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光と壁と

増田朋美

第六章 決断

第六章 決断
翌日。三人はファミリーレストランで食事をした。フロントが北関東自動車道の通行止めが解除されたと教えてくれたので、早々にチェックアウトをして、車に乗り込み、結城市に帰ってきた。
無事に紬の天川の前に帰ってきた。恵子は、なんで昨日帰ってこなかったのかとか、理由を詰問されるのが怖かったが、天川さんも、真紀子おばさんも、そのようなことは全くしなかった。むしろ、大変だったねと激励された。二人とも、道路が通行止めになったということはすでに知っていたようだ。と、いう事は、よほど甚大な事故だったのだろう。
その時は、簡単に礼を言って、さようならをしたが、それから少なくとも週に一度はこうして運転を頼まれるようになった。大型のショッピングモールに食事に行くにも、車がないと全くいけない地域なので、裕康たちはよく恵子を呼び出した。はじめのうち、恵子は店があるからと言って断っていたが、天川さんが若いうちは毎日外出していてもおかしくないというので、次第に彼らの誘いに乗る様になった。確かに、狭い店の中にずっといるよりも、道を調べて車を運転するほうがずっと刺激的なことでもあった。
よく行くのは、大型のショッピングモールに買い出しに行く事が多かったが、基本的に結城市内には存在せず、近隣の古河市か、栃木県の小山市に行かないとありつけないので、恵子はそちらへの行き方はすぐに覚えてしまった。でも、ショッピングモールの食堂などで繰り広げられる哲学的な会話をまるで理解できないのが、たまらなく苦痛だった。
ある日、小山駅近くのコーヒーショップでお茶を飲んでいた時である。小山駅の西口周辺は、コーヒーショップの激戦区と言われるほど多数の店があった。
「それにしてもさあ。」
ルイは紅茶を飲みながらそう言った。
「みんなさ、着物着ていると、変なやつって感じで見るよな。」
まあ確かにそうである。女性が着物を着るのはよくあるが、ルイや裕康のような男性が着物でいるのは非常に珍しいというか、変な奴とみてしまう人は多いだろう。
「日本人って、自分の民族衣装も嫌いなのかなあ。本当に嫌だぜ。そういうところ。」
「まあ、そういうもんだよ。そういうところがおかしなところだよね。」
「本当だ。これでなければという古い固定概念の強い人が多い割には、日本古来からある物に関しては馬鹿にする。大きな矛盾だ。」
「そういう批判ばかりしているのなら、故郷へ帰ったらどうですか。」
恵子はやっと、彼の発言に対抗することができた。
「いや、それはできないね。僕、痛散湯がないと暮らしていけないから。悪いけど、故郷にはそういう便利なものは全くないから。」
「逆を言えば、それさえあれば何でもできるよな、川ちゃんは。それはうらやましいと思うよ。バカロレアの試験だって、それがあったから受けられるようなものでしょう。」
「そうそう。いいこと言う。それに出会うまでは本当に何もできなかった。あんまりにも痛かったから、自殺を考えたことだって何回もあった。でも、どこの病院に行ったってお前は健康そのものだとしか言われたことがない。複雑な検査だって何回もしたが全く異常はなく、医者のほうがいい加減にしろと言って怒鳴る始末。だから、痛散湯を飲んで、痛みが減ったときは、天からパンをもらったのと同じくらい大喜びだったぞ。」
「まあ、そういうもんだろうよ。大変だったろうな。具体的にどこが悪いと全くわからないのでは、かかっている本人もつらいだろう。だって、どっかに奇形があるわけでもなく、腫瘍がでたわけでもなく、リウマチのような自己免疫性疾患でもないわけだから。」
「そうそう。初めてこっちに来た時は、痛いせいで体もなかなか動かせないステージⅢと診断されていたが、痛散湯をもらってからは、一気にステージⅠまで下がった。まあ、ステージを判断してもらうまでが大変だったが。だって口に出して言えるのは、痛いの三文字しかないわけだからな。」
「その、なんとかという物をどこでもらったんです?」
