雨の調

Knavery@語り部

距離

「最近、いい顔をしているね」
 窓から入る茜色の光に照らされた店内で、お客さんの帰ったテーブルを拭いていると、不意にマスターにそう言われた。
「そう……ですか?」
 あいまいな返事になってしまったが、自分ではわからないので許してほしい。
「女性かね?」
 心臓が跳ね、思いっきり手を滑らせた。あぶない、もう少しでテーブルに頭を打ち付けるところだった……。
 そんな僕の様子を見て、店長が笑う。
「はは、図星か」
「そんなんじゃないですよ」
 と言いつつ、僕の脳裏にはお姉さんの姿が浮かんでいた。
 今日で、お姉さんと暮らし始め、一週間が過ぎようとしていた。家に誰かの居る生活というものは、ありがたいものである。
お姉さんは家事を積極的に行なってくれているので、家も綺麗になったし、ご飯もきちんと食べるようになったので、前よりもずっと体調がよかった。本当に、お姉さんには感謝してもしきれない。
「今度つれてくるといい、コーヒーをご馳走しよう」
 言葉を返さない僕の様子から何かを察し、マスターはからかう様に言うと、明日の仕込みでもするのだろう。厨房へと消えていった。
 僕は僕でテーブルを拭くのを再開するが、先程のマスターの言葉が引っかかっていた。
 僕はこの一週間、たった一週間の間に、お姉さんのいる生活が当たり前となっているのだ。
 しかし、同じ家で暮らしているが、僕はお姉さんの名前も、趣味も知らなかった。知ったことは、得意料理はオムライス、そして、苦手なものはコーヒーと、意外と子供っぽいところがあることくらいだ。
そして……先程も少し思い返したご飯。特に、朝ごはんに対して、お姉さんは執着とでも呼べばいいのだろうか。何がなんでも朝ごはんを食べさせようとしてくるので、僕はこの一週間でそんな生活に染まりきっていた。
 何かあったのだろうか、と気になるが、なんとなく、聞けなかった。お母さん関係で何かがあったのだろうというのはわかるが、上手く聞けないでいる。他にも家族のことや趣味のこと、聞きたいことは数多くあった、知りたいとも思っていた。けど、一週間と言う時間の中で、お世話になるばかりで、僕はお姉さんのことを、何も知らないままだった。
 バイトをあがり、そんなことをずっと考えながらいつもよりは少し早い夕刻に帰宅した。
 お姉さんはまだ帰ってなかった。お姉さんは、昼間は何処かに行っているようだが、大体6時くらいにこの家に帰ってきているらしい。お姉さんにもこれまでに生きてきた人生というものがあるので、外にコミュニティがあるのもわかるが、僕は、それがわからないのが何故かとても悔しく感じていた。
 そして、気になることがもう一つ。お姉さんは帰宅するとき、決まって近所の銭湯に入ってきていた。いや、確かに初日のようなことが再びあっても困るので、ありがたい部分もある。
しかし、お姉さんは「銭湯と言う場所が好きだから」といっていたが、はたして、本当にそうなのだろうかと疑問が残る。だいたい、会社を首になったといっていた人のどこにそんなお金があるのだろうか? ……失業保険というものだろうか? そもそも、本当に仕事をしていたのかということすら疑問である。お姉さんの年齢は、話を聞いている限り、きっと、僕より少し上程度だ。別に働いたことが無くても不思議ではない。
 別に、お姉さんに自分のことについて尋ねるなと言われたわけでもないのに、僕はそれを聞くことができない。ようは、へたれなのだ。だって……臆病でなければ、今頃僕はここに居ないのだから。
 しかし、お姉さんの側からも壁を感じるのは事実だ、その証拠に、僕は名前を教えた。けど――――
「ただいま」
 玄関の開閉音とともに聞こえたお姉さんの声に、僕は振り返る。
「ああ、’少年’も帰ったばかりか。おかえりなさい」
 僕は自分の名を名乗ったにもかかわらず、お姉さんは、僕を、相変わらずに「少年」と呼ぶのだった。
 そういえば、帰ってきてからずっと玄関で考え事をしていた。僕は「ただいま」と言って、お姉さんから買い物袋を受け取った。そして、お姉さんにも「おかえりなさい」と言う。僕に対して、「ただいま」と言ってサンダルを脱ぎ出したお姉さんから、ふわっと石鹸のいい香りがした、今日もまた、銭湯に入ってきたようだ。
