純白の女神×漆黒の剣士と七色の奇跡

神寺雅文

第一章―抹消×新生5

 これまでも幾度となく、絶体絶命のピンチを切り抜けてきた。
 都大会決勝の最終回裏、一点差のまま迎えたツーアウト残塁なしでの打席でも、結希は圧倒的な実力の差で訪れた絶望を、その手に握られたバット一本で打ち破り勝利をチームメイトにもたらしてきた。般若の趣ある巨漢の男を小柄な身体を上手く使い一本背負いで投げ飛ばしてきた。
 いかなる競技でも、いかなる逆境に身を置かれても、彼はその身一つで悲観に沈む仲間達を救ってきたのだ。スポーツ界においての“神の子”それが、神寺結希の他者の圧倒的な実力、日々の努力で培った覇気をも、生まれ持つ天性の才能でいとも簡単に無に返す運動神経の良さを如実に物語り、言ってしまえば真の勝者となれる素質を証明していた。
 生まれた時からの負け知らず。小学一年生の菜月をイジメる高学年の男子を一撃で撃退したのを結希もまだ拳に残る感触と一緒に覚えている。菜月との下校時に、結希の才能を妬み執拗に絡んできた不良集団を、路地裏で見様見真似で覚えた護身術でノックアウトにしたことも記憶に新しい。
 今までどんな勝負にも負けたことがなく、変えられない運命などなかった。その場面に菜月がいれば、水を得た魚の様に生き生きとし追い詰められる者から追い詰める者に豹変した。食物連鎖における捕食される運命の弱者から、その弱者を意のままに追い詰め引導を渡す事が出来る立場になれた。
「菜月に会わせてください、僕はもう元気ですからここから出してください」
 もしかしたら、今回の事故も怪我も菜月に会えば嘘の様に消えるかも知れない。事故げんじつが、奇怪な存在である“奴”が、満身創痍の身体から抹消出来るかもしれない。そう、愚考と分かりながらも思っていた。
「何言ってるの! そんな顔で彼女に会えば、もっと彼女を心配させる事が分からないの?」「そんなことない! 僕はどんな時でも奇跡を起こせた! 菜月を笑顔にしてきたんです、こんな事で終わる人間じゃない!」
 これまでの経験で無意識に自意識過剰になってしまった結希は本気で“奴”から目を背け、そんな自分を“神の子”と讃えられるまでに導いた勝利の女神へ会う為に、
「何をする気! やめなさい!」「こんなモノをしているから病人扱いされるんだ。僕は怪我なんてしてない、あいつは存在しないんだ、だからこんなモノする必要なんてないんだ」
 自分をミイラ男へと変える包帯に躊躇うことなく手を手を掛けた。
 看護師から見れば、患者が錯乱を起こし重傷である頭部と顔面を覆う包帯を力任せに引き裂こうとしている様にしか見えない自虐的行為を行い、言葉を無くし呆然と目の前の奇跡を見つめる彼女に結希は言った。
「……ほら、やっぱり事故なんて嘘なんだ。あいつは存在しないんだ」
 楕円の鏡に見えるのは原型を留めていない悍ましい顔面ではなく、自分の見慣れた中世的で童顔だと、菜月や家族に評価される傷一つない元の顔であった。
「な、なんで? あんなに酷かったはずなのに? ベテランの先生でも目を反らした程なのよ……なんで?」
 これも結希が保有する奇跡を呼び起こす勝者としての素質が意味するモノだろうか。その外見でハッキリとわかる外傷が、手術にまで立ち会ったこの看護師が直筆で記載したカルテの情報を凌駕し完治しているのだ。
「これで分かりましたか? 早く、菜月に会わせてください」「わ、わかったわ、いま先生を呼んで再診してもらうから、その後に今後の事を決めてちょうだい」
 背後の青空が透ける窓から直射日光を浴びる結希の姿が、まるで後光が眩しい釈迦が神託をする姿と一致した看護師は、衣服、包帯、両足にギプスが残る外見だけは重病人の結希の願いを聞き入れ担当医師を呼びに病室から飛び出した。
