純白の女神×漆黒の剣士と七色の奇跡

神寺雅文

第一章―抹消×新生6

 グチャ、グチャ――。
 また始まった。またあの音が鳴り始めた。
 自分を拘束しようと必死の男達を振り払い、騒ぎに気が付きこちらを振り返る患者、病院関係者の脇を駆け抜ける結希の鼓膜に、この元凶の始まりの一つである音が纏わり付く。
「なんでだ! なんでだよ!」
 停止を求める怒号よりも、不可抗力で突き飛ばしてしまった見舞い人の女性の悲鳴よりも、不快な粘着音はより大きく鳴り響いている。
 独特の閑静さを失う病院内、その哀惜すら孕む儚い雰囲気を醸し出す病院だからこそ“奴”の異様さがハッキリと分かった。
 だから、結希は石膏が砕ける音を盛大に響かせながら背後を顧みる事無く無我夢中で走っている。どんなに通行人を押し飛ばそうが、非難を浴びようが立ち止まる事は出来なかった。
 可笑しいのは“奴”や菜月だけではなかった。
 ギプスで固定される両足が異常に軽いのだ。忌々し幻視を見てからここまで走る間に、足首を固定され上手く走れず不格好な姿勢で、男達からも“奴”からも脱兎の如く逃げていた。
 それにも関わらず、散漫する意識の中で熱を帯び始めた足首から太ももが急に石膏の重みを無視して軽いのに気が付いた。
「あああ、危ない!」「ふぉわ、あわあわああああ」
 廊下の角から手摺に捕まりリハビリをする患者と医師が結希の前を遮った。それを交わすにも廊下の幅は狭い上にスピードが付きすぎて停まれない。相手ディフェンスに四方を囲まれた時と同じ状況だと、お互いが危機的状況を理解してから回避行動に移る僅かな時間の間に思った結希は、自分でも信じられない行動に出た。
 触れば小枝の様に簡単に折れてしまいそうな患者の肩を支えにするべく手を置き、体操選手がアンマで競技するかの様にアクロバティックな方法で二人の頭上を飛び越えてしまったのだ。
 病で老いぼれた自身を踏み台にし軽々と二回転しながら低い空を飛行する十代の患者が、シワだらけの双眸が驚愕で丸々する先で見事に着地すると、危険走行を一喝するのを忘れ拍手を送ってしまう程に一連の動作は可憐であった。周囲もその一種のパフォーマンスに見惚れて言葉を無くす。
 妙に静まり返った廊下に、石膏が砕ける不気味な音だけが響いている。
 ――そんな馬鹿な。
 人を飛び越えて置きながら結希自身が一番驚き信じられていなかった。一貫の終わりだと悟った次に、左右に飛びのく選択肢を捨てそれがさも当然だと言うが如く上に回避すると選んだ神経回路を疑った。
「熱い、熱い」
 ――この熱は一体何なんだろ。
 確かに体操部の助っ人で何回かバク転や器械体操を行った経験はあるが、咄嗟の判断で人を呼び越えられる程の運動神経を持っていると思いもしなかった。こんな“人間離れ”した行動は結希でも初めてであった。それを終えて全身がまた熱くなっている事に気が付いた。
「君、いい加減にしないか!」「え、すみま、あああああ」
 やっと追いついてきた男達の一人が着地した態勢で蹲っている結希の肩を掴み引き立たせようとする。ところが素直に従う結希は振り返るなりまた瞳を廊下の奥に向け叫んだ。
「本当にやめんか! 体操している時に頭でも打って変なモノが見える様にでもなってしまったと言いたいのか? まともじゃないぞ」「違う、僕は普通だ……あいつが可笑しいんだ」
 消毒液臭く儚く見える白が基調の廊下だからこそ、黒ずむ影はより異常な姿に見えてしまう。白光が跳ね返る床に脚を付ける事無く浮遊する“奴”が十メートルの距離まで接近していた。
