光と壁と

増田朋美

第七章 プロポーズ

第七章 プロポーズ
恵子は、急いで車に飛び乗って、裕康のアパートに向かった。もうとにかく、一刻も早く着きたいので、幾度か信号無視もしたし、制限速度を大幅に超えたりもした。捕まらなかったのが、幸いなくらいだ。
裕康のアパートに着くと、非常階段をどかどかと駆け上がって、思いっきり部屋のドアをたたいた。お願い、開いて!と神頼みするように念じていると、
「何をしているんです?あんまり乱暴にやると、ドアが壊れますよ。」
という細い声と同時にギイという立て付けの悪い音を立てて、ドアが開いてくれた。
裕康が立っていた。相変わらず仕立ての仕事をしていたらしい。右手指に指ぬきがはまっていた。
「恵子さん。」
裕康が、もう一度言った。
「どうされたんですか。そんなに血相を変えて。とりあえず、中に入ってください。」
「ありがとうございます!」
それだけ言うのがやっとだった。恵子は、まだ興奮冷めやらないまま、裕康の部屋に入った。
「まあ、座ってくださいよ。今お茶だしますから。」
恵子は言われた通り、ちゃぶ台の前に座った。
「また、ドクダミですけれどもそれでよろしければ。」
恵子の前に、ドクダミ茶の入った湯呑みがおかれた。恵子は、それを受け取ると、中身を一気に飲み干した。ドクダミ茶は、鎮静の成分もあったのか、それを飲むと急に力が抜けた。
「まあ、何があったか知りませんが、落ち着きました?」
「裕康さん。」
恵子は、真剣な表情で裕康に言った。
「あたし、高校に戻りたいの。」
「そうですか。」
たったそれだけか。
「昨日、パソコンで調べていたら、たまたま体育教員を募集しているところがあったのよ。だから、あたし、近いうちに東京に帰る。東京と言っても、故郷の渋谷区ではなく、もっと辺鄙なところで、八王子から、八高線に乗り換えて、福生というところで降りるらしい。」
「結構遠いですね。しかも、八高線の駅は、東福生でしょう。それに、渋谷ですと、二時間以上かかるのではないですか。中央特快を使えば、もう少し早くなるかもしれませんが。」
やはり、東京で暮らしていただけあって、鉄道関係はよく知っているようだった。
「そんなことしていたら、腰痛でつぶれるわ。」
恵子は、そういった。そんなこともわからないのかという意味も含まれていた。
「だから、アパートでも借りて一人で暮らそうと思うの。」
「いいじゃないですか。福生市は、一度だけ行ったことがあるけれど、住みやすいところだとは思いますね。渋谷に比べたら、少なくとも、治安は良いですよ。女性一人では暮らしやすいかも。」
「お願いがあるのよ。」
恵子は強く言った。
「一緒に来て!」
裕康は、恵子をじっと見つめて何か考えているようだった。
「もし、暮らしていくのに自信がなかったら、あたしが何とかするから!あなたはいるだけでいいわ。あたしだって、渋谷から全く知らない空間に行くんだから、誰かひとりいてくれたほうがいい。」
「しかし、僕はご覧の通りですので、仕事にありつけないですよ。たぶん。」
「そんなことなら大丈夫。あたしが何とかするし、それに、東大卒と言えばすぐにありつけるはずよ。学歴は、コンプレックスかもしれないけど、反対に武器になるのよ。それに、東京なんだから人口も多いし、着物の仕立てを頼む人が、多かれ少なかれいるんじゃないかしら。ホームページか何かを作れば、日本中から依頼が来るわ。」
「でも、僕にパソコンは苦手ですよ。全然できないので。」
「それくらいあたしができるわよ。だって、考えてよ。あたし、一人で暮らすなんて、今の父と母は絶対に認めないと思う。あたしは、あの家から見たら、ただの箱入り娘なんだから。一人で暮らすなんて言語道断って怒鳴られるわ。うちは長年そういう育て方だったから、一人なんて本当に許されないのよ。実現するには、誰かと一緒になるしかないのよ!」
「だったら、福生市の婚活パーティーなんかに参加すればいいでしょう。」
「わかってないのね。あなたって人は!」
「わかってないってなにをです?」
恵子は、裕康の入れ墨をした左手をにぎった。手の甲から小指にかけて桐紋が描かれていたが、もう怖いとは思わなかった。
「あなたが、好きなのよ!」
「、、、はい。そうですか。」
やっとそれだけ言ってくれた。
「たったそれだけなの?」
「え、ええと、なんて答えを出したらいいか、わからなかったのです。」
