ハーフ・ゴースト
1 親愛なる隣人
母は僕の前で儚い命をあっさり散らして二度と帰らぬ人となったわけだけれど、あの頃の母にもう二度と会えないというわけではない。
半透明のビニール傘に大粒の雨が打ちつける。生憎、今日は雨だ。
ここは、たとえば、ゾンビ映画や昔のコミックで見るような墓地とは違う。あんな暗さはほとんどない。墓の様式も、だいぶ変わった。ここの墓地は特に、まるで広い公園のようだ。
だれにも割れない透明で分厚いアクリル板のような墓標には、死者の名前が白で掘られている。 母に会いたくなれば、墓標の隣に立ち、一言言えばいい。
母の名前を。
今日は父もここを訪れたため、父が僕の代わりに母のことを呼んだ。
すると、墓標の前の地面が左右にスライドされるように開き、白い棺が姿を現す。母の死を受け入れたくなかった幼少期は特に、何かことあるごとにここを訪れ。
他の少年と喧嘩し、顔にあざを作った日。友達とふざけていたずらをして先生にこっぴどく叱られた日。宝物をなくしてしまった日。
最近来たのは、大学に合格した日だ。
今日は別に自分に何が起きた日でもなく、いたって普通の平和な日だった。
が、強いて言うとすれば、今日は母の命日なのだ。
母の遺体に不気味さはなく、今や命が不在の彼女の器を「遺体」と言い表すと違和感があるほどで、彼女のその器は僕と何も変わらぬ「身体」にすぎない。血の気を失っているようにも見えないし、彼女はまるでここで昼寝をしているだけのように見える。
母の肉体はあれから腐ることもなくここに葬られている。
お互い無言で母の姿を見つめていたが、やがて父が先に口を開いた。
「そろそろ帰ろう」
父は僕とは違ってあまりここを訪れない。訪れないようにしているのだ。彼はむやみやたらに彼女と会ってしまったら駄目になってしまう。それを彼も理解している。
横目で父を一瞥すると、父の瞳は普段よりも潤っていた。
父から目を反らし、僕は言う。
「僕はもう少しここにいるよ」
「そうか……」
なら先に帰ってるからな。父はそう言って傘を持ってないほうの手をポケットに突っ込み、家への道を歩いていった。
僕は再び母のことを見下ろす。
「今日はなにも無かったよ」死者に話しかける。「でも母さんの命日だ」
そう言って少しの間ぼうっとしていると、空から落ちてくる雨粒の量が少なくなってくる。ずっと向こうでは太陽が輝いていた。きっと雨がまだ降っているのはここだけなんだろうな、と、適当なことを思う。
「僕はあの朝からすっかり背格好も変わって今の僕になったわけだけれど、母さんはあのときのままだ」
僕の足元で眠る母は生き生きとしている。たとえば、ゴースターなんかよりも、生命力に満ち溢れていると思う。もう生命というものは持ち合わせていないはずなのに。
「母さんだけじゃない。ここで眠ってるみんながそうだ。人は、死んだら、ここでこうやって生きていていいのかな?」
だって、これじゃあ、今生きている人間に死を理解させられないじゃないか。実際理解できていない人間がいる。この僕だ。
「でも僕にはわからない。死者が本当はどうあるべきか。だからこの普通も普通であると受けとめられない。でも……母さんが死んでもこうしてここにこうやって居るからこそ僕は会って気軽に話ができるんだよね。もし母さんがボロボロだったら、僕は悲しくって話しかけられないし、父さんは一生家から出てこないだろうな」
翌日、ゴースターの例の講義を受ける前に僕は大学の図書館へと向かった。
ここのパソコンでは、生徒が自由にダウンロードして閲覧できるデジタル化された書籍を検索することができる。
それらしいワードを入れると、適当そうな書籍を見つけることができた。その書籍の番号をとりあえず暗記し、カウンターにいる眠たそうな司書に番号を口頭で伝えると、司書は、僕のタブレット端末に目的の書籍のダウンロード処理をしてくれた。
講義へと向かう途中にタブレットでその書籍を軽く見てみたが、イラストや写真がある割には見づらかった。それはきっと、僕が悪い。小説は喜んで嗜むけれど、こういった解説書や評論は苦手だ。正直読む気がしない。
僕がダウンロードしたのは、一昔前の、世界各国の葬儀全般についてが書かれたものだ。
むしろ今まで対して興味を持たなかったのがおかしい話だが、昨日母の墓参りをしたことによって、僕の目は死者の弔いかたに向いた。
なんとなく、と言えばなんとなくだし、それ以上のこともないけれど。
せっかく講義中暇なので、ヤツの講義が始まるや否や僕はタブレットを取り出して読書を進めることにした。
そこで案の定食いついてきたのはニコラス……かと思いきや、ニコラスではなく、ハロルドだった。 頬杖をついたハロルドは僕のタブレットをちらりと見て、「なにを読んでいるの?」ときいた。とは言え、表情からはじつはそんなに僕の読んでいるものに対しての興味は感じられなかった。暇なのでとりあえずきいてみた、といったところなのだろう。
「いや、なにも」
