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光と壁と

増田朋美

第十章 空っぽこそ役に立つ

第十章 空っぽこそ役に立つ
「お母さんのせいなんだよ。」
河野史子はそういわれて泣きたくなってしまった。
父にさんざん怒鳴られてきたと思ったら、今度は娘に怒鳴られるのか、自分って何だろう。
他の友人たちは、すでに娘も息子も結婚して悠々自適な生活をしている。でも自分には絶対にそういう事はできないと思うと、人生は終わったなあという気がする。だから、友達と付き合おうという気も起らない。
夫は仕事人間で、自分のことに、関心を持ってもらうことを期待するのは、するだけ無駄である。娘にも同じことが言える。でも、家は貧しく、夫には働いてもらわないといけないのも、まぎれもない事実なので、文句は言えない。
父母は、自分よりも夫や娘の事ばかり口にする。だから、彼女は家族のための、いわゆる家事ロボットという感じになっていた。せめて娘には家事ロボットになってもらいたくないと思って自由に育ってほしかったのに、なぜかその逆になってしまった。つまりどういう事かというと、ロボットどころか、粗大ごみになってしまったのだ。粗大ごみとは、父が付けた愛称であるが、「出ていけ、死んでしまえ」という気持ちを如実に表しているので、それを作ってしまった責任を感じさせられて、非常につらいものがあった。
今日も娘は祖父である父と対立した。働くことができなくなってしまった娘は、働くことを一番の美意識としている父ととにかく対立する。父は娘には治療が必要だということが全くわからないのだろう。それはそうだろう。心の病なんて、自分の力でなんでもできるという人に、理解なんてできるはずもない。父にはただの怠け者と解釈されても仕方ない。
そして、その対立というか喧嘩は年を重ねるごとにひどくなる。父が、耳が遠くなっていき、理解しにくくなったというのもあり、娘がさらに苛立ってより怒鳴るからだ。しまいには、暴力に発展していくのではないか。史子はそれが不安で仕方ない。もしかしたら、娘は、そのうち祖父を殺したいと言いだすかもしれない。
互いの怒鳴り声を聞きながら、史子はそれを止め、世間に知られないようにすることに重視する。その日の喧嘩は、短時間で収まった。近所にまた悪評されることは何とか避けられたが、そのあと娘は母である史子に向けて怒鳴りだした。そして、
「お母さんのせいなんだよ!」
と怒りを込めて怒鳴った。
どういうこと?私はいつもあの子の見方をしてきたつもりだったのに。あの子のいうとおりにしようと頑張ってきたのに?
「なんで、、、?」
史子は、驚いてそれだけしか言えなくなってしまった。
「だって、世間体ばっかり気にして、私の話を何も聞いてくれなかったでしょう?おじいちゃんの方ばっかり持って、私の事は何も言ってくれなかったじゃないの!おじいちゃんじゃなくて、私を見てよ!わたし!」
娘は、そういうが、史子はよくわからない。
「だって、私たちがぶつかっても、おじいちゃんに一生懸命謝ってるだけで、私には何も言ってくれなかった!」
父は、娘が怒鳴れば、理由を自分に聞いてくる。そのたびに、時代の事から学校のことまで、史子は説明しなければならない。父は耳が遠いから、なおさら説明に手間がかかる。その間は、娘のことにはとても手を出させない。
夫に説得してもらおうとおもったことも何回もある。夫は、基本的に仕事をこなすことはできるが、口はまるで下手で、父には全く歯が立たなかったので、もう期待をするのはやめている。
「お母さんは、自分の好きなことをなんでもやっていいと言っていたけど、そんなことは絶対ないじゃない!やろうとすればおじいちゃんが全部持っていくじゃない!もし、本当にそう思っているのなら、何とかしてくれるはずじゃないの!でも、そんなこと一回もしてくれなかった。おじいちゃんが反対しているからと言って、やっぱりやめろと何回言われればいいの?そんなに私はだめ?そして家を出ていきたいと言えば、病気であるから無理だというし。もうどうしたらいいのよ!死ぬしかないじゃない!」