と、いう事はつまり、恋愛など一度も経験はないのか。恵子はそれならと思い、こういってしまった。
「そうですかというのなら、少なくとも悪いとは取らないという事ね。あたしは、父と母を何とかしなければいけないけれど、あなたは?」
「僕は、何もないですよ。母は僕が高校生の時に、父は大学院を出た直後に亡くなったので。身内というか、保護者は天川店長くらいですよ。友人も川ちゃんと奥さんの富子さん程度ですし。ですけど、ここを離れるのは、」
「なんで?そんなに嫌なの?あの人たちと離れるの。」
「まあ、確かに血縁関係があるわけじゃないので、支障が生じるということはありませんが。」
「じゃあ何?どこかの和裁士の組合にでも所属しているの?」
「そういう事もないですよ。免状はあるけれど、どこにも所属はしていないので。」
「じゃあなんで?不利な条件なんて何もないじゃない。今は、インターネットがあるし、使い方さえ覚えればいつでも繋がれるわ。あなたは使い方を知らないだけ。それさえあれば、東京であろうが茨城であろうがいつでも話すことはできるから!」
「だから、ああいうものは苦手なんですよ。」
「東大出の人がそういうこと言っていいのかしら。とにかく、一緒に来て!あたしは、あなたがいてくれればそれでいいんだから。きっと、そういう感情持ったことないからわからないんでしょうけどね、本当につらいのよ!別れるの!」
「そうですか。」
やっと裕康はそういってくれた。
「まあ確かにそうかもしれませんね。女性の方が一人で暮らすとなると、非常に心配するのが当たり前になってますからね。特に都会では、何があるかわからないですし。顔見知りでもないのに殺害されたりすることも、頻繁に起きてますからね。」
「わかってくれるの?」
単に防犯という意味でもないのだが。
「確かに、安全面ではいいかもしれない。」
と、いう風に理解しているらしい。
「それもあるけど、、、。そういう意味だけじゃないのよ。一度、うちの家族に会ってみる?うち、出ていくとなれば、本当に大変だから。」
恵子は、そこを理解してもらいたかった。
「都会なのに、こうあるべきっていう家は、あるのかしら。おじさんは、それに違反して、左遷されたようなものでもあるのよ。」
「違反ですか。」
「そうなのよ。おばさんに一目ぼれしたのは、うちのルールに従いたくなかったからという、ことなんでしょうよ。」
「ルール?」
「そうよ!今時長男が、家を継げとでかい声で言い張る家なんてあるかしら。ありえないでしょ。高尚な公家とか、何か商売している家であればともかくも、ふつうに暮らしている家には、そんなことする必要なんてないと思うのに!私だって、このうちの子とか、後をとれとか、何回言われたと思ってるの?そういう家庭だもの。疲れるわよ。」
こればかりは、恵子も頭にくる事実だ。父から聞かされてきたことであるが、父も淳一おじさんも家を継ぐことばかり言われていて、職業選択の自由や結婚の自由などまるでなかったというのである。内向的な父は、自身の父、恵子にとっては祖父に反抗できなかったが、もともと自由奔放な淳一おじさんは、何から何まで祖父に反抗していたそうだ。その時代に反抗を貫き通せるほどだから、今の言葉を借りてしまえば、淳一おじさんは、検査こそしていないものの、発達障害とかそういうものに該当すると父が言っていたことがある。逆を言えば、そういうものを持っていなかったら、家を飛び出していくという行為はできないと、父は言った。具体的に他人を困らせる症状があったというわけではないけれど、食べ物をはじめとして好むものがほかの家族とは明らかに違っていたし、「子孫を残して家を継ぐ」という結婚観をおじさんはことごとく嫌っていたという。まあ、今の時代だったら、普通の事かもしれないが、代々そういう考えはご法度で来ている恵子の家系では、淳一おじさんだけが突発的にそんな発言をしたから、そう解釈するしかないのだと父は言っていた。事実、祖父は亡くなるまで、淳一おじさんを、頭が足りないと言い続けていたそうである。
「でも、きっとお父様にとっては僕みたいな人は、ダメなんじゃないですか。というより、後をとるとか、家を継ぐとか、そういう形態はまるでできないですよ。それだったら僕みたいな人よりも、経済的にしっかりしていて、安定した生活を提供できる人じゃないと納得してくれませんよ。」
