My precious one

有賀尋

Sun lost the light

ある日僕は夢を見た。

研究棟の見慣れた廊下の真ん中で、真っ赤な血溜まりの中に倒れる男のために僕が涙を流す夢を。

「置いていかないで、お兄ちゃん!」

それが自分のお兄ちゃんだということを理解するのに時間はかからなかった。
そして瞬時に理解した。

これは、いつか現実に起こる。

そんなに遠くない、近い未来に。



お兄ちゃんと研究をしてだいぶ経った。
今日も研究室で大好きなお兄ちゃんと研究だ。
小さい頃からの夢が叶って、僕はすごく嬉しくて、毎日楽しみなほどだ。
その日も一緒に研究をしていた。

「...少し休憩する。寝るから1時間後に起こしてくれないか」
「うん、分かった。ちゃんと寝なきゃダメだよ?」
「分かってる」

そう言うとお兄ちゃんはソファーに寝転んだ。
お兄ちゃんの休憩場所はいつもそこだ。
しばらく論文を纏めていると、お兄ちゃんの様子が変わり出した。

...お兄ちゃんの様子がおかしい。汗をかいて苦しそうにしている。

「...う...」

...お兄ちゃんが魘されてる...?

「...お兄ちゃん...?」

お兄ちゃんの目が開く。
呼吸は速くて、浅くて、怯えた目をしていた。

「お兄ちゃん、落ち着いて呼吸して!大丈夫だから!」

僕はそう声をかけることしか出来なくて、お兄ちゃんを見下ろしてただ汗を拭うしかできなかった。
確信はないけど、でもお兄ちゃんがここまでになる夢はひとつしかない。
お兄ちゃんが落ち着いたのか、起きながら僕に問いかけた。

「...俺は...どうして...?」
「覚えてない?お兄ちゃん休憩がてら寝てたら魘されだしたんだよ」

お兄ちゃんは少し考えていたようで、夢を思い出したのか自然と手が震え始め、呼吸も浅くなった。

この状態のお兄ちゃんを落ち着けるのはただひとつ。

僕は優しく抱きしめた。これが1番落ち着く方法だってことを僕は知ってる。これはお兄ちゃんが僕を落ち着けてくれるためにやってくれる。これは多分世界共通なんだと思う。

「大丈夫だよ、ここは夢じゃないから」

お兄ちゃんが僕に頭を預けて何かを確かめるように深呼吸した。
大好きなお兄ちゃんの匂いがして、お兄ちゃんの体温がじんわり伝わる。そして、落ち着かないお兄ちゃんの鼓動が伝わってくる。お兄ちゃんが落ち着くように、僕はずっと抱きしめた。するとお兄ちゃんは僕の背中に手を回した。それほど怖い夢だったんだろうな…。

「...ありがとう、だいぶ落ち着いた。」

しばらくそのままでいて、お兄ちゃんは離れる。その顔はどこかやっぱり安心しているようでさっきまでの恐怖はなさそうに見えた。

「よかった、お兄ちゃんが魘されるなんて珍しいね」
「ああ、ちょっとな...」

お兄ちゃんは深く夢のことを話さなかった。だから僕も敢えて聞かなかった。

...でも、僕は知ってる。

お兄ちゃんがこうなる夢の内容を、僕は知ってる。
お兄ちゃんだって、言いたくないはずだ。
だって、それは僕も夢を見たから。だから聞かない。それが、僕達兄弟の暗黙のルールになっていた。

それから数週間が経ったある日。僕もお兄ちゃんもあの夢のことなんかすっかり忘れた頃。
僕はお兄ちゃんに先に部屋に戻れと言われたから、言われた通りに部屋に戻った。でも、みっちゃんもひーちゃんもみんなそれぞれ仕事をしているし、僕ばっかり何もしないなんていられない。
僕は、お兄ちゃんが書き溜めた研究の論文や、本を読んで過ごした。

「研究するのもいいが、読んで学ぶのもお前の仕事だ」

と、お兄ちゃんが言ってた。
お兄ちゃんは毒の研究をしていて、僕もそっちの道に進んだ。もちろん僕はあの体で、まして実験道具だったのだから学校にも行ったことがないけど、お兄ちゃんやみっちゃんやひーちゃんが勉強を教えてくれた。

すると突然警報が鳴り響いた。

「...警報...!?」

何度か聞いたことがあるとはいえ、いつ聞いても聞き慣れない。
僕の肩が思いっきり跳ねて、椅子から腰を浮かせた時、みっちゃんが慌てて入ってきた。

「悠隼君!急いでシェルターに入って!」
「お兄ちゃんは!?」
「紘斗さんが伝えに行ったよ、怜さんも来るはずだから早く!」

みっちゃんが僕をシェルターまで連れていってくれた。

「必ず怜さんも来るから。いい?何があっても出てきちゃダメだよ?」
「うん...わかった...」

みっちゃんはシェルターに入って大人しく僕が座るのを見届けてから出ていった。
僕はお兄ちゃんが来るのを待った。1人で小さくなりながらただひたすらに。

...けれど、待てども待てどもお兄ちゃんは入ってこない。

...まさか...巻き込まれた...?
でも、ひーちゃんが伝えに行ったって…。
でも、もし巻き込まれていたら…?
あの夢が...本当になったら…?