僕がそう答えたのは、真実を話して、こいつは急に一体どうしたんだと思われたくないからだった。
ハロルドは笑った。
「なにもってことはないじゃないか」
すると横から入ってきたのは当然ニコラスだ。「官能小説かなにかか?」
「あー、そうそう、官能小説だ。だからあまり人に知られたくない」
「興味あるな。見せろ」
ニコラスがタブレットに手を伸ばしたが、僕はそれを避ける。「大したことないから見せたくないんだ」
「なんだよ、俺たち友達だろ。そういうの共有したっていいじゃんか」ニコラスがにやりと笑った。
そこからは、小学生の揉め事のようだった。僕は、失敗して誰にも見せたくないくだらない夏休みの自由研究を太ったいじめっこに見せろ見せろと脅され、奪われようとする少年時代の僕の気分を追体験する。
「やめろって!」
「音読するだけだから!」
「なんでこんな子供みたいなことをしちゃいけないんだ」
騒ぎながらもみ合いをしていたのは、大体三十秒。
ゴースターにしてはよく耐えたほうだと思うが、「黙れ! ニコラス・ハッター、アルバート・レイノルズ!」
彼は板書をやめ、すぐに僕たちを振り返って怒鳴った。ご丁寧にマイクを口に向けて怒りを放ってくれたため、その声はキインと不快な音と共に響く。
落ち着いて着席しようとしたところで、僕は(ニコラスもだろう)立ち上がっていたことに気づき、ニコラスと顔を合わせる。 ふたり同時に溜息をつき、肩をすくめた。
恥ずかしい話だが、僕はいまだに昼食を共にする友達というのがいない。実は、ニコラスとは講義で一緒になるくらいで、MMMは途中まで二人で見て回ったけれど、それ以上の関係ではないのだ。ニコラスは他に友達がいて、きっとどこかでその友達といつも昼食をとっているに違いない。見かけたことはない。
だから僕はいつもソロだ。恥ずかしい話、と言ったけれど、堂々とはしている。僕と同じく、食堂の外側にあるテラスの席を陣取って、一人でぼうっと食事をしている生徒なんて珍しくないのだから。
今日はなにを食べようか、と、いつものように考え、A棟から外に出てテラスへ向かおうとしているところだった。
澄ました、つまらなそうな――不機嫌そうにも見える――顔をして歩いてくる生徒。肌は白く、少々クマが目立つ。触れたら割れてしまいそうな美しいガラス細工のような人物がこちらに向かって歩いてくる。
つい数時間前の講義で一緒に時間を過ごしたばかりのハロルドだ。他の生徒からの視線を受けているものの、顔つきが例によってひどいので、声をかけられることはない。それが彼の真顔なのだろうけれど。
「ハル」
僕から声をかけると、僕に気がついたハロルドの表情はすぐにうれしそうな笑顔に切りかわった。
「やあ、アル」
「ひどい顔つきだったけれど、なにか考え事でも?」
「いや、真顔だ。自覚はない。でもよく人に不機嫌そうだと言われる」
やっぱり、真顔で間違いなかった。
「きみはこれからランチへ?」ハロルドが僕にそうきく。
「ああ。ひとりでね。ちなみにいつもひとり」
「ぼくもひとりなんだ。いつもね。よかったら一緒にどう?」
「ああ」顎を引いて僕は言う。そしてテラスの方を指差し、「だったら、食堂のテラス席に行こう」
テラスの席は、急がないとすぐに満席になってしまうものの、今日もなんとか席を確保できた。テーブルにケータイを置き、食堂に入って食事を注文しに行く。
「ぼく、食堂を使うのははじめてだ」
「普段はどこで昼食を?」
「一旦学外へ出てそのへんの店で。外食だ。でも外に出ないでここで食事をするほうが面倒くさくなくていいな」
僕はいつも通りハンバーガーのセットを、ハロルドはパスタを注文した。
それぞれの注文したものが載ったトレーを席まで持っていき、ぶじに着席して食事を開始したところで、僕のほうからなんとなく口を開いた。
「あのあと、レベッカとはなにかあったの?」
「あのあとって、MMMのあと? 特に何も無かったよ。なぜかというと、とても固かったんだ。彼女のガードがね」
「ふうん」コーラを飲む。「意外だ」
「ぼくの話はいい。きみの話をしよう。結局、なにを読んでいたのさ」
「ああ、あれね……」
しばらく言うのをためらったものの、ハロルドになら言ってもいいか、と思い、僕は正直に答える。「もちろん、官能小説じゃない。この国や他国の、遺体の埋葬についてとその歴史が書かれた本……解説書さ」
一瞬ハロルドのフォークを持つ手が止まったが、すぐにまたフォークがパスタを絡める動作を再開させ、「ふうん、興味があるんだ?」
「なんというか……まあ、ゴースターに触発されたわけではないけれど。昨日は母の命日で、墓参りをしてきたんだ。そのとき、ふと、いろいろと興味がでてきたというか、疑問もでてきたというか。まあ、漠然と、なんだけどさ」
「そうだったのか……」ハロルドは、パスタを見つめて数秒黙り、それからニヤリと笑ってみせる。「ぼくはてっきり、きみがその年齢でもう自分の死後について意識しているのかと」「まさか」大げさにハンバーガーに齧りついてみせる。
