ハーフ・ゴースト

島流十次

2 ランタン

 僕のとっさのその一言に、アデリアは子犬のような目を丸くしたけれど、そのあとすぐに口元には余裕の笑みが浮かべられた。男にそういう風に誘われるのにはきっと慣れているのだろうし、そんな彼女の反応を見てようやく僕は自分がぎこちない誘い方をしたという事実に気がついたのだった。
「僕は、別に、いいところを、知らないんだけど……」言葉をとぎれとぎれにさせながらも言う。「行けるならどこでもいいんだ。いや、テキトーってわけじゃなくて。きみとならどこだって楽しいはずだから……」
「そうね。わたしもそう思う」

 アデリアのそれは即答だった。面倒くさがっている様子はまるでなかった。むしろ楽しんでいるようだった。 

 そのあとは、別に、ウインドウショッピングをしたわけでもなければ、洒落たカフェに入ったわけでもない。僕らは、大学から一駅分くらい歩いた先にある広い公園のベンチに座って話をした。(さて、女の子相手に何の話をする? ファッション? ワン・ダイレクション? トワイライト? 僕には無理だぞ)

 一言で言うと、それは杞憂だった。

 アデリアは僕が思っていたよりもだいぶ平和な女の子だった。
 趣味は散歩、野良猫の撮影、一人での映画鑑賞、ピザを食べながらバラエティ番組を見たあとにうたたねをすること、それから国内旅行。歳の離れた弟が一人いて、かわいくてしかたがないのだと言う。母は今入院していて、仕事で帰りが遅い父の代わりに家事をするようにしているらしいが、なにしろ料理が苦手で、弟にはかわいそうな思いをさせている、と嘆いてもいた。友達は多いらしいが、基本的に大人数で群れるのはあまり好きではないようで、大学での講義が終われば基本的には家に帰ってひとりで過ごすことのほうが多く、人々とは「広く薄い関係」だとも言っていた。明るく社交的で活発なイメージがあったので、これは意外だった。

 どうでもいいことだとは自覚していたけれど、僕のことも一応話した。趣味なんかは特にないけれどコミックがまあまあ好きだとか映画が好きだとか。最近家庭菜園に凝っている父が一人いるけれど母はとっくのとうに死んだとか一人っ子なのでだいぶ退屈な時間を過ごしてきたとか。この通り見た目にも中身にも経歴にも大した個性がないのでそのへんの人間と変わらない・あるいはそれ以下だとか。まあ僕のことはさっき言ったみたいに本当にどうでもよかったけれど、話は弾んだ。二人とも、お互いの話に相槌をうったりするときに「無理に」という感じは一切なくて、僕が思うに――そう思ったのは僕のほうだけかもしれないけれど――本当に自然な時間が流れた、というわけ。

「お互い、なんだか孤独なのね」

 途中、アデリアがぼそりとそんなことを言った。

「きみにも、自分が孤独だと思う瞬間があるの?」
「夜になるといつもそう。ママはたしかに入院しているけれど、病院に行ったら今はいつでも会える。夜、遅くでも、パパは帰ってこないってわけじゃない。弟も学校から帰ってきて、わたしと食事をしたり、話したりする。それなのに、自分の部屋のベッドで一人で眠ろうとするときに、どうしようもなく、この世界には自分ひとりだけで、すべてから置き去りにされているような、そんな気分になるの。わたしの考えすぎ? わたしがおかしい? そうじゃないとしたら、わたしがそうやって孤独を感じるのは、なぜ?」

 陽はもう落ちようとしていて、空一面はオレンジ色に塗りつぶされていた。アデリアのアイスブルーの瞳にオレンジの光が混ざって、濁る。

 僕が何と言おうか迷い、言葉を選んでいると、アデリアのほうから口を開いた。

「アルにはそういうときはないの?」
「僕は――」

 そうだなあ。僕にだって勿論あるさ。一番感じるのは、朝食をとっているときだ。父と食卓についていても、僕はまるで一人にされたような気分を味わう。あのときから、ずっとあのひとに置き去りにされているのだ。

 皿から飛び散った牛乳、シリアルの欠片。テレビの中では人間が笑う。時間は確かに動いていた。けれども世界の動きはそこで止まってしまったし、僕の感情、そして僕自身までもがそこに取り残されたような――

「寝るときなんかは、きみと同じで、なんだか独りのように感じるなあ。実際、一人なんだけど。朝目が覚めてもずっとこんな感覚なんじゃないかと思うとどうしようもなく怖くて……」

 そこでふとアデリアと目線が合ったので、僕は肩をすくめて笑ってみせた。

「だからそういうときは、起き上がって、テレビゲームをしてみたり、コミックを読んだりしてるよ。ずっとそんな感覚の中に閉じこもっていてもしかたがないからね。気分転換が必要だよ。寝ないといけないかもしれないけれど、君もそうやって途中で別のことで気を紛らわせればいい……」

