光と壁と

増田朋美

第二章 桐紋

第二章 桐紋
恵子は、快速電車で渋谷から小山まで行き、小山駅で水戸線に乗り換えて、結城駅で降りた。
と、書くと簡単そうであるが、小山駅で、ここまでまたされるとは思わないほど待たされた。もう、いい加減にしてくれよ!と思っているときにやっと電車がやってきてくれたのはいいものの、特急も急行も何もなく、すべて普通列車であり、信じられないほどのろく、一両に一人か二人乗っている程度だ。
そんな電車に乗って、恵子は結城駅にやってきた。東京の駅に比べれば、キオスクも、飲食店も、コンビニも駅ビルも何もない、本当に小さな駅だった。電車を降りると、誰もいないホームを歩いて、一つしかない改札口を抜け、本当に人の少ない駅構内の窓から、大きなビルも、ショッピングモールも、レストランも本当に何もない、結城の街が見えた。ちなみに、水戸線では、自動改札機がある駅を探すほうが簡単だという。
「ついに来ちゃったか。」
少しため息が出た。
ここまで何もないとは思わなかった。
伯父の天川淳一さんは、父の話だと、北口駅前で待っていてくれているというから、恵子は北口のほうへ向かった。エレベーターさえもなかったので、何年ぶりに駅の階段という物を降りた。
北口から出ると、タクシーが数台いて、どれも眠そうな顔をして運転手が客を待っていた。
もしかして、客と勘違いされるのではないかと思われながら、恵子が迎えを待っていると、
一台の軽トラックが、彼女の前に現れた。え、まさか?と思っていると、トラックは彼女の間で止まった。
「ごめん、待った?」
運転席から、天川淳一さんが、彼女に声をかけた。灰色の着物を身に着けた、白髪のよく似合うおじさんだった。
「いや、ごめんね。車をかみさんにとられてしまったので、やむを得ずトラックで来てしまった。荷物は荷台において、とりあえず乗ってくれ。」
父の話によると、天川さんは、家族の反対を押し切って、結城市の呉服店のお婿さんになったというのだが、恵子はこのおじさんを、快く思ったわけではなかった。恵子にしてみれば、長男でありながら、その役目を放棄して、勝手に好きなひとのところへ行ってしまったという感じだ。男性が、改姓するのは非常に珍しい例だと学校でも習ったことがある。
「おい、後ろに車が来るから早くのってくれよ。」
「は、はい。」
恵子は、急いでキャリーバックをトラックの荷台に乗せて、トラックの助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、行くよ。」
天川さんは、エンジンをかけて、トラックは結城駅を離れて行った。
「いやあ、よく来たね。」
天川さんは穏やかであった。父からの話では、かなり荒っぽい人物であったと聞いているので、想像していたより全然違っていた。
「それにしても恵子ちゃんでかくなったね。あ、もう26にもなったから、それは当たり前なのか。」
田舎の人らしくそんなことを言っている。
「まあ、どうして、こっちまで来たのかそんなことは聞かないよ。きっとつらいことがあったんだろうからねえ。それを話すのはまた辛いだろうから。こっちは、東京に比べると、本当に何もないところだけどさ、静かに暮らすには十分すぎるくらいなところだから、ゆっくりしていってな。」
「おじさんこそ、そんなセリフを言うなんて、父が見たら信じられないと言うと思いますよ。」
恵子は、正直なセリフを言った。
「ああ、康夫がそんなこと言ってたのね。確かにそうかもしれないね。」
天川さんは、にこりと笑った。
「こっちの暮らしも、はっきり言えば楽じゃなかったよ。都会の人間だからって、ずいぶん馬鹿にされながら過ごしちゃったから、子供なんてつくる暇もなかったなあ。そうなると、家のことは康夫に任せきりで、俺は長男失格ということになるかな。盆にも正月にもそっちへは行かなかったからなあ。」
父は、伯父さんが年末年始に顔を見に来ることもないので、非常に困った人だと良く言っていたが、天川さんはそれも自覚しているようだ。
「自覚しているなら、なぜ謝罪に来なかったんですか?」
「いやあ、こっちでは、都会ほど便利なものは何もないからな。まず地元に馴染むのに、本当に神経使ったから。かみさんだって、近所の人からひどいことを言われたくらいだったぞ。こんな男を婿にとって、一体何をやっているんだってね。」
「今日は、おばさんは?」
「ああ、町内会の親睦会で、今でかけているよ。こういうのには必ず出ないと、うちが損をすることになるからさあ。うち、車が一台とトラック一台しかないから、かみさんが乗っていってしまうと、トラックしかないのよね。ここでは、一人に一台なんて車は持てないからねえ。」
