光と壁と

増田朋美

第十一章 マンドセロ

第十一章 マンドセロ
恵子はこの様を見て、ある種の感情がわいたが、何食わぬ顔をして、自宅マンションのドアを開けた。部屋は何も変わらなかった。靴を脱いで、四畳半のふすまを開けると、いつも通り、裕康が正座で座っていた。
「ただいま。」
裕康は、縫物の仕事にとりかかっていた。隣には友蔵が座っていた。
「ああ、おかえりなさい。」
こういう口調は、いつもと何も変わらなかった。
「ねえ。」
恵子は、単刀直入に聞くことにした。
「さっきの女の人、だれなの?」
「ああ、あの人ですか。河野史子さんです。」
たったそれだけで、全く悪びれた様子もない。
「どういう関係なの?」
「何もないですよ。ただ、話していただけですよ。」
「だって、手紙出すって言ってたじゃない。ってことは、あなたが何かしたでしょう?」
「何もしてないですよ。ただ、河野さんがかなりつらいことで悩んでいたらしいので、それを聞いていただけのことです。」
それだけのことで、手紙を出すくらい感激されるのだろうか?自分は、これまで何十人も生徒の相談に乗ってきたが、みな悩みが解決すると、お礼なんて、どこかへ吹っ飛んでいる。つまり忘れてしまう。
「あたしが、生徒の相談に乗って、進路を決める手助けをしても、何の礼を貰ったことは一度もないのに、あなたは、あのくらい感謝されるの?」
そういって恵子は、先ほどの横綱を目指す生徒の話をした。お礼をもらったことも一度もないことを強調した。
「それは、若い人だから仕方ないんじゃないですか。誰だって、若い人は、お礼なんて全くせずに、新しい世界に飛び立っていくのが普通ですよ。希望に満ちた若い人とはそういうもんです。素晴らしいことじゃないですか。」
と、答えが返ってきた。恵子はこれを聞いて、もしかしたらその河野という女性が、裕康と関係を持っているのではないかと疑った。年代もおそらく50代後半から60代という感じの人だから、仕立ての依頼でも頼みに来る可能性はある。そのくらいの人は、恵子より金をたくさん所持しているだろうし、もしかしたら裕康は、その人から、何か援助的なものを受けているのかもしれない。
「私には、それくらいのアドバイスで、河野さんには手紙をもらうくらいのすごいアドバイスを上げているということはやっぱり、」
と、言いかけたが、友蔵がいきなり立ち上がってほえ始めたので、恵子はそそくさと退散した。恵子は、この犬が本当に苦手だった。
友蔵に追い出されて、恵子は自室に行った。部屋に入ると、家庭争議などしている暇はなくて、もっと重大な問題があることを思い出した。横綱を目指す生徒も、少しは安心してみていられるので、すぐにべつの生徒のことを考えなければいけない。彼女の名は篠田正代。実は、この高校の希望の星と言われている。先日行われた、東京都内の模擬試験で一番を取った実力者だ。もしかしたら、この高校初の、東大合格者となる可能性もたかかった。教師たちは、それを期待したが、何よりも、篠田正代本人が、それを望んでいないという問題があった。彼女をどうやってそこへもっていくか。恵子は、これを迫られていた。
どうしたらいいものだろうか。先日行った進路希望調査では、とりあえず、四年制に行くとは書いてくれたものの、成績が良いことも、模試で一番を取ったことも、彼女は何もうれしくはなさそうな様子だった。本当は、大学など進学したくないのではないかという教師もいるし、校長も彼女がかわいそうではないかと援護していたが、強そうな教師が、うちの高校の評判を見てくれと言って、校長の意見を受け入れなかった。確かに、この高校の評価はあまり高くない。支援学校と言うのはそうなりやすいが、不良っぽい子や、茶髪の子が多いから、それだけで進学校の先生というのは馬鹿にしてしまう。
結局その日は、何もアイデアはつかめなかった。翌日も、恵子はぼやぼやとした気持ちで高校に出勤し、体育の授業を行った。何人か恵子に話しかけてくる生徒もいたが、あいまいな答えしか出してやることはできなかった。
授業を受けた生徒の中には、篠田正代もいた。確かに体育の成績も優秀であった。このような優秀な生徒が、なぜうちの高校へ?と首をかしげる教師がいても不思議はない。