「こんなに元気なんだ。そのときが来るのはせめてあと四十年は先であってほしいね」
僕がそう言ったとき、うしろから軽く肩を叩かれる。「アル!」
元気な女の子の声だった。
突然のことに驚いたのと、さっきのハンバーガーへの一口が僕の予想以上に大きくて口の中がいっぱいになったのが重なって、その大きな一口が喉のおかしなところに入ってしまい僕は盛大に噎せる。
振り返り、律儀に僕は挨拶を返す。ゴホゴホと咳き込み、無様な姿を見せつけながらだ。
「やあ、アデリア」
僕の名前を呼んだのは、アデリアだった。一人でいる。この間別れ際に見せた悲しそうな表情とは打って変わって、晴れ晴れとした様子で。
「ごめんなさい、驚かせちゃったみたい」
「問題ないよ」「遠い後ろ姿でもわかったの。あれはアルバートだって。それで思わず声をかけちゃった」
アデリアがそう言ったあと、なんて言おうか迷い言葉を選んでいるところで、ハロルドが口を開く。「ガールフレンドがいるならそう言ってくれればよかったのに」
僕は彼が発した単語にすぐさま反応し、「いや、そういうのじゃ……」
「はじめまして」僕を無視したハロルドは、アデリアに顔を向ける。浮かべられた笑顔は、営業スマイルのようだ。「ぼくはハロルド・エヴァンズ」
「こちらこそはじめまして。わたしはアデリア・ブルー。あなたのことは当然、知ってる。アルとは友達なの。それも、なったばかり。MMMの日には、アルにはちょっとお世話になって」
「こんなかわいらしい子に近づけるだなんて、よっぽど紳士なことをしたんだろうね、アル」
「いや大したことじゃない」早口で僕は返す。「それに昔の話さ」
アデリアは笑った。
「ほんの数日前のことよ。まったく昔じゃないわ」
「僕にとっては昔なんだ」
そこでハロルドがパスタを一口食べたあとに言う。
「あー、知ってると思うけど、彼、ちょっと照れ屋なんだ。で、今も照れてる」 僕は、首を振ってポテトをつまむ。そしてすぐに口を開く。「アデリア、友達がきみとのランチを心待ちにしてるんじゃないか?」
言うや否や、足に軽い痛みが走った。テーブルの下で、ハロルド様の長い足で蹴られたのだ。
「どうして追いやろうとするのさ」
「違う。会話が彼女を時間を奪ってるんじゃないかと」
「そんなことない」笑って、アデリアは首を振る。「いつもランチしてる友達が今日は委員会の仕事で別の所へ行ってしまったから、一人でどうしようかとぶらぶらしていたところなの」
「じゃあこうしよう。今日はぼくたちといっしょにランチだ。ああ、ここに席がもう一つある。ぼくの隣でもよかったらどうぞ」
「いいの?」
「もちろん。男二人じゃどうもパッとしない。食卓には華が必要だ」
アデリアと僕の目が合う。
彼女はにこりと微笑んだ。ちょうど、花が咲くように。
「じゃあわたし、あっちで何か買ってくる」 嬉しそうにそう言い、アデリアは食堂の注文カウンターの方に小走りで向かった。
パスタを一口咀嚼しながらあちら側へ行くアデリアの背を見、そして僕の顔を見てその一口を嚥下してからハロルドは言った。
「かわいらしい、って言ったのは本音だよ。ぼくの好みではないけれど」
それに対しての僕は無言だ。
「早くしないと、他のくだらない男にとられるぞ」
「もうとられてるんだ。恋人がいる。それも、くだらない男だ」
「なら簡単な話じゃないか」ハロルドは笑い飛ばして、「奪えばいい」
「僕は君とは違う……」
「略奪愛は気が引けるって?」
「それもある。でもそういう意味で言ったんじゃない」
「よくわからないけれど……好きならもっと攻めていかないと」
「べつに、好きというわけじゃ……」
「自分の気持ちを否定するのもよくないね」
右手に持っていたハンバーガーをプレートに置きなおし、ポテトをつまもうとしていた左手をとめた。
「……そんなにわかりやすいかな?」
「それもあるし、ぼくは察しがいいというのもある」
ハロルドはいたずらを覚えた少年のようににやりと笑った。そして、一口一口を多めにしてパスタを素早く食べていく。
しばらくすると、アデリアは僕と同じハンバーガーのセットを持ってこちらに帰ってきた。
その頃には、ハロルドの皿にはもう何も乗っていなかった。
「残念だけれど、ぼく、大事な用を思い出したからもう行くよ。三人での楽しい会食はまたぜひいつか」
「えっ、もう行っちゃうの?」アデリアが言う。
「うん。急いで行かないと」
じゃ、またね。ハロルドはそう言って立ち上がり、手早く自分のトレーを取り上げる。
「ハル」
食堂にトレーを返却しに行くその背に僕がそう声をかけると、彼は片手の人差し指で僕のことを指差した。
しっかりしろよ、という戒めのサインだろうか。
「……行っちゃったね」残念そうにそう言いながら、アデリアは席につく。まだ彼女は席についてすらいなかったのだ。
「次期社長も忙しいんだろうね」
「あれっ」スプーンを手に取って、アデリアは首を傾げる。「彼が次期社長なの? 彼、次男じゃなかったかしら?