いてもたってもいられなくなって僕は一緒にいた他の人の声を聞かずにシェルターを飛び出した。

あの悪夢が本当になっちゃったら...!

そうでないことを僕はただただ祈った。

お願い、どうか外れて...!


だけど、その願いも虚しく僕は見つけてしまった。

あの時夢で見た、血溜まりの中に倒れるお兄ちゃんの姿を。

「お兄ちゃん!」

泣くのを堪えて、お兄ちゃんに駆け寄る。
無惨にも至る所を刺されたらしい刺傷があった。
血の色からして、まだそんなに経っていないはずだ。
お兄ちゃんの血溜まりの中に膝をついてお兄ちゃんを抱き起こす。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!しっかりして、誰かお兄ちゃんを助けて!」

誰かが返事をしてくれるわけでもなく、ただ虚しく僕の声だけが無機質な廊下に反響する。

そうだ、止血...!

僕は着ていた白衣を傷に押し当てて、止血する。でも、とめどなく流れるお兄ちゃんの血で、僕の白衣はすぐに赤くなった。

血が止まらない...!

僕は自然と涙がこぼれた。その涙はお兄ちゃんの頬に伝っていく。
お兄ちゃんの目が開いて、僕に手を伸ばした。僕は必死にお兄ちゃんの手を握った。
今までの失血のせいか、お兄ちゃんは氷のように酷く冷たかった。
僕はすぐにお兄ちゃんを抱きしめた。僕の熱がお兄ちゃんに伝わるように、キツく抱き締めた。
抱きしめたそばから、お兄ちゃんの血が僕の服に染みてくる。それは気持ち悪いくらい生暖かくて、お兄ちゃんの命が流れているようだった。
抱きしめる腕が震える。
お兄ちゃんの命が削れていく感覚が嫌という程伝わる。

「...ごめん、悠隼...」

お兄ちゃんが謝ってる。僕は否定するように首を左右に振った。

「そんなこと言わないで、置いていかないでお兄ちゃん!」

どんどんお兄ちゃんが冷たくなっていく。
すると、握っていたお兄ちゃんの手から力が抜けて僕の手をすり抜けていった。
 泣きながら僕は叫んだ。

「...待ってよ…!やだよ、やだよお兄ちゃん...!また僕を置いていっちゃうの...?...置いていかないって言ったじゃん!ずっと一緒にいてくれるって…!約束したじゃん、お兄ちゃん...!何か言ってよ、ねぇ!」


―いいか悠隼、覚えておけ。死ぬ時に1番最期まで残るのは聴覚だ。だからもし、誰かが死ぬ時にはその人に伝えたい言葉をちゃんと伝えてやれ。

...どうして...どうしてこんな時にお兄ちゃんに教えて貰った言葉が思い浮かぶんだろう。

「...ごめんね、ごめんね、お兄ちゃん...助けられなくて...一緒に死ねなくて...寂しい思いさせてごめんね...1人で辛かったよね、寂しかったよね…お兄ちゃん...大好き...」

どこまで聞こえたのかは分からない。もしかしたら聞こえてないのかもしれない。

ー悠隼。

優しい声で呼んでくれるお兄ちゃん。
優しく撫でてくれるお兄ちゃん。
研究棟を歩くお兄ちゃん。
研究室に籠ってばかりの困ったお兄ちゃん。
僕の事を抱きしめてくれたあの腕。
抱きしめてくれた時に聞こえる心臓の音、温もり。

その何もかもが、もうここにはない。

「...っ...!おにぃちゃん!」

僕は僕の腕の中で冷たくなったお兄ちゃんを抱きしめて泣き叫んだ。

必死に呼んだ。

でも、その声に答えてくれるあの声は、僕が呼んだ時にだけ見せてくれるあの笑顔はもうない。

無機質な研究棟の廊下に、ただただ僕の泣き声だけが無慈悲に響く。

「お兄ちゃんの分まで...僕頑張るから...!頑張って生きるから...!見守っててね、お兄ちゃん...」

...ねぇ、お兄ちゃん。
生まれ変わっても、僕はお兄ちゃんの弟がいいな。
でも、そしたらお兄ちゃんは困っちゃうかな...?
また笑ってくれるかな…。
また名前呼んでくれるかな…。

...また会おうね、大好きな僕のお兄ちゃん。

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