なんだかあまりのんびりしても居られなさそうだ。
「まあ、田舎へ来ると、必ずあるんだけど、新参者は必ずたたかれる。本人だけではなく、配偶者や血縁者も。」
「私もたたかれるの?」
なんだか心配になってきた。
「いや、大丈夫だ。そればっかりやってきたせいで、若い人が東京へ出て行ってしまって二度と帰ってこないという事態に俺たちは気が付いたからね。だから、俺たちは傷ついた若い人を慰めてやる立場に方向転換していくことにした。だって、自分で産んだ子が、二度と感謝の気持ちを持てないまま、一生を終えてしまうなんて、これほど悲しいことはないからな。都会という物は、楽しいかもしれないが、馴染めない者にとっては、徹底的につらいところでもあるわけだから、こういう暖かい人間もいるってことも、伝えてやりたいと思ったわけよ。」
「それは誰が決めたの?」
「誰かが法律で決めたわけじゃないよ。俺たち結城市内の住人が、そう気が付いて、住民自ら行動を起こしたんだよ。別に政府が命令を出したわけではない。そういうものを頼ってたら、俺たちの生活はつぶれちゃうから。それに気が付いたから、俺たちはそうしようと思いついたんだ。」
「具体的にはどうやって?」
「例えば、この辺りはかんぴょうが盛んにつくられているところだから、それを手伝ってもらいに来たりとかさ。いわゆる週末農業だな。他にも日本酒とか、うどんなどを作っている家も多いから、手打ちうどんを作らせるとか、饅頭を作らせるとか、そういう名物を使って、若い人に来てもらうプロジェクトが盛んにおこなわれているよ。それより、何よりも、俺たちが、一番胸を張って堂々と名産品だと言えるのが俺も着ている結城紬の着物だよ。まあ、近頃はアンティーク着物のブームに押されて、結城はなかなか売れないが、それでも結城を作りたいという若い人は意外に多いぞ。」
「おじさんの空き部屋も、そういう人のために作ったの?」
「うーん、表向きはそうなっているが、俺の家は、一度も建て替えたことがなく、店を立てた時に、本来できるだろうなと思われるものが、使うために作った部屋だったが、使わずじまいになってしまったので、、、。」
「そうなんだ。理由はわかったから言わなくていいわ。でも、そんなちぢれっけのような着物を作ってみたいとか、着てみたいという気持ちにはならないわね。私には、、、。」
確かに、伯父さんが着ている着物を見ても、それが名産品という感じはしない。着物というと超高級な華やかな柄を思いつくが、男物であるから地味であるということはあっても、どうしてもかっこいいとは思えないし、粗末なお百姓さんの普段着にしか見えないのだ。
「さて、着いたかな。」
伯父さんは、一つの建物の前で、トラックを止めた。
「入り口はそっちだよ。」
恵子は、天川さんのいう通りにトラックを降りた。四角い三階建ての建物で、一階は店舗になっており、二階以降が住居になっている。一階には、「紬の天川」と書かれた看板が設置されていた。住居部分の入り口は、店の裏側にあった。
「まあ、上がっていってくれ。三階の部屋がいずれも空き部屋だから、使ってくれてかまわないので。」
「わかりました。」
恵子は、キャリーバックを荷台からおろすと、住居部分の入り口から、建物の中に入った。
中は、おばさんが足でも悪くしたのだろうか、ところどころに手すりが付いていた。
「じゃあ、伯父さんは、店に戻るけど、恵子ちゃんは、好きなようにしてくれてかまわないからね。康夫の話ではひどく疲れているようだから、ゆっくり休ませてやれと言われているから、店を手伝えとは言わないから。」
「はい、ありがとうございます。」
恵子は、三階へ行く階段に案内され、階段を上った。階段の壁には、何人かの若い男性たちの写真が貼られている。きっと、伯父さんが雇った職人さんだろう。彼らは、いまどうしているのだろうか。そんなことを考えながら、三階に行った。三階には、和室が二つあって、恵子は手前の方にある和室に入った。和室なんて、使うのは何年ぶりだろうか。
中は、布団が一式と、正座で使うテーブルと座布団が一枚置かれていた。それが彼女に与えられたスペースだった。せめて洋室にしてもらいたかったが、着物を扱う店にそのような部屋はまずできないよなと、考え直した。
とりあえず、キャリーバックを部屋の隅に置き、畳の上にごろんと寝転がった。桐製の天井が真正面に来た。貼り紙もされていない天井で木目が、彼女を優しく見つめていた。気が付いたら、急に疲れてきて、恵子は畳の上で寝てしまっていた。
