黄昏の覇者と暁の獣士
Episode―1 目覚め
傾いた陽が二人の影を長く伸ばす並木通り。日曜日なのに珍しく人通りは少なく、まだ暖かくなりきらない初夏の風が涼しい。
「もうすぐテストだったよな? 勉強は進んでる?」
男が、隣を歩く少女に問う。二人の間に緊張はなく、自然と身体が触れ合える距離で歩を進めている。少女は風にさらわれた茶髪をよけて、彼の問いに答えた。
「大丈夫ですよぉ、先輩。わたしを誰だと思ってるんです?」
彼女の少しいじけた返答に、二人して顔を綻ばせた。
「ふふっ、そうかそうか。なら良かったけど。……もう二年かぁ」
「そんなにあっという間でした?」
「まあ、な。こんなに長く続くとも思わなかったし」
彼らは恋人の関係を初めて、今日でちょうど二年になるのだ。
「わたしは、……ずっとこのままでもいいんですよ?」
ふと、彼女は彼へ視線を向ける。その紅潮した頬は、夕日の赤と混じって彼女の嫣然とした笑みを一層引き立てている。それが、まだあどけなさの残る彼女に似つかわしくない艶っぽいものだったから、彼はとぼけて気持ちの昂ぶりをごまかした。
「そっか……恋人以上にはなりたくないってことか」
「ち、違いますっ。そうじゃなくて、このまま、ずっと一緒に……」
彼女がそう言い終わらないうちに、彼は彼女を抱きしめる。風に吹かれていた時とは違う、ふわっと香る、ほんのり甘い彼女の匂い。
「茜、君が高校を卒業したら、一緒に暮らさないか?」
突然のことに、茜は言葉を絞り出すこともできず、ただただ首を縦に振るばかりだった。そんな茜に、彼はなおも畳み掛ける。
「オレも、このままずっと一緒にいたい」
「先輩……わたし、……」
茜の言葉の続きは、彼には届かなかった。言葉を発する前に、彼に突き飛ばされたのだ。驚いて顔を上げれば、その瞬間に、彼がいたはずのところに大型のトラックが突っ込んできたのだった。電柱にぶつかったトラックはそこで止まり、へし折れた電柱で運転席は見るも無残なほどに押し潰れていた。
「う、そ……。先輩……? 先輩……っ!」
呼びかけても、返事が返ってこないことはわかっていた。それでも、止めることができない。見たくないはずなのに、前輪の下に広がる赤い水たまりに茜の視線は吸い寄せられる。
「いや……いやだよ……いやぁぁぁぁぁっ!!」
こんな大参事が起きていても、周りに人はいない。陽がまさに沈もうとする中、茜は孤独に泣き狂っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「浅葱さん、本当に大丈夫? 俺がいない方が……」
「ううん。大丈夫だから。心配しないで」
ぐったりとソファに腰掛ける女性の隣で、一人の青年は彼女の手を心配そうに握る。
「体調が良くないんだったら、ちゃんと休みなよ?」
「蓮くんが側にいてくれないと、私休まないかもしれないよ?」
なんて、浅葱は蓮の心配を逆手にとって、悪戯に微笑んだ。
「わかった。ちゃんと側にいるよ」
いとおしいものを愛でるように、蓮は浅葱の長く美しい黒髪を優しく撫でる。彼を信頼しきっている浅葱は、彼の肩に身体を預けて、目を閉じた。
すると、感じる衝動。
ドクン、と跳ねるような鼓動とともに、身体から嫌な汗が流れるのがわかった。血の巡りが速くなって、全身が熱い。血を、欲している。傷つけたい。壊したい。攻撃的な欲求が頭の中を支配して、浅葱の理性を奪っていく。
「浅葱さん? 大丈夫?」
そんな蓮の優しさも、今の浅葱には届かない。ただただ思う。――殺したい。
ガラスが砕け散るように、浅葱の中で抑えていたものが溢れだした。辺りは一切の光を失い、暗闇に染まる。と、一点の光明によって視覚が戻った。窓の外から入り込む青白い光に照らされた彼女の姿に、蓮は戦慄を覚えた。
「浅葱……さん?」
そう思いたくなんかないのに、目の前の異形の怪物をそう呼んでしまう。さっきまで彼女のいた場所にいる、巨大なコウモリのような漆黒の怪物を。
怪物は蓮の首めがけて翼のついた右腕を振るい、一閃のうちに彼の首筋を裂く。彼の命ともいえる真っ赤な花弁が舞い散る様子を満足そうに眺め、その傷口に噛みついた。
「浅葱さん、俺は……それでも、あなたのことが……」
絞り出すような蓮の言葉を聞き届けることなく、怪物は蓮の命の灯を消してしまった。人を殺めたことで満足したのか、怪物は元の姿に戻り、辺りも元の明るさに戻っていく。
コウモリの怪物は、浅葱だった。
彼女は血だまりの中に眠る蓮を見て、自分の犯した過ちを自覚する。
「私……どうして……。ごめん……ごめんね」
浅葱は知っていた。自分の正体を。それでも、彼を愛していたから、嫌われたくなかったから、隠していた。浅葱にはわかっていた。元々攻撃衝動はあった。だからいつかこうして、彼を殺してしまうのではないかと。それがついに、現実のものとして起こってしまった。
