雨の調

Knavery@語り部

ただいま

 そして、その後は、予約のお客さんのほかにも珍しく店が忙しかったので、気が付くと、あっという間に時間が過ぎ、正直ランチのヘルプのみのつもりだったが、店長に「もう大丈夫だよ、今日はありがとう」と言われたのは、僕が出勤してから時計が半周したころだった。
 明日は絶対にヘルプがきても行かないぞ。と心に決めながら店を後にしたが、ここで思い出した。お姉さんはどうしただろうか……と。一応鍵を渡してはきたが、家で留守番をしているのか。それとも……出て行ってしまったのか……。
 僕は、いたらいいなと希望を抱きながら、電車に飛び乗り、窓の外の景色を眺める。雨は、まだ降っている。だから、大丈夫だ。雨が降っていたら、普通の人はあまり外に出たがらないから、たぶん家にいる。お姉さんは、外に出たくないと言っていた。だから、家にいる。
 いつもは耳に残る電車の音が、今日は入ってこない。早く駅に着けばいいという思い、早く家に帰りたいという思いが僕をあせらせる。
 僕は電車が駅に着くなり人ごみを掻き分け、改札を一目散にくぐり、家までの道を急いだ。普段だったら、こんな雨の日はゆっくりと歩き、それでも短く感じる。家が近づくと、もう着いてしまう、もったいない……と考えながら歩く。いつものこの道が、今はとても恨めしいほどに長く感じる。
 ようやく家に着き、玄関の前に立つ。見たところ、明かりはついていない。雨は降っているが、まだ少し明るいからだ。と言い聞かせる。
玄関のドアを引く。鍵がかかっていたが、防犯の為だ。と言い聞かせる。
鍵を開けて中に入る。人の気配がない。
やはり……お姉さんの姿はなかった。
 僕は心底がっかりした。そして驚いた、自分が、こんなにもがっかりとしていることに。 
「たった一晩だけだったのにな……」
 久しぶりに、誰かが隣で寝たからだろうか?
 久しぶりに、朝、起きた時に誰かの作った朝食の匂いをかいだからだろうか?
 久しぶりに、「行ってらっしゃい」と言ってもらえたからだろうか?
 久しぶりに、「行ってきます」と口に出したからだろうか?
「まだ二カ月なのにな……」
 自分がこんなにも家、そして人というものにぬくもりを求めていたことに、僕はさらに驚いた。気づいてしまった。気づきたくなかった。けど、これに気付いたのなら僕はお姉さんを拾わなかっただろうか。……いや、僕はきっとお姉さんを拾っていただろう。あんな瞳の人を、僕はほっては置けない。
「探しに行かなくちゃ……」
 僕は顔を上げた。それと同時に、玄関の開く音がした。
「……少年?」
 そして、僕の背後から聞こえたのは、今一番聞きたかった声だった。振り向き、声の主を確認する。
「早かったんだな。バイトと言っていたので、もう少し遅くなるかと思っていたよ。その様子を見ると、君も今帰ってきたのか?」
 そう言いながら、お姉さんは両手いっぱいに持った袋を持ち直した。
「……ああ、これか? 私の着替えと、今日の夕飯の材料をね。少年、今更だが好き嫌いはないか?」
「あ、えっと……トマトとか、野菜が少し……」
 僕はお姉さんの存在を確認するように、袋を受け取りながら、少しその手に触れた。その手は……温かかった。
「こら、くすぐったいぞ、少年。持つならちゃんと持ってくれ。女性はデリケートなんだ」
 擽ったそうに、そして、僕を揶揄うようにいうお姉さん。
「ごめんなさい」
 今度はきちんと袋を受け取り、お姉さんは靴を脱ぎ、そして、履いていたジーンズについていた白い汚れをはたいて落とした。ガードレールにでも寄りかかったのだろうか?
 そして、食材の袋をもって台所へ向かって行った。その際、お姉さんは振り返り、いじわるそうに笑う。
「残念だが、今日の夕飯にはサラダを出す。冷蔵庫を見たところ、君はあまりきちんとした食事をとっていないようだからな。世話になる以上、君の体調管理もさせてもらうぞ」
 そう言って鼻歌交じりに袋の中の食材を取り出し始めたお姉さん。僕は、うれしさと、嫌いな野菜を食べなくてはいけないことに対する複雑な気持ちを抱えながら、僕も靴を脱ぐのだった。
「ああ、そうだ。少年、大事なことを言い忘れていたよ」
「なんですか?」
 お姉さんは振り返り、微笑みながら言った。
「おかえり。あと、これからよろしく頼む」
 頬が緩みそうになっているのが、わかってしまった。僕はそれを押さえ込もうとする。しかし、やっぱり頬は緩むもので、やはり、僕は微笑みながら返す。
「はい、ただいま。これからよろしくお願いします」
 こうして、僕と、名前もまだ知らないお姉さんとの生活が、始まった。

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