恵子は聞いた。
「あのねえ、たまたま行ったクリニックが、漢方薬を中心とするところだったんだよね。その当時は全く知らなかったが、漢方内科というところだったんだね。今までの病院と全く違う、なんだか日本の古い家を再現したような建物だったぞ。それで、僕は日本の古いものが好きになったんだよね。」
なるほど。彼の話から判断すると、現在アメリカで有名になっている大物歌手がかかったものと同じ病名であるが、たぶんそれを理解してくれる人は極めて少ないだろうなと恵子は確信した。
「まあ、そんなわけもあり、日本の着物をきて生活するようにはなったが、着てみると便利なことのほうが多い。だけど、日本人には変な目で見られる。おかしいなと思ったよ。」
「川ちゃん、具体的に便利とはどういう事なんだ。」
裕康が聞いた。
「え?お前、その作り手なんだからもっと知ってるんじゃないの?まあ、例を挙げるとさ、直接肌を通して着ることが少ないから、痛い時には本当に支えになってくれた。だって、痛い時って、洋服がピタッとくっつくことさえも苦痛なんだからな。着物であればその確率が減るじゃないか。あれは一番感動したね。」
「まあ、今時着物を着る人なんて、茶道とか邦楽の関係者か、あるいは川ちゃんのような事情がある人くらいしかいないからね。これを追求すると日本の歴史が非常にかかわってくるから、難しいところだよ。歴史を変えることはできないもの。その中で僕らは生きていかなきゃいけないんだ。」
「なるほど。お前もいいこと言うな。それはそうだったとしても、僕は着物のほうが便利だと思うので、これからもこれで生活させてもらう。それでいいと思うけどね。どうも、日本ではこの感覚は通用しないみたいね。」
結局はそうなるのか。やっぱりヨーロッパと日本は違うなと恵子は思った。
「しかし、川ちゃんもなかなかあきらめないよね。試験に五回も落ちて、また挑戦するんだから。」
確かに、そのくらい失敗していれば、あきらめる人のほうが多いのかもしれない。
「当り前だい。必ず受かるんだ。」
その割に、頻繁にどこかへ出かけていて、とても受験生とは思えなかった。
「まあ、外国では、こっちと違って、一日中勉強でがんじがらめということはまずないんだよね。なので、長く勉強しても二時間程度しかしていない。それよりも、こうしてどこかへ行ったり、他人とかかわりを持っていたほうがよっぽど早いのだ。それに、初めて受験した時は、こんなに難しいとは思わなかった。」
なるほど。それもまた、日本ではありえない話かもしれない。でも確かに、受験には合格したものの、友人を作れないなどの問題を引き起こして、退学してしまう高校生もいる。彼らの中には、非常に高い学力を持っている子も多数いて、非常にがっかりさせられたことは、今までに何度もあった。
「どうしてそんなに試験を受けようと思うんですか?お二人とも今いくつなのよ。」
恵子はそう聞いてみた。
「二人とも36になるんです。」
つまり自分と10年離れているわけか。10年?ちょっと信じられない響きがあった。裕康はまだ自分より二つくらい上にしか見えないし、逆にルイのほうは、もう50近いおじさんのように見える。
「まあ、老けて見えても仕方ない。僕は16の時に、リセでひどいいじめにあい、全身がやたら痛くなって退学をせざるを得なかった。どこの病院に行っても異常なしとしか言われなくて、しょっちゅう家族とは喧嘩ばかりして、とうとう勘当される始末だ。そういうわけで、もう国を変えるしかないと思ったので、こっちに来たわけだけど、痛散湯に出会うまではまるで勉強どころか仕事さえもできるもんではなかった。ようやく痛散湯のおかげで痛みが消えた時には、もう、仕事なんてありつける年齢をとっくに超えてしまっていると、日本社会から聞かされた。でも、大学という物は日本には本当にたくさんあって、僕が学びたいものがその中に非常にたくさん凝縮されているので、そこへ行く事を人生の目標としてもいいと思ったんだ。だから、そのためにバカロレアにチャレンジしているんじゃないか。」