「ごめん……蓮くん」
そんな浅葱の呼びかけに応えるように、血だまりの中の彼は、ドクンと脈動して、身体を起こした。
「……浅葱さん」
「蓮……くん」
何もなかったかのように、ただ少しやつれた様子の蓮は、驚きのあまり呆然とする浅葱の肩を抱き寄せる。
死んだはずの彼は、生き返ったのだ。
「浅葱さん、それでも俺は、あなたが好きです」
「……ありがとう。……ごめんね」
浅葱は彼がどうして生き返ったのか、見当がついていた。謝って許されることではないこともわかっている。それでも謝らずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
泣き崩れる茜がふと顔を上げてみると、そこには怪物の姿があった。獣のように毛深く筋肉質で、牛の角のようなものが生えた大男が、まさに今、茜に向けて大きな斧を振り下ろそうとしていた。
ああ、わたしもここで死ぬんだ。先輩のところに、わたしも逝ける。そう思った茜は目を伏せ、死を待った。
しかし、その斧は茜を切り裂くことはなかった。怪物を突き飛ばして現れたのは、西洋騎士の甲冑のようなものに身を包んだ戦士。現代日本には不似合な金属光沢のある鎧が全身を覆い、ところどころに青を基調とした装飾が施されている。顔は、剣道の面のような銀光りするマスクを被っていて見えない。
突き飛ばされた牛男が、斧を手に騎士に襲い掛かる。斧を振り上げたがら空きの胴に、騎士は蹴りを入れて、牛男を吹っ飛ばした。牛男は斧では役に立たないと思ったのか、それを投げ捨て、騎士に突進してくる。と、思いきや、狙いは騎士ではなく、呆然と地に座り込んでしまっている茜だった。
騎士は茜の前に立ちはだかり、突っ込んでくる牛男に向けて、タイミングよく拳を突き出した。牛男の角が騎士を捉えるのとほぼ同時に、騎士の拳は牛男の胸を貫いた。すると、牛男は石化したように動かなくなり、やがて砂のように崩れた。
牛男を撃退した騎士は茜の方へ振り返ると、淡い光に包まれながら、全身の鎧が剥がれていく。鎧がすべて消え、そこに立っていたのは、紛れもなく彼、三倉凛だった。
「先輩っ! よかった……!」
凛は、思わず抱き付いてくる茜の頭を撫でてやる。
「大丈夫か? ケガはないか?」
「うん、先輩のおかげで。ありがとう、先輩」
「もうすぐテストだったよな? 勉強は進んでる?」
男が、隣を歩く少女に問う。二人の間に緊張はなく、自然と身体が触れ合える距離で歩を進めている。少女は風にさらわれた茶髪をよけて、彼の問いに答えた。
「大丈夫ですよぉ、先輩。わたしを誰だと思ってるんです?」
彼女の少しいじけた返答に、二人して顔を綻ばせた。
「ふふっ、そうかそうか。なら良かったけど。……もう二年かぁ」
「そんなにあっという間でした?」
「まあ、な。こんなに長く続くとも思わなかったし」
彼らは恋人の関係を初めて、今日でちょうど二年になるのだ。
「わたしは、……ずっとこのままでもいいんですよ?」
ふと、彼女は彼へ視線を向ける。その紅潮した頬は、夕日の赤と混じって彼女の嫣然とした笑みを一層引き立てている。それが、まだあどけなさの残る彼女に似つかわしくない艶っぽいものだったから、彼はとぼけて気持ちの昂ぶりをごまかした。
「そっか……恋人以上にはなりたくないってことか」
「ち、違いますっ。そうじゃなくて、このまま、ずっと一緒に……」
彼女がそう言い終わらないうちに、彼は彼女を抱きしめる。風に吹かれていた時とは違う、ふわっと香る、ほんのり甘い彼女の匂い。
「茜、君が高校を卒業したら、一緒に暮らさないか?」
突然のことに、茜は言葉を絞り出すこともできず、ただただ首を縦に振るばかりだった。そんな茜に、彼はなおも畳み掛ける。
「オレも、このままずっと一緒にいたい」
「先輩……わたし、……」
茜の言葉の続きは、彼には届かなかった。言葉を発する前に、彼に突き飛ばされたのだ。驚いて顔を上げれば、その瞬間に、彼がいたはずのところに大型のトラックが突っ込んできたのだった。電柱にぶつかったトラックはそこで止まり、へし折れた電柱で運転席は見るも無残なほどに押し潰れていた。
「う、そ……。先輩……? 先輩……っ!」
呼びかけても、返事が返ってこないことはわかっていた。それでも、止めることができない。見たくないはずなのに、前輪の下に広がる赤い水たまりに茜の視線は吸い寄せられる。
「いや……いやだよ……いやぁぁぁぁぁっ!!」
こんな大参事が起きていても、周りに人はいない。陽がまさに沈もうとする中、茜は孤独に泣き狂っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「浅葱さん、本当に大丈夫? 俺がいない方が……」