「だから違うのよ!あたしは、どうしてもあのうちとは違う道へ進みたいの!学生の時はそれを手助けしてくれたのはサッカーだった。兄弟もないわけだから、全部の期待があたしに降りかかって、本当につらかったんだから!今の時代は、そういう事からの解放を求めてもいいのでは?あなたが、東大へ行くのはもうこりごりなら、あたしは、親の指示に従って、ただ家の付属品みたいな人生を送らされることはもう嫌なのよ!同級生でさえも、このつらさをわかってくれる人は一人もいなかったんだから!」
とにかく、この気持ちだけはどうしても解決できなかった。中学生くらいから、周りの友人と自分の家とはどこか違うなと感じるようになったが、高校に行って、進路を考え始めるときに、それは顕著になった。周りの友達が親元を離れて遠くの学校に行くのを許されていたのに、恵子は、それが実現できなかったからだ。そんなわけで、恵子は高校時代の同級生と距離を置くようになってしまった。同級生たちがやっていることは、どうせうちではご法度になってしまう。それを超えて友達付き合いすることはまず不可能であり、自分にはできないことを楽しそうに話している同級生たちと一緒にいるとつらくて仕方ないのだ。だからこそ余計にサッカーに打ち込むしか、紛らわす方法も見つからなかった。唯一、救いの神様がいてくれたと思ったことは、日本体育大学が、家からすぐ近くに立地していたことである。
優しかった母は、お友達と遊んだりしないのかとよく聞いてくれた。でも、まさかお母さんのせいだとは、言えるはずがなかった。それに、「嫁」としてやってきた母は、家の中では部外者なわけだから、祖父に反抗する力もなかった。だからこそ、淳一おじさんのような人生を送りたいと強く望んでいた。
「そうですか。恵子さんのお宅は、結構厳しかったんですね。まあ、僕の父も確かに厳しかったですよ。ただの職人だったから、周りからかなりたたかれたようですし。僕に東大へ行けと言ったのは、そうなってほしくなかった、つまり自分のされたような仕打ちにはあってもらいたくなかったからだということも、僕もわかったので、その通りにしましたけど。」
「でも、あなただって、本当はお父さんのいう通りにはなりたくなかったのでしょう?もうこれっきり、と言ったのはそういう意味でもあるわよね。その桐紋が何よりの証拠よね!」
「ちょっと意味が違うんですけどね。昔は、貧しい家から東大に入学してすごく偉い政治家とか、文学者になってしまうというケースはよくあったんですが、今の東大は金持ちでないと入れないところでもありますからね。だから、僕みたいに職人の家からというのは、非常にまれなんですよ。それに、東大に行く人というのは、ほとんどの人が優越感を持っていて、他人を馬鹿にするようにできているんです。そうなると、ただの職人階級がその中へ紛れ込んだら、どうなると思います?すぐに標的になるでしょう。かといって、そうされたことを誰かに打ち明けても、誰も理解なんてしてくれはしません。それより上の階級の人が存在して、下の階級の人を押さえつけてくれるなんてことは、まず実現しないわけですから。もうこれっきりとはそういう事なんです。確かに、父にこれを言ったら、ひどく叱られて、少しばかり曲がったことはありましたよ。そこは、恵子さんと同じかもしれないですね。」
「だったら、一緒に来て頂戴!あたしも、たぶん普通の男性に家の事情を言っても理解されないと思う。むしろすごい束縛とか言われて逃げられるのがおちだわ。お願い!」
恵子は、いきなり正座して両手をついた。
「でも、自信ないですよ。あんな大都会で生活していけるかどうか。」
「自信なんて誰だってはじめはないわよ!あたしだって、不安で仕方ないわよ!でも、どこかの本に書いてあったけど、一つの色に染まることはできなくて様々な色に変わってしまうことがさみしいとしても、二人で一緒に染まっていけば、寂しさも、苦しさも乗り越えられるわ。自信がなかったら、二人そろって自信がなければそれでいいじゃない!」
「ああ、レオ・レオニですか。たぶん、いろいろ悩んでしまうカメレオンの本でしょう。僕もよく読んでましたよ。彼の本は、人間の悩んでいることをよく表していると思うので、それ以外のシリーズも十冊近く持っていました。」
図星だ。これ以上、自分の事をわかってくれる人はもうないのではないかと恵子は確信した。
「タイトルは忘れたけれど、確かそうだったと思う。すぐにそうやってわかる人も、私二度と出会えないだろうなと思う。あなたは、偶然にそうなっただけだとしか言わないかもしれないけど、それに付随して、どういう感情が生じるか、よく考えて頂戴!もう一度いうけど、一緒に来て!」