それを人生の目標か。日本の高校では、何の仕事に就きたくて、そのために必要な大学を選べと指導する。しかし裏を返せば、そんな言葉はただのきれいごとで、本当は、その学校の評判を上げるために、生徒に押し付けているに過ぎない。窓際に置かれていた恵子はそれをよく知っている。だから、大学を人生の目標にするなんて発言したら、まず張り倒されるだろう。
「いいんじゃないのか。逆にうらやましいよ。勉強したいことがちゃんとあって、それを求めて、大学に行くんだから。僕みたいに、そこにいるのがまるで名刺代わりになって、中身は全くないという生活よりは、ずっといいよ。まあ確かに、その年で大学というケースは非常に少ないが、僕は心から応援するよ。」
もうこれっきりというんだから、そういう気持ちにもなるのか。きっと、彼にとって東大生活は、名前こそしれている大学なので、周りから見るとすごいのだが、内容はまるで面白くなく、砂を噛むような生活だったのだろう。
「できれば僕も、父に怒鳴られないで、穏やかに着物の勉強をしていたかったけど、それはできなかったものね。」
裕康は、それを決定するように言った。彼の父がどんな人物であったかはよくわからないけれど、きっと、深刻な対立だったと思われる。
「なるほどねえ。あたしは、どうだったんだろうな。お二人とは、全然違う人生だったから。
少なくとも、もうこれっきりとは思っていないわ。」
恵子はそう発言したが、
「いや、違うと思いますよ。」
と、裕康が言った。
「あの、展示会で少し聞いた後に、天川店長に詳しく聞いてみましたが、恵子さんは、高校で保健体育の教師だったそうですね。きっと、教師になって、学校に居場所がなくて、それでこっちに来たのではないですか。たぶんかなり疲れていたんだろうなって、すぐにわかりましたよ。」
全く、伯父さんもすぐに他人にしゃべってしまう癖は、いつまでも治らないようである。
「まあ、伯父さんったら、私のこと全部しゃべったのね。」
「天川店長の話もそうだけど、僕は初めて会った時からすぐにわかりましたね。きっと何か事情があったんだろうなって。学校の先生なのになんでこっちに来たのかなって、ずっと不思議に思っていましたから。」
裕康がそういうと、ルイが口をはさんだ。この西洋人は人の言葉をさえぎって、何か言うのが得意らしい。
「なるほど。そういう事か。確かにそうだと思ったよ。若い人がこんな田舎に帰ってくるのはよほどの事情がないと、まずないだろう。きっと、就職した高校で、生徒に馬鹿にされたとかで、すごい傷ついてこっちに来たんじゃないのか。でも、一度傷ついたら休むというか、ちょっと静養するのは、当たり前のことだし、それを馬鹿な人とかダメな人としてしまうのもどうかと思うぞ。日本では、そういって潰してしまう傾向もあるが、それは、僕らも同じこと。意外かもしれないが、伝統のある国家ってのはそうなっていて、問題がおこると、すぐに隠してしまうところがある。隣のドイツのほうがそういう面では進んでいると思う。ただ、ドイツに痛散湯はまずないからねえ。」
「ああ、そうだろうね。フランスはほかに比べるといじめの対策は遅れていると聞いたことがあるよ。ドイツは、それに比べたら確かに歴史は浅いから、新しい教育なんかも盛んにおこなわれているよね。」
「そのあたりはあたし、よく知らないけど、とにかく高校に勤めだして、うまくできなかったことは確かよ。一時はあたしも、もうだめなのかなって思ったことだってあったわ。」
恵子は正直に言った。
「幸い、この茨城は、躓いた人を馬鹿にする傾向は少ないですから。逆に東京に馴染めなくて、職人を目指す若い人もたくさんいます。と、いうより結城市は過疎地域ですから、何とかして若い人を取り戻すためには、そうさせるしかないですからね。安心してくださいよ。」
それでも恵子は、そういわれると、何かいやな気持がして、ちょっと強く言った。
「まあ、そういう見方もあるわね。でもいずれは東京に帰るわ。まだあたし、あきらめたくないし。一度覚えたことだもの。忘れたりなんかはしたくないわ。あたしは、勉強は全然できなかったけど、サッカーがあったから、生きてこられたようなものだから。」
「そういう人には、学校の先生は向かないんじゃないの?」
