光と壁と
第三章 恵子と裕康
第三章 恵子と裕康
恵子は、伯父さんである、天川さんの店に立っていた。
なぜか、あの展示会を見に行ってから、猛烈に着物の事を勉強するようになっていた。暇さえあれば、着物関係の本を読んでいた。サッカーをしていた時もそうだったけど、恵子は自分を救ってくれたものに関しては、徹底的にしらべて勉強してしまうという癖がある。それによって、結城紬の事も、ぼろぼろの粗末な着物とは思わなくなった。
少し知識を得たので、おじさんが、お客さんと話しているのも理解できるようになった。もともと教師という職業もあって、口がうまく、接客は得意になった。おばさんの、真紀子さんよりも口がうまいと言われたこともあった。
ある日、その日もお客さんが来ていた。紬の天川では、新品の着物だけを扱っているのではない。誰かがきて、要らなくなった着物を買い取り、また新しい相手に販売する、いわゆるリサイクル着物事業もやっていた。こういう事業もやらないと、着物の業界には人はこないといわれる。でも、この事業は多くの新品の着物を扱う店からは馬鹿にされている。基本的に、古い着物はサイズが小さくて着た時にかっこ悪くなってしまうとか、衣紋が抜けないとか、裄が短いとか様々な問題があるのだ。しかし、それを主張していたら、着物を着る人がどんどんいなくなるからと言って、紬の天川では、この事業にも積極的だった。もし、極端に小さすぎたら、その人にあう体格に直せばいい。そうしなければ、着物はごみの山と化してしまうしかない。何か批判があれば、天川さんはそう答えている。
そのお客さんもそういう人だった。背の高い、かわいらしい顔の人で、確かに着物の似合いそうな女性だ。華やかな着物を身に付けたら確かに美人と言える人だろう。しかし、彼女が希望した着物は、対丈にしても身丈が短かった。
「うーん、足袋が見えてしまうから、ちょっとこのままでは着用は難しいかなあ。」
「そうですか。やっぱりあきらめるしかないですか。」
天川さんとお客さんはそんなことを言っている。恵子は、口を出してはいけないなあと思って、黙っていたが、これを諦めてもらうのは、実に悔しいほど、彼女にはその着物が似合うのであった。もし、恵子が販売者となるのなら、お似合いだと言ってなんとしてでも買ってもらいたいと推奨することだろう。
「でも、あたしこれほしいわ。スズランって私大好きだもの。」
お客さんが、ずいぶん名残惜しそうに言った。
「もし、お望みなら、寸法直ししようか。あのね、着物は洋服みたいに厳格に体に合わせてあるもんじゃないから、寸法直しは割と簡単だよ。」
「えっ、本当に!それじゃあ、私も着れるようになるの?」
「そうだよ。まあ、お直しとかいうと、もういいと言ってあきらめてしまう人が多いのも確かだけど?」
おじさん、そんなこと言っていいのか、と恵子は内心憤慨した。
「じゃあ、やってもらおうかな。お願いできますか?」
お客さんはそういった。きっと着物が好きな人なのだろう。
「わかったよ。じゃあ、寸法を測りたいんだけど、まだ時間はあるかい?」
「ええ。大丈夫です。今日は一日暇なので。」
「じゃあ、ちょっと今から、職人を呼ぶから、ここで待ってくれるかな?」
「わかりました。」
彼女がそういうと、天川さんは店の電話をダイヤルした。
「あ、結城ちゃん、今、暇か?あ、そう。じゃあすぐにうちの店に来てくれる?お客さんがね、着物の身丈直ししてもらいたいんだって。寸法図りたいからさ。あ、わかった。じゃあ、急いでね。」
結城ちゃん、という言葉がやけに耳についた。どこかで聞いたような名前。恵子は、一生懸命思い出そうと頭をひねった。
「5、6分待っててくれる?来てくれるってさ。」
「わかりました。待たせていただきます。」
「それにしても、今日は寒いねえ。」
「ええ、今年は寒くなるみたいですよ。」
お客さんと天川さんはそんな話をしている。
と、そこへ草履特有の足音がして、誰かが店に入ってくるのがわかった。
「こんにちは。」
一人の男性が店に入ってきた。その白い顔と、左手首から見える桐紋をみて、恵子は思わず、
「あっ!」
と声を立てて、持っていたそろばんを落とした。その男性も、恵子が誰なのかわかったようである。
「どうしたの、恵子ちゃん。そんな声出して、こっちがびっくりするだろ。」
「ご、ごめんなさい。まさかこの店と、取引しているとは思わなくて、、、。」
「つまり、知っていたの?結城ちゃんのこと。」
「ええ、まあ、その、、、。」
「すみません、こないだの着物の展示会で、恵子さんとばったり出会ってしまったんです。」
恵子が、返答に困っていると、男性のほうが説明した。
「なるほど、そういうこともあり得るな。この業界ただでさえ人が足りないんだからな。まあいい。結城ちゃんね、こちらのお客さんの着物をさ、身丈直ししてあげてほしいんだけどね。」
そう言って、天川さんは、お客さんを顎で示した。
「わかりました。ちょっときてみてくれますか。」
結城裕康は、店の中に入って、まず持っていた桐製の道具箱をテーブルの上に置いた。
「こんな感じなんですけどね。」
お客さんは着物を羽織ってみた。
「ああ、確かにこれでは、別布をつけないといけないですね。着物を半分で切って。」
「でも、そうすれば着れるようになるのなら、私、わくわくするわ。」
「わかりました。そう言っていただけでうれしいです。それなら、うちにある別布をつけて仕立て直ししましょうか。幸い、特にほかの依頼もないので、すぐにできますよ。」
「やってくれるの?大体どれくらいで?」
「まあ、着物の仕立ては、時間がかかるものですが、大体一週間か、二週間かな。」
「それくらい時間かかるわよね。でも、丁重にしっかりやってくれるなら、お願いしようかな。」
「じゃあ、お預かりします。連絡先とか教えていただけます?」
「携帯でいいですか?080、、、。」
お客さんと裕康は、そういうやり取りをしている。なんだか二人ともとても楽しそうだ。
なんだか教師の仕事より、ずっと充実していそうである。