 ケタケタと笑い結希が同じ人間達に蔑まれるのを耳まで裂けた口から二股の舌を垂らす“奴”が見ている。獲物が勝手に弱まって動けなくなるのを、大鎌と言う手ぐすねを引いて待っているのだ。その傍観行為がさも狩る側の定石と言いたそうな余裕の笑み。
 ――ふざけるな。それを見て結希の内から熱くたぎる何かが噴き出た。先刻病室で感じた血脈が肉体を駆け巡る。ギプスをしても軽い足が更に重量を無くしていく。
 その血脈が通った後の節々は、まるで重みと言う概念が消滅してしまった様に軽い。無重力を体験した事がない結希であったが、この状態はまさに宇宙を漂う宇宙飛行士が体験するそれと思うほどであった。全身が重みを失い、新しい潤滑油でも注入された感覚がある関節の動きは滑らか以上に俊敏に動いた。
 昨日の夕刻、脳を潰され危篤状態まで追いやられたにも関わらず、結希の肉体は生まれ変わった様に躍動感ある人間らしからぬ無重力状態へと変化した。熱き血脈が英気を怯えてばかりいた結希に与えている。
「ふざけるな! お前は一体なんだ!」「……」
 新しい血の流れをシッカリと感じた結希は、無重力状態になってから無言の男を交わし足を一歩踏み込んだ。
 そして、吹っ飛んだ。正確に言うと予想も出来なかった跳躍力に驚き、前のめりになりながら“奴”の脇をレーシングカーの様に低い体勢で通り過ぎ転げた。
「いててて、なんだよ今の? 本当に僕の身体なのか?」
 一歩踏み出そうとしただけで十メートルの跳躍である。とても人間が出来る技ではないので、運動神経の良い結希だからと言ってその人間離れした自身の動きに膝を床に着きつつ困惑する。その二回目の奇跡的な動きに今度は歓声はおろか拍手すらはなかったのが妙に思えた。
 しかし、今は目の前の状況である。確固たる平穏を脅かす“奴”をどうにかしなければイケない。
「菜月……」
 依然として大鎌を握りケタケタ笑う“奴”を視線に置きつつ菜月の姿を探す。やはり心の中では現実を否定したく、自分の求める現実を象徴する菜月を求めて廊下を見渡すが、
「え、なんで? また僕、騒いでるよ?」
 あれ程喧噪に包まれていた廊下が病院らしい閑散とした哀惜の世界に戻っている。自分をここまで追いかけてきていた男達もどこかに居なくなっている。拍手をくれた老患者も何事も無かった様に背中が大窓からの逆光で霞む距離でリハビリをしている。
 駄々っ子が遂に母親から愛想を着かされ放置され戸惑う気分に結希もなっている。あれほど騒ぎただでは済まされないことくらい結希も脳の片隅で考えていた。菜月を引き倒し他の患者に怪我を負わせる事態を引き起こしても可笑しくない行動をとった。
 こっびどく叱責されるべき過失を複数犯したと言うのに、廊下は十分前よりも静まり返っているのだ。誰もが結希の存在を忘れてしまった。そう、この状況だけで物語っている。
「嘘だ」
 あれだけ噴き出ていた英気が、それと同等に信じられない早さで消え去り、また重力が戻ってきた。急に米俵二俵を担がされた衝撃を全身に受け結希は座り込む。息すら上がってしまう重量であった。 
 それが本来結希の肉体状況で体重であるのだが、一回無重力を感じてしまうと、元の体重すら数倍に感じてしまいへ垂れこむしかできないのだ。
 そこで“奴”が傍観主義を解除した。
 音もなく床を滑り近寄ってくるのを結希は気配で感じている。視界の先には、ナースステーションの前で担当医師を血相を変え呼びに行ったはずの看護師が、呑気に同僚と話し込んでいるのが見えている。
 ――何かが可笑しいんじゃない、全部が可笑しいんだ。こいつだけじゃない、みんな変だ、みんな僕を忘れちゃった。