「え、なんで?」
この一言には恵子もめんくらった。しかし、裕康も、ルイに加担するように言う。
「川ちゃんのいう通りかもしれないですね。だって学校は勉強が主体なんですから、体育の先生であっても、ある程度はそれに加担しなければならないでしょうしね。きっと恵子さんは、それをしなければならなくて、本当は嫌だったんじゃないかな。理由はすでに言っているじゃないですか。」
「結論から言ってしまえば立ち位置を間違えたという事なんだなあ。サッカーに救ってもらったのなら、サッカーで救ってやる仕事に就けばよかったんだよ。」
「あたし、間違ってたでしょうか。」
「そういう事。そんな高校の先生なんかじゃなくてさ、子供のサッカーチームのコーチとかそういう事をすればよかったんだ。もしどうしても学校の先生でいたいんなら、普通の学校ではなく、支援学校系のところに行けばよかったのに。例えば、相模原のシュタイナー学校とか。どうせ、日本の普通の学校なんてさ、やりがいなんてないに等しいんじゃないの?僕からしてみれば、そういうところにいるのは不条理というか、ノイローゼになっても仕方ないと思うよ。不思議なもので、一生懸命やろうと思えば思うほど、おかしな立場に着かされるのが学校ってものだよね。日本は鬱が多いというが、そういうさ、自分の本当にやりたいことに気が付かないからなんじゃないのかなあ。」
うん、確かにそうだ。ルイの話は理路整然としていて、わかりやすかった。確かに、自分に適した場所でなければ、働き甲斐なんて見つかるはずもない。当初、自分が、こんなにつらい理由がわからなかったが、今はそれが原因だったと感じられた。
「あんまり具体的に言いすぎると、また傷つくよ、川ちゃん。とにかく、恵子さんは、まだ26歳なんですから、僕たちと違ってやり直しはできます。それに僕らの生きた時代と違って、一度躓いてやり直すことはそんなに恥ずかしい時代ではありません。もう一回、人生を考え直して、今度こそ適した立ち位置を見つけて、幸せになってほしいですね。」
「そうですか、私、やっぱり、人生失敗してしまったのでしょうか。」
恵子は、この二人のほうが一枚上手だと確信した。確かに、そのほうが自分も働き甲斐はあっただろう。学校の先生という本当につまらない仕事よりも。立ち位置を間違えたとはそういうことだ。もうだめかと思ったが、裕康は優しく言った。
「いえいえ、責めているわけではありませんよ。若い人は、躓いて当たり前だと思いますよ。それを、ダメな人と解してしまうのが問題というわけであって、そういう抵抗勢力はまだまだ多い時代ではあるけれど、今は少しずつそれがみとめられてきてますから。まあ、ここでゆっくり静養して、新しい人生を歩いて行ってくれればそれでいいです。幸い、僕たちは、ほかの人に恵子さんがここにいたとは他言しませんので。」
「あたし、そういってもらったのは初めてだったわ。生徒も、あたしのことをいらない人だって、わかってたから、高校に居たって仕方ないなって気持ちはもちろんあったけど、もう、選択肢なんてないと思ってた。だって、二度と人生はやり直しできないって、あたしもさんざん言われてきたし、生徒にも、それを伝えなきゃならないんだから。」
それが正直な感想だ。恵子自身も、教師に人生は就職したら後は終わりだと言われてきた。
それを、変えることは二度とできないから、大学は必ず良いところへと、半ば脅されるように言われたことだって稀ではなかった。そして、学校に就職すれば生徒に同じことを言う。なので、それが世の中の基本法則のように見える。
「確かに人生において、不利な立場に立たされることは、苦しいことかもしれません。でも、新しい人生を手に入れるためのきっかけとなると解釈することができれば、そう悪いことでもないと思いますよ。今回、仕事に出られなくなったのは、非常に屈辱的というか、お辛いことだとは思うんですが、それは、新しい世界に突入していくほうが有利なのだという知らせであると解釈すれば、たぶん、乗り越えられないことはないと思います。」
「そうですか、、、。」
ピンチはチャンスというのはそういうことなのか?
