海の声

漆湯講義

3.海を越えて

 見慣れた風景が次々と車窓に流れ、消えていく。小さい頃よく行った商店街、どこに居ても見えたタワーマンション、アイスクリームが美味しかった喫茶店に……、俺の学校。そのどれもが、通り過ぎる度にどこか別の世界へ消えてしまってもう二度と見る事ができなくなってしまう……。そんな気がした。車内ではそんな俺の気持ちに相反するように、"母さんのバックミュージック"に代わって"軽快なリズム"と"愉快なおじさんの喋り声"が響いている。そのおじさんのくだらなすぎて逆に笑ってしまうような話に耳を傾けていると、次第に窓の外の"知っている景色"がみるみる少なくなっていって、古びたビルを過ぎて同じ形の家が建ち並ぶ住宅街へ変わる。そしていつしかそこは見慣れない景色だけの"知らない世界"に変わってしまった。
 俺は浮かない気分に押し潰されるように再びシートに横になると、じっと窓を見上げ続けては、溜息が出そうになる度にそれを飲み込んで、運転席と助手席の間から顔を出しては「ココどこ?」と尋ねた。しかし返ってくる地名を聞いても、この町から出た事のない俺が知る由もない。そんな事を何度か繰り返すうちに、俺はいつの間にか車の揺りかごに眠りについてしまった。
 ……車のバック音で目を覚ます。慌てて身体を起こして周囲を見渡すと、窓の外は暗く、薄暗いぼんやりとした光に照らされた車がたくさん停まっているのが見えた。

「なにっ? トンネル?」

 俺がそう尋ねると、父さんから思いもよらない答えが返ってきた。

「ははっ、今はフェリーの上だよ。なんせこれから海を渡るからな」

 海を……渡る? そんなの聞いてないっ!

「えっ、外国行くのっ?! そんなのやだよ俺っ!」

 俺がパニック気味にそう言うと、母さんが呆れたように答えた。

「馬鹿……、パスポートも持ってないのに行ける訳ないでしょう?」

 と言われたものの、フェリーなんて乗った事無いし、どこに行く為に使うものなのかも分からない俺にとっては、それが外国だろうと国内だろうと、未知の領域へ連れて行かれる事には変わり無い。

「フェリーなんかでどこ向かってんの……」

 そう尋ねた俺を見て母さんは何故か目を丸くした。そして父さんの方を一瞥すると、苦笑いを浮かべてこう言ったのだ。

「えっと……、沖洲島っ。もしかしてお父さんもアンタに言ってなかったかしら……」

「えぇ?!島?!聞いてねーよ!!」

 島と聞いて思い浮かぶのは、石積みの家に見渡す限りのサトウキビ畑、それに真っ黒に日焼けして昔の変な格好をしたお婆ちゃん……、それとシーサー? とにかく何にもない退屈なトコロってのは確かだ。
 県外の人達が都会と呼ぶ東京に産まれて、そこから出る事もなく"都会"しか知らない俺にとっては、"島"という所は外国と何ら変わりはない。だっていつの日かテレビで見た"島の人"は、外国語みたいな言葉を喋っていたし、俺が見た事のない所で見た事のない家に住んで見た事のないモノを食べていたし。そうだ、これはきっと"島流し"ってやつなんだ。要らなくなった人間を遠い遠い場所へと捨ててしまうやつ。

「マジかよう……、俺まだ若いのに」

「何言ってんのよ。沖洲島は自然がいっぱい残ってていい所よっ。魚も美味しいだろうし東京と違ってご近所さんもいい人よっ、きっと」

 母さんだって父さんの転勤が決まった時に嫌そうにグチグチと何か言っていた癖に。本当に気楽でいいよこの人は。
 車のドアが開くと同時に、今まで飲み込んだ溜息がふわりと香った潮風に乗って一気に吐き出された。

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