「へ、な~んだといつも通りの顔じゃん、これ血糊なんじゃないのか?」
 怪我を疑う余裕がようやく出てきた。
「眉毛やまつ毛だってちゃんとあるし、鼻も歯も折れた痕跡ない。やっぱりあれは夢だったん――」
 手鏡を前後左右に動かし顔面を隅々まで観察していると、もう一度手鏡を顔から最大限遠ざかる位置で止めた時、顔の細い輪郭から頭頂部、背後のカーテンの開いた窓が見える事に気が付き、視線が昼時にも関わらず漆黒と藍色に二分された空に釘付けとなった。
 頭頂部の僅か上を映す鏡面上部がハッキリとした漆黒に塗りつぶされている。純正の黒髪よりも深い漆黒が、曇天を形成するかの如く晴天を横一線で区切っているのだ。遠くビル群の隙間から見える白む空はちゃんと青いのにも関わらずである。それが信じられない結希は、何度も瞳を瞬かせユックリと振り返る。
 看護師とのやり取りが想像以上に長く、夜が足早に訪れ藍色に染まる空に黒衣を纏わせようとしている、と最初は思った。足を上げベッドを跨ぐ方法で窓辺に移り、ギプスで固定された足で立ち上がり肉眼でその異常な空を見上げる。
「なんだよこれ、まだ昼だろ?」
 点けっぱなしの液晶テレビから時報を読み上げる声が聞こえ、科学的な見解が出来なくなる。現時刻は正真正銘の午後一時。周期的に夜が訪れ空を闇で支配する時間には、生憎だがまだまだ余裕はあり、七対三で黒空が優勢の空模様は地球科学的にあり得ない。それを意味する事を否定したい結希にとっては苦々しい以上にやっぱり信じたくない事態である。
 それなのに地球誕生から人類繁栄の昨今まで我々の天上にあり続けた空が、不可思議な現象を発生させ結希を見下ろしている。本来ではあり得ない色合いで蒼天を染めていく。
「まるでペンキで塗りつぶしたようだ……やっぱりどっか打ったのか?」
 それ以外の異常が発見できない黒と藍でせめぎ合う、雲が浮かび太陽がさんさんと輝く空を結希は見上げ微熱を帯びる額を手で摩る。
 空が何故、日中は青く見え夜は黒く見えるかなど、小学生でも簡単になら説明出来る時代である。変わる空模様の確たる根拠を真っ向から否定しなければ証明が付かない二色の空が、結希にまた“奴”の存在を――現実を突き付け眩暈を誘う。
「――ゆ、ゆう……」
 不意に背後の入り口から結希が今一番聞きたい声が聞こえてきた。が、振り返る前に、その声の主が入室する事のないままスライド式の戸は閉まってしまった。
「菜月か? 今の声、菜月だよな? どうしたの? 入ってきなよ?」
 少し待てばまた入ってこようとするだろうと思った結希であるが、一分経てど二分経てど来訪者は訪れない。もしかして菜月じゃなかった? と一考してみるが、あれは絶対に菜月の声だと確信を持つ結希は手鏡をベッドに放り投げ彼女を追いかけようとした。
「あ、しまった!」
 力加減を誤り手鏡が予想地点を飛越し先ほどまで自分が座っていたベッドの淵でバウンドすると、そのまま床へと落下し鏡面が砕ける音が響く。
 急いで窓際から反対側に周り込み蜘蛛の巣状にひび割れた手鏡を手に取る。結希の顔が歪に割れた鏡面に映っているのが見える。
「くっ……」
 そこで脳を貫く鋭い痛みに視界が揺らぎバランスを崩した結希は床に跪き上半身はベッドに預け朦朧とする。
「熱い……熱いよ……」
 心臓だけでなく首筋、手首、腕、足、腹部、全身のあらゆる動脈が熱を帯び脈打ち“何か”が血管を通じて全身へ送られている感覚を覚える。初めて感じる血脈の流れに、結希は根拠などない、直感で自分の身体に今までとは違う“何か”が流れ始めたのを感じている。
「どうなっちゃうんだよ僕……普通に暮らしたいだけなのに……死にたくない」