そういえば……僕は、MMMで見たハロルド・エヴァンズのプロフィールを思い出す。たしかに、あれには、ジェイ・エヴァンズの次男、とあったっけ。
「そうだったね。じゃあ跡とりはあいつの兄さんなのかな」
なんとか会話を続かせようと、べらべらと喋る。ハロルドのことだが。「次男だってこと忘れて、ついさっきまでなんとなく長男で跡取りなんだろうなあと思ってたけど、あいつ、兄というよりは弟っぽいもんなあ、うん」
「そうね」
「甘やかされて育ってきたんだろうな。ハハ」
ああ、この「ハハ」っていうのは、無理やり腹から出した笑いだ。
そうして、すぐに沈黙が僕らを取り巻く。
よくよく考えてみなくても、僕らはまだろくに会話したことがないから、ちゃんと向き合ってなにか談笑をするというのに慣れていないのだ。多分主に僕が。
でも、このときの僕は必死で、気力に満ち溢れていた。ハロルドがあの人差し指で僕の背中を押してくれたというのもあるけれど。
「休日とかは、何をしているの?」
「わたし?」アデリアは、自分を指差す。子犬のような瞳が、輝やいた。「割と体を動かすのが好きなの。サイクリングとか」
「ああ、サイクリングか」親指をたててみせる。「いい趣味してる。僕も好きだ」
ごめん、アデリア。これは嘘だ。僕はきみに好かれたい。そう、少しでも。
「ほんとう?」
「うん。マウンテンバイクに乗って受ける風は徒歩で受ける風の何倍も気持ちがいい」
「でも、家でのんびりするのも好きだし、飼っている魚の世話をするのも好き……あとは映画が大好き」
「映画? もちろん僕も好きさ」これは嘘じゃない。「ジャンル問わずなんでも観る。でもヒーロー物が好きかな。単純で、わかりやすい。なにより、ワクワクするしドキドキもする。ヒーローは恰好いい
「わたしも好き! どのヒーローが一番好き?」「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』と言われた、僕らの親愛なる隣人さ」
シューッ、と息を吐きながら、手首を前に突き出した。
幸い、アデリアは楽しそうだった。
このあとも、僕たちは時間を忘れたように映画の話をし続けた。必死に言葉を選んで喋り続ける僕に、アデリアは相槌を打ったり、言葉を返したりと、僕のことをやさしく受け止めてくれた。 やがて会話のネタも尽き、僕はいやでも口を閉じることとなる。黙って、コーラを一口飲むと、少し炭酸が抜けているような気がした。自分でもいつ食べきったのかわからないが、皿の上にはもう何も載っていなかったし、アデリアもそうだった。
沈黙を彼女は気にしていないようだったが、僕がまだ何か言おうとしているのにきづいて、彼女は僕のことを見つめる。
「あのさ……」
「なに?」彼女はすぐに返事をした。
「この間のことだ……」
「昔のこと?」くすりと、彼女は笑う。
「ああ、そう、昔のこと……あのあと本当はきみに連絡しようと思ったんだ。きみがくれた連絡先に。あのあとのきみのことが気になったんだ。でもできなかった」
「なぜ?」
「僕は、君の、何でもないから」
「ううん。友達よ」
アデリアは優しくそう言ったものの、そう言われるとそう言われるとで、僕になにかが刺さるような感じがした。
「そりゃ、そうだけども……」
アイスティーを一口飲んだ彼女は、口を開く。
「あのあとね――二日くらいあとだったかな――別れたの」
「はっ?」
思わず口を大きく開け、上体を前に乗り出してしまった。
「わたしからお願いして無理矢理別れたってかんじなんだけど……もうつらいのは嫌だったし。わたしも馬鹿だった、あんなひとと一緒にいて! ちょっとおかしかったのかも」
「えっと……それはよかったよ! もう安心だね。いや、安心じゃないか。見たところ、あの男、やばい奴には違いないから、きみに粘着してまたなにか嫌なことでもしてきたりするかも……」
「かもしれない。もしそうなったら、どうしよう……」
「警察に相談」
「警察……」
「の、前に、一度僕に相談だな」
僕がそう言うと、アデリアは安心したような表情を見せた。
「うん。そうする。本当にそうするけどいいの?」
「勿論だとも」
頼られたことが照れくさくて、顔を背けるように下を向いて腕時計を見ると、もうすぐで昼休みの時間が終わるころだった。
「気がついたらもうこんな時間だ。昼休みが終わる」
「もう? あっという間ね」
「僕はこのあと講義も何もないからいいけど、君は急がなきゃ。講義があるんでしょ?」
「わたしも急がなくていいの。今日は講義も何もないから」
「そうなんだ……」
どうしたらよいのかがわからない、というのが本音だった。
「とりあえず、トレー返しに行こうか」
ここで、では別の場所で時間を潰そうだのと言えないのが僕だ。(なにが、トレー返そう、だよ)
しかし、言ってしまったのならしかたない。僕は自分のトレーと、それからアデリアのトレーももちあげる(それを当然のことだという素振りを見せず、アデリアはただ僕に「ありがとう」と言った)。アデリアと二人で、食堂へ向かい、カウンターへトレーを返却した。ここで働いている老婆が、すぐにトレーをひっこめたとき、僕もそれを当然のことだとは思わずに一言だけ感謝をこめて礼を言ったさ。「ごちそうさま」だったけれども。