「お夕食ですよ。」
どこからか、優しい声が聞こえてきた。恵子は急いで目を覚まし、階段を駆け下りて、二階の食堂へ行った。食堂では淳一さんの奥さんの、天川真紀子さん、恵子にとってはおばさんが、何か調理していた。鍋は、かすかにそばのにおいがした。
「あ、おばさん、ご挨拶遅くなりましてすみません。」
「いいのよ。お母さんのところへ来たつもりでどうぞどうぞ。」
そういう明るいおばさんは、母と違ってどこか豪快なところもあった。恵子はおじさんに促されて、テーブルの前に座った。
「さ、食べて頂戴。ありあわせで作ったそばだけど、、、。」
おばさんは、そばを山盛り一杯乗せたざるを、恵子の前に置いた。
「おい、少しゆですぎでは?」
「いいのよ、あんた。だって恵子ちゃんは若いんだし、いつもあたしたちが食べている量ではとても足りないじゃないの。さ、いただきましょう。」
恵子の前に、新品の箸と、梅雨の入った器が置かれた。どれも、真新しいものだから、きっと父から電話を受けた直後に、買ってくれたものだろう。恵子は、そういうおばさんの心遣いが、なんとなくであるけれど、うれしいなと思った。
「じゃあ、いただきます。」
三人は、そばを食した。乾麺よりもずっとうまいそばだった。というより、そばと言えば、どん兵衛くらいしか恵子は食していなかったので、恵子には非常に新鮮な味であった。
「どう?あたしが打ったのだから、おいしくなかったら、おいしくないと素直に言ってくれていいのよ。」
なるほど。おばさんは、そばも作るのか。ということは、手打ちそばか。
「そば教室の先生から、まだ教わったばっかりだし、初心者だから、まだ不手際があるかもしれないしね。」
そば教室というものがあるとは驚きだ。
「全くな。お前は本当に習い事が好きだなあ。近所の佐藤さんに誘われて、はじめは打つ練習だとか言って、毎日毎日そばばかり食べさせられて、飽きるほどだったぞ。でも、だんだん、誰かに食べさせてもいいくらいになってきたな。」
おじさんがからかうと、
「そうね。はじめは、近所付き合いで始めたのに、やっと腕試しができたかしら。」
おばさんは、そういう。つまり、この地域では、そういう近所付き合いができないと、伯父さんが言っていた通り、「たたかれる」のだろう。それでは一日中ごろごろしていては、余計にたたかれるなと恵子は思った。
「いいえ、おばさん、カップめんよりおいしいですよ。」
恵子は正直な感想を言って、こう切り出した。
「明日も、店を開くのですか?」
「うん。直接来るお客さんだけではなく、通信販売なんかもあるからね。店が休みでも、発送作業なんかはしなければならないし、、、。」
伯父さんはそういった。きっと、こういう店だから、通販も併用しないと、やっていけないのだろう。だから、店自体は休みでも、その作業はしなければならないのだ。
「おじさん、私お手伝いしましょうか?」
恵子は、伯父さんに言ってみた。
「いいよ、恵子ちゃんは。それよりも、休んだ方がいいって、康夫さんが言っていたのでしょう?」
おばさんは、優しく言う。それは、決して嫌味を言っているわけではないと恵子にもわかった。だからこそ、恵子は手伝いたいと思った。
「でも、お世話になるわけですから、伯父さんのお店くらい手伝いたいなと思いまして。」
「うん、それはいい試みだ。たまにはこういう着物の世界に触れてみるのもいいだろう。きっと都会では味わえないこともあるよ。よし、明日から店に出てもらおうか。」
「あんた、そんなこと言って、何をさせてあげればいいのよ。」
「レジ打ちとか、、、。」
「生憎だけど、レジはないじゃない。うちはそろばんでお会計を計算しているでしょうが。」
恵子はまず落胆した。
「うちの店は、洋服屋さんとはちょっと違うからねえ。洋服を販売するのとは違うやり方で、やっているのよ。それに、着物という物は、洋服とは全然違うのよ。例えば洋服は着る場所によって、順位が就いたりはしないでしょう。でも、着物は、身分制度で作られたようなところがあるから、そういうところをある程度知っておかないと、、、。」
「まあ、確かにそういうものは必要になるわな。よし、それなら一度展示会に行ってさ、着物の種類を勉強してみて、そこから始めたらどうだ?」
確かに恵子は着物の事なんて何も知らなかった。区別の仕方もわからないし、厳格に順位が就くことも、初めて知った。彼女の知っている着物と言えば、成人式の振袖くらいだったし、ただ窮屈で、動きにくく、着るのに非常に手間がかかる物としか、かんじられなかった。そういうものを販売するのだから、確かに知識は必要だろう。