正代は、毎日学校へ来るわけではないが、授業では熱心にノートをとるし、体育の授業も熱心に受けるし、授業態度の面からでは極めて優秀である。評価の面でも申し分ない。
「正代さん。」
恵子は、授業が終わった後、正代に声をかけた。
「ねえ、もう一回考えてくれないかな。」
正代は嫌そうな顔をした。
「だってさ、これからのことだって、絶対に東大に行けば、、、。」
「恵子先生、今日はちょっと、家に用事があるので、早く帰ります。」
正代は、そういって、教室に戻っていってしまった。
「あ、、、。」
またしても、空振りか。
恵子も、とぼとぼと、職員室に戻った。重たいドアをがちゃんと開けて、職員室の入ると、
「どうだった?」
と、ある教師が恵子に聞いてくる。
「また空振りです。」
恵子はそう答えるしかなかった。
「そうか。何とかして彼女、説得してくれよ。たぶん君は、生徒に一番近い存在なんだろうから。養護の、鈴木先生でさえもそう言ってるよ。」
なんでまたそんなこと。保健室に常駐している鈴木多恵子先生は、生徒にとってはおばあちゃんのような存在で、自分より人気者に見えるのだが。
「鈴木先生がそういうこというんですか?」
「そうだよ。自分はもう年寄りだけど、恵子先生は若いから、もっと説得力があるって、鈴木先生は言っていたよ。一度、鈴木先生にも説得を頼んだことがあったが、年寄りはそういう事には向かないだろうからと言って、断られてしまった。」
もう!年寄りは都合のいい時はそうして逃げてしまうんだな。全く、身勝手にもほどがある。
「鈴木先生も、それでは困りますね。私、説得するにあたって、手伝ってもらおうかと思っていたのです。」
「いやいや、先生は、おばあちゃんはやさしく守ってやることにおいては非常に効果的だけど、進路のことについて、こうしろと強く言うのには、向かないと言っていたよ。」
「じゃあ、誰が向くんですか。」
「だから、言っただろ。若い生徒を説得するにあたって、一番効果的なのは、同年代の友達なんだよ。その次が、少しばかり年の離れた、お兄さんお姉さんだ。親とか、祖父母とかはそういう時には全く役立たずだ。それに、篠田正代は、兄弟もまったくいないんだから、そういうときに、お姉さん的な先生が説得に当たったら、うまくのってくれるのではないかな。」
年上の教師たちはそういう事を言っている。まあ確かに、十代の生徒たちが一番従う相手は、親や教師ではなく、同級生の友達とか、部活の先輩とか、そういう人たちであるのは、恵子もしっている。だが、正代には、仲の良さそうな親友がいるわけでもなし、確かに家の中に兄弟がいるわけでもなし、部活にも所属していない。この高校は、部活に入るのは任意となっているが、大して強豪というわけではないので、部活に入る生徒はごく少なかった。
「頼むよ。恵子先生。僕みたいなおじさん教師が、彼女を説得しても、彼女は受け入れてはくれないだろう。教師は、あのくらいの歳の生徒にとっては、うるさいおじさん程度しかないんだから。それに、恵子先生みたいな若い先生は貴重だよ。こういう学校に赴任してくるのは、若い先生よりも、こういうおじさんとかおばさんのほうが圧倒的に多いんだからね。」
そう言って、年上の教師は、恵子の肩を叩いた。恵子は一つため息をついて、
「はい。」
というしかなかった。まあ、確かに、恵子が、一番若い教師であることは確かだった。大体の教師が、公立の学校を定年退職したなど、年配の教師ばかりで、中には高校教師ではなく、大学で講師をしていたという経歴の先生までいる。そういうところが支援学校の特徴と言える。まだ二十代の若い先生は、めったに見かけない。
「じゃあ、頼むね。」
恵子はそういわれた言葉が、鉛のように重く感じた。

一方、篠田正代も、実はつらい気持ちを抱えていた。模試を受けてから、周りの大人の態度が、がらっと変わってしまったのだ。あんなもの受けるんじゃなかったと彼女は後悔している。それまでの正代は、成績こそ確かに優等生だと言われたことはあったけれども、あの模試を受けて、東大確実という結果を「偶然」獲得してしまってから、家族みんなが、頑張ってね、応援しているよ、なんて言葉を盛んに口にするようになった。その言葉は彼女にとっては「棘」だった。