「そうね」彼女は下を向き、「じゃあ、もしそうなったら、連絡してもいい?」

「だれに!」思わず大きな声がでた。
「あなたに」
「ああ、いいけど……いや、そうして。そのときはどうせ僕も同じ気分になってるんだから。ちょうどいい」
「じゃあ、そうする」

 僕に目を合わせず下を向いたまま、アデリアが笑ってそう言った。僕は照れくさくなって、何も言えなくなる。ただ陽がじわじわと落ちていくだけだ。そのまま数十秒が経ったあとに、僕がようやく言ったのは、「そろそろ帰ろうか」という微妙な一言だった。

 それまで緑に囲まれていたのにも関わらず、公園を一歩出れば無機質なビルたちに囲まれて、一瞬だけ不安になったが、すぐ隣にアデリアがいたので、安堵を取り戻す。

 公園を出てからは僕たちの間に会話はほとんど無かったけれど、今の僕たちにはこれくらいがちょうどいい。それに、もうじゅうぶんだった。公園で話したのはお互いの簡単なプロフィールや日常というちっぽけなものにすぎなかったものの、僕たちはそのわずかなことと短い時間の中で満たされるべき部分を満たせたし、もうそれ以上のことを言ったりしなくてもわかり合えたような気がしたのだった。

「家はここから歩いて帰れるんだっけ?」歩いている途中で僕がきいた。
「うん。二駅分くらい歩くけど」
「送ってくよ」
「うれしい」

 道路を駆け抜けていく車による喧噪が耳からどんどん離れてゆく。人々の歩く音、声でさえも。

 僕は、今、確実に、独りではない。

 これからは朝食のときも夜眠るときも怖がる必要はないのかもしれないと思っていたところ、急にまた喧噪が耳元に近づいてきた。

 目の前に、ひとだかりができている。

「なにかあったのかしら?」アデリアが隣で言った。

 人々の視線の先は、五階建てビルの屋上に集中していた。僕のまあまあ良いほうの視力で、男がひとり、ぎりぎり屋上から落ちそうになっているところと、機動隊――特殊部隊か何かか――のような武装した団体がその男の背に銃を向けているところを確認できた。

「事件……? 大丈夫かしら」

 口元に手をあててアデリアがそう言ったが、「大丈夫ではない」ということは明らかだった。
 あまりここで野次馬をするのはよくないと判断した僕は、アデリアの手を引いてここから去ろうとしたが、屋上で追いやられているその一人の男が手からぶら下げている物に目がいってしまい、思わず動きをとめる。

(なんだ、あれ……)

 それは、ランタンだった。

 いや、ランタンではないかもしれないし、ランタン、というには少し近未来的なデザインをしていた。白銀の持ち手とボディ。そして中枢部で光っているのは電球ではない。電球というよりは、球体の、ガラスケースで、それ自体が光っているのではなく、そのガラスケースの中におさめられた、青白く発光している物質――光の固まり――

「あれ、ランタンなのか……?」

 遠いところで輝くその青白い光を見ているとき、僕はどことなくぼんやりとしていた。

「ただちに『それ』を地面に下ろし、両手を挙げろ!」

 部隊のうちの一人の声が拡声器越しに響く。男のほうをじっと見たが、男はそれに応じる気はなさそうだった。じりじりと、屋上から落ちてしまうギリギリの場所までゆっくりと歩み寄る。男の手にするランタンなような物は、なにか重要なものなのか、それを気にしているためか部隊は簡単には男に向かって発砲しないし、声をかける以外の刺激を与えるような行動もとらない。

 映画やドラマ、コミックでしか見たことのないようなスリリングな光景だった。本当はアデリアとすぐに場所を移動したかったものの、どうしても視線が男とランタンに釘付けになってしまう。

 僕が生唾を飲んだ、その時だった。
 ランタンが、男によって下から勢いよく放り投げられる。

 時は、スローモーションのように流れる。
 人々は、ランタンを避け、群れを崩し、声をあげながら散らばる。
 オレンジ色の空の中で、青白い光がやさしく輝く。
 僕らのほうに落ちてくる。

 反射的に、アデリアの身体を手で押し、ランタンに当たらないように彼女をどかした。
 それでも、ランタンは僕に向かって落ちてくる。
 僕はそれを避けられなかった。思わず両腕をクロスさせて顔を覆う。目をぎゅっと瞑っていたので何も見えなかったが、バリン、と、ランタンのガラスの部分が地面に強く打ちつけられ激しく割れる音がし、飛び散った破片が刺さったのだろう、手の甲に痛覚が走る。

