海の声

漆湯講義

193.現実

長い長い時間が過ぎ、私は病院のベッドで横になる娘の髪を指の間へと絡ませて、そのまま柔らかな頬へとそっと手を当てた。
自分の意思に反して目頭が熱くなる…
急に視界が歪んだかと思うと、娘へとぽたぽたと落ちていく涙に気が付いてすぐにその雫を拭った。

意識が戻る可能性は低い…
医師にそう告げられた瞬間から、当たり前に訪れる筈の明日が突然にその気配を消した。いや、もしかしたらそんな明日が来てしまうのを拒んでいたのかもしれない。
娘が意識が戻るのかも分からないままにこのベッドの上で生涯を終える…そんな他人事だった筈の悲しい物語ですら、私が娘とする"動物園に行く約束"よりも現実味を帯びてしまっていた。

それから半年が経とうとしていた頃、未だに娘の笑顔は見られていない。
そしてある日、この島に越してくる新たな住人の事を知る。東京からわざわざこんな離島に越してくるなんて物好きな人たち。なんて事はどうでもいいのだけれど、ただ一つどうでも良く無い事があった。
…娘と同じ歳の男の子。
あぁ、そう言うことかと、毎日心の中で海神に祈っていた自分を馬鹿らしく思ってしまった。
結局、神様なんてそんなもの。
都合良く物事が進んだ時にだけ信じておけばいいものなの…
私は、海美が運ばれてからひと月が経つ頃、お見舞いに来て下さった村長にお願いをしてなんとか半年の間は、"娘の代わり"は探さないで欲しいと頼み込んだ。
あんなに楽しみにしていたのだから、起きた時に渡し子をやれないと知ったら、どんな顔をするのだろう…
きっと私が"急な仕事"が入った事を伝える時よりもぎこちない笑顔を見せる事だろう。
そして、そんなぎこちない笑顔すら見られる事も無いままに、その男の子が海美の"代わり"になった事を知った。




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