正代の自宅は、ごく普通の一軒家だ。ただの中流の、核家族が住むには十分すぎるくらいである大きさの家で、母が丹念に世話をしている、一本の梅の木が植えられているだけの小さな庭を有していた。
「ただいま。」
正代は玄関の家のドアを開け、中にはいった。
「あらおかえり、早かったのね。」
家では、母がカレーを作っていた。
「早かったって、普通に授業を受けただけよ。」
「そうだけど、学校には補習というものはないの?」
補習なんて、赤点でも取らない限り受けたくない。できることなら、学校から早く帰りたい気持ちでいっぱいなのだから。それが、お母さんまでそういう事をいうのか。
「学校ではそんなものは、勉強ができない子にやらせるのよ。赤点でも取ったとか。」
正代がそう答えると、
「ねえまあちゃん。」
と、母がいきなりそう切り出した。
「お父さんと、昨日話をしたんだけど。」
正代はギョッとした。母の手には、いくつかの冊子が握られている。その冊子の表紙には、何とか予備校とか、何とか塾などと書いてある。
「ちょっと行ってみたら?こういうところ。」
母の口調はやさしかったが、正代は泣きたくなった。
「だって、今のまあちゃんの言っている通りだとすれば、学校では勉強ができない子の面倒を見ることに必死で、まあちゃんのことは何一つ気にかけてくれないことになるでしょう。それでは、自分で受験勉強しなければならないじゃない。東大の試験勉強は、自分の力だけではとてもできるもんじゃないわよ。学校でそういうものが得られないのなら、こういうところに行ってみたほうがいいんじゃないのかな。」
「お母さん。私、東大に行くために高校に行っているわけじゃないわ。そんな偉いところ、私の学力では到底いけるもんじゃないわよ。だから、もう、あきらめてよ。」
「だって、あの時の模擬試験で、ああいう結果も出たんだから、実力があるってことになるのよ。それを使わないでどうするの。宝の持ち腐れよ。」
「だって自信ないわよ。」
「またそんなこと言って。まあちゃん、じゃあ聞くけど、なんでそんなに嫌なの?東大に行けるなんて、お父さんもお母さんも鼻が高いし、これまでいじめた悪い子たちに対してそれによって、仕返ししたも同然よ。いじめた子たちに対してさ、どうだ、自分は、もっとすごいところへ行ったんだって見返してやれるじゃない。これはそのための大きなチャンスなのよ!」
確かに、そうなのかもしれない。彼女がもともと、この高校を選んだのは、中学時代、正確には中等教育学校の中学部時代に、ひどいいじめにあい、そのいじめた子たちからどうしても離れたかったという理由からなのだ。それまでの正代は、都内でも超有名な中等教育学校に在籍していて、高校受験などする必要もなかったのであるが、そのいじめのために、彼女は中等教育学校を無理やり退学した。この退学手続きをしたとき、彼女は直接その現場に居合わせたのではないのだが、両親は校長と教頭からうちの学校に泥を塗るなと、ひどい罵声を浴びせられたと聞かされている。両親から見れば、その中等教育学校に仕返しをしたい気持ちもあるのだろう。でも、正代はどうしてもそういう気持ちにはなれないのだ。
「ちょっと考えさせて。」
正代はそれだけ言って、自分の部屋へ逃げた。
部屋へ入っても、正代は沈んだままだった。父が買ってきてくれた、東大の試験対策を記述した問題集もあったが、とてもそれに手を出せる気分ではない。
ふっと床の上に目をやると、彼女の大好きな楽器が、ケースに入っておかれている。これは、数年前に亡くなった彼女の祖父が残してくれたものである。正代にとって唯一の味方と考えられる人物で、父母よりも的確な判断力があった気がする。祖父は、音楽の勉強というものは、若いうちに体得すると、非常によい感動が得られるので、できるうちにやっておけと言って、良い先生を探してくれたりしたのだ。もっと長く生きていてくれたら、と思ったけれど、時すでに遅かった。
なんとなく、外へ行きたくなった。きっと今ここで楽器を弾いたら、ご近所に迷惑になるからどこかよそで弾いてらっしゃいとか、そういわれることだろう。なので、彼女は楽器を持って、公園に行く事にした。