「試しに、他の高校のサイトとか見てみな。きっと、先生を求めているところはあるんじゃないのかな。今は、傷ついた子を受け入れてくれる学校は、星の数ほどあるみたいだから。」
「だから、具体的なことは、あんまり言わないほうがいいよ。なんでも言い過ぎはまずい。」
こういう場合は、言ってくれたほうがいい。だってほかに人生には道があるって誰にも聞かされたことはないし、どんなことがあるのかも分からない。
「いえ、ありがとうございます!その通りにします!」
恵子は、思わず言ってしまった。こういうセリフを言ってもらえたのは、うまれてはじめてだったからだ。
「そうやって、ほかにも選択肢があるんだって教えてくれて、本当にありがとうございました。私、なんだか目からうろこ落ちたわ。」
「僕らは普通にやってることなんだけどなあ。別に、職場を変えることは、何にも恥ずかしくないぜ。」
「もう、ここはヨーロッパとは違うんだよ。川ちゃん。」
そんなに時代が違うのかと、恵子は改めて考え直した。日本はまだまだ先進国とは言えないと言わざるを得なかった。

そのあと、小山から結城市に戻ってきて、三人はそれぞれの家に帰った。恵子は真紀子おばさんが用意してくれた夕食を食べると、自分の部屋に戻り、パソコンのスイッチを入れた。インターネットの画面を開いて、ルイが言った通り、支援学校系の高校を探してみた。
さすがに、相模原に行こうとは、ちょっと考えられなかったから、都内で検索してみると、でるわでるわ、小規模であるが、何かしら事情があって高校を退学してしまった生徒を受け入れる高校は多々あった。
高校を運営しているのは、学習塾であったり、株式会社であったり、あるいは学校法人だったりいろいろあるけれども、どれもみな人手不足という共通の特徴があった。基本的にそういう学校は、公立ではなかった。それは当たり前だろう。公立であれば、設置するのに非常に手間がかかると恵子は知っていた。それに公立の学校であれば、新しいことができにくいから、そういう傷ついた生徒をケアするというのは難しいのかもしれない。
恵子は、とにかく、教師を募集している高校を片っ端から探してみた。体育の先生を募集している高校は極めて少なかった。できれば、都心から離れたくないと思ったけれど、そういう高校は辺境に作られる傾向があるらしいのだ。恵子の故郷である東京都渋谷区には一つもなかったが、そこでは知人に知られてしまったら、大変なことになると考え直した。でも、東京から出てしまうのは嫌だったので、東京都内にある支援学校をとにかく当たってみると、一軒だけ働けそうなところが見つかった。東京都内といっても、各駅停車しか停車しないところにある、本当に辺鄙なところにあって、校舎も普通の高校の半分もないところであったけれど、そこなら何とかやれるかもしれないなと思った。
とりあえず今は、通常の高校に教師として籍を置いているから、まず、これを退職しておく必要があった。こうなれば、善は急げで、退職願を無料のダウンロードサイトからダウンロードして印刷し、すぐに書いてしまった。そして、履歴書も書いてしまうことに決めた。待遇とか給与とか安定しているからなんていう長所もあるけれど、恵子はそんなものは必要なかった。ネット上にはやめたほうがいいという意見のほうが多数あったが、それよりも、自分が生徒の為に役に立つか立たないかのほうがはるかに重要だったから、恵子はそちらのほうがいいと思った。
あとは、自分の親と、おじさんおばさんの同意を得ることだ。ちょっと、戦闘的なところもあるかもしれないが、それでも自分の意思を曲げることはしたくないなと思って、とりあえず、退職願を封筒に入れて〆を書きこみ、横になって寝た。
翌日、恵子は朝食を食べながら、おじさんとおばさんにこう話してみた。
「おじさん、あたし、東京に戻ろうと思うの。今度は、もう失敗はしたくない。きっとあたし、安定と待遇を求めて、全日制の公立を選んだのが失敗だったのよ。それがよくわかったから、今度はちゃんと生徒を指導したという実感のある所に行く。あたしには、進学を目指す生徒よりも、何かで躓いて、動けなくなった生徒を救済するところのほうが向いていると気づいたのよ。だってあたし、もともと勉強ができなかったから、サッカーにのめりこんだの、おじさんもおばさんも知ってるでしょう?」
