雨の調

Knavery@語り部

チョークアート

 一夜明けた今日は朝からバイトで、僕は慌しく、厨房とホールを行ったり来たりしていた。
 また近所の囲碁クラブのお年寄り達が、会合を開いているのだ。皆さんもうかなりの歳のはずなのにとても元気で、こうして事あるごとに集まっている。僕も、お店が忙しくない時には、おしゃべりに混ざったり、「休憩時間に食べなさい」と言って、お菓子を貰ったりとお世話になっているので、こうして皆さんの元気な姿を見ることができるのは嬉しいのだが、日曜日の昼時となると、やはり飲食店というものは忙しいので少し自重して欲しいと思ってしまうのも事実だ。
 ちなみに今日は新しいバイトの子はいない。僕とマスターの二人だけ……おい、休日の昼時だぞ、なんで二人だけなのさ、マスター。
 まあ、大きくはない店なのでテンパるほど忙しくはならないが、店内はなかなか混んでいる。
「お待たせしました、カレー二つです」
 僕は武田さんと佐々木さんの前にカレーを置く。このお二人は囲碁教室では年長の部類に入るようで、腕も相当なものだとか。そして、お二人ともこの店を気に入ってくれているようなので、会合に選ばれる比率も多いようだ。
「ありがとうな、‘ボン’」
「‘ボンちゃん’。忙しいみたいだし、あとでこれ食べなさい。糖分は活力の元よ」
 僕はお礼をいい、佐々木さんに貰った飴玉をポケットにしまう。
 ‘ボン’というのは、僕のこの店でのあだ名だ。僕の実家が地元ではそれなりに有名ということをマスターが雑談の中で話したらしく、武田さんが「じゃあ、坊ちゃんなんだな。ボンボンのボンって呼ぶ事にしようか」と、言い出し、それが広まってしまった。最初は冗談だと思って、軽い気持ちで許可したのだが、まさか本気で、しかも、囲碁教室の皆さんだけでなく、他の常連さんたちにも広まってしまっている。正直、最初は困惑していたのだが、そのおかげで、お客さんたちとの距離がうんと縮まった気がするので、今はそれなりに気に入っている。
 それに、僕がボンボンなのも事実だ。
「ボン君、サンドイッチできたからお願い」
「マスターは普通に呼んでください!」
 僕がマスターの悪乗りに突っ込むと、囲碁教室の皆さんに笑われた。僕はまったく、と少し呆れつつ厨房に戻りながらも、頬が緩むのがわかった。やはり、この店は居心地がいいのだ。
 あたたかく、気張らずにすんで、素直にいることができて、まだ二カ月しか働いてないのに、ずっとここを知っていたような気がして……なんて、ロマンチストのような考えも出てきてしまう。
 本当に、あのチョークアートに感謝だなと、僕はアジサイのチョークアートをちらりと見る。あの、バイトをやめた日に、雨が降っていなければ、僕この店を見付けられなかっただろう。そして、覗き込んだこの店にあのチョークアートが無ければ、僕は入店することも、マスターにバイトさせて欲しいと頭を下げることもなかった。
「すごいよな……」
 僕は呟いた。僕のこの店で繋がった縁。そのきっかけは、あのチョークアート。偶然だ、ロマンチストだと、笑う人もいるだろう。けど、何かのきっかけとなるだけの力が、あの絵にはあるのだ。悔しいが、僕の音楽には、そんな力は無い。絵と音楽では、同じ芸術でも、区分が違う。しかし、それでもあんな絵を描ける人を僕はうらやましく思い、同時に、どんな人が描いたのだろうか知りたいと言う好奇心が強まっていた。
 そんなことを考えながらもランチを乗り切った。そして、店から客が引いたタイミングで、僕は店の前の掃き掃除をお願いされた。降り続いていた雨は今朝には弱まっており、昼過ぎには止んでいたようで、雲が多くも、久方ぶりの青空が広がっていた。数日振りに見た太陽は、雨季の後に待っている夏の訪れを、確かに感じさせる。
「……暑いなぁ」
 僕はマスターに持たされたタオルで汗を拭いながら掃き掃除を続ける。雨で落ち葉が地面に張り付いているのでやりにくいが、晴れたときにやっておかないと、雨で落ちた枯れ葉が排水溝にどんどん溜まるから大変なことになる。『レイン』の入口の横には、何の木かは知らないが、大きな木が生えている。それのものだ。
「ボンちゃん、ちょっといいかい?」
 落ち葉に苦戦している僕に話しかけてきたのは、お隣のママさんだった。所謂水商売のお店なので、まだお店の時間には早いのに珍しいなと思いながら、僕はママさんに用件を尋ねた。あだ名は、お隣にも広まっていた。……マスターだな……。
「実はね、前にこっちの店に譲った絵があるだろ? それを描いた子が久しぶりに顔を出してね。一緒に絵も持ってきてくれたんだけど、絵を飾るのに脚立を使わなきゃいけないんだよ。私もその子も背が高くないからね。けど、女だし、何かあった時に怖いだろ? そこでなんだけどさ、ボンちゃん、手伝ってくれないかい? ボンちゃんにお酒は出せないけど、コーラくらいなら出すからさ」
「やります」
 即了承した。あのチョークアートを描いた人が直ぐそこにいる。そう思っただけで、僕の気分は高揚していた。
「待っててください、マスターに言ってきますので」
 お店も現在は混んでいない(というか、お客さんが二人しかいない)ので、マスターも快諾してくれたので、お隣へと向かう。
 お隣の店のフロアはそれなりの広さがあり、その中には、15種類ほど、花の絵が描かれたチョークアートが飾られている。ヒマワリやバラなど有名なものもあれば、僕が名前の知らないものが描かれたものまであった。
「この絵なんだけどね」
 店内を案内され、テーブルに立てかけられた絵の前に案内される。そこには、雨で濡れた可愛らしい白い花が描かれていた。
「すごい……なんて花なんですか?」
「まだ聞いてないけど、たぶんクチナシだろうね。今の時期に咲く、小さい花さ。本物の可愛らしさがそのまま表れているよ。やっぱりあの子は凄いね」
 その通りだと、僕は思った。実際にその姿を見たことはないが、絵からはその花の咲き誇る姿が容易に想像することができた。これを学校で、先生が黒板に数式や文章を書き綴るのに使っているものと同じ道具で書いているなんて、信じられなかった。
「やっぱりプロの方なんですか?」
「いや、本人は趣味って言ってるけど……状況的に諦めざるをえなかったが正しいかねぇ?」
「え? それって――――」
「ママさん、釘とハンマー、持ってきたまし……た……」
 背後から聞こえた声は全てを言わなかった。その声は、聞き覚えのある声だった。
大好きな声。
今朝も聞いた声。
 振り返った。
 眼があった。
 やはり……よく知った人だった……。
「お姉さん……」
「しょう……ねん……?」
「おや、知り合いだったかい?」
 という、ママさんの声が、僕達の間を通り抜けた。

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