公演は誰も人がいなかった。こういうところよりもみんな渋谷とか、新宿なんかへ遊びに行ってしまうのだろう。だからこの公園も閑古鳥が鳴いているのだ。こんなに広い公園なのに、もったいないくらい人がいない。
正代は公園のベンチに座って、楽器のケースを開けた。楽器自体はかなり古いものだったけど、丁寧に掃除されていて、まだまだ立派な物である。
それを膝に乗せて構え、ピックを持ち、独特のトレモロで弾く。カラカラカラカラ、というこの持続したトレモロの優しく温かく、さわやかな音がなんとも心地よい。弾けばやっぱりこれを捨てたくない気持ちが募る。
「東大に行ったら、これも捨てなければならないのか。」
思わず、そう呟いてしまった。まるで私を捨てないでとでも言いたげに、楽器はカラカラカラカラとなり続けた。
しばらくそれを鳴らし続けた。それをやっていると、時間がどれだけ経ったのか忘れてしまうのだ。それくらい夢中になれる。
「こんにちは。」
急にどこからか、声がする。はじめは誰か、他の人がしゃべっているのかと思い、無視し続けた。男性とは思ったのだが、それにしては偉く、声の細い男だ。
「珍しい楽器じゃないですか。」
と、いう事は、自分の事を指しているのだろうか。
「あ、あの、もしかしたら、私の事ですか?」
「ええ。そうです。今時カラーチェのマンドセロを持っている人ってそうはいないなと思って。ああ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたよね。」
彼は、そういって軽く頭を下げた。額の汗を拭いたその左手の甲から小指にかけて、桐紋が描かれていたので、正代は少し引いた。
「すみません。驚かせてしまって。」
と、彼は言った。彼も着物を身に着けて、普通に暮らしている男性としては信じられないほど痩せていたから、珍しいと言えるかもしれない。
「ありがとうございます。でも、よくわかっていただけましたね。カラーチェなんて、よくしっているじゃないですか。」
実を言うと、まさしくその通りの楽器なのである。カラーチェは、マンドセロにとって、切っても切り離せない、超高級楽器メーカーなのだと、祖父に聞かされたことがある。
「ええ、棹にそう書いてあるから。」
確かに棹の先端にカラーチェの紋章が入っているので、わかる人にはわかるのである。これはきっと確かだ。
「今はきっと、安いものに目をとられてしまうことのほうが多いんですけど、やっぱり伝統的なものは違いますよ。鳴りにしろ、見た目にしろ、何にしろ。すみません、僕も伝統に関わってきていましたから、こういうものに対しては敏感というか、つい、お声をかけたくなってしまう癖があるんです。ごめんなさい。」
と、彼は言う。伝統に関わるという、彼のその言い回しに、正代は興味を持った。
「そうなんですか。でも、伝統に関わるって素敵じゃないですか。私はそういうの、すごく好きですよ。そういう人って、かっこいいな。憧れです。」
正代は、自分の感想を正直に述べた。
「まあ、伝統と言っても、マンドセロのような高級なものを作っていたわけではありませんので、大したことないですよ。」
ずいぶん謙虚な人だ。伝統的なものと言えば、みんな高級品になるのではないか。
「そんなことないですよ。じゃあ、聞きますけど、一体何を制作していらしたのです?きっとすごいものを作っていたんでしょう?」
「すごい物でもなんでもないですけどね。まあ、一言で言えば着物を制作しておりました。それだけの事です。」
「すごいじゃないですか!私、着物を着るってやってみたいけど永久にできないだろうなと思っていたから、それを作れる人って、すごいと思う!」
「ありがとうございます。でも、着物なんて今は、死語と同じようなものです。作ったとしても、化繊の、洋服に使う布を、そのまま着物の形に作っただけのことですから。本物の着物を作ってくれと言ってくる人に、お会いしたことはほとんどありません。」
「そういうものなんですか、、、。」
なんだかそういわれると寂しいものだ。正代は、日本の古いものは嫌いではないからだ。