「じゃあ、仕立てが終わったら、お電話しますので、店に来てくれます?」
「わかりました。料金は、、、?」
「ああ、一万円でいいですよ。そんな高かったら、誰も依頼には来ないでしょ。それに、二度か三度は調整しないといけないので、最終的に完成してから、支払ってくれればそれでいいです。」
へえ、結構良心的だ。
「わかりました!じゃあ、出来上がるのを楽しみにしています!」
お客さんは、着物を脱いで、急いで畳み、裕康に渡した。
「はい、確かにお預かりします。」
恵子は二人ともにこにこしているのが何か腑に落ちなかった。
「じゃあ、私、今日は帰りますので。連絡いただいたら、またこちらに伺いますから、その時に、このかわいらしい着物が着れるようになっているのを楽しみにしています!」
「はいはい、また来てね!」
お客さんは、丁寧に敬礼して帰っていった。
「結城ちゃんありがとね。他の方に頼んだら、忙しくてやってられないとかいわれるところだった。最初から仕立てるのならよくあるが、君みたいにこういう直しとか、作り替えとかを積極的にやってくれる人は、なかなかいないからな。」
「いいえ、今は、そっちの方が多いのではないですかね。変な売り方をしていると言って着物は余計に馬鹿にされるだけではないですか。リサイクルという販売方法は、安く買わせるという事には成功したけど、ちょうどいいサイズということはないから、普及させるというのは失敗だったと思います。天川さんには失礼ではありますが。」
「いや、まさしく図星だから、それでいいよ。この商売、部外者のものからすれば、そんなことしなくていいって思われることが普通に行われるということはいくらでもあるから。」
「でも、久しぶりですよ。最近は、作り帯を作ることばっかりやっていたので、着物を直すのはなかなかなかったですから。」
「そうだよな。この辺鄙な街ではそうなるよな。」
「着物の街とは言え、田舎ですから、偏見は根強いですよ。」
裕康と、天川さんがそんなことを話していると、
「あ、降ってきた。」
恵子がつぶやいた通り、雨が降ってきた。
「僕も、依頼が来たから、長居をしてはいられないし、もう帰りますよ。」
「そうだね。おい、恵子ちゃん。うちの車使っていいから、ちょっと結城ちゃん送ってあげてよ。」
あれ、歩いてきたのでは?と恵子は言いかけたが、お客さんの着物を濡らしては大変だからだと納得がいった。
「道は、結城ちゃんに言ってもらえばそれでいいだろ。まあ、すぐにわかるから、よろしく頼む。」
「わかりました。こちらにいらして下さい。」
天川さんのいう通り、裕康を連れて、店舗部分を抜け、裏口の車を置いてあるところに言った。車と言っても、トラックと、少し大型の軽自動車しか所持していなかった。この街では、道が狭いことが多く、大型のバンなどは、使いにくい傾向があった。それに車はマストアイテムで、ペーパードライバーだった恵子は、数日でそれを返納した。
「乗ってください。」
恵子は、軽自動車のドアを開けた。
「すみません、お願いします。」
そう言って、裕康は道具箱を持ったまま助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、行きますよ。」
恵子は、アクセルを踏んで車を動かした。
「あの、とりあえず、公民館の角を右に曲がってくれれば結構です。」
そんなにうちと近かったのか。
「私も、うちの伯父とつながりがあるとは思わなかったわ。」
恵子は正直に言った。
「まあ、着物となれば、やる人が少ないですから。」
裕康も苦笑いする。
「不思議ね。二度もこうして会うなんて。」
「僕も正直不思議ですよ。」
「なんで?」
「天川さんには、子供さんがないと聞いていたので。」
「私は子供じゃなくてめいよ。」
「そうなんですか。天川さんって結構独特だったから。」
「おじが?」
「僕は、生まれも育ちも結城市ですが、天川さんって、そうじゃなかったから、いろんなところで面白いし、憧れの人でしたからね。まあ、確かにこのあたりではトラブルメーカーでしたけど、この地域は人が出ていくばかりで、新しい人がやってくるなんて、めったにありませんでしたから、かえって、活気が出る一因になったかも。」
「ここだから言えるけど、東京でもトラブルメーカーだったのよ、伯父は。父が、幼いころからそうだったんだけど、とにかく自己主張をする人で、日本人らしくなかったんですって。しまいには、呉服屋さんの一人娘のお嬢さんに一目ぼれして、勘当されたも同然で家を出てったし。」
しゃべっている間に、公民館が見えてきた。
「ここを右に曲がればいいの?」
「はい。」
恵子はその通り、公民館の角を右折すると、真正面に本当に小さな二階建てのアパートが見えてきた。
「こちらで、おろしてください。」
「ここ?」
思わず聞いてしまうほど小さなアパートで、とても着物を扱う人が住んでいるとは思えないほど粗末だった。
「そうですよ。そこの二階です。本当は一階を希望したのですけれども、空きがなくて。」
恵子がアパートの前で車を止めると、裕康はドアを開けて、外へ出た。
「エレベーターが故障しているので、階段で行きますから。じゃあ、どうもありがとうございました。天川店長によろしくです。」
そう言って、彼は非常階段を昇って行った。恵子はいつまでもそこにいてはまずいと思い、すぐに車を走らせたが、車が完全に姿を消す時間よりも、裕康が非常階段を登りきる時間のほうが、倍以上かかった。
それから、二週間ほど経った。
恵子は相変わらず紬の天川で、受付係りを勤めていた。
相変わらず、着物の販売は難しいものであった。せっかく、良さそうだなと思っても、サイズが合わないことで帰ってしまう客のなんと多いことか。天川さんはその都度、直そうと提案したが、お金がかかるからといって、みんな諦めてしまうのである。本当にほしいという人は、なかなかいなかった。職人を呼び出す電話をかけることは、ありそうであるが、なかなかなかったので、裕康は現れなかった。
その日、あのお客さんがやってきた。指定時間は一時半であったが、時間を間違えたらしく、三十分ほど前に到着した。