「今日はカレーにしようと思う。金曜日はカレーを食べるものらしいと昔母に聞いてね。すぐに作るよ、少年はその間にお風呂に入ってくるといい」
「はい、お願いします」
 お言葉に甘えて、風呂に向かう。ゆっくりと風呂であたたまり、部屋に戻る。
キッチンでお姉さんは野菜を切り、鍋に火をかけていた。僕は何か手伝うことは無いかと聞くと、米をといで欲しいといわれたので、お姉さんの隣で米をとぎ、炊飯器のスイッチを押した。これでカレーがあるけど、米がないと言う間抜けな絵にはならない。
 お姉さんももうカレーはほぼ完成らしく(とても手際がいい)、二人でテレビを見ながら待つことにした。とは言っても、この時間はまだニュースの時間だ。あと15分くらいで国民的アニメの時間だが、テレビの中ではキャスターが、天気図を指しながら、梅雨明けまでの予想を告げている。まだまだ梅雨明けにはかかるようだ。
「君の大好きな雨はもう少し続くようだね、よかったじゃないか」
「はい、うれしいですね」
 呆れたように笑うお姉さん。仕方がないじゃないか、好きなものは好きなのだ。
「しかし、やはり晴れないのは困るな。布団は干したいし、洗濯物の乾きも悪い」
「あー……それに関しては僕も困りますね」
 そう言うと、お姉さんはとても驚いたような顔をした。
「正直、君なら四六時中雨でいい……というと思っていたが、そういうところは普通なのだな」
「ふかふかの布団が嫌いな人は居ないと思いますよ?」
 誤解がないように言っておくが、僕は雨が好きなだけで晴れの日が嫌いなわけじゃない。寧ろ、必要なものだと思っている。干したての布団の匂いは大好きだし、カラッと乾いた洗濯物に袖を通すのはとても気持ちが良い。太陽の光を日常的に浴びているからこそ、たまに降る雨というものが恋しいのだ。好きだが、不便があるのも事実。ということは忘れない。
「たしかにそうだね」
 お姉さんはそう言って笑うと、時計をちらりと見た。
「さて、そろそろご飯が炊ける。カレーを仕上げ、サラダの準備でもしようか」
 お姉さんが立ち上がろうとした瞬間だった。地面が揺れた。地震だ。
「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げてバランスを崩したお姉さんの前に体をずらし、受け止める。よかった、間に合った。しかし、受け止めたことで、お姉さんの柔らかさと体温が薄着の僕にじんわりと伝わってきて、少し顔が熱くなる。
 そんな僕の内心に気づかないお姉さんは、小さく震えながら僕に体をさらに預けてきた。……あまり得意ではないようだ。まだ、揺れは収まらない。
「……結構長いですね」
「そう……だな……」
 不安そうに言うお姉さん。少しでも安心してほしくて、僕は優しくお姉さんの頭をなでた。お姉さんは小さく声をもらし、少し体を強張らせたが、すぐに、再び僕に体を預けてきた。
 柔らかく、まるで絹のようで、しかもいいにおいがするお姉さんの髪。いつまでも触っていたい衝動にかられ、このまま地震が収まらなければいいと思ってしまう。
 そんなことを考えていると、お姉さんは震える手で、僕の空いていた左手に手を重ねてきた。僕はお姉さんの手を、握ると、お姉さんも、僕の手を握り返した。お姉さんの体温が、手からも伝わってきた。まだ、ふるえていた。
「大丈夫ですよ、そこまで強くないですし、直に収まります」
 そう言った僕の顔を見上げるお姉さん。その目は潤んでいて、とても、きれいだった。ああ……この人はやっぱりきれいな人だと、再認識した僕。お互いに視線が外せず、見つめあう。体に感じる揺れは、もう収まっていたが、僕とお姉さんの距離は離れない。寧ろ、ゆっくりと近づいて、どちらからか、僕たちは目を閉じ。そして、僕たちの距離が0になろうとし――――ご飯の炊けた音が部屋に響いた。
 二人そろって肩をはねさせ、距離をとる。
 僕は、何をしようとしていた?
「ご、ご飯が炊けたようだ。カレーを仕上げてくる」
「お願いします」
 立ち上がり、キッチンに向かうお姉さん。一方の僕は、今しがた流れ出した国民的アニメのオープニング映像を見ている振りをするのだった。

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