そのすぐ後に、意外と、僕の言いたかった言葉がすんなりと出てきた。そう、本当に唐突にだ。
食堂で作られているカレーのスパイスにでもやられたか? まさか。この食堂にはカレーだなんてメニューはないし、そもそもアメリカ人はカレーを食べない。
だったら、なぜなのかというと、それは紛れもなく僕は彼女のことが好きで、僕は僕に正直になったからだった。
「ねえ、どこかへ行こうか」
半透明のビニール傘に大粒の雨が打ちつける。生憎、今日は雨だ。
ここは、たとえば、ゾンビ映画や昔のコミックで見るような墓地とは違う。あんな暗さはほとんどない。墓の様式も、だいぶ変わった。ここの墓地は特に、まるで広い公園のようだ。
だれにも割れない透明で分厚いアクリル板のような墓標には、死者の名前が白で掘られている。 母に会いたくなれば、墓標の隣に立ち、一言言えばいい。
母の名前を。
今日は父もここを訪れたため、父が僕の代わりに母のことを呼んだ。
すると、墓標の前の地面が左右にスライドされるように開き、白い棺が姿を現す。母の死を受け入れたくなかった幼少期は特に、何かことあるごとにここを訪れ。
他の少年と喧嘩し、顔にあざを作った日。友達とふざけていたずらをして先生にこっぴどく叱られた日。宝物をなくしてしまった日。
最近来たのは、大学に合格した日だ。
今日は別に自分に何が起きた日でもなく、いたって普通の平和な日だった。
が、強いて言うとすれば、今日は母の命日なのだ。
母の遺体に不気味さはなく、今や命が不在の彼女の器を「遺体」と言い表すと違和感があるほどで、彼女のその器は僕と何も変わらぬ「身体」にすぎない。血の気を失っているようにも見えないし、彼女はまるでここで昼寝をしているだけのように見える。
母の肉体はあれから腐ることもなくここに葬られている。
お互い無言で母の姿を見つめていたが、やがて父が先に口を開いた。
「そろそろ帰ろう」
父は僕とは違ってあまりここを訪れない。訪れないようにしているのだ。彼はむやみやたらに彼女と会ってしまったら駄目になってしまう。それを彼も理解している。
横目で父を一瞥すると、父の瞳は普段よりも潤っていた。
父から目を反らし、僕は言う。
「僕はもう少しここにいるよ」
「そうか……」
なら先に帰ってるからな。父はそう言って傘を持ってないほうの手をポケットに突っ込み、家への道を歩いていった。
僕は再び母のことを見下ろす。
「今日はなにも無かったよ」死者に話しかける。「でも母さんの命日だ」
そう言って少しの間ぼうっとしていると、空から落ちてくる雨粒の量が少なくなってくる。ずっと向こうでは太陽が輝いていた。きっと雨がまだ降っているのはここだけなんだろうな、と、適当なことを思う。
「僕はあの朝からすっかり背格好も変わって今の僕になったわけだけれど、母さんはあのときのままだ」
僕の足元で眠る母は生き生きとしている。たとえば、ゴースターなんかよりも、生命力に満ち溢れていると思う。もう生命というものは持ち合わせていないはずなのに。
「母さんだけじゃない。ここで眠ってるみんながそうだ。人は、死んだら、ここでこうやって生きていていいのかな?」
だって、これじゃあ、今生きている人間に死を理解させられないじゃないか。実際理解できていない人間がいる。この僕だ。
「でも僕にはわからない。死者が本当はどうあるべきか。だからこの普通も普通であると受けとめられない。でも……母さんが死んでもこうしてここにこうやって居るからこそ僕は会って気軽に話ができるんだよね。もし母さんがボロボロだったら、僕は悲しくって話しかけられないし、父さんは一生家から出てこないだろうな」
翌日、ゴースターの例の講義を受ける前に僕は大学の図書館へと向かった。
ここのパソコンでは、生徒が自由にダウンロードして閲覧できるデジタル化された書籍を検索することができる。
それらしいワードを入れると、適当そうな書籍を見つけることができた。その書籍の番号をとりあえず暗記し、カウンターにいる眠たそうな司書に番号を口頭で伝えると、司書は、僕のタブレット端末に目的の書籍のダウンロード処理をしてくれた。
講義へと向かう途中にタブレットでその書籍を軽く見てみたが、イラストや写真がある割には見づらかった。それはきっと、僕が悪い。小説は喜んで嗜むけれど、こういった解説書や評論は苦手だ。正直読む気がしない。
僕がダウンロードしたのは、一昔前の、世界各国の葬儀全般についてが書かれたものだ。
むしろ今まで対して興味を持たなかったのがおかしい話だが、昨日母の墓参りをしたことによって、僕の目は死者の弔いかたに向いた。
なんとなく、と言えばなんとなくだし、それ以上のこともないけれど。
せっかく講義中暇なので、ヤツの講義が始まるや否や僕はタブレットを取り出して読書を進めることにした。