確かに、医者には一人にはさせるなと言われている。かといって入院させてしまうと、ものすごい人件費をとられて、家が破産するじゃないかと、父に怒鳴られてしまう。母が倒れた時に娘を入院させてもらったことはあるが、自分たちが楽になるどころか、膨大な入院費を要求されて、目が点になった。一人にさせるなという理由は自殺と自傷の恐れが非常に強かったからであるが、本当は、死んでしまったほうが助かるのではないかとおもったことも少なくなかった。
「舞ちゃんそれだけはやめて!」
やっとそれだけ言えた。
「いや!」
と娘は怒鳴りつけた。
「私はそれしか、楽になる道はないから!」
そう言って娘は台所へ行く。医者の指示で包丁は目に見えないところへ隠してあるし、洗剤も漂白剤も同じである。史子は、力づくで娘を押さえつけるしかない。特に格闘技の経験もあるわけじゃないから、これをするには非常に体力がいる。娘は人間ではない叫び声をあげる。それを耳の遠い父が聞きつけてやってきた。その日の父は、右手に木刀を持っていて、
「死ね!死んでしまえ!この疫病神、貧乏神め!」
と娘に向かって振り下ろした。
「やめて!」
史子が娘をかばったので木刀は史子の腕に当たった。
「お父さんが、舞をやるのであれば、代わりにわたしをやって!」
さすがにこのセリフには、父も観念したようだ。娘も急に静かになった。自分でもすごいセリフを言ったと思ってしまった。
「勝手にしろ!」
父は木刀を放り投げて部屋に戻ってしまった。ごめんなさいと言わないところが、やっぱり父なのであるが、それに反発する力もないというのが正直なところだ。
もう史子も、本当は娘と同じくらい泣きたかった。でも、それは許されないからとぐっとこらえていた。
「ごめんなさい。」
娘がそう言った。これができるということはまだ自分は幸せだと思った。というより、幸せだと思わざるを得ないのだ。そう、ごめんなさいと言える能力があるだけまだ幸せだ。同じ病気を持っている子供のお母さんの話を聞くと、この能力さえ奪われたと言って嘆く人が大半であるから。
「お母さんごめんね。今さっきのことは、言い過ぎだったね。これから、気を付けるよ。ごめんね。」
「いいのよ、舞ちゃんがつらいのはわかるから。とにかくおじいちゃんが、亡くなるまではこのうちに居なきゃダメってのは、もう初めから決められていることだから、それだけは逆らえないの。だから、もうちょっとだけ待っててね、、、。」
そういうしかないけれど、歳をとった父は、亡くなるのはまだまだ遠いほど元気である。だから、こんなセリフを言っても意味がないことは知っているけど、こういうよりほかに手段は思いつかない。
「わかったよ。私も、気長に待っているから。とにかくきょうはごめんね。」
史子がその手を緩めると、娘は立ち上がって、涙を流しながら、二階の自室に行ってしまった。娘には自室という物があったが、彼女にはそれがなかった。自室に行った娘は、きっと友人たちと電話したりできるだろう。でも、自分にはそういう友人もない。SNSという物は、使い方もよくわからないし、個人情報を盗まれる危険もあり、怖くてできない。彼女が家を出て長時間出かけるとなれば、父が黙っていないだろうし。東京だから、カルチャースクール的なものもよくあるから、それで気分転換でもしたらと、他のお母さんたちは言ったが、父がそれを認めようとしないため、それもまた不可能だった。
家は急にシーンとなった。夫が帰ってくるにはまだ早かった。もしかしたら、近所の人たちの「攻撃」がまた始まるかもしれない。それは、直接的に言ってくるのではなく、窓を通して聞こえてくるから、より怖いのである。本当は、それが聞こえてこないほど遠いところへ行ってしまいたいが、、、。もう、神様ときたら、娘ではなく私を死なせてくれればいいのに。
この気持ちをどこかへ話したいなと思ったが、理解者なんているはずもないしなあ、、、。
本当は、娘にはどこかへ行ってもらいたかった。せめて高校へ行ってほしいなと思ったことは何度もある。しかし、中学校でひどいいじめを受けている以上、娘はもう学校というところは嫌だと主張していた。その感情が残っているから、学校と言うところに行かせるのはできないと思った。しかし、何か勉強したい気持ちはまだある様であり、通信教育を一時受けたことはあった。でも通信教育は終わってしまえばその先がない。やっている間は落ち着いてくれたことは確かだけど、終わってしまったら、娘はもとに戻ってしまった。