 現実だとは認めたくなくても記憶に残る悍ましい記憶、その目を反らしたい“奴”の痕跡を重大ニュースとして報道するマスメディアの存在が、まだ中学三年生の少年を不安と恐怖が渦巻く闇に、孤独した状態で突き落とす。
平穏な日々、明るく楽しかった日々を象徴する家族と幼馴染の菜月に会いたかった。
「うううーあああああああああ」
 たったそれだけを求める結希を、謎の鼓動が苦しめ現実を突き付けようと激しさを増す。今まで塞がれていた源泉が噴き出る様に、結希の心臓から“何か”が噴き出て身体を濁流の如く流れ、毛穴をこじ開け不可視な気体となって体内から放出される。
「なんで、なんで」
 内では血脈がマグマとなり全身を駆け巡り、外では毛穴から噴き出る不可視な気体が全身を覆い肉体を逆上せた状態にさせる。その、おぼろげな視界の先に、結希は自分の名前が勝手に消えていくのが見え涙声を発しながらそれを理解しようとした。
 パソコンのオフィスソフトで作成され大型のプリンターで印刷されたその文字が、神、寺、結、希の順に一偏ずつ消えていき、希の最後の偏が煙の様に消えると、視界が一瞬、本当に一瞬だけ、映像が途切れた様に暗くなり、また患者の氏名が記載されるべき白紙となったプレイトが映る視界へと戻ってきた。
「ダメだ、こんな所にいちゃいけない」
 瞼が瞬きした様に、瞳が機能を一時停止させた。それが合図だったのか、全身の異常は治まっていた。その隙に両足のギプスが邪魔で歩きにくいが、結希は病室から出る為に戸を開け一歩外へ足を踏み出した。
 結希が独りで生命の危機に瀕している時でも、病院は慌しく営業しており何も分からなくなる結希を一層混乱させた。空がペンキで塗りつぶされていると言うのに、世間は“あの時”と同じようにそれに無関心なのだ。
「な、菜月!」
 それでも自分がどうなってしまったのか確認したい結希は意を決して歩き出し、数名の看護師と医師、老患者、見舞い人が従来する小奇麗な廊下を、その流れに合わせて歩く菜月の後ろ姿を見つけ、藁にでも縋る思いで声をかけギプスの石膏が砕ける音を響かせながら駆け寄った。
「よかった、菜月に会えて」「はい?」
 闇を引き裂く光明を見つけた結希の顔はそれに相応しい表情で、対する菜月の表情は道端で知らない男から馴れ馴れしく声を掛けられた事を嫌そうにする女性そのモノだった。
「失礼ですが、誰ですか? なんで私の名前を知ってるんです?」
 他人行儀でよそよそしい言葉使い。見慣れているはずの彼女の顔が別人に見える。ナンパ男をどうにか上手くやり過ごそうとする、本当に他人と接する冷たい愛想笑いにもなっていない真顔が、生まれた時から幼馴染として育つ運命であった結希に向けられる。
「なんでって、僕は僕だよ! 包帯してないんだから分かるだろ?」「え、え? 僕って言われても……」
 菜月が、誰か助けて変な人がいます信号を周囲の人々に視線で送るのを見ると、彼女が言っている事は、その変な人でもあり幼馴染でもある結希を驚かせる為の嘘でも、心配させた罰でもなさそうである。それを、一番早く理解したナンパ男は、口を半開きにし瞳をユラユラと動かし動揺を隠せないでいる。
「あの、私、用事あるんで……あれ? 用事?」「な、菜月やっぱり――」「なんで病院に来たんだっけ? 誰も入院してないよね? じゃあ、この花束は?」
 菜月が自分の一番好きな花であるせんにちこうの花束を大切そうに抱えたまま小首を傾ぐ。さっき結希の病室に入ろうとして引き返した声の主は、この花束を見れば菜月であった事は明白であるのだが、その声の主――菜月が記憶喪失にでもなったかの様な発言を真顔でしている。
 ――なんでだ、なんで僕を思い出せないんだよ! その花は菜月が事あるごとに僕に贈っていた花だろ? それじゃ、僕のお見舞いに来たに決まってるだろ!