「はい。そうなっていくもんですよ。伝統っていうのは。だんだん消滅していく物なんではないですか。安くて、簡単に入手できて、簡単に使えて、簡単に始末もできるものに変えていかないとこの時代に残っていくことはできませんよ。職人は、そういう事を知らないで製品を作り続けて売れないのを嘆き続けるか、無理やり現代の安いものを取り入れて品質を落としていくかのいずれかに分かれていきますよ。そして、どちらのやり方であっても成功することはまずできないというのが、日本の現状と言えるかな。」
「そうなんですか、、、。正直なことを言ってしまえば、私も着物、着てみたいから、作ってほしいと言っても、きっとすごいお金がかかって、私にはできないんだろうな。そういう事なんでしょ。」
正代はがっくりと肩を落とした。
「でも、リサイクルとか使えばよいのでは?ヤフーのサイトとかで販売されているものもありますし。」
「いや、いろんな店があって、結構な値段で販売しているのを見たことはあるけれど、それが正当さを望む人たちの現場で受容されたことは全くありません。現代の人に合うように作られていないのです。」
なるほど、そういうことか。
「ええ。気が付けば、というか、気が付くのが遅すぎたんですね。気が付いたときは、すでに伝統のものについて、偏見の強い時代に突入していたということになりますね。」
うん、それは確かにわかる気がする。自分も伝統に興味があったが、他の人は、馬鹿らしいという。
「なんだか私は、寂しいと思ってしまうんですけど、そう思うほうがおかしいと言われてしまうことのほうが多くて、、、。そういう事って、何か私たち若い人にはタブーになってて、完全にお年寄りたちだけのものになっているっていうか。なんか、こ、こういうことに興味持つ若者はおかしい人というレッテルが、、、。」
「ええ、まさしく。でも、よくわかっていただけましたね。そこまで考えを持てるのは、すごいと思うんですけどね。本当は。」
「あたし、試験で100点をとるよりも、そういうものに関わっているほうが好きです。」
正代は本来持っている気持ちを正直に話した。
「そうですか。ありがとうございます。本当は、そういうほうにもっと関心を持ってほしいなと願わずにはいられないですけど、きっとね、今の現状ですと、もっともっと遠ざかってしまうのではないかなあ。」
うん、確かにそうなってしまうだろうな、と正代は思った。そして私も、遠ざかっていかなければならない事情を抱えている。それはもう仕方ないこともわかる。
「でもあたし、お話しできてうれしかったです。あたしは、もう年齢的にも社会的にもだめだけど、そういう伝統は好きですし、きっと子供の中でもそういう子は出てくるんじゃないかと思う。だから、その子たちが興味を向けた時に、製品が残ってくれないとこまると思いますので、これからも作り続けて行ってください。」
彼女はそういうと、マンドセロをケースにしまって家に帰ることにしたが、彼がぽろん、と涙を流したので、マンドセロを持ったまま、そこに止まった。
「どうしたんです?」
「あ、ごめんなさい。大したことではないんですけどね。僕自身、そこまではできないですからね。」
と、彼は言った。
「どういうことですか、、、?」
正代は聞いてみたが、
「僕自身も彼らがそこまで成長してくれる間に、たぶんここにはいないと思います。」
と、いう答えが返ってきた。感性のよい正代は、それはどうなるのか大体理解できた。
「そうですか。なんかそうなってしまうのは悲しいなあ、、、。私も、もっとながくお付き合いしてみたかった。そういう伝統の世界って覗いたことがないから、一度でいいから、行ってみたいと思っていたのですけど。それも、無理になっちゃうんですね。そこまでやつれるということはそういう事ですね、、、。」
「じゃあ、行ってみます?」
不意に彼がそういった。
「へ?」
「うちの仕事場は、この公園からすぐですから。」
「本当?行ってみたい!着物を作っている現場をぜひ拝見してみたいです!」
正代は、そういうものに触れられるのには、これが最後のチャンスだと思った。
「じゃあ、行ってみますか。」
と、彼は言って、遊歩道を再び歩き始めた。正代も、それに続いていった。