不意に、壁にかかった時計を見ると、もう四時半を過ぎていた。冷蔵庫を開けてみたが、ほとんど何もなかった。娘と父が喧嘩していて、買い物に行っている暇がなかったのである。冷凍食品も切れていて、おかずになりそうなものは全くない。せめてインスタントラーメンでも食べてもらおうと思い、買いに行く事にした。
「ちょっとコンビニ行ってくるから。」
とだけ言って、振り向きもせずに、外へ出た。
外へ出ると、コンビニだけ行って帰ってくるのは、なんとも嫌になってしまった。そこでコンビニとは違う方向に歩いていき、八高線の駅へ行って、偶然やってきた電車に乗り込み、ショッピングモールのある東福生まで来た。駅を出て、ショッピングモールに入った。
ショッピングモールは、にぎやかだった。若い人から年寄りまで、みんな幸せそうな笑顔で、食事したり買い物したりしている。ただ、インスタントラーメンを買ってくるだけでは、嫌になってしまう要素が店のいたるところにちりばめられていて、とりあえずインスタントラーメンを買ってきたには買ってきたのだが、なぜか出たくないという気持ちになってしまった。袋を持って、しばらくショッピングモールをうろつき、さて、帰ろうかと出口へ向かって引き返そうとすると、
「待ってください。」
と、声がした。男性とは思われるが、それにしてはやけに細く、キーの高い声である。史子が振り向くと、一人の着物姿の男性が、彼女の財布を持って立っているのだった。
「これ、落とし物じゃありませんか。」
と言って、彼は財布を史子に見せた。その手の甲から小指に桐紋が描かれていたが、史子は怖いという気にはならなかった。
「ああ、すみません。私のです。どこに落ちていたんですか?」
「はい、そこの文房具店のほうです。急いで追いかけましたけど、なかなか、追いつかなくて。」
確かに彼の肩は上がっていた。それに、文房具店は、この出口からはかなり遠くにある。という事は、追いかけてきてくれたのか。なんだか悪いことをしたなあと思った。
「申し訳ありません。私が、気が付かなかったばっかりに、、、。」
史子は、彼から、財布を受け取った。幸いがま口ではないから、中身は何も損傷していなかった。彼は財布を渡すと、急にせき込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すみません。じゃあ、失礼します。」
彼は、引き返そうとしたが、少しふらついて転びそうになった。
「少し、休んでいかれたほうがいいのではないですか?お礼したいですし。」
史子は思い切ってそう言った。
「でも時間など、」
「私は、大丈夫ですよ。ほら、お茶屋さん、この近くにありますでしょうし。」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて。」
と、その男性は言った。彼女は男性を連れて、近くのスターバックスコーヒーに入った。彼を動かしてはまずいと思い、とりあえずテーブルに座っていてもらって、史子はコーヒーを二つ注文して、男性の前に置いた。
「どうぞ。」
「ああ、ありがとうございます。」
と、彼は軽く敬礼した。意外に礼儀正しい人だ、と史子は思った。
「コーヒーでよかったですか?」
「ええ、かまいませんよ。」
と、彼は言ってくれたが、また少しせき込んでしまった。
「大丈夫ですか、本当に、、、?」
「はい、生まれつきですから。」
どうも変だった。
「なんだか心配です。」
正直に史子は言った。
「もともとこうですから。」
「ごめんなさいね。私、普通でない生活してるから、なんだか心配になっちゃって、、、。」
「でも、ありがとうございます。」
と、彼は言った。
「なんか、不思議な人というか、変わった方ですね。うちの娘とは偉い違いだわ。そうして素直に礼なんか、なかなか言いたがるもんじゃないわ。」
史子は、ぽろんと漏らしてしまった。
「あ、子供さん、いらしてたんですか。子持ちには見えませんでした。」
「お世辞が上手ですね。私、娘がもう、30超えているのよ。」
「そういう意味ではないんですけどね。ただ、感想を言っただけですけど。」
「まあ、じゃあ私も素直になるわ。ありがとうございます。」
容姿なんて、長年気にする暇もなかったから、そんなことを言われて素直にうれしいと思った。