「そうですね、、、。」
裕康は、桐紋のある左手で頭をかじって、しばらく考えていたが、
「わかりましたよ。恵子さん。」
と、言った。

そこから先は猛スピードで進んだ。淳一おじさんたちも、二人が結ばれたことを心から喜んでくれた。真紀子おばさんなどはあまりにもうれしくて涙を流したくらいだ。淳一おじさんは、有能な職人が店を出て行ってしまうのを悲しがったりする様子は少しもなく、むしろ独立してもよいと言ってくれて、独立記念として新しい道具箱を買ってきてくれた。
姓は、裕康が「結城」から「小川」に改姓すると言った。理由は恵子が教師という職業であるから、変更するとかえって不利になるということからと、裕康の実家はすでに存在しないからだった。確かに男性が改姓するというのは、非常に珍しい事例であったが、これからの時代であれば、そうでもないかもしれないと、恵子は思った。
住む場所、いわゆる新居はインターネットですぐに手配できた。八高線の周りはあまりアパートがないと聞いていたが、意外によさそうな場所が見つかった。東福生駅近くにある鉄骨マンション一階の角部屋で、二人で暮らすには十分すぎるくらいの面積のある、3DKの部屋である。居室は裕康が希望してそれぞれ別々になった。家賃は、都内と言っても10万を超すことはなかった。
引越し業者を頼むとお金がかかりすぎる、ということもわかったので、恵子たちは淳一おじさんから軽トラックを借りることにした。トラックは、幸運にもお金はかからなかった。それに、大掛かりな物でなければ、家財道具は東京で調達できたから、こっちから持っていく物は極めて少なかった。どこの家でもそうだけど、引っ越しで持っていく物の八割は、女性の所持品が占めている。
その日も、恵子の部屋で、裕康と恵子は、持ち物をまとめていた。大体のものを段ボールにしまって、やれ終わったと一息ついていると、
「おい、裕康、いる?」
と、声がする。
「川ちゃんか。いいよ、入んな。」
「こんにちは。」
聞きなれない女性の声だった。恵子がどなたですかと聞こうとすると、ふすまががらりと開いて、ルイと、一人の和服姿の女性が入ってきた。
「初めまして、川口富子です。」
なるほど。この人が富子さんか。確かに外国人が妻にしただけある、非常に日本的な顔をした女性だ。まるで能面の小面のような、もっとわかりやすく言えば、源氏物語絵巻に登場するような顔の女性である。
「小川恵子です。よろしく。」
恵子は軽く一礼して、彼女と握手した。
「で、今日は一体どうしたんだよ。」
「おう、結婚にあたって一番大事なものを持ってきた。お前たちが一向にそれを買いに行く気配がないからな。」
「なんだ、紙なら、いつでも出せるだろ。」
「違うよ。本当に、お前もそういうところには鈍いんだな。普通、給料の三か月分を使ったとか言って買ってくるもんなんだが、、、。」
「なんですか?」
恵子が聞くと、
「これだよ!」
そう言ってルイは小さな箱をちゃぶ台の上に置いた。
「なんだ、こんな小さなものか。」
「いいから開けてみろ!」
仕方なく、裕康は、その箱の丁重な包装をほどいてみた。中身はビロードの小さな箱である。
「中身を見てみろよ。結婚したら、誰でも必ずつけるもんだぜ。」
裕康がその通りにすると、中にはプラチナのペアの指輪が入っていた。
「いらないよ、こんなもの。」
裕康はため息をついたが、恵子はこれでやっと望みがかなったと内心大喜びだった。
「いくら馬鹿でもこれくらいはするだろうと思ったので、僕らからのお祝いだ。」
「いや、いい。こんなものつけても仕方ない。それに、縫い仕事していると、かえって邪魔になる。」
「そんなこと言ってたら、恵子さんが悲しむわよ。」
富子さんが、そういってくれたので、恵子はよかったと思った。
「だけどねえ、本当にこういうものは、手仕事には本当に邪魔なので、、、。」
「そんなこと言って、本当は恥ずかしいだけじゃないの?いいからはめてみなさいよ。一応、男性用としては一番小さいのにしてみた。」
「はい、、、。」
といって裕康は男性用のほうを左手薬指に付けてみたが、全くはまらず、指が長いのと、指が細すぎてぽろぽろととれてしまうのであった。これには恵子も驚きだ。
「ほら見ろ。こんなものを年がら年中つけていたら、意味がない。」