「ほんとに、ありがとうございます。なんかすごくうれしいです。」
正代は次第に、一般的な高校生らしい、明るい口調になった。今まで抑圧されてきたものが、少しずつ現れてきた感じだ。
「そうですか。僕も実は想定外だったんですよ。もうこっちに来てから、疲れることばかりで、本当に何もなかったですから。興味を持ってくれる人が出るなど、全く思いませんでした。」
彼も、その口調に間違いはないようだ。
「私も、まさか着物を作っている人が、こんなに身近にいたとは思いませんでしたわ。私、篠田正代と言います。正代とは、正しいという字と、代理の代という本当に単純素朴なありふれた名前ですけど。まあ、適当にあだ名でも作っていただければ。」
正代は思いきって自己紹介した。
「篠田正代さんですか。」
「ええ。そうです。」
その時には何も気にせずに名を言ってしまったが、、、。のちに意味が分かる。
「そうですか。僕は、小川裕康と言います。旧姓は結城です。まあ、平凡な名前ですよ。旧姓のころのほうが、個性的な名前だといわれるほうが多いですけど。」
「平凡なんて、そんなことないですよ。素敵じゃないですか。今だって。」
「そうかもしれませんね。」
裕康は、少しため息をついた。
「自分では、大した名前ではないと思いますけどね。」
「そんなことないですよ。でも、裕康さん、さっき、こっちに来てからと言ったけど、どこからか福生に移ってきたんですか?」
正代は裕康に聞いた。
「ああ、僕、もともとは茨城の結城から来たんです。うちの妻が仕事の都合で一緒に来てくれと言ったものですから。」
「結城、へえ、、、。行ったことないなあ。」
「何もないところですよ。電車だって、一時間に一本しか走ってないし、バスは一本も走らない時間のほうがかえって多いし、ここのような大型のショッピングモールもないですし。」
「いや、私は憧れるわ。こんなごちゃごちゃしたところ、もう嫌なんです。だって、ほしいものはすぐに揃っちゃうし、どこかへ行く楽しみもないし。なんでもありすぎて窮屈なくらい。どこか異世界へ連れて行ってくれるのは音楽の世界だけですよ。」
「ああ、それで、マンドセロを始めたんですか。」
「まあ、そういう事なんです。どうしても、ここから離れたかったんだけど、何でもありすぎてそれができないでしょう。ピックを握って、弦をはじけば、私にはできない音を出してくれて、私を癒してくれて。それを教えることによって、他人にも分けてやることもできるし、合奏することによって、一緒に共有することもできるし。こんな便利な道具、他に思いつかないじゃないですか。」
「よほど、好きなんですね。マンドセロが。でも、女性がマンドセロを好むのは珍しいですね。」
「まあ、それ、よく言われるんだけど、私、どうも高音の楽器というのは苦手なんです。マンドリンも習わせてもらったんだけど、全然面白くなくて、続かなかったんです。それが、マンドセロに楽器を変えたら、その音色にはまってしまって、もうそれがない生活なんて考えられないくらい練習して、、、。もう、学校の勉強もそっちのけ。いじめられっ子だったから、もう、学校の事も忘れたくて、ひっきりなしに練習してました。」
正代は少しばかり恥ずかしそうに言った。
「はじめは、安物のマンドセロで練習していたんですけどね。あまりにも練習しすぎて、頻繁に絃が切れるし、棹は折れちゃうし、もう、修理をするより買ったほうが安いと楽器屋さんに言われる始末で。だから祖父が、私に買ってきてくれたんです。カラーチェのマンドセロ。」
「なるほど。そういうものって愛着としていつまでも残りますね。カラーチェというブランド代よりも、おじい様の思い出のほうが勝っているのかも。」
「ええ、まさしく。その通りです。」
まさに図星。正代は嬉しそうな、でもはにかんだ顔で笑った。
「ところで、お仕事場はどこなんですか?」
「ああ、もう、ここです。」
裕康は、あるマンションの前で止まった。この時点では、誰のマンションなのか予想できなかった。
「どうぞ。」
玄関のドアが開いた。



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