 高さ三十センチ、茎の先に沢山の小花を球形に付ける深い紫色をした千日紅の花束を訝しぐ菜月に呆然と視線だけを向ける結希。もはや事故が、様態が、現実がではなくなった。菜月の中から結希の存在が消滅してしまったのだ。それとプレイトから自分の名前が消えた現象も関係あるのか考えようとするが――
「逃げろ菜月!」「キャッ! 何するんですか一体!」
 また“奴”が現れた。
 廊下の行き止まり、白い外壁が太陽光を反射させ眩しい向かいの病棟が見える大窓の前に、太陽光の逆光を浴びて黒ずんだ姿をした“奴”がまた結希の前に現れた。全ての元凶が、菜月の背後二十メートル先で、今度は靄としてではなく正真正銘の化け物となってから再臨してしまったのだ。
「あいつが見えないのか?」「何を言ってるんですか? 誰か、看護師さん呼んできてください」
 華奢な肩を掴み思いっきり自分の背後に引っ張り込んだ結希であったが、その勢いで転んでしまった菜月が一応は廊下の先を怒気の孕む瞳で見るが、あからさまに痛い人を見る視線を挙動不審の結希に向け直し、そんな二人の一連の会話と少女が引き倒されたのを目撃した人々が喧噪と共に集まってきている。それを呼び寄せる菜月の表情は“奴”を見ての恐怖ではなく、目の前の意味不明な言動と突然暴力を振るった結希への軽蔑で歪む。
 つまり昨日と同じように“奴”は結希にしか見えていないし、見えている結希はただナンパに失敗した腹いせの為に、か弱い女の子に暴力を振るった蛮人、精神疾患者でしかなかった。そうなれば、結希を囲む様に健全者や病人が集まってくるのも当然であり、それがなお更結希の恐怖心を煽り歪む狂気を生み出した。
「あああ、来るな! くるなああああああああああああ」
 人だかりが増えるにつれ周囲の目が厳しく結希の空になりつつある心に突き刺さる。自分に向けられる軽蔑の眼差しが、理性も良心も人間性おも狂わせる。
「おい、マジでこの子、頭可笑しいんじゃないのか? 本当に知らないんだよね」「知りません」
 それが癇癪の原因だと思った健全者の男性の一人が立ち上がろうとする菜月に手を貸しながら、突如廊下の奥を凝視して奇声を上げ始めた結希を憐れんだ目で見る。さすがにナンパの目的で女の子を引き留め、理解不能な事を馴れ馴れしく言った挙句に暴力まで振るってきた同年代の少年患者に、菜月も白眼視を向ける。その先にいる少年がまさか自分の初恋の相手で、しかも生命の危機に直面しているとも知らず、周囲の殺伐とした空気に同調して結希を狂人に仕立て上げる。
「いい加減にしないか! ここは病院だぞ!」「うああああああ、嫌だ嫌だあああああ」「なんて力が! ホントに子供なのか?」
 大の大人数人でも狂気に支配された“痛い少年”は拘束できない。
 視線の先で蜃気楼の如く揺らめいていた“奴”が、一度大きく揺らぐと姿を明瞭にし紅い二股の舌を出し笑うのだ。平常心でいられる訳がない、しかも一度殺されかけ部骸骨が陥没する音、脳味噌が潰れる音を聞かされている以上は絶叫でもなんでもして纏わりついてくる男共へ“奴”への恐怖を暴れ躍る四肢で叩きつける。
「なんで、なんで僕だけなんだよ! 他の人もいるじゃないか!」「お、おい! 待て」「取り押さえろ」「ダメだ足が速すぎる!」
 白光の逆光を浴び更に黒ずむ“奴”の背から、常識人には信じられない程に、巨大でその刀身を赤錆で刃こぼれさせる柄の長い鎌が出現した。まるで童話に出てくる骸骨の死神が持っている大鎌が現代に飛び出してきた様に見えた結希には、その大鎌を手に持った“奴”がそれこそ自分の命を奪いに来た死神にしか見えず、大勢の野次馬を当て身で吹き飛ばし無我夢中で“奴”から逃げ出した。

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