「すみません、はやく来すぎてしまいました。雨が降りそうだからと思って、急いで来たんです。」
「ああ、かまいませんよ。ここで待っていただければ。」
天川さんはつねににこにこしていた。
「多分、結城ちゃんも、時間を守る人だからはやく来るでしょう。」
十五分ほど、世間話をしていると、また草履の音がして、風呂敷包みを持った裕康がやってきた。
「ほら来た。」
「どうもこんにちは。一応直してみましたけど、どうですかね。」  
裕康は風呂敷包みを開いて、たとう紙に入れた着物を取り出した。
「ちょっと着てみてくれますか。」
「はい。」
お客さんは、言われた通りに着物を羽織って、天川さんから渡された紐を受取り、おは処理を作って着用してみた。
「あ、大丈夫そうですね。これならおは処理で着用できますね。多分袋帯を締めると、おは処理は見えなくなりますから、これでなんとかごまかせるでしょう。おは処理を出すと、別布が見えてしまうから、隠した方がいい。それに、必ずおは処理をださなければならないと言うルールはありませんので。そうなったら、着物も終わりですよ。」
「結城ちゃんの言う通り、今となったら厳格にルールを守って着ることはまずできないよ。必ずどこかで破らなきゃ。それなのに、ルールがというから、着物と言うものが流行らなくなるんだ。どこかで、ルール違反と言われるかも知れないが、気にしないくらい覚悟が必要かもしれないねえ。」
天川さんも、それに荷担した。
「まあねえ、日本人は急速に巨大化しましたからね。まあ、仕方ないといえばそうなんですが、いまは着れるきものより、着れない着物の方が多くなりましたから。それをなんとかしなきゃいけませんよね。」
「だからこそ、結城ちゃんみたいな人が必要になるわけよ。まあ、そこまで利用する人は、本当に少ないけどさ。」
「でも、あたしは、やっぱり好きだから、これからもお宅は利用しますけどね。仕事用はありますけど、それ以外の時にも着ていたいですもの。」
お客さんはムキになったようである。
「ああ、何か着物関係の仕事だったんですか?」
天川さんが聞いた。
「ええ、料亭で仲井さんの仕事をしています。」
「なるほどねえ、それで着物に興味もってくれたんだね。ありがとう。」
「おいくらでしたっけ?」
「一万で結構です。」
「そうでした、そうでした。じゃあこれですね。」
お客さんは、裕康に一万円札を渡した。裕康は合掌してから受取り、領収書を書いて、彼女に渡した。
「ついでに、このたとう紙も差し上げますので、持っていってください。」
「これも払うの?」
「いえ、いりませんよ。」
「まあ、ありがとうございます。じゃあ、いただいていきます。」
お客さんは着物を脱いで丁寧に畳み、たとう紙にしまった。
「本当にどうもありがとうございました。またお直し、頼むかもしれないですが、そのときおねがいします。」
「はい、また何でも相談に乗りますから。着物の、作り替えもやっておりますので。今回はなんとか直せましたが、あまりに小さすぎるものもありますからね。棄てるのはもったいないので、そういうものは、羽織にするとか、道中着にするとかできます。日本の着物は、そこがいいところなんですけど。」
「そうそう、結城ちゃんの言う通り、他に作ることもできるんだよ。」
でも、なぜかそれを言えば、断る人が圧倒的に多いのも事実だ。着てみたいけどそこまでして着る必要はないからだろう。いまは、あきらめて買いなおす方が遥かにやすい。
「わかりました。じゃあ、それもお願いするかもしれません。そのときによろしくお願いいたします。」
お客さんは、たとう紙に入った着物を持って、軽く一礼した。
「はい、ありがとうございます。また来てね。」
天川さんも一礼した。
お客さんは大満足な顔をして、店を出ていった。
その、数分後。
「あ、また雨が降ってきた。」
恵子が正気に返ると、ざーっと雨が降ってきた。
「よく降るね。」
裕康は困った顔をした。
「結城ちゃん一人で帰れるか、大丈夫か?」
天川さんがそんなことをいう。大の大人なんだから、このくらいの雨程度なら、あるいて帰れるはずでは?と、恵子は思ったが、後で意味がわかる。
「ああ、なんとか帰りますよ。でも、この辺りはよく降りますよね。短時間でザーッと来るから、困るものです。」
「まあ、内陸だからね。でも、ひどくなりそうだから、送ってもらいな。恵子ちゃん、また送ってあげて。」
「すみません、店長さん。いつもいつも。」
「いいんだよ。職人がないと、うちの店は勤まらないから、しっかり管理をしなきゃ。」
おじさんらしい発言だ。まるでものを管理するような言い回しだけど、それはやさしさから言っている。
「恵子ちゃん、車だしてやってよ。」
「は、はい、こちらです。」
恵子は、急いで、裏口の方へ行った。
「じゃあ、ありがとうございました。何かありましたらまた言ってください。」
「はいよ。言われなくても呼び出すかもしれないなあ。」
裕康も軽く一礼して裏口の方へ行った。
裏口へ行くと、恵子が、車に乗り込んで待っていた。
「お願いします。」
裕康も助手席に座った。
「じゃあ、行きましょうか。」
恵子は、静かにエンジンをかけた。
「こないだと、同じ行き方でいい?」
「ええ、かまいませんよ。」
恵子は、そういう裕康の顔が以前より白いというか、青白いことに気が付いた。
「どこかお悪いの?」
「そうですか?何もありませんけど?」
なら、大丈夫なのか。恵子は、先日と同じ、公民館までの道をたどっていった。
「結構、取引している相手はいるんですか?」
「ええ、まあ。」
「じゃあ、やっぱり忙しいの?」
「そうですね。大量に縫うことはできないですからね。ミシンは使えないし。」
ミシンが使えないのはなんとも不合理だ。それでは作業に時間がかかるのも頷ける。
「でも、ミシンのほうが、強度は得られるのでは?」
恵子は聞いてみたが、裕康は窓の外の方を向いたまま答えない。
「そういうもんじゃないの?手縫いなんて、時間かかるし、引っ張ると切れちゃうでしょうし。」
答えはない。
