初めての恋

神寺雅文

解き明かされる過去43

 おじさんが何を言いたかったのか正直分からない。好きな女を泣かされても、いつも人のことを考えている? はて、何を言っているのだろうか。僕には分からない。
 重たいスライドドアを開け、車外に出ると「オッス!」って声が無数に聞こえてきた。市内でも有名な空手道場だ。屈強な男たちが切磋琢磨して己の体を痛めつけている最前線。サッカー部とは違う臭いがする。
 僕はここが嫌いだ。なぜ嫌いかって言うと具体的には言えない。たぶん、おじさんが苦手だからそれに合わせてここも苦手なのだろう。少しは小雨になった雨天の下、開け放たれた窓からは男たちの勇ましい声が聞こえてきてる。
 お礼言わないと後でなんて叱責されるか分かったものではない。仕方ない。雨宿りがてら見学するか。
「違う、脇の締めが甘い」「オッス」「拳を出すときの角度はこうだ」「オッス」
 私語を禁じられているのだろうか。オッスしか言わない教え子たち。小学生から中年男性まで幅広く存在する胴着姿の人間が、みな同じ型の練習をしている。おや、中には女の子もいるではないか。
 小学生の頃の奈緒を思い出す。回し蹴りをマスターしたとか言って、僕の鼻先すれすれを蹴り上げたあの時の奈緒の表情は爛々と輝いていた。
 僕からしてみれば、週三回も奈緒と遊ぶ時間を奪うここがその頃から嫌いだった。
 なぜ、女の子の奈緒が体を鍛えて男勝りな勝気な性格に拍車を掛ける武術に身を置かなければならなかったのか。聞いたこともない。自然と父親の生業が空手道場の師範なのだから、そこの子供が空手を習うのは当たり前だと無意識に決めつけていた。
 でも、奈緒はもう空手を習ってはいない。さすがに思春期を迎えて嫌になったのかも知れないなんて思っていたが、入口脇に静かに忍び込んで壁に掛けられている札に視線を走らせると、奈緒の名前の木札がまだ吊るされているのが見えた。
「おや、見学かな?」「いえ、僕は別に」「あ、もしかして雅君かい?」
 指導員だろうか。爽やかスマイルを浮かべた二十代くらいの男が僕に話しかけてきた。首肯で答えると男が不思議そうな顔をする。
「どんな子かと思っていたけど、なんだか弱そうだね」
 失礼な男だな。初対面だと言うのに、いきなりそんなことを言うとはどんな指導を受けているんだ。
「おっと、失礼。師範や奈緒ちゃんのお気に入りだから勝手に屈強な男を想像してたもんでね」
 お気に入り? 奈緒はともかく、おじさんに気に入られる理由はない。
「だって、師範の初めての弟子は君なんでしょ? ほら、あそこにあるのは君の名前だ。しかも、一番最初にあるってことは、そういうことになる」
 爽やかスマイル男の指先を追うと、確かに見覚えのある名前が木札に書かれている。でも、あえて言うのもバカらしい。僕がここでおじさんから稽古を受けた記憶など、どこの海馬の引き出しを探しても見当たらない。故にあれは別人だろう。
「そうなのかな~、在籍して十年経つ俺ですらまだ会ったことない人なんだよね。君じゃないとすれば、一体どこの馬の骨だと言うんだ」
 気になる理由が一番弟子を取られた。ってだけじゃなさそうな気配を漂わせ、男は離れていく。
 同姓同名か。決してありきたりな名前じゃないんだけどな。菅野雅、確かにそこにはそう書かれているし、一番年季が入っている。奈緒の名前はもっと後にあるし、ここが開業したのは僕が四歳とか五歳の頃と聞いている。
 まあ、どうでもいいか。軍隊の様に規律を保ち稽古に励む一団を見つめ、僕は虚無感に襲われた。
 拓哉のこと、サッカー部のこと。春香に頬を引っぱたかれたことが脳裏に去来する。
 春香には二度もあの場面を見られた。一度目はどこまで見たのか知らないけど、初めて激怒した表情を見たのはあの時が初めてだ。二度目なんて、おぼろげにしか覚えていないが泣いていた。それに――。
 何か大切なことを僕は忘れている。誰かに特殊な呼ばれ方をしたような気がする。あれ、なんだろうか。誰になんて呼ばれたんだっけ? 
 グルグルと倒れる前のことを思い出すが、肝心な部分がまったく思い出せない。気が付いたら保健室にいたし春香に頬を引っぱたかれた。そして、悍ましい夢を見た。
 僕は大切な何かを忘れてしまっている。
 そう気が付き、僕は踵を返した。
「帰るのか」「ありがとうございました」
 おじさんの声がして振り返ることなくそう告げる。一つの足音が遠ざかるのが聞こえ、そのまま帰路に就く。
 何かを思い出す。自分で言っておいて笑ってしまうほど、抽象的な表現である。何を思い出すべきなのか、なんでそんなことを思ったのか。検討も付かないまま、自宅に帰り風呂に入ってベッドに潜り込んだ。
 ふと、スマホを見ると春香からラインが入っていた。

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