 腕をどかし、地面を見ると、いとも簡単に破壊されてしまったランタンがそこにあった。

 光は消えている――
 と、思ったが、そうではない。

 その光の塊は、ランタンから解放され、ぼくの鼻先でふわふわと浮いていた。
 眩しさに目を細めた直後、まるで首についたリードを強く引っ張られるような感覚がして、身体を持っていかれそうになる。

『アル、おいで』

  だれかの声が響いた。この光からではない。身体を引っ張られる感覚はこのときには消えていた。

 あたりを見渡すと、人々は消えている。僕が庇ったアデリアさえも、ビルさえも。なにもかもが消えていて、鼻先で光が浮かぶだけで、世界はまっさらになっていた。 声以外には、もう、音もしない。

「だれ?」

 あたりを見渡す。
 すると、ずっこ向こうに、死んだはずの母が、立っていた。

「母さん――」

 やわらかい髪質の金髪。僕がまったく似なかったその美しい顔。瞳だけは、僕と同じものだった。あの時となんら変わりのないやさしい笑みを浮かべている。

 僕が母のほうに駆け寄ろうとすると、僕よりも先に後ろから別の人物がやってきた。

『母さん』

 それは、昔の僕だった。買ってもらったばかりのTシャツを泥と砂まみれにして、膝には擦り傷を一つ作って、外でさんざん友達と遊んできた幼い僕。その僕が母に抱きつくと、彼女はそれをふわりと受け止めた。

『シャワーを浴びなくちゃね』
『うん』

 母が僕の背を優しく押す。
 母と幼い僕は、まっさらな世界の奥へと消えようとする。

「待って! 行かないで!」

 叫ぶ。

 僕はここにいるんだ。

「そこじゃない! 違うんだ、僕は、今、ここに――もう、そこには――」

 目の周りが急激に熱くなり、瞳から熱を持った涙がぼろぼろと溢れだす。

「待ってくれ、今、僕は、ずっとここにいるんだ!」 

 「――アル……!」

 アデリアの声がし、彼女の手がそっと肩に置かれる。

 僕の息は荒い。急いであたりを見渡すと、周りにはやはり大勢のひとがいて、車の喧噪もあり、ビルにも囲まれている。

 長い夢を見ているようだった。

「僕、まさか寝てた?」額の汗を拭って言う。
「そんなことないわ」アデリアの心配そうな顔が、僕の汗まみれの顔を覗きこんだ。「ただ、ぼうっとしてたの。何度か声をかけたんだけど……それよりもあなた、手、怪我してるのよ! 処置してもらわなきゃ! それからすぐにここを離れましょう」
「手は、大丈夫だ……それよりも、あの光は……?」
「光は、わからない」アデリアは首を振り、「消えたのよ。光よりもあなたの手のほうが大事」

 確かに、光の塊は見当たらない。
 本当に光は消えてしまったのだ、とわかった途端、ひどい胸やけに襲われた。 苦しい。気持ちが悪い。右手で胸をおさえ、左手は膝について体制を崩してしまいながらも、「じゃあ、あの男は……?」

 僕の問いかけに、アデリアは辛そうな表情で首を振る。

「飛び降りたの……ランタンを放りなげたあとにね。死んでしまったのかはわからないけれど、すぐに救急車がきて、運ばれて……それでアルを見たら、どこか別の遠いところを見て、ぼうっとしていて――ああ、アル、あなたが庇ってくれていなかったらわたしが怪我をしていたのよ――」

 具合が悪いの? と、アデリアは僕を気遣って身体を支えようとしてくれるものの、なんとか体制を元に戻して、「いや、大丈夫だ」と答えた。「少しぼうっとしたみたいで、ごめん。なんだか意識が消えた、というか、違うところに行ってしまったみたいで……」

 足元でバラバラになり原型をとどめていないランタンに目をやった。
 しゃがんで、そのランタン――いや、ランタンなようなもの――をじっと観察する。

(なんだったんだ? これは……)

 いや、これよりも、あの光の塊。なぜ浮いていた? あれが僕を惹きつけたのか? あれが僕に幻覚を見せていたのか? そんな馬鹿げた話、ありうるのか……ありえないならば、なぜ僕は意識を別の所へ飛ばした……
 きっと、ひょっとしたら――

「君、怪我は無かったか?」

 考え込んでいたところ、拡声器であの男に声をかけた部隊のリーダーのような人物が今度は僕に目の前で声をかける。

 じわじわと痛む片手を背中の後ろに静かに隠した。

「ええ、ありません」
「光はどこへ行ったか知らないか? それか、消えたりしなかったか?」
「光は……消えました」

  僕は、嘘をついた。

  光は僕の中に取り込まれたのだと、薄々気がついたからだ。

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