「私、行ってみる。それに、ニ三日で帰るわけではないし、しばらくこっちにいるんだから、偏見を持たれてはいけないと思う。だから、ここを手伝いに来たという口実も作らなきゃ。おじさんだって、そういうところは大変だったんでしょ?」
「そうだね、恵子ちゃん。さすが学校の先生になっただけあるね。そうやって裏事情を読み取るのがうまい。」
「おじさん、展示会はどこでやっているの?」
「えーとね。」
伯父さんは、一度立ち上がって、近くにある引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「まあ、この辺は着物の販売が盛んな街だから、展示会は、毎日のように行われているが、一番頻繁にやっているのは、この会館なんじゃないかなあ。」
そう言っておじさんは、一枚の紙を見せた。着物の里、と書かれた建物で、着物を展示即売していると、書かれていた。
「でも、押し売りのようなことはするの?着物って、よく問題になるわよね。」
着物の販売というと、展示会商法とか、そういう悪質販売方法もあると恵子は聞かされたことがある。
「ああ、あそこはしないわよ。というより、このあたりの呉服屋さんは、みんな親切であることが多いの。ほら、観光に来る人も多いでしょ?それに、ここは着物が観光名所にそのまま直結してるし、都市部じゃないから、観光である程度収入を得なきゃならないから、そういうへんなやり方をしたら、人が来なくなるわ。」
おばさんの言葉で恵子は安心した。
「じゃあ、私行ってみる。ちょっと勉強してくるわ。」
「うん。初めてだから、たくさん勉強できると思うよ。」
「はい。」
「ご飯にしましょ、冷めちゃうわ。」
おばさんの一言で、恵子たちは遅れた夕食をとった。少しばかり不安な気持ちもあったけど、恵子は展示会に行ってみることにした。もちろん、結城紬だけが着物というわけではない。それ以外の着物もおじさんの店では扱っていた。だから、そういう着物についても勉強してくるつもりだった。
結城市の夜は静かだった。電車の音も、車の音も聞こえてこなかった。なので、恵子は、その日はよく眠ることができた。東京に住んでいたころに比べたら、ありえないくらい静かだった。
翌日、恵子は、朝食をとった後、身支度をして、伯父さんに運転してもらって、その展示会の会場に向かった。結城市では、どこへ行くにも車が必要だった。まず、駅は三つしかないし、バスなどは、一時間に一本どころか、全く走っていない時間帯もある。極論で言えば車なしではいられないのだ。会場は、車で行ってもおじさんの着物屋からは、20分以上かかった。
展示会場は、こじんまりとしたコミュニティーセンターという感じだった。大きなコンベンションホールという物ではなかった。恵子は、おろしてもらって、そのセンターの正面玄関から中に入った。
展示室は、すぐにわかった。というのは、部屋数が少ないため、すぐわかってしまうのだ。恵子が中に入ると、受付には二人の男性がいた。二人ともおじさんに似たような感じの着物を身に着けているが、右側の男性は、おそらく普通の中年男性という感じで、顔かたちも、身長も一般的な男性の身長である。しかし、左側の男性はというと、顔は紙のように真っ白で、身長は女性とさほど変わらず、そしてげっそりと痩せていて、一瞬引いてしまうのではないかと思われるほど異様であった。
「いらっしゃいませ。」
右側の男性が言った。
「あ、あの、大人一枚、、、。」
恵子が言うと、
「はい、500円です。」
と、返ってきたので、恵子は財布を取り出して、500円を探したが、どこにも見つからなかった。都会生活では、現金よりも、スイカとかパスモと言ったカードで払うほうが圧倒的に多いから、あまり現金を持ち歩くことはないのだ。かろうじて1000円札が一枚だけ見つかった。
「すみません、細かいのがないので、1000円でお釣りください。」
恵子は、1000円札を出して、右側の男性に差し出した。
「はい、わかりました。おい、裕康、五百円玉、持ってきてやって。」
男性がそういうと、裕康と呼ばれた左側の男性が、プラスチックのケースを開けて、500円玉を取り出し、恵子に渡した。その指も細く、針金のようで、その手は非常に冷たかった。彼から、500円玉を渡されて、恵子はぞっとした。着物の袖の間から、左腕の肘から下に緑色の桐紋が見えたのだ。もしかしてこの人は元極道?そんな恐怖が頭をよぎった。もし、おじさんが言っていた、若い人を更生のために連れてくるという言葉が真実であるならば、こういう極道上がりの人も含まれるのだろうか?