「無視してるの?」
そう聞いたのと同時に例のアパートが見えてきた。敷地内にはいり、恵子は車を止めた。
「ねえ、着いたんだけど!」
やっぱり答えはない。
「ちょっと!」
と、背を叩くと、代わりに重い咳が返ってきた。
「大丈夫?」
声をかけてもそれどころではないらしく、返答はなかった。
「病院でも行ってみる?」
思わず語勢を強くしていってみると、
「ごめんなさい。なんでもありません。」
やっと恵子の方を見た。その顔を見て恵子はギョッとした。
「つ、着いたけど、、、。」
「ああ、ごめんなさい。じゃあ、もう出ますね。ご迷惑をおかけしてすみません。」
と、シートベルトをとって、ドアを開けたが、まだ頭がふらついているらしく、ごちんと天井に頭をぶつけた。
「危なっかしいわね。あたしも、手伝うわ。そこで待ってて頂戴。そっちに行くから。」
恵子は、傘も持たずに、雨が降っている外に出て、助手席のほうへ移動し、
「ほら。」
と手を出した。
「つかまってよ。」
裕康がその手をつかむと、信じられないほどの冷たさであった。それでも恵子は、自己流で彼を支えて、何とか立たせてやった。
「あ、歩けます?」
「はい。」
と、裕康は歩き始めたが、亀よりも遅かった。
「階段、登れますかね。」
「登らないと、帰れませんもの。」
本当に遅いスピードで、何とか階段をのぼりきったときは、恵子のほうが疲れてしまったくらいだ。
「もう、部屋ですから。ここまでかまわないです。」
「ダメよ。今日は、あなたがちゃんと部屋へ入るまでしっかり見てから帰るから。」
恵子は、なぜかそうしたくなってしまった。
「でも、いけないんじゃないですか。安全のためでもあるし。」
「馬鹿なこと言わないで!安全なのはどっちよ!」
思わずそういってしまう。
「見届けるのに性別なんて関係ないわよ。」
「そうですか。」
裕康は、風呂敷包みから財布を取り出し、部屋の鍵を開けた。
ぎい、という鈍い音と同時に、部屋が真正面に見えた。
あれ?と思われるくらいの質素な部屋だった。入ってすぐには狭い台所とおそらく風呂トイレとみられるドアが二つある。その奥に、和室とみられるふすまがあった。たぶんこれが居室となるのだろう。床はちり一つ落ちておらず、日用品は丁寧に整頓されて置かれていた。
裕康は、草履を脱いで玄関を上がろうとしたが、上がり框に躓いて、転倒しそうになった。
「ちょっと!しっかりして頂戴よ!」
恵子はとっさに中に入って、彼の背に手をかけて支えた。
「すみません。本当に大丈夫ですから。」
「今夜は一日、横になって休んだ方がいいわ。あたし、心配だから、上がらせてもらうからね。もう、未成年ではないんだし、何かあったら、すぐに帰れるわ。」
恵子は自分も靴を脱いで、部屋に入ってしまった。
台所を歩いてふすまを開けると、小さなちゃぶ台と、古い桐たんす、そして大量の布が置いてある六畳くらいの部屋があった。隣に、ふすまでつながった、四畳半の部屋があり、その片隅に丁寧にたたまれた布団があった。どちらも、張り替えたばかりの畳のにおいが充満していた。今はやりのテレビもステレオもパソコンさえも置かれていなかった。それをみて、恵子はさらに驚いた。
「座って。」
裕康はちゃぶ台の前に崩れるように座った。恵子は四畳半の部屋に行くと、そこにたたまれていた布団を敷いてあげた。
「恵子さん、北向きはちょっと。」
「そんなの迷信よ。」
と、返答したが、
「たぶんすぐはたためないので。」
と返ってきたので、なるほどと思い、南向きに敷きなおした。この布団も着物を改造して仕立てたのだろうか。そんな感じのする柄付きであった。しかし、それにしてはひどくかたいせんべい布団であった。
「じゃあ、横になってくれる?」
「はい。」
裕康は一度立ち上がり、布団の敷いた部屋に行くと、よろよろと布団の上に横になった。恵子はその近くに正座で座った。
「本当に、すみませんでした。今日は変な場面をお見せしてしまいましたね。」
「ほんと。正直に言って、どうなるかと思ったわ。」
恵子が正直な感想を述べると、
「たぶんそうだと思いました。本当にごめんなさい。ご迷惑かけて。」
ごめんなさいと言われると、恵子は何かわるいことをしたのかと、ムキな気持ちになった。
「ねえ、本当にどこか悪いの?」
「いや、大したことありませんよ。もともと体はあまり強いほうではないので、疲れるとこうなるんですよ。」
聞かないでくれ、というような口ぶりなので、恵子はそれ以上聞くのはやめることにした。
もう帰ろうかと思ったが、同時に心配で仕方ないという気持ちにもさせられた。恵子が、次に何を切り出そうか、一生懸命考えていると、
「もう、帰っていただいて結構ですよ。店長さんだって心配しているでしょう。」
と、聞こえてきた。
「じゃあ、これ以上は無理しないで頂戴ね!絶対、悪化させたりしちゃだめよ。おじさんだって言っていたけど、うちの店はあなたがいなければ、成り立たないのよ!」
思わず怒鳴ってしまいたくなる。
「ごめんなさい。」
別の言葉が出てくれないもんだろうかと恵子は思った。
「もう!ごめんなさいばかり言わないでよ!ほんと、正直に言えばイライラするわ。」
でも、心配だと言ってしまえば、もっとごめんなさいが返ってくる気がした。
「悪くなりそうなら、ちゃんと病院に通うとか、薬をいただくとかして頂戴ね!ちゃんと自己管理くらいできないと、なんにもできなくなるし、あたしたちだって、迷惑するんだからね!」
どうしても怒鳴ってしまう。心配で仕方ないという気持ちは、表面では怒りの言葉のように見えてしまうらしい。
「はい。」
「頓服の薬とかないの!」
「大したことないから、必要ないですよ。これまでもそうだったけど、何日か寝ていればいずれは立てるようになるのです。そのたびに大丈夫だなと思うので。」
「それ本当?」
「はい。そうですよ。これまでに何度か同じことをしでかしてきたけど、いずれも、ニ三日寝ていれば立てるようになりました。だから、今回もそのうちそうなると思います。」
そうなると、重大な病気ではないということなのだろうか?