 衛生環境が厳しい病院に相応しくない悪臭が鼻孔を突くと、結希は機械的にその臭いが漂って来る頬の左側を見上げ自分を見下ろす紅い二つの目玉を睨み付けた。
「なんなんだよお前は、幽霊か? それとも死神か? その鎌で僕をまた殺しに来たのか?」「……」
 結希を馬鹿にしたいのか、二股の舌が左右に激しく揺れるが、“奴”は何も言わない。ジッとその紅いひとみで死相が浮かぶ結希を見下ろしている。
「僕はお前に殺される様な事した覚えないよ。ただ、毎日を楽しく生きてただけさ、化け物に命を狙われる事なんてしてない」
 その持て余すほどの運動神経を妬まれる事はあれど、命まで狙う人間に会った事はない。
「ああ、お前はどう見ても人間じゃないから、僕なんかじゃ想像もつかない理由でここに来たんだろね」
 半ば諦めで“奴”との会話を試みる結希。彼らしくない希望を捨てた目を、紅い眸がより濃い淀んだ色に変色し見据える。まるで弱る結希を喜んでいる様に色素が徐々に深みを出す。
「悍ましいねその目、見ていてやる気がなくなるよ」「……」「今から殺す相手とおしゃべりは意味ないか。いいよ、どうせ菜月にもう会えないなら死んでも良いさ、あの日々に戻れないならいっそ殺してくれよ」
 色素が黒系統なのか紅系統なのか人間には識別できない微妙な色合いになった眸に、猛禽類の眸と同じ形をした大小の目玉が無数に浮かび上がり蠢く。
 それが合図だったのか“奴”が上体を捻り大鎌を振り落す構えを、気色悪くひしめき合う眸を無抵抗で見つめる結希に向ける。そして眉間目がけて大鎌は振り落された。
《わっぱ! 何を諦めとる。奴の目を見るんじんでない、正気を吸い込まれるぞ》「誰?」《いいか、顔に熱くなるまで意識を集中させるのだ》
 それはしゃがれた低い男の声であった。それに従い大鎌の刃先を見つめつつ眉間辺りに神経を集中させる。熱い。熱い。熱い。顔面をマグマが駆け巡る。
 バキッ。
 人生で二回目のあの音が結希の鼓膜と脳に響くが――
「――あれ、痛くない?」《その程度のヨウコンなど、カミに仕える我らの足元にも及ばぬ存在、臆する事はないぞわっぱ》《かかかか、悪い癖だぜ、クソガキなんか助けたってすぐ死んじまうだけだぜ?》《お前はだまっとれ》「おじいさん、誰と話してるの?」《ワシは爺さんなどではない!》《かかかかか、その状況で良い度胸だクソガキ》
 脳に直接語りかけてくる男のその声と、その背後でしゃべっている様な奥行感があるもう一つの声が結希の殺伐とした心を和ませる。
 その重量、外見とは裏腹に赤錆びた刃先は、薄い皮膚が貼られるだけの眉間に触れ動きを止めた。それはただ切れ味が悪いから、力加減を誤ったからではない。確実に“奴”は結希の眉間を貫く為に大鎌を振りおろし、その刃先も打撃だけで眉間など容易く粉砕する強度もある。
 では、なぜ大鎌はただの人間である結希の眉間を打ち砕けず、逆に呆気なくその刃先を砕かれてしまったのか。
《上だ、上で待っておるぞ》
 それでも諦めの悪い大鎌が眉間に押し付けられるが痛みすら感じない。それどころか、無駄な事を繰り返す大鎌の背後に見える“奴”の表情が、謎の声が言う様にそれほど怖がる形相じゃないと結希は思えた。不思議な方法で他者とまともに会話をした事で、彼らしい冷静さを取り戻せたのだ。
「しつこいんだよ!」
 初めて触った感触である。金属物質とは違う素材で出来た大鎌を掴み上げ横に払った結希は、まじまじと憎たらしい笑みを浮かべる“奴”を見つめそう言い捨てる。そのまま近くの非常階段を言われたとおりに上るのであった。

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