「そうか、やっぱりリングゲージを使うべきだったなあ。でも、お前をそういうところに連れていくのは至難の業だということも知っている。だから、男性用としては一番小さいのを、と言ったんだけど、それでもだめか。」
「だからいらないんだよ。こういう余分なものは。こんなもの、何がいいんだ。なんの役にも立たないじゃないか。」
「そういう意味で作るんじゃないんだけどねえ、、、。」
「じゃあ、こうしましょうよ。はめる指を変えるか、思い切って、男女用を変えてしまうか。恵子さんのほうが、指が太いのかも。」
富子さんがそう言った。男女用を変えてしまうとは異例なことであるが、確かにそれも一つの選択肢かもしれなかった。指は裕康のほうが長さとしては長いが、驚くほど骨っぽくて細かったからである。
「そうしてください。だって、こんなに高いもの、返品はできないでしょうし、返品なんてさせたら、申し訳ないでしょうに!」
恵子は裕康にお願いした。
「ほら、そういっているんだから、つけてみなさいよ。こんなことで夫婦げんかしたら、先が思いやられるわよ。」
富子さんに促されて、裕康はしぶしぶ女性用をはめてみた。それでもまだぶかぶかであったが、今度は落ちることはなかった。
「それでよし。ほら、つけてやれ。」
ルイに促されて裕康は恵子の左手薬指に男性用をはめた。男性用としては一番小さいサイズだが、一般的な女性でも平気ではめられる大きさで、恵子の指にはぴったりだ。と、同時に後方から拍手が起きた。
「よかったあ。男女は逆になってしまったが、めでたくはまったよ。これではまらなかったら、本当にどうしようかと内申焦ってた。」
ルイのその一言から判断すると、やっぱり高価な物だったらしい。富子さんも、ほっとしたようで、軽くため息をついた。でも、そのペアリングは本当に奇麗なもので、特に奇抜なデザインでもなく、いつまでも長くはめていられそうな、飽きのこないものであった。
「恵子さんのためにも、とろうなんてしないで頂戴よ。あんたって人は、そういうところには本当に疎いんだから。いい、こういうものはただの飾り物じゃないんだからね。本当は、あんたが買ってきてやるのが当たり前なんだから。」
富子さんが、裕康を諭すように言った。
「はい、すみません。」
「すみませんって、誰に言うのよ。」
その顔に合わず、富子さんの口調は強かった。意外に気の強い人なのかもしれなかった。
「だけど、こんなぶかぶかでは作業がしにくいよ。いくら薬指とはいえ、指は使えるようにしておかないと。それに、取れて紛失でもしたらもっと困るでしょ。どっかで小さくしてもらえないだろうか。」
裕康が、薬指を困った顔で見た。
「わかったよ!幸いプラチナだし、直すのは意外に簡単だ。ちょうど直してくれる店が結城駅の近くにあったような気がする。今から探していってみよう。」
「い、今から?」
「当り前だい、善は急げで、こういうときは早い方がいいんだよ。すぐに直してもらいに行ってこよう。お前だって、もうしばらくしたら東京だろ。それならなおさら急がなきゃ。」
「そうか。じゃあ、そうしたほうがいいか。」
「よし、行こう!」
ルイと裕康はたちあがって、外出用の羽織を着た。
「じゃあ、直してもらいに行ってきます。」
裕康が、そういうと、
「はいはい。裕康さんが、直してもらう気になってくれて、本当に良かったわ!今度こそ、しっかりはまるサイズにしてもらってきてね!」
富子さんが、応援するように言った。
裕康たちが、足早に部屋を出てしまうと、恵子は富子さんと二人になった。
「安心してちょうだいね、指輪を直すなんて、そんなに高くはないからね。それに、すぐできるし。あたしも、やってもらったことあるわよ。まあ、あたしの場合は、太ってしまったので、大きくしてもらったんだけど。」
富子さんは、にこにこしている。
「緊張しなくたっていいわ。家の人から聞いてるから。それよりさ、恵子さん。」
「は、はい、なんでしょう?」
恵子は、急いで返答した。
「だから、緊張しなくたっていいのよ。そんなことより、どうして裕康さんのこと?」
「なんですか?」
「だから、なんであんながりがりの頼りないひとを好きになったんかなと。」
「ああ、あたし、多分ですが、一般的な人は寄り付かないだろうなってわかってますから。今まで、男運に恵まれたことは、全然ないですもの。それに、あの人は、あたしがいままで知ってる男性とは、全然違います。」