そこで案の定食いついてきたのはニコラス……かと思いきや、ニコラスではなく、ハロルドだった。 頬杖をついたハロルドは僕のタブレットをちらりと見て、「なにを読んでいるの?」ときいた。とは言え、表情からはじつはそんなに僕の読んでいるものに対しての興味は感じられなかった。暇なのでとりあえずきいてみた、といったところなのだろう。
「いや、なにも」
僕がそう答えたのは、真実を話して、こいつは急に一体どうしたんだと思われたくないからだった。
ハロルドは笑った。
「なにもってことはないじゃないか」
すると横から入ってきたのは当然ニコラスだ。「官能小説かなにかか?」
「あー、そうそう、官能小説だ。だからあまり人に知られたくない」
「興味あるな。見せろ」
ニコラスがタブレットに手を伸ばしたが、僕はそれを避ける。「大したことないから見せたくないんだ」
「なんだよ、俺たち友達だろ。そういうの共有したっていいじゃんか」ニコラスがにやりと笑った。
そこからは、小学生の揉め事のようだった。僕は、失敗して誰にも見せたくないくだらない夏休みの自由研究を太ったいじめっこに見せろ見せろと脅され、奪われようとする少年時代の僕の気分を追体験する。
「やめろって!」
「音読するだけだから!」
「なんでこんな子供みたいなことをしちゃいけないんだ」
騒ぎながらもみ合いをしていたのは、大体三十秒。
ゴースターにしてはよく耐えたほうだと思うが、「黙れ! ニコラス・ハッター、アルバート・レイノルズ!」
彼は板書をやめ、すぐに僕たちを振り返って怒鳴った。ご丁寧にマイクを口に向けて怒りを放ってくれたため、その声はキインと不快な音と共に響く。
落ち着いて着席しようとしたところで、僕は(ニコラスもだろう)立ち上がっていたことに気づき、ニコラスと顔を合わせる。 ふたり同時に溜息をつき、肩をすくめた。
恥ずかしい話だが、僕はいまだに昼食を共にする友達というのがいない。実は、ニコラスとは講義で一緒になるくらいで、MMMは途中まで二人で見て回ったけれど、それ以上の関係ではないのだ。ニコラスは他に友達がいて、きっとどこかでその友達といつも昼食をとっているに違いない。見かけたことはない。
だから僕はいつもソロだ。恥ずかしい話、と言ったけれど、堂々とはしている。僕と同じく、食堂の外側にあるテラスの席を陣取って、一人でぼうっと食事をしている生徒なんて珍しくないのだから。
今日はなにを食べようか、と、いつものように考え、A棟から外に出てテラスへ向かおうとしているところだった。
澄ました、つまらなそうな――不機嫌そうにも見える――顔をして歩いてくる生徒。肌は白く、少々クマが目立つ。触れたら割れてしまいそうな美しいガラス細工のような人物がこちらに向かって歩いてくる。
つい数時間前の講義で一緒に時間を過ごしたばかりのハロルドだ。他の生徒からの視線を受けているものの、顔つきが例によってひどいので、声をかけられることはない。それが彼の真顔なのだろうけれど。
「ハル」
僕から声をかけると、僕に気がついたハロルドの表情はすぐにうれしそうな笑顔に切りかわった。
「やあ、アル」
「ひどい顔つきだったけれど、なにか考え事でも?」
「いや、真顔だ。自覚はない。でもよく人に不機嫌そうだと言われる」
やっぱり、真顔で間違いなかった。
「きみはこれからランチへ?」ハロルドが僕にそうきく。
「ああ。ひとりでね。ちなみにいつもひとり」
「ぼくもひとりなんだ。いつもね。よかったら一緒にどう?」
「ああ」顎を引いて僕は言う。そしてテラスの方を指差し、「だったら、食堂のテラス席に行こう」
テラスの席は、急がないとすぐに満席になってしまうものの、今日もなんとか席を確保できた。テーブルにケータイを置き、食堂に入って食事を注文しに行く。
「ぼく、食堂を使うのははじめてだ」
「普段はどこで昼食を?」
「一旦学外へ出てそのへんの店で。外食だ。でも外に出ないでここで食事をするほうが面倒くさくなくていいな」
僕はいつも通りハンバーガーのセットを、ハロルドはパスタを注文した。
それぞれの注文したものが載ったトレーを席まで持っていき、ぶじに着席して食事を開始したところで、僕のほうからなんとなく口を開いた。
「あのあと、レベッカとはなにかあったの?」
「あのあとって、MMMのあと? 特に何も無かったよ。なぜかというと、とても固かったんだ。彼女のガードがね」
「ふうん」コーラを飲む。「意外だ」
「ぼくの話はいい。きみの話をしよう。結局、なにを読んでいたのさ」
「ああ、あれね……」
しばらく言うのをためらったものの、ハロルドになら言ってもいいか、と思い、僕は正直に答える。「もちろん、官能小説じゃない。この国や他国の、遺体の埋葬についてとその歴史が書かれた本……解説書さ」
一瞬ハロルドのフォークを持つ手が止まったが、すぐにまたフォークがパスタを絡める動作を再開させ、「ふうん、興味があるんだ?」
「なんというか……まあ、ゴースターに触発されたわけではないけれど。昨日は母の命日で、墓参りをしてきたんだ。そのとき、ふと、いろいろと興味がでてきたというか、疑問もでてきたというか。まあ、漠然と、なんだけどさ」