とにかく、その男性からは離れて恵子は展示室にはいった。中に入ると、たくさんの着物たちが展示されていたが、どれも華やかでかわいらしいものばかりだった。振袖、留めそで、訪問着。着物にはいろんな種類があることも初めて知った。結城紬という物はその一部であるらしいが、きらびやかな訪問着などに比べたら、ずいぶん地味な物であった。それをなぜこれほどまでに高く売るのか、恵子は理解できなかった。
展示室の奥の方には、結城紬の高級品が展示されていた。結城の中でも、六角形のような亀甲を入れたものは特に評価が高いらしいのである。目の前に、黒色の地色に、金で亀甲を入れた着物があったが、恵子はそれが理解できなかった。花柄のほうがずっと綺麗。それなのになぜ、こんな六角形の繰り返しが、美しいとされるのだろうか?
「お気に召されましたか?」
不意に後ろで声がした。振り向くと、あの入れ墨の男性が立っていた。
「え、あ、あの、」
恵子は怖いのと、何とかしなければという気持ちとを同時に感じた。同時に逃げたいとも思った。
「ご、ごめんなさい、私別に、買いたいと思ってきたわけじゃなくて、ただ、着物っていう物について何も知らなかったので、どういう物があるのか、見に来ただけなんです!ど、どうか今日は許してください!」
「はい、かまいませんよ。」
思わず、面食らってしまった。
「どっちにしろ、あなたのような歳でこの着物を美しいと思うほうが異常ですもの。」
意外なセリフだった。
極道なら、こういうところで、買わない理由を言ってみろとか、怒鳴りつけてくるはずだ。
それなのに、この人は穏やかなままで、表情も変わらずに、このようなセリフを言う。もしかしたら、極道ではないのかもしれない。
「まあ、欲を言えば、寸評はほしいですけどね。その黒に亀甲の着物、僕が仕立てたんです。」
えええっ!なんだって!極道が、こんな着物を仕立てたの?もしかしたら組長に?と言おうとしたが、
「どっちにしろ、こんなものを作っても、売れないことも確かですから、どこかのがらくた屋さんにでも持っていくことになるんでしょうね。だって、他の訪問着なんかは、結構契約が成立しているみたいですけど、僕の作品は、いくら結城の正当なやり方をした布を使って仕立てたとはいえ、全くかわいらしくもなければ、美しくもありません。身分制度があった時代であれば、結城はよく売れたブランドではありましたが、それが撤廃されればもうアウトですよ。」
と、ため息をついて、笑って言う。
「ちょっと待ってよ。そもそも紬って、な、何なんですか。あたし、さっぱりわからないわ。」
「はい、教えましょうか。江戸時代にお百姓さんたちが野良着として着用していた着物の事を言うんですよ。江戸時代に贅沢禁止令がだされたときに、絹の着物を禁止されたけれど、どうしても絹を着たかったので、じゃあ、どうしたらいいかと考えた時に、遠目から見えれば木綿に見えるようにすればいいと考えて発明された着物です。だから、訪問着なんかと比べると、ずいぶん粗末に見えるでしょ。それが絹でありながら、そうでないように見せかけるための技術ですよ。」
確かにそうである。絹特有の光沢のようなものは一切ないし、他の着物に比べると、なんだか使い古したぼろぼろの布のようにも見えてしまうのだ。つまり、そう見えるようにするトリックを使って、お百姓さんは、偉い人たちの目をごまかしていたのだろう。確かにその身分制度がなければ、そのようなトリックも不要になる。そうなれば、ただのぼろぼろの着物にしか見えなくなるだろう。
「まあ、僕も、もともと着物業界の人間だったわけじゃないので、このような着物を制作して、一体何になるのだろうかとよく疑問におもったものでした。でも、偉い方々は、これこそ一番の着物というのです。僕もはじめのころは本当にわからなかったですけど、何十枚も制作し続けてきて、きっとこの、絹でありながらそうでないように見せかけることこそ、この着物の魅力なんじゃないかなと気が付きました。そのために、この着物は維持できたんじゃないでしょうか。当時の人たちはそれに必死だったでしょうから。確かに、着用する出番もないので、あってもなくても仕方ないと罵倒されたことも数多くありましたが、もしかして、遠い将来に、歴史の証人のような形で残ってくれればなと思い、作ってきました。」