「私、容姿なんて、ほとんど気にしたことないのよ。」
「あんまり画一的に化粧したり、有名人の服装をこぞって真似るのってどうかと思います。その人らしくないのは、僕は嫌いです。」
と言って彼はマグカップを手に取って、コーヒーを飲んだ。彼の針金のように細い指にはリングが付いていることに、史子は驚いてしまった。
「まあ、結婚してらっしゃるの?」
「はい。そういうことになっております。」
「あたしから見たら、まだ独身者なのかと思ったわ。とても見えないわよ。おいくつなの?」
「36歳です。」
「ええー、まだ二十代に見える。うちの子と、五年も違わないじゃないの。いや、嘘じゃないわよ。」
「ありがとうございます。」
飾り気もなく、素直に礼を言うところが、またすごいなあと、史子は思った。同時に変わっているとも思わせた。
「ほんと、今時の若い人にはなかなかない人だわ。うちの子にはそういう人のほうが合うのかもしれない。」
「ああ、何か事情でもあるんですか?」
唐突に彼が言った。
「事情って、、、。」
「だって、僕みたいな人に、偏見もなく近づいて来れる人って、一般的な人はまずないでしょうから。江戸時代とは違うでしょう。」
継いでいえばその通りなのである。入れ墨をした人というだけでも、普通の人は、まず極道を疑ってしまうと思われる。江戸時代ではいろんな人が、もっと気軽に入れていたらしいが、今は、やくざとか暴力団とかそういう人でないと和彫りという物はしないだろう。
「大体、こういうものを入れたりすると、反社会的な人としかみなされないですからね。」
「まあ、いいじゃないの。うちの子だって、そういう傾向あるし、私もその親だから、絶対隣近所には嫌われていると思うわよ。もう、回覧板を届けに行ったりするとね、もう明らかに嫌っているなってのが見てわかるわよ。村八分というのかしら。仕方ないわね。精神を病むっていうのはそういう事だから。一種のアウトローなのよ。これからもそうやって生活していくつもり。だから私は、何も偏見なんて持たないわよ。それに、あなたの事を極道とはどうしても思えないけど?」
「ああ、ありがとうございます。そういってくれることはほとんどないので、素直に嬉しいです。でも、僕みたいな人間よりも、よほどえらいじゃないですか。自分を捨てて、娘さんのことを仕方ないと言えるんですから。今は、仕方ないって割り切れる人はなかなかいませんよ。一緒になって泣くか、それともやってしまうかのほうが多いでしょ。説得屋という商売が繁栄しているのも、そのせいなんじゃないですかね。」
「すごくなんかないわよ。」
史子の頬に何か熱いものが伝う。
「だって、そうなるためには、本当に苦労したもの。娘がおかしくなり始めて、初めは娘に寄り添ってやろうと決めたけど、だんだんあの子は、私のことを責めていくようになって、なんで私がっていう気持ちのほうが大きくなっていくばかりで、娘の言うことは何も聞かないで、自分を守ることに終始してしまって。夫は、何の役にも立たないし、一緒に暮らしている、年老いた父の考えを変えさせることなんて、まるでできないでしょ。その板挟みで、本当は私のほうが死にたいくらい。もうなんで私ばかりこんなに不幸なのかなって、何回も考えたわ。近所の人たちだって、娘が大声を出して暴れるから、迷惑だって苦情を出してきて、一切私達とは付き合わなくなって。だけど娘は今の世の中がいやだと主張するしかできないし、父は昔のやり方を押し付けるしかできない。どちらも変えることはできないのよね。だから、私は、もうここでは、孤立して生きていく、四面楚歌のまま生きていくしかないんだって誓いを立てるしかなかったのよ。だって、娘を殺すことも、父を殺すことも、自分が死ぬことも法律では認められないんですもの!でもね、こういう病気になっちゃうとね、どちらかが死ぬしかでしか、解決はできないのよ!」
「ごめんなさい。」
彼は一言そういった。しかし、その場を立ち去ろうともしなかった。
「ごめんなさいって、謝られても、、、、。」
「だって、ほかに言えないじゃないですか。まさしくその通りだと思うから。どういう経緯を経て、娘さんがそうなったのかはわからないですけど、まさしくそういう家庭であれば、解決するにはそうするしかないですよ。でも、倫理的にも法律的にもその実行はできませんよ。でも、客観的に見れば、精神障害の解決は、それしかないと思います。事実、そうすれば一発で解決なのではないかという家庭は多いです。でも、それがいろんな事情でできないから、凄惨な事件も起きているのであって。」
