怠惰の主

足立韋護

狂宴と恐慌

 もう一度、よく辺りを見渡した。確かに、獣人がいるわけでもなければ、車が宙に浮いているわけでもない。紛れもなく、俺の住んでいた日本の景色そのままであった。だが、眼下に見える光景は、人が人に噛みつき、喰いちぎり、咀嚼している、まるでどこぞのサバイバルホラーさながらであった。
 道路は閑散としているわけではなく、人が何やら叫びながら四方八方へと逃げ惑っている。それを、鈍足な人々が追い回していた。

 腹の底から急激に胃液が込み上げたため、喉元でそれをなんとか飲みこむ。住民の何人かはその場で嘔吐していた。吐瀉物が排水溝へ流れていく。

「なんだ、これは」

「起きましたか。なるべく早くこの建物から逃げましょう」

 式谷にしては、やけに焦っている。

「もう少し様子見はしないのか」

「創ちゃん、今回は僕も天ちゃんに賛成だよ。ここにいたら事態は刻一刻と悪くなるばかりだからね」

 いつの間に天ちゃんなどと呼ぶようになったのだろうか。俺が気絶してる間か。

「下の状況を察するに、普通の人と人喰い、この二種類に分かれています。混乱した様子を見れば、人喰いが単体でないことは確か。もしそれがこのビルに複数体乗り込んできた場合、状況把握が困難になり非常に厄介です」

「言われてみれば……確かにそうだな」

「しかし人喰いもそうだけどよ、どこだよここは」

「フォルクス、お前はもはや何もわからない赤子のようなものだ。せめて死なないようついて来るんだな」

 フォルクスは「そうするっきゃないな」と苦笑いした。
 そんな俺とフォルクスを横目に、式谷はファンタジー世界から持ってきていたカロンという剣の状態を確認しながら、屋上中央にある扉を指差した。

「そうと決まれば行きましょう」

「待ってよ創ちゃんに天ちゃん、あの人達はどうするの?」

 郡山が指差したのは、未だに状況把握が追いついていない、海港都市ポピリスの住民らであった。人数は五十名程度、しかも一度は俺達を陥れようとした者達だ。心底どうでも良いのだが────

「私は御影さんの判断に任せます」

 恐らくこいつは連れて行く責任を俺に着せようとしているのではない。俺が矢面に立てば、また何か面白そうなことが起きるのではと期待しているのだろう。そしてきっと、俺が下すだろう判断も全て想定した上で、そんな戯言を抜かしている。
 全くもって、不愉快な女だ。

「おい、ポピリスの住民達」

 住民らは俺の言葉などにはまるで耳を貸さず、いまだ嘔吐をする者、頭を抱えて座り込む者、ビル街を前に立ち尽くす者もいた。もはや恐慌きょうこう状態であった。

「おい。おいってば。もしもーし!」

 誰一人として聞かないが、もしや俺は新手の集団無視を受けているのだろうか。顔面を殴られるよりダメージが大きいぞ。
 ここまでやってやるつもりはなかったが、やむを得まい。

 俺は住民らに混じり、屋上の端にある手すりからビル群を見上げた。

「あの高くそびえ立っている建物はビルという。お前達がいるここもそのビルの上だ。リースにも二階建ての宿屋があるだろう。頑丈な建材や緻密な設計などがあれば、ここまで高層のものができる」

 初めてこの世界の知識を仕入れた住民らの一部が、ビル群を見渡し始めた。

「これが、建物……?」

「そうだ。ビルの横にいくつも看板があるだろう。高層なもんだから、各階に店が入っているんだ。下にある色とりどりの物体は、自動的に移動が可能な仕掛けを持つ車。それを走らせるだだっ広い道が車道」

 皆は徐々に、耳を傾け始めた。中には立ち上がって看板や車を見る者も何人かいた。

「そしてあの人喰いは────トウテツとでも呼んでおこう。この世界を知る俺でも、よくは知らない」

 一人の女がおののきながらも俺へと声をかけてきた。

「もしかして、あなたここの出身なの?」

「俺は事故に近い形で、この世界からお前達の世界へ移動した者だ。そして今度は、お前達が事故でこの世界へ来た、そういうわけだ」

「そんな……」

 俺は再び声を大きくして皆へ呼びかけた。

「聞いての通り、俺はこの世界を知っている! ある程度だが、土地勘もある。俺がお前達の世界へ行けたように、お前達もいずれ帰ることができるかもしれない。正直に言えば危険はもちろんある。トウテツのことで対処が難しいこともあるだろう」

 住民達はようやく、俺の言葉に耳を傾け始めた。

「時は一刻を争う。俺について来るかどうかは個々人に任せた。三十秒だけ待つ」

 話し終える頃には、全員が俺を見つめていた。俺はゆっくりと式谷らのもとへ戻ると、郡山が満足げに見上げてきた。隣の式谷が住民らには聞こえない程度に、小声で囁いて来る。

「トウテツの話、なぜ演じなかったのですか?」

「どういうことだ」

 式谷は間髪入れずに答えた。

「目前に迫る脅威の固有名詞を知っている人物を演じれば、安心感と信頼感が生まれる。そう踏んだのだと思いました。しかしその後、よくは知らないと。それでは意味がないのではと思ったのです」

「……ビルや車、トウテツなんてのは単なる切り口に過ぎない。その後を考えれば、嘘をつき続けるのは危険だからな。俺が示すべきは、未知の脅威に立ち向かう意思だ」

 住民らはポツポツと立ち上がり、俺らの周りに無造作に集まり始めた。

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