怠惰の主

足立韋護

融和の肉体

 以前デパートから逃げ帰ってきた道を逆走する形でビルを渡っていき、デパートの屋上へと辿り着いた。若干の肌寒さと、朝焼けが目に染みる。屋上にトウテツの姿はないが、デパート隣のビルが蟻塚のようになっているためか妙な緊張感が場を覆っている。
 つい先日ここを訪れた時の異様な光景が脳裏をよぎった。胸焼けがする。胃酸が暴れ回っている気がした。心拍数の上昇は自分でもわかった。

「緊張しているんですか?」

「この場の空気にあてられただけだ」

 装備を身に着けた山田が、拳銃を構えながら屋上にある扉から侵入すると、階下へ続く階段があった。相変わらずあの餌場以外は異常なまでに清潔にされている。音を立てないように、聞き耳を立てながら階段を降りていくもトウテツらの気配は感じられなかった。
 階段の踊り場で息を整えながら、山田がこちらへ顔を向けてきた。

「何も、いませんね」

「前もそうだった。気を抜くな」

 最大限周囲に気を遣いながら一階へ降り立った。その瞬間、ほんの小さく僅かではあるが周囲がざわめき始めた。物音なのかうめき声なのか、様々な音が混ざり合った音が突如として耳に入ってきた。恐らく、前もそうだったのだろう。だが油断も相まって気が付かなかった。そう思うと自身の慢心さが身に染みてわかる。情けない気持ちになった。
 前と同様、一階最奥へと向かった。

「どういうワケかしら。わざわざ餌になりに来たの?」

 声の主は、例の女トウテツであった。この前と全く同じく店の奥から歩いて出てきた。周囲にトウテツらがチラチラと顔を見せ始める。
 山田の話が本当なのであれば、奴が山田の言う幼馴染ということになる。それにしても、あんな腕四本も生えてる奴が幼馴染などまっぴらごめんである。

「や、やっぱりそうだ。響子きょうこ、僕だよ、恭介きょうすけだよ! 覚えていないかい?」

 山田は無防備にも拳銃の構えを解き、女トウテツへと歩み寄った。
 女トウテツは首を傾げてから、前方へと体重移動したと思えば、目にも留まらぬ早さで山田の眼前にまで迫った。それを察知した式谷が、山田の背後へとつく。

「二度は、不意打ちはされませんよ」と式谷が呟いた。

「式谷さん、だ、大丈夫です。彼女、まだ攻撃の意思はありませんでした。ただの移動です」

 それを聞いた女トウテツは満足げに笑みを見せて頷いた。

「さすが、恭介ね。相変わらず、武術だけは一流というワケ」

「き、響子! やっぱり覚えていたんだ!」

 驚いたことに普通に会話している。あのとち狂った女トウテツとだ。その上、女トウテツはどうやら記憶が残っているらしい。

「響子、僕と一緒に行こう。姿形は違っても、中身が人なら────」

「それはできないわ」と響子は言い切った。

 響子はその柔和な表情を山田へと向けた。まるで赤子へ教えを説くかのように、穏やかに伝えた。

「いまのアタシは、恭介の考えているアタシじゃないのよ。人間と怪物が完全に融和しているの。どっちの意識も、感情も、記憶も、アタシのもの。だから人間を食べられるし、恭介とも幼馴染でいられる。矛盾した存在なの」

「そ、そんな……」

「だから、アタシは恭介とはいられない。きっと傷つけてしまうから。幼馴染のよしみで、お仲間も一緒に見逃してあげるわ。早く、行って」

 山田は呆気にとられたようにして絶句した。響子も寂しげに肩を落としている。本人の言う通り、まるで人間とトウテツとが一つの体に共生しているようであった。それを響子自身が承認し、制御している、そんな状態である。
 だが、俺にはこいつらが何を絶望しているのか、全くさっぱり不明なので口を挟ませてもらった。

「そんなもの、人間も同じだろう。ペットの魚は家族として大切にするが、刺身の魚には喜々として喰らいつく。他の生き物に対しても、同じ矛盾を常に抱えながら生きている。いや、気付いてすらない場合だってある。ペットの犬は家族と言いながら平然とリードに繋ぎ、犬の本能や欲求など一切を無視して、去勢し、自分の愛玩動物として消費する。これを人類の大半がおかしいと思わないのだ」

「み、御影さん、何を……?」

「そんな、矛盾だらけの馬鹿げた世界で、人間か怪物かなんて人種の違い程度のものだというのだ。響子とか言ったか。山田は大勢の仲間と別れて、自身の安全を投げうってまで、お前を助けるためにたった一人でこんなところまで来ようとしていた。ちゃんと気持ちを示した。お前の気持ちはどうなのだ。どんな生き物であっても、自分の気持ちを優先すべきだ」

 響子の幾度も瞬きして、ひどく動揺した様子を見せた。
 一緒に来てもらわないでも構わない。目的は山田を死なせないことだ。響子が残りたいときっぱり言い切ってしまえば、本人の希望ならば、さすがの山田も諦めがつくというものだ。諦めがつけば、さっき響子が言っていたように大人しく見逃してもらうとしよう。

「アタシは────」

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