「ただ、無理はしないようにしますけど。」
「頼むわよ。これからも、お客さんはたくさん来るんだからね。」
着物業界でお客さんがたくさん来るというのはまれであるが、なぜかその言葉が飛び出してしまった。
「はい。わかりました。今回は、申し訳ないことをしたので、たてるようになれば、謝りに行きます。」
「そこまでしなくていいけどさ、でも、体を大事にして頂戴ね。じゃあ、私帰るけど、今日はよく休んでね。」
「はい、すみません。今日は本当にすみませんでした。」
裕康は、まだそんなことを言っている。恵子は、立ち上がって、玄関の方へ歩いて行った。あまりに苛立ちすぎて、後ろを振り向くことはしなかった。
恵子は、伯父さんである、天川さんの店に立っていた。
なぜか、あの展示会を見に行ってから、猛烈に着物の事を勉強するようになっていた。暇さえあれば、着物関係の本を読んでいた。サッカーをしていた時もそうだったけど、恵子は自分を救ってくれたものに関しては、徹底的にしらべて勉強してしまうという癖がある。それによって、結城紬の事も、ぼろぼろの粗末な着物とは思わなくなった。
少し知識を得たので、おじさんが、お客さんと話しているのも理解できるようになった。もともと教師という職業もあって、口がうまく、接客は得意になった。おばさんの、真紀子さんよりも口がうまいと言われたこともあった。
ある日、その日もお客さんが来ていた。紬の天川では、新品の着物だけを扱っているのではない。誰かがきて、要らなくなった着物を買い取り、また新しい相手に販売する、いわゆるリサイクル着物事業もやっていた。こういう事業もやらないと、着物の業界には人はこないといわれる。でも、この事業は多くの新品の着物を扱う店からは馬鹿にされている。基本的に、古い着物はサイズが小さくて着た時にかっこ悪くなってしまうとか、衣紋が抜けないとか、裄が短いとか様々な問題があるのだ。しかし、それを主張していたら、着物を着る人がどんどんいなくなるからと言って、紬の天川では、この事業にも積極的だった。もし、極端に小さすぎたら、その人にあう体格に直せばいい。そうしなければ、着物はごみの山と化してしまうしかない。何か批判があれば、天川さんはそう答えている。
そのお客さんもそういう人だった。背の高い、かわいらしい顔の人で、確かに着物の似合いそうな女性だ。華やかな着物を身に付けたら確かに美人と言える人だろう。しかし、彼女が希望した着物は、対丈にしても身丈が短かった。
「うーん、足袋が見えてしまうから、ちょっとこのままでは着用は難しいかなあ。」
「そうですか。やっぱりあきらめるしかないですか。」
天川さんとお客さんはそんなことを言っている。恵子は、口を出してはいけないなあと思って、黙っていたが、これを諦めてもらうのは、実に悔しいほど、彼女にはその着物が似合うのであった。もし、恵子が販売者となるのなら、お似合いだと言ってなんとしてでも買ってもらいたいと推奨することだろう。
「でも、あたしこれほしいわ。スズランって私大好きだもの。」
お客さんが、ずいぶん名残惜しそうに言った。
「もし、お望みなら、寸法直ししようか。あのね、着物は洋服みたいに厳格に体に合わせてあるもんじゃないから、寸法直しは割と簡単だよ。」
「えっ、本当に!それじゃあ、私も着れるようになるの?」
「そうだよ。まあ、お直しとかいうと、もういいと言ってあきらめてしまう人が多いのも確かだけど?」
おじさん、そんなこと言っていいのか、と恵子は内心憤慨した。
「じゃあ、やってもらおうかな。お願いできますか?」
お客さんはそういった。きっと着物が好きな人なのだろう。
「わかったよ。じゃあ、寸法を測りたいんだけど、まだ時間はあるかい?」
「ええ。大丈夫です。今日は一日暇なので。」
「じゃあ、ちょっと今から、職人を呼ぶから、ここで待ってくれるかな?」
「わかりました。」
彼女がそういうと、天川さんは店の電話をダイヤルした。
「あ、結城ちゃん、今、暇か?あ、そう。じゃあすぐにうちの店に来てくれる?お客さんがね、着物の身丈直ししてもらいたいんだって。寸法図りたいからさ。あ、わかった。じゃあ、急いでね。」
結城ちゃん、という言葉がやけに耳についた。どこかで聞いたような名前。恵子は、一生懸命思い出そうと頭をひねった。
「5、6分待っててくれる?来てくれるってさ。」
「わかりました。待たせていただきます。」
「それにしても、今日は寒いねえ。」
「ええ、今年は寒くなるみたいですよ。」
お客さんと天川さんはそんな話をしている。
と、そこへ草履特有の足音がして、誰かが店に入ってくるのがわかった。
「こんにちは。」
一人の男性が店に入ってきた。その白い顔と、左手首から見える桐紋をみて、恵子は思わず、
「あっ!」
と声を立てて、持っていたそろばんを落とした。その男性も、恵子が誰なのかわかったようである。
「どうしたの、恵子ちゃん。そんな声出して、こっちがびっくりするだろ。」
「ご、ごめんなさい。まさかこの店と、取引しているとは思わなくて、、、。」
「つまり、知っていたの?結城ちゃんのこと。」
「ええ、まあ、その、、、。」
「すみません、こないだの着物の展示会で、恵子さんとばったり出会ってしまったんです。」
恵子が、返答に困っていると、男性のほうが説明した。
「なるほど、そういうこともあり得るな。この業界ただでさえ人が足りないんだからな。まあいい。結城ちゃんね、こちらのお客さんの着物をさ、身丈直ししてあげてほしいんだけどね。」
そう言って、天川さんは、お客さんを顎で示した。
「わかりました。ちょっときてみてくれますか。」
結城裕康は、店の中に入って、まず持っていた桐製の道具箱をテーブルの上に置いた。
「こんな感じなんですけどね。」
お客さんは着物を羽織ってみた。
「ああ、確かにこれでは、別布をつけないといけないですね。着物を半分で切って。」
「でも、そうすれば着れるようになるのなら、私、わくわくするわ。」
「わかりました。そう言っていただけでうれしいです。それなら、うちにある別布をつけて仕立て直ししましょうか。幸い、特にほかの依頼もないので、すぐにできますよ。」
「やってくれるの?大体どれくらいで?」
「まあ、着物の仕立ては、時間がかかるものですが、大体一週間か、二週間かな。」
「それくらい時間かかるわよね。でも、丁重にしっかりやってくれるなら、お願いしようかな。」
「じゃあ、お預かりします。連絡先とか教えていただけます?」