「ま、確かに学校の先生は、ひとを見る目がちがうよね。人を育てる仕事だけど、意外に疲れることもあるからね。」
富子さんは、なるほどと言う感じで見た。
「うちの人に聞いたけど、恵子さんはまだ、26だよね。若いなあ。そんな人が、裕康さんとくっつくのも意外だったわ。まあ、でも、学校の先生であれば、ある程度レベルの高い人じゃないと、興味持たないよね。だから、10年離れていても平気なのか。まあ、多少の世代格差はあるかもしれないけどさ。」
「でもあたし、ただの体育教師ですから、学問は教えられませんよ。」
「たしか、福生の通信制高校に勤めるんだよね?」
「ええ、そっちの方が、やりがいはあるんじゃないかなと思って。」
「確かにそうかもよ。事情を抱えた生徒さんを立ち直らせる方が、若い人にはやりがいはあるわよ。そういうところなら、単なる体育の先生だけじゃなくて、重大な相談役になることもあるから。もしかしたら、そっちの方がウエートが大きいかも知れない、いっそのことカウンセリングの勉強したら?意外に良いことがあるかもよ。」
「まあ、なれてきたらそうします。」
「考えて見てね。お節介なおばさんの、伝言よ。あ、あと、裕康さんのことよろしくね。あの人、東大時代に、すごく辛い思いをしているから、東京で暮らすのはかなり難しいと思うわ。絶対に怒鳴らないでやってね。それだけは、お願いしておきます。」
なるほど、もうこれっきり、は、やっぱり本当なのか。
「わかりました。あたし、あの人にいてもらえばそれでいいですから。」
「そうかそうか。裕康さんも、ちょっと安心して暮らせるかな。渋谷ではなくて、ほんとによかった。渋谷はまるであの人には不向きだから。あたしからみれば、東大まで八年間通えたのが、ほんとに不思議なくらい。」
「どういうことですか?」
「頭はよかったんだけどね。からだの方は全然だめだったのよ。あの人は。一生懸命隠そうとしてるけど、いずれはわかるわよ。幸い、福生には、おっきな病院もあるでしょうから、こっちよりまだ楽かもしれないけどさ。まあ、新婚さんにいきなり言ってしまうのは、やめておくけど、裕康さんには、大爆発をしないように、無理をしないで過ごしてもらうのが、目下の急務よね。その管理は、奥さんにもかかってくるから、頼むわよ。」
大爆発がやけに生々しかった。大爆発とはどういう意味なんだろう?
「じゃあ、落ち着いたら手紙でもよこしてね。あたしたち、遊びにいくから。」
「ま、待ってください、大爆発とは?」
恵子は気になって言ってみたが、
「ああ、気にしないで。あんまりあたしがペラペラしゃべっちゃうのも不味いから。あんまりしゃべりすぎると、幸せ一杯なのが、全部ダメになっちゃう。」
富子さんは、はぐらかして答えなかった。
確かに、後で本人から聞けばいいやと、恵子も軽く考えていた。
「あとは、何か必要な物があったら言ってよ。東京は物価が高いから、できる限りお裾分けしたりするから。」
「はい、ありがとうございます。」
「なんかトラブルがあったら、すぐに相談して。あたしたち、仲人みたいなもんだから。家の人が、日本の仲人はすごいっていってたわよ。親以外に、頼りになる人を、予め作るという制度は、外国にはないから、羨ましいんだって。」
そうなのか。日本では消えかかっている制度だが、そういう見方をすればすごいのかもしれない。
「まあ、不安だとは思うけど、なんでも話聞くわよ!」
太った人は、心のそこに優しい気持ちがあるというのは、本当のようである。恵子は、スマートフォンの番号を交換したいと申し入れたが、すぐに同意してくれた。ただ、富子さんも、SNSは、好きではないようで、使うアプリは電話だけにしてくれといっていた。
「本当は、式、挙げたくなかった?」
富子さんはそんなことを聞いてきた。
「いや、あたしは、、、。」
「本当のこと言っていいよ。」
恵子は一度迷ってしまったが、
「できれば挙げたかったけど、裕康さんにはむりだろうから。」
と言った。
「そうよね。バージンロード、歩きたいよね。誰でも憧れるよね。あたしは、太ったからむりだけど、恵子さんは美人だし、かわいいし。」
「でもいい。あたしは、それより新しい生活に期待したい。」
恵子の気持ちに偽りはなかった。
「応援してるからね!」
富子さんが、お母さんだといいのにな。
と、思わざるを得なかった恵子だった。





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