「そう、よね。」
史子は、初めて自分の気持ちが通じたような気がした。
「そうよね!」
「ええ。」
急に心の中の掛け金が外れた。涙が瀧のように流れてくる。本当は声を上げてしまいたかったけど、こんなところでそうしたら、迷惑な客として、店側に追い出されてしまうだろう。一生懸命止めようと思ってもできなかった。史子は、そこに座ったまま、泣き続けた。
どれくらい時間がたったかわからないけれど、急に眼がしらに布のようなものがおかれたために史子は気が付いた。
「冷たい!」
「あ、すみません。」
そういって彼は手を引っ込めた。つまり顔に当たったのは彼の指で、彼は自分の顔を手拭いで拭いたのだとやっとわかった。
「ごめんなさい。私、恥ずかしいことをして、」
「いいえ、構いません。そういう時間も大切です。現実的には非常に難しいと思いますので、実現できたことを喜んでください。」
「ありがとう。」
史子はそれだけやっといった。
「まず、それをしないと、次のものは入ってきませんよ。カウンセリングを受けたとしても、一時間程度しか与えられないでしょうし、きっと、最後まで自分の気持ちを話す前に変な倫理観を出されて終わることのほうが多いんじゃないでしょうか。僕も、ほんの数回だけ利用したことあったけど、変に偉ぶって、アドバイスしたり克服させようとするから、すぐに辞めましたね。そういう人って、やくにたつように見えるけど、僕たちの訴えがまだ核心部分に着く前に、何か言い出すから困るんだ。そして、同じことを言えば、また同じこと言って進歩がないとかいうでしょうから、よけいに劣等感を与えられるばかりの繰り返しですよね。例えば火災があって、いくら水をかけたとしても、周りに燃えやすいものがあれば、燃え続けて、それが全部なくなってしまわないと鎮火しないのと同じことですよ。」
「あなたってすごいわね。そういうことまで知ってるなんて。」
「まあ、人間誰でもそうですけど、体験しないと、身に付きはしませんよ。偉い人たちがテレビとか、書物なんかを通して、人間はこうあるべきだと提唱しても、それが実現しないのは、その人たちが身をもって体験して発見したわけではないからなんですよね。体験した人というのは、まず押し付けるということをしません。テレビという物は体験していないのに体験を獲得したような錯覚に陥らせてしまうから、好きになれないのです。本当に体験して身に着けている人というのは、人間は完全な善にも悪にもなれないってことをよく知っていますので、相手の領域を奪うということは先ずしませんよ。」
「そうね。あなたって、実年齢より何でも知っているのね。なんか、私ではなくあなたが娘の話を聞いてくれたらいいのに。あなたのほうが、きっと良い方向へ導いてくれることができる気がする。」
そういって、史子は大きなため息をついた。
「もし可能であれば、もっと早く出会えたらよかったのかもしれないわ。そうしたら、ここまで悪化することもなかったのかもしれない。」
「まあ、損か得かはわかりませんが、事実はそうなってますよ。ただ、忘れてはいけないのは、ここへ来る前に、既に色んなことを経験されて来たということだと思います。」
「そうか。でも、事実がこうであれば、結果としてそうなるわけだから、それまでのことは意味がなかったんじゃないの?」
「どうですかね。事実は確かに一つだけしか存在しないけれど、その前には大勢の人間がいて、さらに彼らには、個々の感情があったわけですからね。それを無視するのと無視しないのでは、かなり違ってくると思いますよ。」
「そうね。」
史子は、今は何も考える気がしなくて、これからどうしようとか、何も思いつかなかった。
「今はなんだか、思いっきり泣いて、頭が空っぽみたい。」
「いいんじゃないですか。空っぽとは、一番役に立つものですから。桐たんすに古いものがいっぱいしまってあったら、新しい着物を買ってきても入らないでしょ。」
「そうね、空っぽになって、なんだかすごく楽になった。」