「携帯でいいですか?080、、、。」
お客さんと裕康は、そういうやり取りをしている。なんだか二人ともとても楽しそうだ。
なんだか教師の仕事より、ずっと充実していそうである。
「じゃあ、仕立てが終わったら、お電話しますので、店に来てくれます?」
「わかりました。料金は、、、?」
「ああ、一万円でいいですよ。そんな高かったら、誰も依頼には来ないでしょ。それに、二度か三度は調整しないといけないので、最終的に完成してから、支払ってくれればそれでいいです。」
へえ、結構良心的だ。
「わかりました!じゃあ、出来上がるのを楽しみにしています!」
お客さんは、着物を脱いで、急いで畳み、裕康に渡した。
「はい、確かにお預かりします。」
恵子は二人ともにこにこしているのが何か腑に落ちなかった。
「じゃあ、私、今日は帰りますので。連絡いただいたら、またこちらに伺いますから、その時に、このかわいらしい着物が着れるようになっているのを楽しみにしています!」
「はいはい、また来てね!」
お客さんは、丁寧に敬礼して帰っていった。
「結城ちゃんありがとね。他の方に頼んだら、忙しくてやってられないとかいわれるところだった。最初から仕立てるのならよくあるが、君みたいにこういう直しとか、作り替えとかを積極的にやってくれる人は、なかなかいないからな。」
「いいえ、今は、そっちの方が多いのではないですかね。変な売り方をしていると言って着物は余計に馬鹿にされるだけではないですか。リサイクルという販売方法は、安く買わせるという事には成功したけど、ちょうどいいサイズということはないから、普及させるというのは失敗だったと思います。天川さんには失礼ではありますが。」
「いや、まさしく図星だから、それでいいよ。この商売、部外者のものからすれば、そんなことしなくていいって思われることが普通に行われるということはいくらでもあるから。」
「でも、久しぶりですよ。最近は、作り帯を作ることばっかりやっていたので、着物を直すのはなかなかなかったですから。」
「そうだよな。この辺鄙な街ではそうなるよな。」
「着物の街とは言え、田舎ですから、偏見は根強いですよ。」
裕康と、天川さんがそんなことを話していると、
「あ、降ってきた。」
恵子がつぶやいた通り、雨が降ってきた。
「僕も、依頼が来たから、長居をしてはいられないし、もう帰りますよ。」
「そうだね。おい、恵子ちゃん。うちの車使っていいから、ちょっと結城ちゃん送ってあげてよ。」
あれ、歩いてきたのでは?と恵子は言いかけたが、お客さんの着物を濡らしては大変だからだと納得がいった。
「道は、結城ちゃんに言ってもらえばそれでいいだろ。まあ、すぐにわかるから、よろしく頼む。」
「わかりました。こちらにいらして下さい。」
天川さんのいう通り、裕康を連れて、店舗部分を抜け、裏口の車を置いてあるところに言った。車と言っても、トラックと、少し大型の軽自動車しか所持していなかった。この街では、道が狭いことが多く、大型のバンなどは、使いにくい傾向があった。それに車はマストアイテムで、ペーパードライバーだった恵子は、数日でそれを返納した。
「乗ってください。」
恵子は、軽自動車のドアを開けた。
「すみません、お願いします。」
そう言って、裕康は道具箱を持ったまま助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、行きますよ。」
恵子は、アクセルを踏んで車を動かした。
「あの、とりあえず、公民館の角を右に曲がってくれれば結構です。」
そんなにうちと近かったのか。
「私も、うちの伯父とつながりがあるとは思わなかったわ。」
恵子は正直に言った。
「まあ、着物となれば、やる人が少ないですから。」
裕康も苦笑いする。
「不思議ね。二度もこうして会うなんて。」
「僕も正直不思議ですよ。」
「なんで?」
「天川さんには、子供さんがないと聞いていたので。」
「私は子供じゃなくてめいよ。」
「そうなんですか。天川さんって結構独特だったから。」
「おじが?」
「僕は、生まれも育ちも結城市ですが、天川さんって、そうじゃなかったから、いろんなところで面白いし、憧れの人でしたからね。まあ、確かにこのあたりではトラブルメーカーでしたけど、この地域は人が出ていくばかりで、新しい人がやってくるなんて、めったにありませんでしたから、かえって、活気が出る一因になったかも。」
「ここだから言えるけど、東京でもトラブルメーカーだったのよ、伯父は。父が、幼いころからそうだったんだけど、とにかく自己主張をする人で、日本人らしくなかったんですって。しまいには、呉服屋さんの一人娘のお嬢さんに一目ぼれして、勘当されたも同然で家を出てったし。」
しゃべっている間に、公民館が見えてきた。
「ここを右に曲がればいいの?」
「はい。」
恵子はその通り、公民館の角を右折すると、真正面に本当に小さな二階建てのアパートが見えてきた。
「こちらで、おろしてください。」
「ここ?」
思わず聞いてしまうほど小さなアパートで、とても着物を扱う人が住んでいるとは思えないほど粗末だった。
「そうですよ。そこの二階です。本当は一階を希望したのですけれども、空きがなくて。」
恵子がアパートの前で車を止めると、裕康はドアを開けて、外へ出た。
「エレベーターが故障しているので、階段で行きますから。じゃあ、どうもありがとうございました。天川店長によろしくです。」
そう言って、彼は非常階段を昇って行った。恵子はいつまでもそこにいてはまずいと思い、すぐに車を走らせたが、車が完全に姿を消す時間よりも、裕康が非常階段を登りきる時間のほうが、倍以上かかった。
それから、二週間ほど経った。
恵子は相変わらず紬の天川で、受付係りを勤めていた。
相変わらず、着物の販売は難しいものであった。せっかく、良さそうだなと思っても、サイズが合わないことで帰ってしまう客のなんと多いことか。天川さんはその都度、直そうと提案したが、お金がかかるからといって、みんな諦めてしまうのである。本当にほしいという人は、なかなかいなかった。職人を呼び出す電話をかけることは、ありそうであるが、なかなかなかったので、裕康は現れなかった。
その日、あのお客さんがやってきた。指定時間は一時半であったが、時間を間違えたらしく、三十分ほど前に到着した。
「すみません、はやく来すぎてしまいました。雨が降りそうだからと思って、急いで来たんです。」