「ううん。大丈夫だから。心配しないで」
ぐったりとソファに腰掛ける女性の隣で、一人の青年は彼女の手を心配そうに握る。
「体調が良くないんだったら、ちゃんと休みなよ?」
「蓮くんが側にいてくれないと、私休まないかもしれないよ?」
なんて、浅葱は蓮の心配を逆手にとって、悪戯に微笑んだ。
「わかった。ちゃんと側にいるよ」
いとおしいものを愛でるように、蓮は浅葱の長く美しい黒髪を優しく撫でる。彼を信頼しきっている浅葱は、彼の肩に身体を預けて、目を閉じた。
すると、感じる衝動。
ドクン、と跳ねるような鼓動とともに、身体から嫌な汗が流れるのがわかった。血の巡りが速くなって、全身が熱い。血を、欲している。傷つけたい。壊したい。攻撃的な欲求が頭の中を支配して、浅葱の理性を奪っていく。
「浅葱さん? 大丈夫?」
そんな蓮の優しさも、今の浅葱には届かない。ただただ思う。――殺したい。
ガラスが砕け散るように、浅葱の中で抑えていたものが溢れだした。辺りは一切の光を失い、暗闇に染まる。と、一点の光明によって視覚が戻った。窓の外から入り込む青白い光に照らされた彼女の姿に、蓮は戦慄を覚えた。
「浅葱……さん?」
そう思いたくなんかないのに、目の前の異形の怪物をそう呼んでしまう。さっきまで彼女のいた場所にいる、巨大なコウモリのような漆黒の怪物を。
怪物は蓮の首めがけて翼のついた右腕を振るい、一閃のうちに彼の首筋を裂く。彼の命ともいえる真っ赤な花弁が舞い散る様子を満足そうに眺め、その傷口に噛みついた。
「浅葱さん、俺は……それでも、あなたのことが……」
絞り出すような蓮の言葉を聞き届けることなく、怪物は蓮の命の灯を消してしまった。人を殺めたことで満足したのか、怪物は元の姿に戻り、辺りも元の明るさに戻っていく。
コウモリの怪物は、浅葱だった。
彼女は血だまりの中に眠る蓮を見て、自分の犯した過ちを自覚する。
「私……どうして……。ごめん……ごめんね」
浅葱は知っていた。自分の正体を。それでも、彼を愛していたから、嫌われたくなかったから、隠していた。浅葱にはわかっていた。元々攻撃衝動はあった。だからいつかこうして、彼を殺してしまうのではないかと。それがついに、現実のものとして起こってしまった。
「ごめん……蓮くん」
そんな浅葱の呼びかけに応えるように、血だまりの中の彼は、ドクンと脈動して、身体を起こした。
「……浅葱さん」
「蓮……くん」
何もなかったかのように、ただ少しやつれた様子の蓮は、驚きのあまり呆然とする浅葱の肩を抱き寄せる。
死んだはずの彼は、生き返ったのだ。
「浅葱さん、それでも俺は、あなたが好きです」
「……ありがとう。……ごめんね」
浅葱は彼がどうして生き返ったのか、見当がついていた。謝って許されることではないこともわかっている。それでも謝らずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
泣き崩れる茜がふと顔を上げてみると、そこには怪物の姿があった。獣のように毛深く筋肉質で、牛の角のようなものが生えた大男が、まさに今、茜に向けて大きな斧を振り下ろそうとしていた。
ああ、わたしもここで死ぬんだ。先輩のところに、わたしも逝ける。そう思った茜は目を伏せ、死を待った。
しかし、その斧は茜を切り裂くことはなかった。怪物を突き飛ばして現れたのは、西洋騎士の甲冑のようなものに身を包んだ戦士。現代日本には不似合な金属光沢のある鎧が全身を覆い、ところどころに青を基調とした装飾が施されている。顔は、剣道の面のような銀光りするマスクを被っていて見えない。
突き飛ばされた牛男が、斧を手に騎士に襲い掛かる。斧を振り上げたがら空きの胴に、騎士は蹴りを入れて、牛男を吹っ飛ばした。牛男は斧では役に立たないと思ったのか、それを投げ捨て、騎士に突進してくる。と、思いきや、狙いは騎士ではなく、呆然と地に座り込んでしまっている茜だった。
騎士は茜の前に立ちはだかり、突っ込んでくる牛男に向けて、タイミングよく拳を突き出した。牛男の角が騎士を捉えるのとほぼ同時に、騎士の拳は牛男の胸を貫いた。すると、牛男は石化したように動かなくなり、やがて砂のように崩れた。
牛男を撃退した騎士は茜の方へ振り返ると、淡い光に包まれながら、全身の鎧が剥がれていく。鎧がすべて消え、そこに立っていたのは、紛れもなく彼、三倉凛だった。
「先輩っ! よかった……!」
凛は、思わず抱き付いてくる茜の頭を撫でてやる。
「大丈夫か? ケガはないか?」
「うん、先輩のおかげで。ありがとう、先輩」
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