「でしょ。それを祝う気持ちも大切ですよね。空っぽになれたのは、ある意味大切な記念日ですし、幸せでもあります。そして、新しい物を入れる準備をしてくださいね。」
「はい。」
史子は初めて、笑顔を作ることができた。
「今日は、何十年に一度の自分の掃除ができたわ。」
そういって、ぬるくなってしまったコーヒーを初めて飲んだ。コーヒーは、やけになって飲んでいた酒よりうまかった。史子がそれを味わっていると、隣から咳の音が聞こえてきたので、そちらを見ると、彼が、胸を押さえて、苦しそうにせき込んでいる。
「だ、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい。」
幸い、数分で止まったが、史子は心配で仕方なかった。
「こんなに長居をさせてしまってすみません。もうお帰りになったほうがいいですよね。お宅はどこなんですか。福生市内ですか?」
「ええ、歩いて五分程度で帰れますので大丈夫です。」
と、彼は言ったが、史子はやはり心配で仕方なかったし、五分くらいのところならタイムロスをしてもいいやと思い、
「私、お宅へ帰るのを見届けてから帰ります。今日は、お財布を拾ってくださったばかりか、大事なことまで教えてもらいましたもの。お礼も何もしないのは、恥ずかしい限りです。」
と言った。
「結構ですよ。」
彼は言ったが、
「いいえ、そうしないと、気が済まないんです!」
史子は、自分の気持ちを伝えた。彼もそれをわかってくれたみたいで、
「じゃあ、おねがいします。」
と言ってくれた。
「はい!」
史子は、急いで二人分のマグカップを片付けると、テーブルを丁寧におしぼりで拭いた。二人は立ち上がって、店主さんに、長居をしたことを詫びて、スターバックスコーヒーを出た。

一方、勤務を終えた恵子は、ほかの教師たちにいつも通りの挨拶をして、高校を出、三十分に一本しか走っていない八高線の駅へ向かった。ほかの教師たちは、太っているせいで、どんな助言をしても糠に釘と言われていた生徒が、急に日本体育大学にて行われた女子相撲の大会に出場したことを喜んでいた。恵子も、彼女と何回か面談をしたことはあったが、正直、彼女は苦手だった。それがいきなり明るい顔をして、相撲を取りたいと言い出した時には確かに驚いたが、実をいうと、これで彼女の相談を担当しなくてもいいと、ある意味肩の荷が下りた気がしたのも事実だった。そして彼女は大会で、想像以上の強さを発揮して、惜しくも優勝こそは逃したが、次こそ横綱を目指すのだといいだして、近隣の女子相撲教室に通うまでなった。
一人解決ができたと思ったら、すぐに新たな問題が生じるのが、支援学校というものである。実は恵子もその問題に巻き込まれようとしているのに、薄々気づいていた。
そんな風にぼんやりと考えながら、恵子は電車を降りた。自宅マンションまで歩いていくときも、なんとなく気が晴れなかった。
「ねえ、お名前、なんていうんですか。もしよければ教えていただけないでしょうか。なんか、ここで終わってしまうのも、なんだか名残惜しいですから。」
不意に、自分より、二十年以上年の離れた女性の声が聞こえてきた。
「ああ、そうですか。まあ、かまいませんよ。僕は、小川裕康と言います。」
「小川裕康さんね。名刺でもいただけたらいいのになあ、、、。」
「あいにくですけど、名刺って一度も作ったことはないんですよね。」
「せめて、お手紙でも書かせてくださらない?気持ちが落ち着いたら、お礼したいのよ。」
「そうですね、、、。」
「これに書いていただけないかしら。」
暫くして、紙にペンが動く音も聞こえてきた。
「ありがとうございます。今日は本当に、助かりました。娘が落ち着いたら手紙出しますから。じゃあ、私、失礼しますけど、本当にお体大切になさってくださいね。」
「ええ、きっとまたどこかでお会いしましょう。」
「はい!では、その時を楽しみに!」
恵子が、声のするほうへ行ってみると、裕康が、やや白髪交じりの女性と話しているのが見えた。女性は、嬉しそうな顔をして裕康に一礼し、急いでもと来た道を帰って行った。裕康は、持っていた巾着から鍵を出して、マンションのドアを開けて中に入っていったが、恵子が見ていたことは気が付かなかったようである。



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