「ああ、かまいませんよ。ここで待っていただければ。」
天川さんはつねににこにこしていた。
「多分、結城ちゃんも、時間を守る人だからはやく来るでしょう。」
十五分ほど、世間話をしていると、また草履の音がして、風呂敷包みを持った裕康がやってきた。
「ほら来た。」
「どうもこんにちは。一応直してみましたけど、どうですかね。」  
裕康は風呂敷包みを開いて、たとう紙に入れた着物を取り出した。
「ちょっと着てみてくれますか。」
「はい。」
お客さんは、言われた通りに着物を羽織って、天川さんから渡された紐を受取り、おは処理を作って着用してみた。
「あ、大丈夫そうですね。これならおは処理で着用できますね。多分袋帯を締めると、おは処理は見えなくなりますから、これでなんとかごまかせるでしょう。おは処理を出すと、別布が見えてしまうから、隠した方がいい。それに、必ずおは処理をださなければならないと言うルールはありませんので。そうなったら、着物も終わりですよ。」
「結城ちゃんの言う通り、今となったら厳格にルールを守って着ることはまずできないよ。必ずどこかで破らなきゃ。それなのに、ルールがというから、着物と言うものが流行らなくなるんだ。どこかで、ルール違反と言われるかも知れないが、気にしないくらい覚悟が必要かもしれないねえ。」
天川さんも、それに荷担した。
「まあねえ、日本人は急速に巨大化しましたからね。まあ、仕方ないといえばそうなんですが、いまは着れるきものより、着れない着物の方が多くなりましたから。それをなんとかしなきゃいけませんよね。」
「だからこそ、結城ちゃんみたいな人が必要になるわけよ。まあ、そこまで利用する人は、本当に少ないけどさ。」
「でも、あたしは、やっぱり好きだから、これからもお宅は利用しますけどね。仕事用はありますけど、それ以外の時にも着ていたいですもの。」
お客さんはムキになったようである。
「ああ、何か着物関係の仕事だったんですか?」
天川さんが聞いた。
「ええ、料亭で仲井さんの仕事をしています。」
「なるほどねえ、それで着物に興味もってくれたんだね。ありがとう。」
「おいくらでしたっけ?」
「一万で結構です。」
「そうでした、そうでした。じゃあこれですね。」
お客さんは、裕康に一万円札を渡した。裕康は合掌してから受取り、領収書を書いて、彼女に渡した。
「ついでに、このたとう紙も差し上げますので、持っていってください。」
「これも払うの?」
「いえ、いりませんよ。」
「まあ、ありがとうございます。じゃあ、いただいていきます。」
お客さんは着物を脱いで丁寧に畳み、たとう紙にしまった。
「本当にどうもありがとうございました。またお直し、頼むかもしれないですが、そのときおねがいします。」
「はい、また何でも相談に乗りますから。着物の、作り替えもやっておりますので。今回はなんとか直せましたが、あまりに小さすぎるものもありますからね。棄てるのはもったいないので、そういうものは、羽織にするとか、道中着にするとかできます。日本の着物は、そこがいいところなんですけど。」
「そうそう、結城ちゃんの言う通り、他に作ることもできるんだよ。」
でも、なぜかそれを言えば、断る人が圧倒的に多いのも事実だ。着てみたいけどそこまでして着る必要はないからだろう。いまは、あきらめて買いなおす方が遥かにやすい。
「わかりました。じゃあ、それもお願いするかもしれません。そのときによろしくお願いいたします。」
お客さんは、たとう紙に入った着物を持って、軽く一礼した。
「はい、ありがとうございます。また来てね。」
天川さんも一礼した。
お客さんは大満足な顔をして、店を出ていった。
その、数分後。
「あ、また雨が降ってきた。」
恵子が正気に返ると、ざーっと雨が降ってきた。
「よく降るね。」
裕康は困った顔をした。
「結城ちゃん一人で帰れるか、大丈夫か?」
天川さんがそんなことをいう。大の大人なんだから、このくらいの雨程度なら、あるいて帰れるはずでは?と、恵子は思ったが、後で意味がわかる。
「ああ、なんとか帰りますよ。でも、この辺りはよく降りますよね。短時間でザーッと来るから、困るものです。」
「まあ、内陸だからね。でも、ひどくなりそうだから、送ってもらいな。恵子ちゃん、また送ってあげて。」
「すみません、店長さん。いつもいつも。」
「いいんだよ。職人がないと、うちの店は勤まらないから、しっかり管理をしなきゃ。」
おじさんらしい発言だ。まるでものを管理するような言い回しだけど、それはやさしさから言っている。
「恵子ちゃん、車だしてやってよ。」
「は、はい、こちらです。」
恵子は、急いで、裏口の方へ行った。
「じゃあ、ありがとうございました。何かありましたらまた言ってください。」
「はいよ。言われなくても呼び出すかもしれないなあ。」
裕康も軽く一礼して裏口の方へ行った。
裏口へ行くと、恵子が、車に乗り込んで待っていた。
「お願いします。」
裕康も助手席に座った。
「じゃあ、行きましょうか。」
恵子は、静かにエンジンをかけた。
「こないだと、同じ行き方でいい?」
「ええ、かまいませんよ。」
恵子は、そういう裕康の顔が以前より白いというか、青白いことに気が付いた。
「どこかお悪いの?」
「そうですか?何もありませんけど?」
なら、大丈夫なのか。恵子は、先日と同じ、公民館までの道をたどっていった。
「結構、取引している相手はいるんですか?」
「ええ、まあ。」
「じゃあ、やっぱり忙しいの?」
「そうですね。大量に縫うことはできないですからね。ミシンは使えないし。」
ミシンが使えないのはなんとも不合理だ。それでは作業に時間がかかるのも頷ける。
「でも、ミシンのほうが、強度は得られるのでは?」
恵子は聞いてみたが、裕康は窓の外の方を向いたまま答えない。
「そういうもんじゃないの?手縫いなんて、時間かかるし、引っ張ると切れちゃうでしょうし。」
答えはない。
「無視してるの?」
そう聞いたのと同時に例のアパートが見えてきた。敷地内にはいり、恵子は車を止めた。
「ねえ、着いたんだけど!」
やっぱり答えはない。
「ちょっと!」
と、背を叩くと、代わりに重い咳が返ってきた。
「大丈夫?」
声をかけてもそれどころではないらしく、返答はなかった。
「病院でも行ってみる?」
思わず語勢を強くしていってみると、
「ごめんなさい。なんでもありません。」