「そうだったのか……」ハロルドは、パスタを見つめて数秒黙り、それからニヤリと笑ってみせる。「ぼくはてっきり、きみがその年齢でもう自分の死後について意識しているのかと」「まさか」大げさにハンバーガーに齧りついてみせる。
「こんなに元気なんだ。そのときが来るのはせめてあと四十年は先であってほしいね」
僕がそう言ったとき、うしろから軽く肩を叩かれる。「アル!」
元気な女の子の声だった。
突然のことに驚いたのと、さっきのハンバーガーへの一口が僕の予想以上に大きくて口の中がいっぱいになったのが重なって、その大きな一口が喉のおかしなところに入ってしまい僕は盛大に噎せる。
振り返り、律儀に僕は挨拶を返す。ゴホゴホと咳き込み、無様な姿を見せつけながらだ。
「やあ、アデリア」
僕の名前を呼んだのは、アデリアだった。一人でいる。この間別れ際に見せた悲しそうな表情とは打って変わって、晴れ晴れとした様子で。
「ごめんなさい、驚かせちゃったみたい」
「問題ないよ」「遠い後ろ姿でもわかったの。あれはアルバートだって。それで思わず声をかけちゃった」
アデリアがそう言ったあと、なんて言おうか迷い言葉を選んでいるところで、ハロルドが口を開く。「ガールフレンドがいるならそう言ってくれればよかったのに」
僕は彼が発した単語にすぐさま反応し、「いや、そういうのじゃ……」
「はじめまして」僕を無視したハロルドは、アデリアに顔を向ける。浮かべられた笑顔は、営業スマイルのようだ。「ぼくはハロルド・エヴァンズ」
「こちらこそはじめまして。わたしはアデリア・ブルー。あなたのことは当然、知ってる。アルとは友達なの。それも、なったばかり。MMMの日には、アルにはちょっとお世話になって」
「こんなかわいらしい子に近づけるだなんて、よっぽど紳士なことをしたんだろうね、アル」
「いや大したことじゃない」早口で僕は返す。「それに昔の話さ」
アデリアは笑った。
「ほんの数日前のことよ。まったく昔じゃないわ」
「僕にとっては昔なんだ」
そこでハロルドがパスタを一口食べたあとに言う。
「あー、知ってると思うけど、彼、ちょっと照れ屋なんだ。で、今も照れてる」 僕は、首を振ってポテトをつまむ。そしてすぐに口を開く。「アデリア、友達がきみとのランチを心待ちにしてるんじゃないか?」
言うや否や、足に軽い痛みが走った。テーブルの下で、ハロルド様の長い足で蹴られたのだ。
「どうして追いやろうとするのさ」
「違う。会話が彼女を時間を奪ってるんじゃないかと」
「そんなことない」笑って、アデリアは首を振る。「いつもランチしてる友達が今日は委員会の仕事で別の所へ行ってしまったから、一人でどうしようかとぶらぶらしていたところなの」
「じゃあこうしよう。今日はぼくたちといっしょにランチだ。ああ、ここに席がもう一つある。ぼくの隣でもよかったらどうぞ」
「いいの?」
「もちろん。男二人じゃどうもパッとしない。食卓には華が必要だ」
アデリアと僕の目が合う。
彼女はにこりと微笑んだ。ちょうど、花が咲くように。
「じゃあわたし、あっちで何か買ってくる」 嬉しそうにそう言い、アデリアは食堂の注文カウンターの方に小走りで向かった。
パスタを一口咀嚼しながらあちら側へ行くアデリアの背を見、そして僕の顔を見てその一口を嚥下してからハロルドは言った。
「かわいらしい、って言ったのは本音だよ。ぼくの好みではないけれど」
それに対しての僕は無言だ。
「早くしないと、他のくだらない男にとられるぞ」
「もうとられてるんだ。恋人がいる。それも、くだらない男だ」
「なら簡単な話じゃないか」ハロルドは笑い飛ばして、「奪えばいい」
「僕は君とは違う……」
「略奪愛は気が引けるって?」
「それもある。でもそういう意味で言ったんじゃない」
「よくわからないけれど……好きならもっと攻めていかないと」
「べつに、好きというわけじゃ……」
「自分の気持ちを否定するのもよくないね」
右手に持っていたハンバーガーをプレートに置きなおし、ポテトをつまもうとしていた左手をとめた。
「……そんなにわかりやすいかな?」
「それもあるし、ぼくは察しがいいというのもある」
ハロルドはいたずらを覚えた少年のようににやりと笑った。そして、一口一口を多めにしてパスタを素早く食べていく。
しばらくすると、アデリアは僕と同じハンバーガーのセットを持ってこちらに帰ってきた。
その頃には、ハロルドの皿にはもう何も乗っていなかった。
「残念だけれど、ぼく、大事な用を思い出したからもう行くよ。三人での楽しい会食はまたぜひいつか」
「えっ、もう行っちゃうの?」アデリアが言う。
「うん。急いで行かないと」
じゃ、またね。ハロルドはそう言って立ち上がり、手早く自分のトレーを取り上げる。
「ハル」
食堂にトレーを返却しに行くその背に僕がそう声をかけると、彼は片手の人差し指で僕のことを指差した。
しっかりしろよ、という戒めのサインだろうか。
「……行っちゃったね」残念そうにそう言いながら、アデリアは席につく。まだ彼女は席についてすらいなかったのだ。
「次期社長も忙しいんだろうね」
「あれっ」スプーンを手に取って、アデリアは首を傾げる。「彼が次期社長なの? 彼、次男じゃなかったかしら?