静かな口調で語るその男性を見て、恵子はこの人は極道ではないなと確信した。それよりも、きっと邪悪に対しては過敏な人なんだろうなとおもった。
「ただ、今の世の中では、使い道が乏しいのも確かなので、きっとがらくた屋さんに引き取ってもらうことになるでしょうけどね。それも、時代なので仕方ありません。まあ苦労はするけど、売れることにはあまり期待しないほうがいいですね。そういうものが着物という物ですから。これまでに何十枚と作りましたが、定価で売れたことは一度もないです。着物だけではく、伝統品全部がそうなる時代が来るのも、遠くないでしょうね。」
彼は笑っていた。誰に対して笑っているのだろうかと思ったが、すぐにどうにもならないことなので笑うしかないんだということを直感的に感じ取った。
「きっと、そんなことを語って何になるの、自分語りをしたいなら他を当たれとおっしゃるのでしょうね。まあ、言いたければ言っても結構ですよ。慣れてますから。でも、ありがとうございました。紬って何なのかと聞いて下さっただけでもね。まあ、ゆっくりご覧になってくださいな。きっと、この展示会のことはすぐに忘れてしまう事でしょう。あなたの年代なら。いや、忘れてくれたほうがいい。関わるとおおよそ、ろくな目に会わない。」
不思議な人物だ。自身の仕事について、ここまで卑下する必要があるのだろうか。
「変わったというか、おかしな人だわ。なんでそこまで自分をへりくだらなきゃいけないのかしら。そこまで自信を無くすんだったら、他の仕事に変えればいいのに。」
「一般的に言えば、そうですけど、こういう世界では、そうもいかないのが実情なんですよ。何しろ、やる人がいませんから。でも、一般的な人からは、おおよそ理解をされないことがほとんどだから、極端から極端な人間関係しか持てないんです。普通に、友人を持てたり、家庭も持てる人は本当にわずかです。職人は本当に孤独なままの人生で、読んで字のごとく職人というしかないんです。そして、教育者的なことも行わなければなりませんから。本当に、人生って何だろうと考えることもありますよ。」
「人生って何だろう、か。あたしも、東京で教員やってましたけど、本当に考えさせられましたわ。」
「ああ、学校の先生だったんですか。なんかそういう感じだなと思ってました。」
「そうみてくれたの?私の事。」
なんとなくうれしい気持ちにもなった。
「基本的に、そういう職種の人でないと、結城に興味持つことはまずありませんよ。」
お見通しだったのか。でも、恵子は、それでもよかった。馬鹿にされっぱなしの毎日の中、教師なんてだめだと思っていたからだ。
「ありがと。」
恵子は、静かに言った。
「なんか、自信失くしてたから、そういうこと言ってくれてうれしかった。」
「おーい、裕康。どこに行ったんだよ。もう帰る時間だろ。」
まだ昼食前なのに帰るとは早すぎると思ったが、恵子はそれは言わなかった。
「あ、そういえばそうでしたね。すぐ行きますので。」
男性はそういって、恵子に軽く敬礼した。
「裕康さんっていうんですか。」
「はい。結城裕康です。まあ、なぜか結城市と同じ苗字ですが、偶然にそうなっただけで。」
「あ、あたし、小川恵子って言います。今日は、本当にありがとうございました。」
恵子も敬礼した。
「また会えるといいですね、どこかで。」
なぜか、恵子もそう思ってしまった。
「じゃあ、僕、帰りますので。恵子さんは、ゆっくり見て行ってくださいませ。」
彼は、そういうと、受付のほうへ戻っていった。恵子は彼が見えなくなるまで見ていたが、一度、受付の前で止まってまた歩き出したところは、少し変だと思った。






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