やっと恵子の方を見た。その顔を見て恵子はギョッとした。
「つ、着いたけど、、、。」
「ああ、ごめんなさい。じゃあ、もう出ますね。ご迷惑をおかけしてすみません。」
と、シートベルトをとって、ドアを開けたが、まだ頭がふらついているらしく、ごちんと天井に頭をぶつけた。
「危なっかしいわね。あたしも、手伝うわ。そこで待ってて頂戴。そっちに行くから。」
恵子は、傘も持たずに、雨が降っている外に出て、助手席のほうへ移動し、
「ほら。」
と手を出した。
「つかまってよ。」
裕康がその手をつかむと、信じられないほどの冷たさであった。それでも恵子は、自己流で彼を支えて、何とか立たせてやった。
「あ、歩けます?」
「はい。」
と、裕康は歩き始めたが、亀よりも遅かった。
「階段、登れますかね。」
「登らないと、帰れませんもの。」
本当に遅いスピードで、何とか階段をのぼりきったときは、恵子のほうが疲れてしまったくらいだ。
「もう、部屋ですから。ここまでかまわないです。」
「ダメよ。今日は、あなたがちゃんと部屋へ入るまでしっかり見てから帰るから。」
恵子は、なぜかそうしたくなってしまった。
「でも、いけないんじゃないですか。安全のためでもあるし。」
「馬鹿なこと言わないで!安全なのはどっちよ!」
思わずそういってしまう。
「見届けるのに性別なんて関係ないわよ。」
「そうですか。」
裕康は、風呂敷包みから財布を取り出し、部屋の鍵を開けた。
ぎい、という鈍い音と同時に、部屋が真正面に見えた。
あれ?と思われるくらいの質素な部屋だった。入ってすぐには狭い台所とおそらく風呂トイレとみられるドアが二つある。その奥に、和室とみられるふすまがあった。たぶんこれが居室となるのだろう。床はちり一つ落ちておらず、日用品は丁寧に整頓されて置かれていた。
裕康は、草履を脱いで玄関を上がろうとしたが、上がり框に躓いて、転倒しそうになった。
「ちょっと!しっかりして頂戴よ!」
恵子はとっさに中に入って、彼の背に手をかけて支えた。
「すみません。本当に大丈夫ですから。」
「今夜は一日、横になって休んだ方がいいわ。あたし、心配だから、上がらせてもらうからね。もう、未成年ではないんだし、何かあったら、すぐに帰れるわ。」
恵子は自分も靴を脱いで、部屋に入ってしまった。
台所を歩いてふすまを開けると、小さなちゃぶ台と、古い桐たんす、そして大量の布が置いてある六畳くらいの部屋があった。隣に、ふすまでつながった、四畳半の部屋があり、その片隅に丁寧にたたまれた布団があった。どちらも、張り替えたばかりの畳のにおいが充満していた。今はやりのテレビもステレオもパソコンさえも置かれていなかった。それをみて、恵子はさらに驚いた。
「座って。」
裕康はちゃぶ台の前に崩れるように座った。恵子は四畳半の部屋に行くと、そこにたたまれていた布団を敷いてあげた。
「恵子さん、北向きはちょっと。」
「そんなの迷信よ。」
と、返答したが、
「たぶんすぐはたためないので。」
と返ってきたので、なるほどと思い、南向きに敷きなおした。この布団も着物を改造して仕立てたのだろうか。そんな感じのする柄付きであった。しかし、それにしてはひどくかたいせんべい布団であった。
「じゃあ、横になってくれる?」
「はい。」
裕康は一度立ち上がり、布団の敷いた部屋に行くと、よろよろと布団の上に横になった。恵子はその近くに正座で座った。
「本当に、すみませんでした。今日は変な場面をお見せしてしまいましたね。」
「ほんと。正直に言って、どうなるかと思ったわ。」
恵子が正直な感想を述べると、
「たぶんそうだと思いました。本当にごめんなさい。ご迷惑かけて。」
ごめんなさいと言われると、恵子は何かわるいことをしたのかと、ムキな気持ちになった。
「ねえ、本当にどこか悪いの?」
「いや、大したことありませんよ。もともと体はあまり強いほうではないので、疲れるとこうなるんですよ。」
聞かないでくれ、というような口ぶりなので、恵子はそれ以上聞くのはやめることにした。
もう帰ろうかと思ったが、同時に心配で仕方ないという気持ちにもさせられた。恵子が、次に何を切り出そうか、一生懸命考えていると、
「もう、帰っていただいて結構ですよ。店長さんだって心配しているでしょう。」
と、聞こえてきた。
「じゃあ、これ以上は無理しないで頂戴ね!絶対、悪化させたりしちゃだめよ。おじさんだって言っていたけど、うちの店はあなたがいなければ、成り立たないのよ!」
思わず怒鳴ってしまいたくなる。
「ごめんなさい。」
別の言葉が出てくれないもんだろうかと恵子は思った。
「もう!ごめんなさいばかり言わないでよ!ほんと、正直に言えばイライラするわ。」
でも、心配だと言ってしまえば、もっとごめんなさいが返ってくる気がした。
「悪くなりそうなら、ちゃんと病院に通うとか、薬をいただくとかして頂戴ね!ちゃんと自己管理くらいできないと、なんにもできなくなるし、あたしたちだって、迷惑するんだからね!」
どうしても怒鳴ってしまう。心配で仕方ないという気持ちは、表面では怒りの言葉のように見えてしまうらしい。
「はい。」
「頓服の薬とかないの!」
「大したことないから、必要ないですよ。これまでもそうだったけど、何日か寝ていればいずれは立てるようになるのです。そのたびに大丈夫だなと思うので。」
「それ本当?」
「はい。そうですよ。これまでに何度か同じことをしでかしてきたけど、いずれも、ニ三日寝ていれば立てるようになりました。だから、今回もそのうちそうなると思います。」
そうなると、重大な病気ではないということなのだろうか?
「ただ、無理はしないようにしますけど。」
「頼むわよ。これからも、お客さんはたくさん来るんだからね。」
着物業界でお客さんがたくさん来るというのはまれであるが、なぜかその言葉が飛び出してしまった。
「はい。わかりました。今回は、申し訳ないことをしたので、たてるようになれば、謝りに行きます。」
「そこまでしなくていいけどさ、でも、体を大事にして頂戴ね。じゃあ、私帰るけど、今日はよく休んでね。」
「はい、すみません。今日は本当にすみませんでした。」
裕康は、まだそんなことを言っている。恵子は、立ち上がって、玄関の方へ歩いて行った。あまりに苛立ちすぎて、後ろを振り向くことはしなかった。
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