そういえば……僕は、MMMで見たハロルド・エヴァンズのプロフィールを思い出す。たしかに、あれには、ジェイ・エヴァンズの次男、とあったっけ。
「そうだったね。じゃあ跡とりはあいつの兄さんなのかな」
なんとか会話を続かせようと、べらべらと喋る。ハロルドのことだが。「次男だってこと忘れて、ついさっきまでなんとなく長男で跡取りなんだろうなあと思ってたけど、あいつ、兄というよりは弟っぽいもんなあ、うん」
「そうね」
「甘やかされて育ってきたんだろうな。ハハ」
ああ、この「ハハ」っていうのは、無理やり腹から出した笑いだ。
そうして、すぐに沈黙が僕らを取り巻く。
よくよく考えてみなくても、僕らはまだろくに会話したことがないから、ちゃんと向き合ってなにか談笑をするというのに慣れていないのだ。多分主に僕が。
でも、このときの僕は必死で、気力に満ち溢れていた。ハロルドがあの人差し指で僕の背中を押してくれたというのもあるけれど。
「休日とかは、何をしているの?」
「わたし?」アデリアは、自分を指差す。子犬のような瞳が、輝やいた。「割と体を動かすのが好きなの。サイクリングとか」
「ああ、サイクリングか」親指をたててみせる。「いい趣味してる。僕も好きだ」
ごめん、アデリア。これは嘘だ。僕はきみに好かれたい。そう、少しでも。
「ほんとう?」
「うん。マウンテンバイクに乗って受ける風は徒歩で受ける風の何倍も気持ちがいい」
「でも、家でのんびりするのも好きだし、飼っている魚の世話をするのも好き……あとは映画が大好き」
「映画? もちろん僕も好きさ」これは嘘じゃない。「ジャンル問わずなんでも観る。でもヒーロー物が好きかな。単純で、わかりやすい。なにより、ワクワクするしドキドキもする。ヒーローは恰好いい
「わたしも好き! どのヒーローが一番好き?」「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』と言われた、僕らの親愛なる隣人さ」
シューッ、と息を吐きながら、手首を前に突き出した。
幸い、アデリアは楽しそうだった。
このあとも、僕たちは時間を忘れたように映画の話をし続けた。必死に言葉を選んで喋り続ける僕に、アデリアは相槌を打ったり、言葉を返したりと、僕のことをやさしく受け止めてくれた。 やがて会話のネタも尽き、僕はいやでも口を閉じることとなる。黙って、コーラを一口飲むと、少し炭酸が抜けているような気がした。自分でもいつ食べきったのかわからないが、皿の上にはもう何も載っていなかったし、アデリアもそうだった。
沈黙を彼女は気にしていないようだったが、僕がまだ何か言おうとしているのにきづいて、彼女は僕のことを見つめる。
「あのさ……」
「なに?」彼女はすぐに返事をした。
「この間のことだ……」
「昔のこと?」くすりと、彼女は笑う。
「ああ、そう、昔のこと……あのあと本当はきみに連絡しようと思ったんだ。きみがくれた連絡先に。あのあとのきみのことが気になったんだ。でもできなかった」
「なぜ?」
「僕は、君の、何でもないから」
「ううん。友達よ」
アデリアは優しくそう言ったものの、そう言われるとそう言われるとで、僕になにかが刺さるような感じがした。
「そりゃ、そうだけども……」
アイスティーを一口飲んだ彼女は、口を開く。
「あのあとね――二日くらいあとだったかな――別れたの」
「はっ?」
思わず口を大きく開け、上体を前に乗り出してしまった。
「わたしからお願いして無理矢理別れたってかんじなんだけど……もうつらいのは嫌だったし。わたしも馬鹿だった、あんなひとと一緒にいて! ちょっとおかしかったのかも」
「えっと……それはよかったよ! もう安心だね。いや、安心じゃないか。見たところ、あの男、やばい奴には違いないから、きみに粘着してまたなにか嫌なことでもしてきたりするかも……」
「かもしれない。もしそうなったら、どうしよう……」
「警察に相談」
「警察……」
「の、前に、一度僕に相談だな」
僕がそう言うと、アデリアは安心したような表情を見せた。
「うん。そうする。本当にそうするけどいいの?」
「勿論だとも」
頼られたことが照れくさくて、顔を背けるように下を向いて腕時計を見ると、もうすぐで昼休みの時間が終わるころだった。
「気がついたらもうこんな時間だ。昼休みが終わる」
「もう? あっという間ね」
「僕はこのあと講義も何もないからいいけど、君は急がなきゃ。講義があるんでしょ?」
「わたしも急がなくていいの。今日は講義も何もないから」
「そうなんだ……」
どうしたらよいのかがわからない、というのが本音だった。
「とりあえず、トレー返しに行こうか」
ここで、では別の場所で時間を潰そうだのと言えないのが僕だ。(なにが、トレー返そう、だよ)
しかし、言ってしまったのならしかたない。僕は自分のトレーと、それからアデリアのトレーももちあげる(それを当然のことだという素振りを見せず、アデリアはただ僕に「ありがとう」と言った)。アデリアと二人で、食堂へ向かい、カウンターへトレーを返却した。ここで働いている老婆が、すぐにトレーをひっこめたとき、僕もそれを当然のことだとは思わずに一言だけ感謝をこめて礼を言ったさ。「ごちそうさま」だったけれども。
そのすぐ後に、意外と、僕の言いたかった言葉がすんなりと出てきた。そう、本当に唐突にだ。
食堂で作られているカレーのスパイスにでもやられたか? まさか。この食堂にはカレーだなんてメニューはないし、そもそもアメリカ人はカレーを食べない。
だったら、なぜなのかというと、それは紛れもなく僕は彼女のことが好きで、僕は僕に正直になったからだった。
「ねえ、どこかへ行こうか」
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