
「っ」
一瞬、理性が吹き飛びそうになったので言ってみる。
「いつまでもそんな格好で抱きついてるなら、襲いますよ?」
「…え?」
彼女は自分の格好を見ると、途端に顔を赤くして勢いよく僕から離れた。そして少し泣きそうになりながら言った。
「あ、ああありがとうございました!!」
そして勢いよく浴室に戻って行った。
「…」
元々天然なのだろう、そういえば圭一も時々ぶっ飛んでいるところがあった。しかし。
(危なかった…)
彼女が怪我をしていなかったら、彼女があと少し僕に抱きついていたら、抑えられなかっただろう。
「…ふぅ」
リビングに戻るとカナブンをベランダから逃がした。
「…っ」
浴室に戻ってから自分のした事を思い返して、恥ずかしくなる。
(穴があったら入りたい…)
虫はダメなのだ。昔、私の見張り役だった女性が私のせいで「虫に殺された」のだ。私はその一部始終を彼女が息絶えるまで見させられた。それからというもの、虫を見ると先程のようにパニックになってしまうのだ。
(聞かれる、よね…)
そこだけは、本当の事を話しても大丈夫だろう。
(でも…)
どんな顔をして会えばいいのか悩んでいると。
ーーーコンコン
「はい!」
『もう虫はいませんから出てきても大丈夫ですよ』
「は、はい!」
私は急いで浴室を出た。
「…ありがとうございました」
榊原さんにクスクスと笑われた。
「いえ、ごちそうさまでした」
「っ!」
榊原愁という人物が分からない。真面目に話していたと思えばからかってきたり、核心をつく事を言ったり。私は彼に振り回されてばかりだ。今までこんなに一喜一憂したことは無かった。それに、彼を知りたがってる自分がいる。今まで誰にも興味を持たなかったのに。できるだけ人と距離を置こうとしてきたのに。
「…すみません、少しからかいすぎましたね」
榊原さんが急に黙った私の顔を覗き込む。
「あ、いえ」
(本当に、不思議な人だ)
「こちらへ」
榊原さんに促され椅子に座る。
「湿布を貼りましょう」
「ありがとうございます」
ヒヤッとする感覚が鈍痛のする首に気持ち良い。
「肩の方はどうですか?」
「大丈夫です。中村さんが手当てしてくださったおかげで、もうくっついてます」
結局、その夜中村さんは虫の事については聞いてこなかった。
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