おじさんとおばさんは顔を見合わせた。
「もちろん、確かに公立のほうが、安定しているかもしれないけど、やりがいは全然ないし、あたしも窓際に追いやられるだけだし、生徒には馬鹿にされるしで、もう最悪よ。誰かが教えてくれた通り、公立なんて、もうこれっきりだわ。あたし、サッカーで助けてもらってたから、それを分けてあげたくて教師になったけど、公立の学校ではそれは得られないってもうわかったし、それならいても意味がないじゃない。そういうところにいつまでもいるから、おかしくなったわけでしょ。だから、そこへわざわざ戻るのも、やっぱりおかしいじゃない。飛んで火にいる夏の虫よ。だから、もうそういうことはしたくない。本当に私がやりたいことを発揮できる学校に行く。」
「うん、いいじゃないか、それで。今度こそというところが見つかったんだから。」
おじさんはにこにこしている。
「東京のどこなの?渋谷ではなかなかそういう場所は少ないでしょうに。たぶん、交通の便だってあんまりよくはないんじゃないの?」
おばさんは、心配そうに言った。
「確かによくないわよ。八王子から、八王子から八高線に乗らないといけないから。」
「毎日通うのは大変なんじゃないの?渋谷から。」
「まあ、でも、新宿から中央線で八王子まで行って、そこから八高線に乗り換えればいいわ。」
「まあ確かに少なくともここよりは本数は多いかもしれないが、一時間に二本か、多くても三本だろうな。八高線は。」
おじさんがそういったが、恵子はそれでもよかった。
「それでいいわ。何とか間に合うように調整するから。」
「でも、康夫は心配するでしょうね、そんなところに行くなんて。八高線なんて、なかなか利用しないわよ。あたしたちはいいかもしれないけどさ、康夫は、何でも心配性だから、そんな辺鄙なところは反対するわよ。恵子ちゃん、康夫を説得できる?」
そうだったそうだった。自分にはおじさんとおばさんだけでなく、父と母がいる。これを聞かされると、恵子は一気に気が沈んでしまった。と、いうより、父母が邪魔だと思った。
「でも、あたし、それなら、」
恵子は思い切ってある重大な決断をした。
「八高線の近くにはアパートとかはないの?」
「あることはあると思うけど、きっと渋谷よりは格段に少ないぞ。ただ、家賃は辺境だから安いと思う。」
おじさんがそういってくれたので、恵子は余計にそうすることにした。
「それなら、あたし、そうすることにする。裕康さんだってそうやって暮らしているんだから、あたしだってできるはず!」
と、その名を口にしたとき、なぜか今の発言を思いっきり訂正したいという気持ちがわいてしまった。
「どうしたの、恵子ちゃん。」
おばさんが優しく聞く。
ムキになってしまうとろくなことがないとはこういうことだ。おじさんとおばさんが、あまりにも自分を子ども扱いしているので、怒りに任せて一人で暮らすと言ってしまったけれど、そうなってしまうことも考えないといけなかったのだ。ああ、やっぱり無理か。恵子は、敗北した気分だった。
おじさんとおばさんは、また顔を見合わせた。と言っても、心配をしているのではなく、いよいよこうなる時期に来たかと、恵子を笑っている感じなのだ。恵子はまた怒りたくなったが、おばさんが優しくこういってくれた。
「よかったら、結城ちゃんの家に行ってみたら?ちゃんと気持ちを話してさ、一緒に考えてきてご覧。」
恵子ははっとした。
今しかできない!
「わかったわ!すぐに行ってみる!」
そういって、出されたご飯を急いでかきこんだ。
「ご馳走様!」
恵子は茶碗を置き、身支度をしに自分の部屋へすっ飛んで行った。
「命短し、恋せよ乙女、、、。」
おじさんがそんな歌を歌っている。恵子はそれに乗って、とにかく行こうと思った。


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